──計画を立てたのは、私だった。

 燈日に遊園地に連れて行ってもらい、広い世界を知ったあの日を境に、私は、自分の置かれた境遇が、いかに異常であるか、子どもらしい自由を奪われているかを知った。

 どうして、私には家族がいないんだろう。

 ひとりきり、狭い部屋に閉じ込められて、誰とも会話をせず、泣いても暴れても誰も来てくれない。

 私は希望を棄てた。

 泣くことも暴れることもしなくなった。

 置物のように、黙り込んだ。

 5歳のとき、部屋の中の世界しか知らなかった私に、転機が訪れた。

 『言葉の練習』が始まったのだ。

 部屋を出て、私と同じように孤独に過ごす子どもたちの前を堂々と通り過ぎて、談話室へと向かう。

 そこで、施設の大人から、言葉を教わった。

 簡単な単語から覚え始め、会話が続くようになり、読み書きの学習が始まった。

 ある程度、言葉を習得したあと、『授業』に参加するよう言われた。

 そこには、先生がいて、同じ歳の子どもが──多恵と英梨、怜奈、光臣、燈日がいた。

 燈日だけは、べつの家に住んでいるらしい。

 楽しかったし嬉しかった。

 みんなと過ごす日々が、私のそれまでの灰色の日常に色を与えてくれた。

 知識が増えるたび、私は頭がよくなったような、先生みたいな大人に近づいたような、『人間』になったような気分になった。

 そして、6歳のとき、私は世界を知る。

 遊園地で両親と手を繋いで笑う子どもたち。

 見上げた、広い広い空。

 果てのない世界から現実へと戻った私は、自分の部屋に入りたくないと泣いて暴れた。

 それは、私以外のみんなも同じようだった。

 大人が集まってきて、私は注射を打たれた。

 すぐに眠くなってきて、気づけばいつもの部屋で目を醒ました。

 その日以来、私はどうしたらこの施設を出られるかを模索するようになった。

 そして、私は燈日を激しく恨んだ。

 多恵から、私たちを閉じ込めている元凶は、『所長』の仙道昭嗣という男で、燈日は仙道の子どもだと教えられたからだ。

 多恵は物知りで、この施設
で一番偉い人が仙道昭嗣であり、同じ苗字である燈日は、その子どもなのだと知っていた。

 父が私たちに酷いことをしているのに、なにも言わない燈日も、同じくらい悪い人間に見えた。

 燈日と光臣が、『恋人』だということを知り、そして光臣が『外』にある燈日の家に出入りしていると知り、施設を脱出するためのヒントを探すよう、光臣に指示した。

 光臣は、映画やドラマという物を観て、閉ざされた場所、たとえば『刑務所』というところから『脱獄』する手段を学んでは、様々なアイデアを持ち帰ってきた。

 どうやら脱出するには、『犯罪』を犯さなければいけないらしい。

 燈日を除くメンバーと、日々脱出に向けて対策を練った。

 まずは無事に私たちが脱出すること、次に憎くて憎くてたまらない施設に復讐すること。

 そのふたつを実現させるには、どうしたら成功するのか。

 光臣から、刑務所から受刑者が脱獄する際、火事を起こしたという手口を教わり、私はそれを採用することにした。


──燃やしてしまおう、こんな場所。

 多恵を始め、私たちの見解は一致した。

 ここでの生活を、なかったものして、『普通』に生きる。

 みんな、みんな死ねばいい。

 私たちは、火災を起こす方法、決行する日時、どうやって施設から抜け出すかを話し合った。

 光臣には、計画のことは話さなかった。

 光臣は、燈日あるいは所長である仙道昭嗣に近すぎる。


 光臣から、仲の良い燈日に情報が洩れる危険性を考えて、いつ、どんな脱獄計画を練っているか、教えることはしなかった。

 7歳になった私たちは、計画を決行した。

 『授業』に行ったときに、  理科の実験に使用したマッチをマッチ箱ごと服に隠した。

 それを、『実行役』に手渡した。

 数時間後、施設の建物に非常ベルが、けたたましく鳴り響いた。

 

 あなたの名前は、宇部遥、というのよ、と知らない女性が私に告げた。

 施設を焼け出され、保護された私たちは、帰りを待つ家族と再会を果たした。

 私は、生まれて数日後、病院から誘拐されたという。

 火事をきっかけとし、未曾有のスキャンダルが報じられると、私の家族と名乗る人物が現れた。

 施設職員よりいくぶんか歳を重ねた男女の大人ふたりが、保護された私に抱きつき、人目もはばからずに涙を流していた。

 そばには、そんな私たちを戸惑った様子で、私よりもお兄さんの男の子が立ち尽くしていた。

「よかった、遥。
 生きていて……。
 本当に、よかった、わたしがあなたのお母さんよ、遥。
 あなたは、『宇部遥』というのよ」
 
「お前は生きていると、信じていたんだぞ、いつか必ず、遥は帰ってくるって、お父さんたちは諦めなかった。
 間違っていなかったんだな、ありがとう、生きていてくれて、よく頑張ったな」

 お母さんが私にぎゅうっと抱きつき、お父さんは優しく頭を撫でてくれた。

「あそこに立っているのは、お前の兄妹、お兄ちゃんだ」

「お兄ちゃん……」

 私が呟くと、お父さんが、「そうだ、お兄ちゃんだ」と涙ながらに応えた。

 これが、家族。

 私にもいた、家族。

 お父さん、お母さん。

 私にも、家族がいて帰る場所があったのだと、私は心から安堵していた。

 帰り着いた家は、住宅地の、すぐそばに建つ家と似たりよったりで、個性がなく埋没していた。

 しかし、中に入ってみると、閉じ込められていた小部屋とは比べものにならない広さだった。

 綺麗で、温かい、人が生活していることが窺える室内。

 私が、成長するはずだった場所。

「座って、遥、疲れたでしょう?」 

 お母さんはにこやかに接してくれるが、先生以外の職員ともまともに話したことがなく、大人に慣れていない私は、両親とどう接するべきかわからずにいた。

 ダイニングのテーブルから椅子を引いて座らせながら、お母さんが温かい飲み物を用意してくれる。

 私がそろそろと湯呑みに口をつけたとき、突然、甲高い音が鳴り響いた。

「ひゃっ」

 私は驚いて首をすくめる。

「大丈夫だよ、チャイムだ。
 お客さんが来たんだよ」

 お兄ちゃんにそういわれても、チャイムがなんなのかがわからない。

 私が困惑していると、玄関から、どやどやと足音が近づいてきた。

 私は警戒も顕にダイニングへ続く廊下の方を睨んだ。

「遥ちゃん!」

「遥!」

 廊下から転がるようにダイニングに入ってきたのは、見たこともないほど老いた男女だった。

 仙道昭嗣ですら、こんなに年老いてはいなかった。

「遥ちゃん、お祖母ちゃんだよ」

「お祖父ちゃんだよ、わかるかね?」

 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんと名乗ったふたりは、お母さんたちと同じように、私を強く抱きしめた。

