四方を海に囲まれた国・花綵(はなづな)
 極東の小さな島国と言われながらも、彩り豊かに巡る四季が齎す多くの恵みの中、人々は生きていた。
 花綵には陽を司る血を引くとされる帝があったものの、長らく帝は建前の存在として政の中枢から遠ざけられていた。
 けれど、異国から閉じてきた国が開かれ世が揺れる中。
 今から遠くない昔に政権を帝へ戻そうとする者達が立ち上がり、結果としてその試みは成功し。政の枢軸は帝へと移り、新しき時代へと移り行く。
 動乱において帝を助け、功績をあげた者達には様々な特権が与えられた。
 何がしかの異能を有していたそれらの家々は、国における新たな支配階級として敬われるようになる。
 その頂点にあるのが『四家』と呼ばれる家門だった。
 始まりから帝に仕え続けてきた四家は、際立って強い異能を持つ事に加えて、帝が所有していた特別な武具を『祭神』として祀っていた。
 国が開かれ西欧の事物が入ってきた事により不思議への畏怖や意識が変わりつつあったが、依然として人々の根底には不思議への畏れが残っている。
 その中で『祭神』を擁する『四家』は人々の畏怖の象徴でもあった――ただ、一つの家門を除いて。

 新たな時代と入り来る異国の文化に賑わう帝都の中でも、特に名だたる家門が屋敷を連ねる一角。そこに『玖瑶(くよう)家』という名の家門が居を構えていた。
 名だたる異能者の血筋の中でも名門中の名門である玖瑶家の屋敷は、由緒正しい和の趣の中に比較的新しい洋の様式が不思議に入り交じるものだった。
 敷地の中において絢爛に整えられた表庭とは対照的な裏手の庭、物干し竿が並ぶ場所に幾つかの人影があり。
 その中の一人が、眦を吊り上げながら怒りの叫びをあげた。

「私の大事なお洋服が泥だらけじゃないの! どうしてくれるのよ、紗依(さえ)!」
「申し訳ありません! 美苑(みその)様!」

 人々の目の前には、泥だらけになって散らばる衣服の数々。
 その中には高価な絹の品もあり、汚れを落して元の状態に戻せるか怪しい状態だ。
 今でもまだ珍しい洋装に身を包んだ美苑と呼ばれた女性は、地面に直に平伏した少女に甲高い罵声を浴びせ続ける。
 その後ろでは、まるで庭園にて妍を競う花々のような華やかな美貌を持つ少女が、口元を隠しながら事の成り行きを見守っていた。
 紗依と呼ばれた少女は、頭をあげる事も出来ずに身を小さくして詫び続ける。

「言いつけられた事すらまともに出来ないの! この、役立たず!」
「申し訳ありません!」

 使用人として見たとしてもみすぼらしい身なりの紗依は、ひれ伏してひたすらに謝罪を口にしていた。
 けして口答えをしてはならないと、一言でも返してしまえばより酷い仕打ちを受けると知っているから。
 何故そうなったのかを釈明していいのであれば、語れる理由は山ほどある。
 今の状況のそもそもの原因は目の前で甲高く怒鳴るこの女性と、袖で隠した下で口元を楽しそうに歪める少女だった。
 一人では途方に暮れてしまう量の洗濯物を、権高に命じられたのが始まりだった。
 必死に洗濯を終え、干していた途中。思いついたように今からすぐに庭の掃除をしろと命じられた。
 そうかと思えば、客人が来るから急いで玄関広間の掃除と床磨きをしろと言われ。
 戻る目途がつきそうだと思ったら、台所の仕事を手伝えと告げられ。
 言いつけられた用事がただでさえ重複している状態で、次から次に矢継ぎ早に指示を受け、その都度奔走する羽目になり。
 何とか片づけて戻った時には、既に干していた洗濯物は散り散りに飛ばされ、泥にまみれていた。
 洗濯物の元に戻ろうとすると、見計らったように用事が申し付けられたのだ。
 そして、それを命じたのは叫ぶ女性であり、嗤う少女だ。
 離れる段階で、誰かに後を託していければ良かったのだろうが、それは出来ない。
 そんな事をすれば、他の使用人に飛び火してしまう。
 後悔などしても無意味だ。今出来る事はただ謝り続け、嵐が過ぎ去るのを待つ事だけ。
 稲妻のような激しい叫びを発し続ける女性を、幾つかの人影が見つめている。
 誰もが、あまりの剣幕に近づく事すら出来ていない。

