紗依は、北家の主とその妻から。そして家人からも温かく受け入れられた。
 とりたてて特別なことをしているわけではないのだが、矢斗は少しずつ調子を取り戻し、日を追うごとに異能を持たない身にも存在が確かになっていくのが分かる。
 時嗣に愛の力だな、などとからかわれると、何もしていないのにと照れて俯くしかないが。それを見ている矢斗は実に嬉しそうだった。
 紗依の今を取り巻く人々は、皆揃って優しい。
 だが、全ての者がそうとは限らないことを、紗依は知ることとなってしまう。

 事件が起きたのは、紗依が漸く少し北家に慣れてきたとある日のこと。
 起床した紗依はいつもとは違うことに気付いた。
 いつもなら、紗依が起きるのを見計らうようにサトが現われるのだが、その日は待てども誰も現われなかった。
 確か、サトは郷里に所用と言っていた。代わりが来るとのことだったが……。
 もしかしたらその人は他の仕事の為に来られなくなったのかもしれないと思い、紗依が自分で身支度を整え始めた時だった。
 部屋外からすっかり馴染んだ女性の声がかかり、紗依は千尋が来た事を知る。
 少しだけ待ってもらうよう声をかけ手早く支度を整えると、紗依は千尋を部屋へと招き入れた。 

「おはようございます、紗依様」
「おはようございます」

 千尋は優しく微笑みながら挨拶を口にする千尋に、紗依ははにかみながら応える。
 北家での暮らしに慣れていくにつれて、千尋とも打ち解けて話が出来るようになりつつあった。
 少しだけ年が上の千尋は日頃何かと気遣いをくれるばかりか、学びを望む紗依に自身も色々と教えてくれる。
 姉がいたらこのような感じだろうかと思う相手でもあり、初めてできた同性の友とも思える相手であった。
 千尋は室内を見回して、身支度を整えた紗依の他に誰もいないことに気付くと、怪訝そうな顔をする。

「ご自分で支度をされていたの? ……サトの代わりの女中は?」
「代わりの方のことは聞いていたのですが。お忙しいのかなと……」

 眉を寄せて首を傾げる千尋を見て、紗依は少し困惑しつつも推測を控えめに口にした。
 サトが郷里に帰っていることは千尋も知っているだろうし、千尋の様子からして代わりを寄越すよう命じてくれていたようだ。
 そうなると、来られなかった何がしかの事情があるかもしれない、とは思う。
 しかし、眉を寄せたまま考え込んでしまった千尋の様子に徐々に不安が生じていく。
 自分の預かりしらぬところでもしや何かあったのでは、と紗依が口にしようとした時。

「……少し、失礼しますね」

 努めて抑えたような声音で言うと、千尋は静かにその場を辞した。
 呆気にとられた紗依は何か言葉をかけることもできずに、消えていく背を見送ることしかできず。
 しばし呆然と目を丸くしていたが、やがて我に返った紗依は千尋の様子が気がかりでならなかった。
 どうするか迷っていたものの、紗依は意を決して去った千尋の後を追うことにした。
 千尋の姿は既に部屋の近くにはなく、どちらに向かったのか推測して周囲を伺いながら進んで。ややあって、紗依は再び千尋の姿を見出すことができた。
 だが、咄嗟に声をかけることは憚られた。
 千尋が、ある部屋の前で険しい表情のまま佇んでいたからだ。
 どうしたのかと問いかけようとした時、その言葉は紗依の耳を打った。

「異能を持たない呪い子に触れるなんてぞっとするわ。世話をするなんてとんでもない」

 呪い子という言葉を久しぶりに聞いた。誰をさしているのかなど、言われずともわかる。
 僅かに蒼褪めた紗依は、半ば呆然とした面もちの千尋が見つめる先、部屋の中をおそるおそる覗き込む。
 奥女中の女が数人、卓を囲んで寛いだ様子で座り集っている。
 今の言葉を発したと思しき女は、美しい顔を悪意に歪めながら呪い子……紗依を嘲笑いながら陰口に花を咲かせていた。
 千尋が現われたことに気付いていないはずはないのに、敢えて無視をするように殊更声を大きくして。
 思わず息を飲んでしまった気配によって紗依が来ていたこと、そして今の言葉を聞いてしまったことを察したらしい千尋の顔色が消え失せる。
 しばし唇を噛みしめていたものの、厳しい表情のまま一つ息をついた千尋は、女達を見据えて口を開いた。

「何をしているの。私は、紗依様の支度を手伝って、と言ったはずよ?」
「これは千尋様。あの呪い子様なら、ご自分でなさるでしょうから良いのでは?」

 室内にいた女達は打たれたように身動きを止めて、声の主である千尋を見つめる。
 更には千尋の後ろに紗依がいることに気づいて、他の女二人は気まずい表情を浮かべた。
 だが、詰問された女は表情を変えることすらせず、ふてぶてしいまでの余裕を保った鼻で笑って見せる。
 悪びれた様子もなく言い返した女は、尚も嘲笑を交えながら続けた。