「生きてるなんて、奇跡だ!
 神様はいるんだ!」

 お祖父ちゃんが眼鏡を外し、手のひらで溢れる涙を拭っている。

 眼鏡を見て多恵を思い出す。

 みんな、今頃、なにをしているだろう。

 途端に、みんなが恋しくなった。

 見知らぬ環境に、なんの予備知識のない状態で放り込まれ、頭は完全にパニックの渦にあった。

 混乱の海に溺れる。

 されるがままになっていた私と、目が合ったお兄ちゃんが、苦笑いしながら助け船を出してくれた。
 
「じいちゃん、ばあちゃん、そのくらいにしてやれよ。
 遥、困ってるだろ」

 すると、我に返ったようにお祖母ちゃんたちが私から離れ、泣き笑いしながら、しわに埋もれた瞳から流れる涙をしきりに拭っている。

「大きくなったね、遥ちゃん。
 帰ってくるって信じてたけど、現実になるとまだ、実感がないよ。
 ほら、お祖母ちゃん、こんなに震えてる」

 お祖母ちゃんが、私の手を握る。

「ちゃんと食べられていたのかね?
 7歳にしては、体格が小さくないかい?」

 お祖母ちゃんの心配そうな言葉を受けて、お母さんが深刻な表情になる。

「病院で検査してもらって、身体に異常はないそうです。
 栄養不足で、確かに身体は小さいようですが、これからは食べたいもの、存分に食べさせてあげられますから、大丈夫だってお医者さまに言われました。
 問題は……」

 大人たちが揃って昏い顔つきになる。

「精神的に、今後影響が出てくる可能性があると……。
 専門医による心のケアが、これから必要になるということです」

「ああ、本当に、酷い犯罪に巻き込まれたものだ。
 犯人が許せないよ」

 お母さんとお祖母ちゃんの会話を聞いて、私の胸がひときわ、どくりと鼓動を打った。 

──犯人は、私だ。

 確かに、私たちを監禁していた犯人は、仙道昭嗣だ。

 けれど、私はそんな犯罪者と同じ『犯人』になってしまったのだ。

 私はもう、可哀想なただの被害者ではない。

 施設を燃やし、閉じ込められていた子どもたちと、職員を殺してしまった。

 自分たちが抱いた恨みを晴らすため、施設から脱出するため、そんな大罪を犯した私は、加害者に堕ちてしまったのだ。

──本当に悪いのは誰?

 殺人犯になった私は、なんの罰も受けずに、それどころか犯人ではないかと疑われることすらなく、実家に帰ってきた。

 帰ってきて、しまった。

 自分で発案して、計画を練って、実行した。

 私が、主導して。

 あの火事を起こした。

「遥ちゃんは、食べ物なにが好きかしら?」

 お母さんの弾んだ声に、私は思考の海に沈んでいた意識を引っ張り上げた。

 辺りを見回す。

 そうだ、ここはもう施設ではない。

 火事の原因は解明されていない。

 犯人が私だとは、誰も気づかないだろう。

 大丈夫だ、このことは、もう忘れよう。

「オムライス……」

 私は無意識に呟いていた。

「え?オムライスって言った?」

 お母さんが聞き返すので、受け答えがおかしかったのかと、私は焦った。

「オムライス、好きなの?」

 お兄ちゃんが、私の隣に座りながら目を覗き込むようにして訊いてくる。

 私は恥ずかしくなって、うつ向いてしまった。

「母さん、遥はオムライスが食べたいんだって。
 そうだよね、遥」

 にこっと笑いかけて、お兄ちゃんはそう言った。

 私は黙ってうなずく。

「オムライスね、わかった、今夜は遥が帰ってきたお祝いで、とびきり美味しいオムライスを作るわね、楽しみにしていて」

 お母さんは、キッチンへ向かうと、早速冷蔵庫の中身を確認している。

「お義母さんたちも、夕飯、一緒にいかがですか?」

 エプロンの紐を結びながらお母さんが言った。

「邪魔じゃなければ、あたしたちも一緒でいいかね。
 遥ちゃんが帰ってきて、あたしたちも嬉しいんだよ。
 諦めかけたときもあったけど、遥ちゃんのお父さんたちは、きっと帰ってくるって、信じて待ってたんだよ」

 お祖母ちゃんが、本当に嬉しそうな顔で私に言い聞かせる。

 私の帰りを待つ、家族がいた。

 本音とも疑問ともつかない言葉が口をついて出た。

「みんな、私が帰ってきて、嬉しい……?」

 みんなが目を丸くして、次に痛いくらいの温かな視線を私に注ぐ。

「当たり前でしょう!
 わたしたちは、ずっと遥ちゃんが無事に帰ってくると、信じて7年を過ごしてきたのよ。
 一度も諦めなかったわ。
 遥ちゃんは生きているって、みんなで励ました合って……。
 ……ごめん、やっぱり本物の遥ちゃんを前にすると、泣けてきちゃうわ……。
 本当に、ひどいことに巻き込まれたわね。
 でも、もう危険はないから、これからは、わたしたち家族が、遥ちゃんを守るから、だから、安心してね」

