紗依がぎこちないけれど現し始めた変化を、北家の人々は目を細めて見守ってくれるようになる。
 その日もまた、矢斗は紗依の抱いていた夢想を一つ形としてくれた。

「こ、これを……。私が、読んで良いの?」
「紗依の為に用意してもらったものだから、遠慮などする必要はない」

 紗依の目の前に置かれていたのは、何冊かの本だった。
 いつもなら遠慮がちに本当に良いのかと問う紗依だったが、今日ばかりは期待に目を輝かせて問いかけた。
 目の前にあるのは紗依が噂に、或いは母から教えられて、いつか読んでみたいと語っていた物語ばかりだったから。
 当然のように、紗依は学校にいくなど許されておらず。義務とされる教育を受けるだけで精一杯。
 本を読むことなど許されず、またそのような時間も与えられずに。憧れた物語を読むことは、それこそおとぎ話のようなものだった。
 苑香が飽きたといって放り出していた冊子を密かに拾い上げ、隠れるようにして読んでいた時を思い出す。
 それすらも結局見つかって。ひどく折檻を受けたうえで目の前で燃やされてしまった。
 泣きながら悔しさと抱く願いを口にする紗依を、小さな友は静かに見守ってくれていた。
 喜びに輝く紗依を見て嬉しそうに微笑みながら、矢斗は更に紗依を喜ばせることを口にする。

「それと、学問と稽古事をしたいなら……千尋殿が師を手配してくれるそうだ」
「本当に⁉」

 弾かれるようにして叫んでしまってから、はっとして思わず俯いてしまう紗依。
 自分には過ぎたことと思っていたのに、つい気付けば喜んでしまっていた。
 恥じらうように視線を膝に落してしまった紗依に、矢斗はあくまで優しく気遣うように笑う。

「だって、紗依は学びたいと願っていただろう? おそらく、それは私より千尋殿や長けた者に頼むべきだと思ったから」

 高等小学校を卒業した後、紗依は玖瑶の家にて閉じ込められるようにして暮らしていた。 
 使用人として使われ、本来受けられるはずだった教えを受ける機会も与えられず。
 日々の合間を見て母は自分が持てる教養を紗依に教えてくれていたのだが、名家の娘として長く教育を受けた母のようには、紗依は出来なかった。
 母は自分がもっと良い教え手であればと気遣ってくれたけれど、紗依は自分が至らないからだと責めていた。
 自分には足りないことも、できないことも多すぎる。
 忙しい日々に諦めてしまっていたけれど、本当はもっと学びたかったし、より出来ることを増やしたいと思っていた。
 辛い境遇にあってもなお必死で育ててくれた母の娘として、恥じない自分で在りたいと願っていた。
 そしてそれを、夕星にだけはそっと話していた……。

「紗依がいつも願いを抱いたとしても全て我慢して。お腹を空かせていたことも、寒くて辛い思いをしていたことも知っているから。もう、けしてそんな思いはさせたくないと」

 ただただ優しく愛しむような声音で紡がれる言葉に、紗依は先程とは違う想いにて俯いてしまう。
 頬の当たりが赤みを帯びたような気がして琥珀の眼差しを真っ直ぐに見つめることができない。

「でも、これでは私はしてもらってばかりで……。あなたに、何も返せていなくて……」

 胸が満ちる温かなものに戸惑いながらも、紗依は消え入りそうな声で何とか少しずつ裡にある想いを形にしていく。
 そう、紗依はしてもらうばかりなのだ。
 矢斗は次々と紗依がかつて抱いた願いや望んだことを形にしてくれるのに。紗依は、矢斗に何も返せていない。
嬉しいとは思う。けれど、ただ、与えてもらうばかりなのが申し訳なくて。
 二人がそれぞれに口を閉ざすと、その場にはふと沈黙が訪れて。
 けれど、少しの後にそれは破られる。
 俯いたままの紗依は何かが動いた気配を感じたが、その次の瞬間には紗依を取り巻く景色が変わっていた。

「小さな光でいた頃は。……どれだけ紗依の涙を拭ってあげたくても、頭を撫でて慰めたくても出来なかった」

 困惑する紗依の耳に、慈しむ響きに満ちた言葉が降って来る。
 気が付いた時には、紗依はあの日のように矢斗の広い腕の中に優しく捉われていた。
 戸惑いに意味ある言葉を紡げずにいる紗依を抱き締めながら、矢斗は噛みしめるように続ける。

「けれど今はこうして、紗依に触れる事が出来る。抱き締める事が出来る。それが、嬉しくてたまらない」

 涙する紗依の話を聞きながら、小さな光だった友はいつも謝ってくれていた。
 何もできずにすまないと。話を聞くことしかできなくて、すまないと。
 かつての日々を思い出しながら矢斗の腕に抱かれる紗依は、矢斗が確かにここに生ある証である鼓動を感じる。
 恥じらいに、自分の鼓動は忙しないけれど。矢斗の音を感じれば、少しずつ溶けあい、緩やかになっていく気がする。

「紗依が喜びに笑ってくれること。それが、私にとってなによりの喜びであり、返礼だ」

 一つになっていく感覚を、やはりけして嫌とは思わない。
 友はかつての小さな姿ではなく、人ではないあまりに美しく偉大な存在であって。それに比べたら自分は小さな存在で。
 それなのに、矢斗にそこまで思ってもらえることへの罪悪感めいたものと、胸に生じて満ちていく自分でも分からない想い。
 分からないことが増えていく一方で、温かな腕の感触を今暫く感じていたい、と思う自分に。
 紗依は、ただ戸惑うばかりだった――。