「呪い子を貴人と扱うなど……。北家の格が問われてしまうのではありませんか?」

 その表情には紗依だけではなく、何故か千尋すら侮っているような様子がある。
 自分のせいで千尋にも苦い思いをさせているのだと思えば思わず言葉を失って俯いてしまうが、千尋はあくまで静かに応じる。

「紗依様は、時嗣様が正式に北家にとっての貴人としてお迎えすると決めた方です。口を慎みなさい」

 紗依を庇うようにして立ちながら、毅然とした様子で千尋は女へと告げた。
 聞いた女は、紗依を庇う千尋を見てさも面白そうに笑ったかと思えば、口元を押さえる。 

「さすが、下々のお育ちをなさった方々は気心が知れるのが早くていらっしゃる」

 厳しい表情のまま唇を引き結ぶ千尋の後ろで、紗依が一瞬目を瞬いた。
 どういうことなのだろう、と思っていると、千尋が少しだけ苦笑いを浮かべて紗依へと語り始めた。

「私は、御一新でなり上がった商人の娘なのです」

 千尋の父は世の大きな節目となったあの動乱に機を見出して財を為した商人であり、元は平民の生まれであるという。
 抑えた声音で淡々と語ってはいたものの、言葉の端に揺れる心が少しの震えとなって表れていることに紗依は気づいていた。
 北家の奥女中として奉公できるということは、恐らくこの女達は相応の家柄の出だろう。
 彼女達からすると、平民が奥方として自分達に命令するなどという思いなのだろうか。
 だが、察したからといって理解はしたくない。裡に膨れるようにして生じつつある憤りが止められない。
 強張った表情の二人を見ながら、女は笑いながら続ける。

「千尋様は、実に幸運なお方ですわ」

 称賛の皮を被った純粋な悪意を口にした女は、棘だらけの言葉を止めようとしない。

「多少の異能をお持ちだったからお妾だったお母様のところから引き取られ。お父様がたんとお金を積んでくれたおかげで、分不相応に恵まれた暮しを手に入れられたのですもの」

 その言葉で、千尋が語らなかった彼女が抱える事情について知ってしまう。
 このご時世、女は自らの意思で結婚を選ぶことなど有り得ず、そこに政治的な思惑が働くのはままあること。
 千尋は恐らく、金銭的な支援などとひきかえる形で北家に嫁ぐこととなったのだろう。
 そこに至るまでの彼女の意思について今知りようはないが、分かることはある。
 千尋と時嗣が互いを思い合い、仲睦まじい夫婦であるということ。
 けしてこのように、悪意に貶められていい人ではないということ……!

「いい加減に、してください……!」

 強い感情が胸の裡にて破裂したように感じた瞬間、気づけば紗依は叫んでいた。
 千尋が目を瞬いてこちらを見ているのがわかる。女もまた、一瞬呆気にとられたような顔をした。 
 だが女はすぐに我に返ると、面白くなさそうに溜息をついて、紗依を睨みつけた。

「何よ。お情けで優しくしてもらえているだけの呪い子のくせに。生意気な」

 この女は紗依を呪い子と呼んでいる。つまりは、玖瑶家の事情をある程度知っているようだ。玖瑶家とそれなりに親交のある家の出なのかもしれない。
 どのようにして表向き伏せられている紗依のことを知り得たのかは知らないが、今それはどうでもいい。
 紗依に優しく接してくれる姉のような存在を侮辱する女を、許せないと思う。

「私に対してなら、好きなように言えばいいです。でも、千尋様を侮辱するようなことはやめてください……!」
「はあ……。本当に、卑しい育ちの方は慣れ合うのがお好きだこと」

 庇ってくれていた千尋の影から出て、紗依は震えそうになる自分を叱咤しながら女を真っ直ぐに見据える。
 自分に歪んだ悪意を向けてくる美しい女を見ていると、かつて自分を虐げていた美苑や苑香たちを嫌でも思い出してしまって震えそうになる。
 けれど、今はそれ以上に千尋を悪し様に言われるのが許せない。
 睨みあう形になった紗依と女を、女の取り巻き達も千尋も戸惑った様子で息を飲み見つめ、緊迫した沈黙がその場に流れたが。

「その女を今すぐ叩き出せ」

 不意に響いた低く重い男の声によって、空気は一変した。
 千尋の顔が瞬時に蒼褪める。恐れていたことが起きたというような強張った表情だった。
 声のしたほうに視線を向けると、そこには今までみたこともない程に厳しく怒りに満ちた表情の時嗣が居た。
 その後ろには、同じく怒りに満ちた……背筋にうっすらと寒いものを感じるほどの形相の矢斗が居る。

「次の勤めの紹介もいらん。今後北家と縁のある一切の場所への奉公は禁じる。今すぐ俺の前から消えろ」
「ご、ご当主様……!」

 思わぬ人物の登場に、それまで余裕の表情を崩さなかった女の顔に初めて動揺が表れる。
 取りすがるように言葉をかけようとした女を遮るように、時嗣は努めて淡々とした声音で尚も告げる。