 お母さんが目元を拭いながら声を震わせて優しい口調で言う。

 でも泣きながら、みんな笑っている。

 みんなみんな、私が帰るのを待っていた。

 私が帰ってきただけで、みんな嬉しそうに、にこにこと笑っている。

 あの小部屋にいたら気づくことはなかった自分の価値。

 帰る場所があるのだという事実。

 待っている人がこの世界のどこかにいるという現実。

 私は7年間を無駄に過ごした。

 抑圧され、感情を知らずに育った私はきっと歪んでいる。

 普通ではない。

 これから私を待ち受ける世界は、私にとって優しいだろうか。

 家族みんなで食卓を囲んで、お母さん手作りのオムライスを食べながら、私はつらつらと、止めどなくそんなことを考えていた。

 お母さんの作ったオムライスは、仙道昭嗣が作ったそれより、あまり美味しくなかった。

 オムライスがすっかり好物になった私が、燈日に味の感想を伝えて、仙道昭嗣が私の好みに味を整えてくれていたからなのだと、初めて気づいた。

 仙道昭嗣は憎い。

 けれど、仙道昭嗣もまた、人の親であったのだ。

 夕食を摂りながら、私たちは色んな話をした。

 両親は、私のことを知りたがったが、7年間閉じ込められていただけの私が、自分のことについて語れることはほとんどなかった。

 また、両親も犯罪に巻き込まれた私に、どこまで踏み込んで接したらよいものか、距離感を掴めずにいるようだった。

 よそよそしい空気が両親から感じ取れる。

 腫れ物に触るような、ぴりぴりとした気詰まりする空気。

 そんな中、言葉が詰まる私に、お兄ちゃんは、辛抱強く付き合ってくれて、フォローしてくれた。

 お兄ちゃんだけは、まるで友達みたいに、当たり前のように、気軽に接してくれた。

 これが、『きょうだい』というものだからなのだろうか。

 この家に帰ってきて、一番よかったと思ったのは、お兄ちゃんと出会えたことだった。

 お兄ちゃんは、名前を『すい』といった。

 『翠』と書き、それは私の知らない漢字だったので、何回も練習して、書けるようになろうと密かに決意した。

 食後、シャワーを浴び、今日のために両親が用意してくれたパジャマに袖を通し、私のだという部屋へ案内された。

 嫌だ、と思った。

 私のための部屋、それは、あの小部屋とそう変わらない広さだったからだ。

 小部屋は5畳で、私の実家の部屋は6畳だということがわかるようになったのは、ずいぶん後になってからだ。

 また、私は閉じ込められるのではないか、本能的な恐怖を感じて、部屋の入口に立ちすくみ、私は泣き出してしまった。

 きっと私は、お母さんのこと、お祖母ちゃんのこと、みんなのことも、心の底からは信じていなかったのだろう。

 私は、悪い大人を知りすぎている。

 家族だから悪い人ではない、そんな方程式は、私の中には成立しなかったのだ。

「ど、どうしたの、遥ちゃん?
 どこか痛い?
 なにか嫌なことあったのかな?
 お父さん、どうしよう?」

 おろおろと、お母さんが私の肩に手を置いたまま、後ろにいるお父さんに助けを求める。

「……怖いんじゃない?」

 お兄ちゃんがやってきて、泣いている私を見るなりそう言った。

「ずっと、狭い部屋に閉じ込められてたんだろ?
 また同じことされるんじゃないかって、不安になったんじゃない?」

 びっくりした。

 心の中を覗いたのかと思うほど的確に、お兄ちゃんは私の気持ちを言い当てた。

「……そうなのか、遥?」

 懐疑的にお父さんが訊く。
 
 私はこくん、とうなずいた。

 お父さんとお母さんが驚いたようにお兄ちゃんを見る。

「そうか、まだ不安なんだな……。
 いいか、遥」

 お父さんは屈んで私と目線を合わせると穏やかでできるだけ優しい声で告げた。

「ここにいるみんな、遥の味方だ。
 家族は、遥を傷つけたりしない。
 もう、怖いことは終わったんだ、家族みんなが、遥を、今度こそ必ず守るから、だから安心してお父さんたち信じてほしい」

 言いながらも、お父さんは泣き出しそうな顔だった。

 私が不安なように、また、お父さんたちも不安を感じているのかもしれない。

 私たち『家族』は、まだ始まったばかりで、みんな、手探りで距離感をはかっている。

 今日突然家族になったのだ。

 慣れずにぎくしゃくするのは、仕方がないことなのだろうと思う。

 私はようやく落ち着いて、涙を拭いながら、部屋の中をちらりと覗いてみる。

 ベッドに机に本棚、クロゼット、ローテーブルにクッション。

 どれもパステルカラーの可愛らしい部屋だった。

 両親が、この日のために揃えてくれた家具なのだとわかる。

 でも、今はまだ部屋に入りたくない。

 家族を信頼していない、とまではいわないが、私の過ごした7年間を考えると、容易く他人を信じることは、すぐにはできなかった。

 けれど、それは家族みんなにとっては悲しい話で、子どもである私から信用されないということは、ショックなのだろうとわかる。

「俺と一緒に寝る?」

 と、お兄ちゃんが言った。

「遥はベッドに寝て、俺が布団敷いて床で寝る。
 ひとりで寝るのが不安なら、そうしたらどうかな?」

「え……」

 お兄ちゃんの提案に、私は戸惑ったが、それは願ってもない申し出でもあった。

 お兄ちゃんは、信じられる。

 優しいし、私の考えていることを察して代わりに言葉にしてみんなに伝えてくれるし、頼りになる。

 お兄ちゃんは、翠といって、高校2年生だという。

 少し茶色がかった長めの髪と、同じ色の大きな瞳、笑顔が似合うかっこいい顔。

 にこりと笑いかけられると、どきりとしてしまう。

 お祖母ちゃんたちが泊まるので、空いている部屋がなかったことから、お兄ちゃんの提案は認められた。

 お兄ちゃんが、2階にある自分の部屋から、布団と毛布を持ってきて、床に敷くと、ベッドの上に所在なく座る私に、破壊力満点の笑みを浮かべる。

「机の上のランドセル、見た?」

 布団の上であぐらをかきながら、ジャージ姿のお兄ちゃんが言った。

 私はそこで初めて、机に目を遣る。

 ピンク色のリュックみたいなかばんが、そこには置かれていた。

「ランドセルっていうんだよ。
 小学生がみんな使うかばんだよ。
 これに教科書を入れて学校へ行くんだ」

 そんな文化、初めて聞いた。 
   
 それより、これから私は小学校へ行くのだろうか。

 施設で受けた『授業』とは違うんだろうな。

 想像すらできない未来が恐ろしくておののいていると、お兄ちゃんが、布団の上で、うーんと伸びをし、「寝るか」と言った。

 私もそれに従い、布団へ潜り込む。

 まだまだ暑い、7月の終盤。

 お兄ちゃんは、『夏休み中』なのだという。

 長い間、学校がお休みになると、お兄ちゃんは嬉しそうに話していたが、私にはなにが嬉しいのか理解できなかった。

 施設にいたとき、『授業』のない日はやることがなくて、退屈でしかなかった。

 みんなと会えなくてつまらなかった。

「なんか、修学旅行みたいだな」

「え?しゅうがく……?」

「学校のクラスメイトと一緒に旅行に行くことだよ。
 夜はこうやって、布団並べて同じ部屋で寝るんだ。
 誰が好きだとか、くだらないお喋りしてさ。
 で、先生が見回りに来たら、みんな慌てて寝たふりしたりとかね。
 楽しいよ、学校も。
 遥も、きっとすぐ慣れる、安心して」