「でも、あれをやったのって多分……」
「しっ……! 止めておきなさい。奥様やお嬢様のご不興を買いたいの?」

 遠巻きに見つめていた女中達が、思わずといった風に顔を見合わせる。
 皆は、その場の状況をあまりに不自然だと思っていた。
 突風で吹き飛ばされた、というにはあまりにもあちらこちらに散らばっている――まるで、誰かわざと地面にばら撒いたように。
 紗依に無理を命じ、その上で叱られる過失を作って喜ぶ人間の心当たりは、彼女達が知る中では一人しかいないのだ。
 けれど、彼女達がそれを口にする事は出来ない。
 そんな事をすれば自分達に災いが及び、最悪問答無用で暇を出されかねない。
 だからこそ遠巻きに見守れども、紗依を庇ってでるものは居ない。
 ただ、蒼褪めながら震える声で囁きあうだけしかできないのだ。

「紗依『様』がお気の毒よ……」

 古参と思しき年嵩の女が、痛々しいと言わんばかりに顔を背けながら小声で呟く。
 声には紗依を気遣う心と共に、自分達に咎が及ぶのを恐れる心がある。
 女達が苦い表情を向ける先では、まだ紗依が地に伏したまま罵声を浴び続けている。
 その時、叫ぶ美苑の後ろにて事態を見守っていた少女が紗依の前に進み出る。

「お姉様は本当に愚図なのね。でも、それも仕方ないわよね」

 華の美貌を持つ慈しまれた令嬢そのものである少女は、笑いながら使用人の装いをした痩せこけた紗依を『姉』と呼んだ。 
 冗談にしか聞こえないそれは、欠片の偽りもない真実なのだ。
 紗依は、先代当主である祖父の一人娘である母と婿である父との間に生まれた初の子供であり、本来であれば玖瑶家において『長女』と呼ばれる立場だった。
 けれども、今この家において長女と呼ばれているのは母の違う妹である。
 そして、父の妻……奥様と呼ばれるのは、紗依の母ではなく紗依を罵る女である。
 紗依は、この家において何の価値もない、むしろ忌むべき存在である。何故なら。

「だってお姉様は異能を持たない『呪い子』なのですもの。生まれた時から出来損ないなのだから」

 紗依は、玖瑶家の血筋であれば必ず持ち合わせているもの――異能を持たずに生まれてきた。
 それ故に『呪い子』として存在を無きものとされかけ、自分ばかりか大切な存在の運命すら狂わせた。
 永らえる事はかろうじて許されたが、日の当たらぬ場所で、使用人として生きる事を余儀なくされる日々を送っていた。
 紗依は、けしてそれを恨んではいなかった。確かな想いで自分を支え導いてくれる、守りたいと願う大切なものと共に在る事が出来ているから。
 だからこそ、少しでも早くこの荒々しい言葉の礫が止む事を祈っている。
 今朝方、酷い咳をしていたから様子が気がかりなのだ。叶うならば、勤めを果たして一刻でも早く戻りたいのだ。
 言葉のないままひれ伏しじっと耐え続ける紗依に、美苑は忌々しげに舌打ちしたかと思えば告げた。

「罰として、お前もあの女も、今日の食事は抜きよ!」
「っ! お、お願いします! それだけは……それだけは、お許し下さい!」

 美苑の言葉に、紗依は弾かれたように顔をあげて叫んだ。
 そこに至って、漸く紗依の様子に動揺が生じる。
 紗依にとって、それだけは受け入れがたい罰だった。
 自分だけならいい。何とでも耐えて見せると思う。けれど、自分の罰が連座すること。それだけは耐えられない。

「最近、頓に調子を崩していて……。私ならどんな罰でも受けます、だから……!」
「口答えをしないで頂戴! 罰は罰よ!」

 女の足元に縋らんばかりに必死に、地面に額をこすりつけて懇願する。
 しかし、紗依の様子が気に障ったらしい美苑は、更に表情を歪める。
顔の造作自体は文句なしに美しいのに、さながら鬼女を思わせるような形相であった。
 誰も制止できない剣幕の女主人に、ふと声をかけた者が居た。

「ねえ、お母様」

 邪魔をされた形となった女は一瞬眉を寄せたものの、相手が他でもない娘であると知ると一つ息を吐く。

「どうしたの? 苑香(そのか)
「二人でご飯抜きが嫌なら。お姉様がその分……そうね、今日と明日の二日分のお食事を抜きにすればいいのよ」

 母の問いに対して、無邪気とすら言える笑みを浮かべながら苑香が口にした提案に、聞いていた人々は思わず呻きかけた。
 けれど、顔色を変えて声を顰める人々とは対照的に、紗依は安堵すらしていた。
 自分だけなら、何とか耐えられる。自分が苦しいだけなら、まだ。
 女は暫く考え込んでいたようだが、仕方ないわね、とでもいうようにこれ見よがしに溜息を吐く。
 気分を削がれた、とでもいうように尚も平伏したままの紗依を置いて、苑香と母親は立ち去って行った。
 去り際に、全部すぐに片づけて、と捨て台詞のように残しながら。