「北家当主の妻を……俺の嫁を侮辱しておいて、命があるだけありがたいと思え」

 紗依も千尋も、その場にいた人間は揃って顔色を無くした。
 時嗣の言葉の底に煮えたぎるのは、殺気とも言えるほどの激しい感情だった。
 女の出方次第では、時嗣がそのまま行動に出てもおかしくないと思えるほどのものを感じ、紗依は目を見張ったまま言葉を失う。
 いつも朗らかに気さくな時嗣がここまで激するのを初めて見た。
 そして、やはりいつもならそれを宥めるであろう矢斗が、何も言わず女を睨み据えているのを目にして息を飲む。

「あなた。何もそこまでは……」
「千尋。お前は優しいから罰程度で許してやるつもりだったろうが。俺は、お前を侮辱した人間をそんなもので済ますつもりはない」

 ようやく我に返ったらしい千尋が、呻くようにして掠れた声で夫へ言う。
 だが、時嗣の答えは取り付く島もないものだった。
 時嗣は深い溜息と共に、紗依へと視線を一度巡らせ、そして背後の矢斗へ目を向ける。

「奴はお前にだけじゃなく、紗依殿まで侮辱した。矢斗の為にも、紗依殿に無礼を働いた人間を北家の屋敷に置いておくつもりもない」

 視線を受けた矢斗は、言葉に同意するように僅かに目を伏せた。
 矢斗の表情を見て、時嗣を止めようとしない彼の怒りの程を知りつつも、紗依は恐る恐る口を開く。

「でも。……いきなり追い出すのは、あまりにも」
「紗依、あなたまで……」

 躊躇いがちに言葉を紡ぐ紗依を見て、矢斗が苦い表情で呟く。
 如何に過失があったとしても、奉公先から突然追い出されるというのは想像以上に辛い仕打ちだ。
 実家が戻された女を受け入れてくれればいいが、北家の怒りを買ったとして忌まれる可能性が高い。
 存在を無き者として生涯閉じ込められて暮らすことになるか。はたまた縁を切られ身一つで追い出されることになるか。
 それを思えば、如何に不快な思いをさせられた相手であろうと迂闊に追い出してくれなどとは言えない。
 偽善を気取るつもりはないけれど、寄る辺ない生活による不安を知るからこそ、それは言えない。
 千尋と紗依の訴えるような眼差し二つを感じて、やがて時嗣は盛大な溜息と共に肩を竦めた。

「……なら、暫く食事抜きで蔵に閉じ込めておけ。その後は奥女中から下女中に格下げだ。それ以上は譲らんぞ」
「わかりました……」

 憮然とした面もちで罰を言い渡す時嗣に、千尋は安堵したような複雑な色合いを帯びた様子で頷いた。
 千尋は速やかに女の周りにいた者達に、女をこの場から連れていくように命じる。
 雷に打たれたように跳ねた後、周囲の者達は呆然とした表情で固まったままの女を引きずるようにしてその場から消えていった。
 満ちた暫く何ともいえない沈黙は、矢斗の深い息と共に紡がれた言葉が終わりを告げる。

「あの女は、お前に対して邪な情を抱いていたようだ。あわよくば、お前が気の迷いを起こすことでも狙っていたのだろう」
「馬鹿か」

 矢斗の言葉を聞いた時嗣は、吐き捨てるように呟いた。
 紗依は複雑な面持ちになってしまう。
 矢斗の言葉から察するに、あの女性はどうやら時嗣の妾の地位を狙っていたらしい。
 北家の主であれば、妻ではなくて妾でも構わないと思ったのだろうか。
 ましてや、まだ千尋には子がない。
 それなりに美しい容貌があり、異能も持っていた。北家に奉公が許されるなら、出自も確かだろう。良からぬ野望を抱いたとしても不思議はない。
 確かに、それもまた一人で生きていくのは難しい女の一つの道なのかもしれないが……。

「さて、矢斗。俺は千尋を慰めるから、お前は紗依殿の気分を変えてさしあげろ」

 いまだやや蒼褪めたままの千尋の肩を抱いて踵を返した時嗣は、紗依の傍らに佇む矢斗へと、先程とは違う優しい苦笑いを込めて言う。
 そして、そのまま妻を伴ってその場から静かに消えていった。
 残されたのは、矢斗と紗依。
 暫くどうしていいのか分からず困惑や動揺に言葉を紡げずにいた紗依だったが、ふと目の前に差し出された手に気付く。

「……少し、庭を歩こうか」

 気遣うように僅かに微笑んで、矢斗は紗依へ誘いの手を差し伸べてくれていた。
 紗依の裡ではいまだ起きた出来事に対する様々な感情が入り交じり、整理がつかない。
 けれど。
 一瞬考えた後、紗依は静かに差し出された手に己の手をそっと載せたのだった。