 お兄ちゃんが私の不安を取り除こうとしてくれているのがわかる。

「今日は疲れただろ、もう寝よう。
 電気消すよ」

 ふっと灯りが落とされ、部家が暗闇に支配される。

 今までだったら、消灯の時間になると、自分の呼吸の音しか聞こえないほど静かだった。

 しかし、時計の音、車が道路を走る音、どこかか聞こえるかちゃかちゃとお皿がぶつかる音がして、誰かが近くで生活している音がひっきりなしに耳に届いて、落ち着かない。

 花柄のカーテンの向こうから、明るい光りがぼんやりと滲んでいる。

 だから、部屋はそれほど暗くない。

 月明かりか、街灯か、あるいは近所の家から洩れる、目に痛い蛍光灯の照明か。 

 やがて、お兄ちゃんの寝息が聞こえ始める。

 無防備で、健やかな。

 私は身を乗り出して、ベッドの端からお兄ちゃんを覗き込む。

 すっかり眠りについたお兄ちゃんの顔には、憂いの色はない。

 その顔を見て、私はようやく心からほっとできた。

 この家で、お兄ちゃんはなんの不安も感じずに、安全な環境で育ってきたのだ。

 少し、羨ましい。

 明日から始まる新しい生活に思いを馳せているうちに、深い眠りへと引き込まれていった。


 光臣と、燈日は仲が良かった。

 ふたりの関係を、『恋人』と称する。

 そして、ふたりを恋人にするのは、『恋』という現象だという。

 ならば、今、私が抱くに至ったこの想いはきっと、『恋』なのだろう。

 夏休みの終わり、私はそう結論をつけた。

 この家に来た日からずっと、お兄ちゃんは私の部屋の床で寝ている。

 その光景も当たり前になってきた。

 この家にやってきて一ヶ月が経ち、私はだいぶリラックスして過ごせるようになった。

 家族は、事件のことには一切触れず、施設でどんな生活をしていたか、どんな扱われかたをしていたか、警察官に聞かれたことを、家族には聞かれなかった。

 両親も、気にはなっているだろうが、私が事件のことを思い出して不安定になることを恐れその話はしなかった。

 警察から、その辺のことは聞いているだろうと、私は勝手に理解していた。

 家へ初めて来た日、泣いてしまったのも、両親を萎縮させた要因かもしれない。

 今、私が座る机の上には、小学2年生と書かれた教科書が並べられている。

 それらを見る私の心境は不安で塗り潰されていた。


 9月から、私は近所の小学校に転校という形で通学することになっている。

 昨日、家から小学校への通学路をお母さんと歩いてきた。

 道順は単純で、迷いようがなかった。


 小学校に着いて、思わずぎょっとしたのは、小学校があの施設を思わせるほど、外観が似ているからだった。 

 信号が赤なら止まる、青なら進む、道路のしましまは歩行者が歩いていい場所……。

 交通ルールを教わりながら、私は世界の広さに改めて驚いていた。

 道路は果てしなく、遠くに見える山の向こうにも、街は続いているのだろうか、どこまで行けば終わりに辿り着くのだろう。

 どこまで行けば、この世界は終わる?

「終わりはないのよ、地球は丸いから」

 お母さんはそう教えてくれたが、地球がよくわからない。

 帰宅してから、お兄ちゃんが地球儀を見せて説明してくれて、ようやく腑に落ちた。 
 
 地球が丸いのに、どうして、私たちがまっすぐ立っていられるのかは未だに理解できていないけれど。

 お兄ちゃんは、宇宙の存在を教えてくれたけれど、宇宙は果てしなく膨張しているんだと聞かされても、全く理解できず、頭がパンクしそうだった。

 お兄ちゃんは物知りだなあ、すごいなあとつくづく思う。

 
 初登校日を控えた私は、緊張で中々眠ることができなかった。

 いや、今日が初めてではない。

 ここのところ、私は緊張しっぱなしで、睡眠不足気味だった。

 大好きな大好きな、『恋』をしているお兄ちゃんがそこにいて、すやすやと眠っているから。

 恋をしていると、意識してから、お兄ちゃんと上手く話せなくなったし、常に心臓がうるさい。

 顔も熱を持って赤くなるから、それを見られないようにそっぽを向いてしまう。

 本当は、お兄ちゃんの顔を見たいのに。

 顔を合わせて一ヶ月ちょっと。

 お兄ちゃんへの想いは募るばかりだ。

 お兄ちゃんと、恋人になりたいと、最近はずっと考えている。

 気持ちを打ち明けたいと思っている。

 優しい優しいお兄ちゃん、私の恋人になってください──。


「……寝られない?」

 灯りを落とした部屋で、布団に入ったお兄ちゃんが私に訊いた。

「……うん」

 私は天井を見上げながら返事をした。

「最初はそりゃ緊張するよな。
 全く知らない世界にひとりで放り出されるようなもんだもんな。
 でも人間てさ、慣れるんだよ、だから、大丈夫、きっとすぐに友達ができて、毎日楽しく通えるようになるよ」

 お兄ちゃんの声は温かい。

 その声を聞くだけで、心が安らいで、不思議なほど不安が消えて行く。

「明日は俺が一緒に学校まで行くから、心配するなよ」

「えっ、一緒に来てくれるの?」

 私は思わず布団を剥いで起き上がった。

 その音を聞いたお兄ちゃんが小さく笑い、「ほっとした?」と私に聞いた。

「ずっと緊張してたもんな」

 そこで、私は、あ、と気づく。

 お兄ちゃんは誤解している。

 私が緊張しているのは、学校への不安からきているとお兄ちゃんは思っているようだが、私が緊張している本当の理由は、お兄ちゃんが毎日すぐ横で眠っているからだ。

 お兄ちゃんと話すときは、おかしなことを言わないように、嫌われないように、緊張して言葉を選んでいるからだ。

 そう伝えようと思ったけれど、恥ずかしいのでやめた。

 今、お兄ちゃんに告白しても、真正面から受け止めてもらえないような気もしていた。

 私とお兄ちゃんでは、歳が離れているし、お兄ちゃんが私を恋人にしてくれるかはわからない。

 断られたら、悲しいし、傷ついてしまうだろうと思う。

 今は、まだこのままで。

 まずは、明日の朝、お兄ちゃんと一緒に登校できることを楽しみにしよう。

「おやすみ、遥」

 その言葉を最後に、お兄ちゃんは沈黙した。

 私は、おやすみ、と小さく呟きながら目を閉じた。

 
 翌朝、先にダイニングで朝食を食べていた私は、階段を降りてきたお兄ちゃんを見て、スプーンを取り落としてしまった。

 ブレザーと呼ばれる、高校の制服姿のお兄ちゃんが、あまりに格好よかったからだ。

「おはよう、遥。
 よく眠れた?」

 お兄ちゃんは、毎日私が起きる時間には、すでに部屋にいない。

 着替えるため、自分の部屋に戻っているのだ。

「遥?」

 私が見惚れてぼーっとしていると、「大丈夫か?」と顔を覗き込まれたので、慌てて「大丈夫だよ」とうなずいた。

 心臓がばくばくいっている。

 胸が苦しい。

 お兄ちゃんの優しさが痛い。

 そのまま、うわの空で朝食を終えると、お兄ちゃんに連れられて玄関へと向かう。

 靴をはいて、立ち上がろうとしたのだが、「あれっ」と後ろにこてん、と倒れてしまった。

「どうした、遥?
 大丈夫か?」

 玄関扉を開けようとしていたお兄ちゃんが驚いて振り返る。

「だ、大丈夫……ちょっと」

 私がじたばたともがくのを見て、お兄ちゃんが苦笑した。

「ああ、ランドセルが重くて立ち上がれないんだな」

 恥ずかしくて、顔が真っ赤になるのがわかる。

「どうした?」

 出勤前のスーツ姿のお父さんとエプロン姿のお母さんがどたどたとやってきて、私を見て目を丸くする。

「ランドセルが重いんだって」

 ああ、とお父さんは軽い調子で納得した様子だが、お母さんは深刻そうな表情だった。

「小学校2年生にもなれば、ランドセルの重さにも耐えられるようになるのに……。
 栄養不足でまだ身体が年相応に成長していないのね……」

 お母さんは、私を悲しげに見て、今にも泣きそうだ。

 私は慌てて立ち上がり、心配をかけまいと平気な顔をしてお母さんに笑顔を作ってみせた。

「大丈夫、心配しないで、ほら、重くないよ」

 ゆさゆさと、真新しいランドセルを揺すって、大丈夫だとアピールした。

「じゃあ、遥のことは頼むわよ、翠」

 私のランドセルを支えながら、お兄ちゃんがうなずいた。

「じゃ、行ってくる」

 お兄ちゃんに手を引かれるようにして玄関を出る。

「いってらっしゃい、なにかあったらすぐお母さんに連絡するのよ」

 実家に帰ってから、すぐに、お母さんからスマホを与えられた。
  
 操作の仕方を覚えさせられたので、使うことはできる。

 ランドセルには、防犯ブザーというものも取り付けられた。

 正直、どんなときに使えばいいのかわからない。
    
「い、いってきます」 

 そう言うと、外へと足を踏み出した。

 よく晴れた空だが、太陽にはまだ慣れない、目に痛い、強烈な刺激が目を刺す。

 眩しさに目を開けられないでいると、お兄ちゃんが頭にぽん、となにかを乗せた。

「帽子。本当は1年生がかぶるやつなんだけどな、日差し除けにはなるだろ」 

 1年生が、と聞いて少し恥ずかしくなった。

 うつ向きながら歩いていると、突然、お兄ちゃんに手を引っ張られた。

 驚いて、たたらを踏むと、すぐ横を車が走って行った。

「前をちゃんと見ること。
 外は車やバイク、自転車がたくさん走ってる。
 車の音が聞こえたら、道路の端に避けて」

 こくこく、と私はうなずく。

 それ以外、問題なく小学校に辿り着いた。

「おお、懐かしいなあ。
 俺もこの小学校に通ってたんだよ」

 お兄ちゃんが立ち止まって初めて、私はお兄ちゃんと手を繋いでいたことに気づいた。

「じゃあ、ここでね。
 小学生生活、楽しんでな」

 微笑むと、お兄ちゃんは踵を返して去って行く。

 私は一呼吸すると、グラウンドを突っ切って正面玄関へと向かった。

──うるさい。

 とにかくうるさい。

 校内に入ると、私と同じようにランドセルを背負った子どもが、奇声を上げながら走り回っている。

 服装や髪型はまちまちで、私より小さい子も大きい子もいる。

 私は、母に聞いた通り、1階の職員室へと向かった。

 そのとき、廊下ですれ違った子どもが、「転校生が来るんだって!」「男かな、女かな。可愛い子だといいな」「お前、マイちゃんが好きって言ってなかった?」そんな会話をしながら、男の子たちが走って行った。

 私はにわかに緊張する。

 今の子たちが言っていた『転校生』とは、私のことだろうか。

 転校生とは、そんなに注目される存在なのか? 

 初めて見る私を、クラスのみんなにはどう思われるのだろう。

「失礼します」

 と断って、職員室の扉を開ける。

 雑然とした机が並び、書類を手にした大人──先生たちが忙しく動き回っている。

「ああ、宇部さんね?」

 施設で先生だった女性と、そう歳は変わらなそうな、先生が私を見つけて言った。

「はい」

 私が答えると、先生はにこやかに笑った。

「担任の高田といいます。
 今日から、よろしくね。
 宇部さんのクラス、2年1組の教室まで案内するわね、一緒に来て」

 高田先生は、見るからに優しそうで、私は一安心した。

 ランドセルをがたごとと鳴らして階段を上がり2階までやってくると、子どもたちの騒々しい声が届いてきて、思わず不快になって眉をひそめる。 

 うるさい、本当にうるさい。

 2年1組と掲げられたプレートの教室の前まで来ると、「ここで待っていて」と先生は先に教室へ入ってしまった。

「おはようございます!
 みんな、夏休みは楽しかったかな?
 元気に登校してくれて嬉しいです。
 はい、静かに!
 今日は新しいお友達を紹介します」

 高田先生のよく響く声が、扉越しにもはっきりと聞こえてくる。

 そして、『新しいお友達』と聞いた瞬間、教室がどよめいた。

 明らかに、なにか非日常的なことを期待している様子の興奮したざわめきに、私は不安と緊張で震え上がった。

 どうしよう、みんな、こんなに興味津々で『転校生』が現れるのを待っているのに、まともに喋れない私を見たら失望されてしまうかもしれない。

 お友達を作る、なんて、私にはやっぱり夢物語でしかなかったのだろうか。

「宇部遥さんです、入ってきて」

 私は覚悟を決めて扉を開け、教室に足を踏み入れる。

 おおー、とまたも、どよめきが上がる。

 しかし、私の姿を見た瞬間をピークに、教室内のさざめきは落ち着いていった。

 なーんだ、という、期待外れの白けた空気が肌に突き刺さる。

 もっと綺麗な子、可愛い子ならよかったのに──。

 私は、クラス全体に流れた空気を、嫌というほど察知した。

 背が小さくて痩せた体型。

 顔も十人並みで、これといった特徴がない。

「宇部さん、自己紹介して」

「……はい」

 自己紹介する前に、すでに教室の生徒は半ば私に興味を失っている。

「宇部遥といいます」

 簡素に挨拶すると、先生が先導して拍手が起こる。

 黒板の前に立つ私に、お情けのように、幾人かが質問を浴びせる。

 しかし、早口すぎて聞き取れない。

 きんきんと、甲高い声は鼓膜に突き刺さるだけで、なにを言っているのか、判別できなかった。

 やがて、戸惑ったように沈黙した私に、クラスメイトたちもあきれたような視線を送ると、同じように沈黙した。

「えっと、じゃあ、宇部さんは真ん中の一番後ろ、空いている席があるでしょう。
 あそこに座って」

 奇妙に静まり返ってしまった教室内に、わざとらしく明るい先生の声が寒々しく響いた。

 私はすっかり萎縮しながら机と机の間の狭い空間を縫って自分の席へとうつ向いて向かう。

 冷えた視線が、私の動きを追う。

──ああ、失敗だ。

 私は、これ以上ないというほど落ち込んで、誰の目も見ないようにして自分の席に辿り着いた。

 重たいランドセルを下ろして、教科書を取り出す。

「みんな、宇部さんに、わからないこと教えてあげてね。
 じゃあ、朝の会を始めます」

 やっぱり、あんなところで育った私が、普通の子と同じになろうだなんて、無理な話だったのだ。

 私は、仙道昭嗣と燈日を呪いながら机の一点を眺めて時間をやり過ごすことにした。


「宇部さん、どこから転校してきたの?」
「お父さんの仕事で引っ越してきたの?」
「どこに住んでるの?」
「一緒にトイレ行かない?」
「遥ちゃんて、呼んでいい?」

 休み時間、私は女の子たちに囲まれて、質問攻めにあっていた。  

 しかし、どの質問にも、わたわたしてしまって、上手く受け答えができない。

 私がまともに話せないとみるや、女の子たちは興味を失って離れていった。

──結果的に、私は失敗した。

 クラスの誰とも親しくなれずに、登校し始めて数日で、早くも私の居場所はなくなった。

 宇部さんと話してもつまらない、お高くとまってるよね──。

 そんな陰口を、偶然聞いてしまった。

 帰宅して、お兄ちゃんに『お高くとまってる』の意味を教えてもらい、私はさらに学校生活への不安を募らせた。

 もう、学校なんかに行きたくない。

 そう両親に打ち明けてしまいたいが、私がごく普通の小学生として過ごせるようになったことを、両親は喜んでいる。

 クラスメイトが私に失望したように、両親も私に失望するかもしれない。

 がっかりさせたくはなかった。

 でも、私には希望が残せられていた。

──お兄ちゃん。

 お兄ちゃんは、学校で上手くやっていると、両親に報告している私が嘘をついていることを一目で見抜いた。

 夜、一緒に布団に入ってから、スマホを触りつつ、お兄ちゃんが言った。

「学校、楽しくない?」

「えっ?」

「いじわるなこと、友達に言われたりしてない?」 

 私は、ぐっと言葉に詰まった。

 なにを話しても、お兄ちゃんには嘘がばれてしまいそうな気がする。

「……言われてる。
 それに……友達はいないの、私、つまらないから、話してくれる子、いなくて……」

「つまらないって、言われたの?」
  
「うん、私がいないところで言ってるの、聞いた」

「そっか……。
 クラスメイトは、遥がどれだけ大変な思いをして生きてきたか、知らないからそんな冷たいことが言えるんだろうな。
 遥」

 お兄ちゃんが起き上がって横になった私を真っ直ぐに見つめる。

 私はどぎまぎしてしまう。

「なに?」

 私も起き上がる。

「嫌だって思うなら、無理して学校に行く必要はないよ」

「……でも、お父さんたちは、がっかりするんじゃないかな?」

「じゃあ、期限を作ろう」

「期限?」

「冬休みまで、頑張って登校してみる。
 でも、もう行きたくないほどつらくなったら、俺に言う。
 冬休みまで登校できたら、その先、学校に通うか考えてみる」

 お兄ちゃんの案を唸りながら吟味する。

 次の長期休みまで頑張ってみる……。

 目的があるなら、少しくらい我慢できるかもしれない。

 途中でつらくなったら、お兄ちゃんに言う。

 お兄ちゃんなら、お父さんとお母さんに、私のことを上手く伝えてくれるに違いない。

「わかった、もう少し、頑張ってみる」

 私がうなずくと、お兄ちゃんは安心させるように笑いかけてくる。

「あと、約束して。
 毎日、俺には学校であったことの話をするって」

 私は今度は力強くうなずいた。

 つらいことがあっても、家に帰ればお兄ちゃんがいる。

 お兄ちゃんがいれば、私は頑張れる。

 ……気がする。

 約束をして、私は気持ちよく眠りについた。


 友達がひとりもできないまま、冬休みを迎えた。

 二学期を、休まずに登校した。

 心が折れなかった要因は、勉強だった。

 授業のほとんどを、私は 理解でき、周りの子たちから、一目置かれるようになったのだ。

 あの憎き施設の先生による授業はだいぶ進んでいて、小学校5年生が習うレベルに相当する内容だったようで、2年生の勉強は、簡単すぎてつまらないほどだった。

 施設では、勉強以外他にやることがないから、そのぶん普通の子の何倍もの早さで学習が進んでいたようだ。

 人付き合いは苦手でも、勉強ができることが武器となり、直接いじめられたりはしなかった。

 満点のテストを持ち帰ると、両親は褒めてくれた。

 このころになると、お兄ちゃんに依存していて、もうお兄ちゃんがいなければ生きていけないというほど、お兄ちゃんにべったりだった。

 お兄ちゃんさえいてくれればいい。

 他の誰がいなくなっても、お兄ちゃんさえいれば、私は幸せだった。

 つらいことを乗り越えられた。

 お兄ちゃん、お兄ちゃん……。


 年が明けた休日のこと。 

 目覚めた私がリビングへ下りていくと、お兄ちゃんがそわそわしていた。

 声をかけても、うわの空で、両親もつられたように浮ついていた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 母に訊くと、母は少し頬を赤く染めて、内緒話をするみたいに耳元でささやいた。

「翠の恋人が遊びに来るのよ」

「……えっ!?」

 頭の中が真っ白になった。

 お兄ちゃんの、恋人……?

「付き合ってから1年経って、ようやく紹介してくれる気になったみたい。
 翠に恋人ねえ……。
 いつまでも子どもだと思ってたけど、翠も高校生だものねえ、彼女のひとりやふたりはできるわよね」

「彼女はひとり!
 ふたりもできるわけないだろ。
 母さんも父さんも、ほのかにおかしなこと言わないでくれよな」

 母の言葉を小耳に挟んで、お兄ちゃんが、やれやれと首を振る。

 私の、真っ白になった頭が、今度は絶望で真っ暗になった。

 好きなら、恋人になれるのだと思っていた。

 私は、お兄ちゃんの恋人になりたかったのに。
  
 でも、お兄ちゃんには、もう恋人がいた。

 私が帰る1年も前から。

 ふらふらと、よろけて足をダイニングの椅子にぶつけてしまう。

「遥?」

 慌ててお兄ちゃんが私の身体を支える。

 振り払おうとして、その手を止める。

 大好きなお兄ちゃんが大好きな人なら、私も大好きになるべきではないのか?

 お兄ちゃんの幸せを、喜んであげるべきなのではないか。

「大丈夫、ちょっと緊張しちゃって……」

 すると、お兄ちゃんが鷹揚に笑った。

「遥も、すぐに仲良くなれると思うよ、すごく明るい子だから、ほのかは」

「ほのかっていうの?」

「そう、田村ほのか。
 同級生なんだ」
 
 こんなお兄ちゃんの笑顔、見たことない。

 私はショックに打ちひしがれながら、大人しくダイニングの椅子に座って、田村ほのかが来るのを待つことしかできなかった。

 お昼の少し前。

 我が家のチャイムが鳴り、お兄ちゃんに先導されて女性がリビングに入ってきた。

 長い茶色の髪、濃いめのメイク、寒い冬をものともしない短いスカート、ファーがついたコート……。

 彼女の、第一印象は派手、だった。

「はじめまして、田村ほのかといいます。
 今日はお招きありがとうございます」

 ゆっくりお辞儀すると、ほのかさんは丁寧に挨拶した。

「なんだよ、ほのか。
 普段はそんなんじゃないだろ、猫かぶらなくていいよ」

 お兄ちゃんが茶化すように言うと、ほのかさんは軽くお兄ちゃんを睨む。

「そういうことは言わないの、翠。
 あたしだって緊張してるんだから、フォローしてよね」

「はいはい、どうぞ、お客さん」

 椅子を引きながら、お兄ちゃんがほのかさんを座らせる。

 ダイニングテーブルに手作り料理を並べていた母が父を呼び、全員が席につくと、昼食が始まった。

 ほのかさんは、朗らかで明るくて飾らない、よく笑う人だった。

 母がお兄ちゃんに、付き合うに至った馴れ初めをしつこく聞いている向かいで、私の隣に座ったほのかさんが話しかけてきた。

「ねえ、あなた、遥ちゃんだよね?
 仙道事件の被害者って、本当?」

──仙道事件。

 あの火災から始まった一連のスキャンダルは、今はそう呼ばれている。

 私は戸惑いながらも小さくうなずいた。

「うっそ、本当なんだ。
 どんな生活してたの?」

 ほのかさんが、目を輝かせて私に詰め寄る。

「ほのかさん、そういうことは……」

 父がやんわりと注意すると、ほのかさんはばつの悪い表情になって、小声で謝った。

「ごめんね、思い出したくないよね、不謹慎だったね」

「……いえ」

 私はスプーンをもてあそびながら答える。

 そのあとは、当たり障りない会話に終始し、夕方になると、ほのかさんは帰り支度を始めた。

「そうだ、遥ちゃん、写真撮らない?」

 断る理由もないので、私はほのかさんとふたりでスマホの画面に収まる。

「ありがとう、今日は楽しかったよ、遥ちゃん、今度遊びにうちにおいでよ」

 ごちそうさまでした、とお母さんたちにまた礼儀正しく挨拶をして、家まで送るというお兄ちゃんとほのかさんは一緒に家を出て行った。

 リビングに、はーっと、弛緩した空気が流れる。

「子どもが結婚するって、こういうことなのね」

 母がソファに腰下ろしながら言うと、父が苦笑いする。

「まだ結婚するって決まったわけじゃないだろ、初めての恋人をつれてきただけじゃないか」

「そんなこと言って、子どもの成長の早さに後悔しても遅いんだからね」

 父から湯呑みを受け取った母が皮肉を込めて父を見る。
   
「後悔って?」

「遥のことよ。
 遥が恋人を連れてきたらどうする?
 結婚します、なんて言ったら、あなたどうするの?」

 お茶をすすりながら反撃に出た母の言葉に、父がぐっと詰まる。

「ほらね、想像するだけで恐ろしいでしょう」

 すると、父が背後の私を見て、泣き出しそうな、情けない表情で言った。

「遥は結婚なんてしなくていいからな、恋人なんて、作らないでくれよ」

「……?」

 私が首を傾げると、父は自嘲するように薄い笑みを浮かべてみせた。

「ああ、まだわからないよな、結婚も恋人も。
 いや、それならそれでいいんだ、うん、遥は知らないままでいいんだよ」

 横で母が勝ち誇っている。

「娘の結婚なんて、考えたくないもんね」

 母に追い打ちをかけられ、見事父はソファに崩れ落ちた。

「それは……悪夢だ」

 父と母が寂しそうに笑い合う。

 私はリビングからそっと出て、自分の部屋に向かった。

 扉を閉めた途端、涙がぼろぼろと流れ落ちてきた。

 とまらない。

 大好きなお兄ちゃんの恋人……。

 私がなりたかった。

 なれるものだと思っていた。

 床に畳まれたお兄ちゃんの布団に飛び込むと、顔を埋めて、私は声を殺して泣いた。

 途中から耐えられなくなって、嗚咽を布団に押し付けた。

 生まれて初めての感情だった。

 私は全ての希望が失われた世界に、ひとりで放り込まれたような気分になっていた。

 お兄ちゃんが優しかったのは、私が妹だからだ。

 好きとか、恋人だからとか、そんな感情でお兄ちゃんは私に接していたわけではなかった。

 全ては勘違い。

 この日、私は自分の愚かさを呪った。


 三学期初日、さらに想像もしなかった最悪の事態に見舞われた。

 変わらずお兄ちゃんに付き添ってもらい登校すると、一度も話をしたことのないクラスメイトに、スマホを見せられこう聞かれた。

「宇部さんて、仙道事件の被害者なの?」

 私は思わず凍りついて、なにも言えなかった。

「やっぱりそうなんだ、この写真に写ってるの、宇部さんだよね?」

 突き付けられたスマホの画面では、先日撮った、私とほのかさんが並んで写った画像が表示されている。

「な、んで、これ……」

 私が画面に見入っていると、ぞくぞくと集まってきたクラスメイトが質問攻めにする。

「宇部さん、ほのかと知り合いなんだね、すごい」
「ねえ、仙道事件て、なにをされたの?」
「仙道昭嗣と会ったことある?」
「だから転校してきたの?」

 矢継ぎ早に問われ、私は混乱しながら、ひとつひとつの質問の答えを探すべく必死に頭を回転させた。

「どうして、ほのかさんのこと知ってるの?」

 私が訊くと、クラスメイトは拍子抜けしたような顔つきになった。

「知らないの? 
 ほのかって、有名なインフルエンサーだよ」

「インフルエンサー……?」

「ほら、ここに書いてあるでしょ、『彼氏の妹が仙道事件の被害者でした。写真も撮らせてもらっちゃった。フォロワー数伸びるかな?』って。
 この写真に写ってるのが宇部さんだとしたら、ほのかの彼氏って、宇部さんのお兄さんってこと?」

 よくわからない言葉が次々繰り出されるが、そのほとんどを理解できないまま、それでも、私は自分が知っている断片を繋ぎ合わせて、相違はないと、うなずいた。

「えー、すごい、本当に仙道事件の被害者なんだね」

 いつしか、私の周りには人だかりができていた。

 どんな生活していたの、仙道昭嗣とは会ったことあるの、施設でなにをされたの……。

 子どもならではの残酷さと無遠慮さで、みんなが私に詰め寄る。

 私は恐怖で教室を飛び出した。
 
 日が暮れる少し前、私はほのかさんの家の前にいた。

 教室を飛び出した私は、放課後までクラスメイトが見ていたSNSを眺めて時間を潰していた。

 私の情報を知りたがる人は思いの外多く、ほのかさんのフォロワーは、ぐんぐん増えていく。

 授業中だろうに、ほのかさんは『フォロワー増えた!嬉しい!これからも彼氏の妹ちゃんのこと、発信するね』とコメントを書き込んでいた。

 そして、お兄ちゃんの高校の前でお兄ちゃんとほのかさんを待ち伏せると、帰宅するふたりの後を追いかけた。

 ふたりはほのかさんの家の前で別れた。

 ほのかさんがいることを確認すると、敷地に入り開いている窓から、火の点いた紙くずを投げ入れた。



 ほのかさんの家は全焼した。

 男女の区別もつかないほど、ほのかさんの遺体は損傷が激しかった。

 突然、恋人を失ったお兄ちゃんの憔悴ぶりは、気の毒になるほどだった。

 ほのかさんの葬儀から帰ってきたお兄ちゃんに私は言った。

「あの人、私を利用して、フォロワー数を増やしてたんだよ、死んでも当然だよね」

 お兄ちゃんは、きっと私を見上げ、睨んだ。

「それがどうした!
 そんなの、ほのかが死んでいい理由にはならない!」

 そんなの、か。

 私は興醒めして生気のないお兄ちゃんから離れようとした。

「……お前がやったのか?」

 押し殺したお兄ちゃんの低い声が私の足を止める。

「そうだよ、だって、最低じゃん、あんな人。
 お兄ちゃんも……」

 目を覚まして、と言いかけた私の身体をソファに押し倒して、お兄ちゃんの手が首を締めた。

 温かい、お兄ちゃんの手。

 私は、スカートのポケットを探る。

 身をかわすふりをして、お兄ちゃんの背中に、施設にいたころからお守りのように持ち歩いていたマッチの擦った先端を押し付ける。

「うわあああああっ」

 お兄ちゃんの身体が火に包まれる。 

 私は火から逃れようともがくお兄ちゃんを冷えた目で眺め続ける。

 大好きな人と同じ死に方ができるんだよ、幸せでしょう、お兄ちゃん?

 私はいつの間にか笑っていた。

『死』は自分を守る武器なのだと、『他殺』とはこんなにも気分がいいことなのだと。

 お兄ちゃんの死は、ほのかさんの後追い自殺として扱われた。

 お兄ちゃんは自ら火を点けた、そう私が証言したからだ。

 それから、私は不登校になった。

 小学校、中学校と貴重な青春の時間を無駄にして過ごし、待ちに待った高校受験を突破して、私は志望校へと合格した。

 高校には、多恵、英梨、怜奈、光臣がいた。

 小学生時代から、みんなとは連絡を密かに取り合っていた。

 スマホとは便利なもので、自分の名前を検索するだけで、個人情報がずらずらと出てくる。

 もちろん、それは事件を面白がった人たちによる書き込みで、個人情報保護もプライバシーもあったものではない。

 仙道昭嗣のこと、火事から生き残った子どものその後、それらが詳細に調べて書かれており、ばらばらになったみんなが、今どうしているのか、容易に知ることができた。

 さらされた個人情報を辿って、私は火事以降離れた場所で暮らすみんなと連絡を取った。

 みんな、苦労していた。

 中学は無理だが、高校は同じ学校に進もう、私たちはそう約束し合っていた。

 もう私に、お兄ちゃんは必要なかった。