「家に行きたい?わたしの?」

 授業が終わり、帰り支度をしていると、光臣くんが予想もしないことをわたしに言った。

 他のみんなはすでに、理不尽の象徴である小部屋に不満を抱えながら帰っていた。

 わたしは戸惑ってしまって、目を泳がせるしかない。

「ぼくたち、もっと外の世界のことが知りたいんだ。
 燈日の家には、外の世界を知れるものがあるんじゃないかと思って」

 確かに、こんな秘境の村で生まれ育ったわたしが、自分の住む村以外がどんなところか知ったのは、テレビやドラマ、映画なんかに触れた影響が大きい。

 常識や普通を、そういったフィクションの世界を観て学んだ。

 光臣くんに感情を教えたいと思うのなら、わたしも教科書代わりにしたフィクションの世界から学んでもらうことが一番手っ取り早いのかもしれない。

 そう考えれば、光臣くんを家に入れることは、正しいことのように思える。

 わたしができること。

 不幸な境遇から、彼を救うためにわたしができること。

「……わかった、聞いてみる。
 約束は、できないけど」

 先ほどと同じ答えを返し、帰途に着いた。


 重苦しい気分のまま、沈鬱な表情で帰宅すると、父が帰るまで、リビングのソファから動くことができなかった。

 正直、面倒なことになったと思った。

 思ってしまった。

 父は、光臣くんの願いを伝えたら、どんな顔をするだろうか。

 彼の感情を呼び醒ましてしまったわたしを叱るだろうか。

 もう二度と光臣くんに会えなくなるかもしれない。

 自分勝手だけれども、この先も光臣くんに会いたいなら、わたしはこれ以上彼に感情を抱かせず、彼をあの小部屋に閉じ込め続けるしかない。

 光臣くんの気持ちは尊重したい。

 でも、そのせいで彼と会えなくなるのは嫌だ。

 わたしは板挟みになっていた。

 すっかり暗くなった部屋に灯りも点けずに苦悩していると、がちゃり、と鍵が開く音がした。

 はっとして顔を上げると、父がリビングの照明を点け、部屋が一気に明るくなった。

「驚いた、いたのか、燈日。
 電気も点けずに、どうしたんだ」

 父がわたしの、思い詰めたようなただならぬ気配に気づいて、わたしが膝を抱えるソファの隣に座る。

「あの……お父さん、あのね」

 どうにも口が重くて、言葉が続かない。

「悩み事があるのか?」

 父に隠し通すことは、やはりできない。

 わたしは深呼吸をして、覚悟を決めた。

「光臣くんがね、うちに来たいっていうの」

「光臣が?」

 さすがの父も驚いたようだった。

 父は思案するように黙り込むと、「そうきたか……」と小声で呟いた。

 不安そうな表情のわたしに目を遣ると、父は目を細めてわたしの肩をぽんぽんと叩いた。

「光臣がそう言うのなら、通行許可証を発行してもらおう。
 燈日も、もっと光臣と話したいだろ?」

 顔色を赤くして、わたしはうなずく。

 やはり、父はわたしの心の中などお見通しなのだ。

 敵わない、とわたしは全てを打ち明けることにした。

 光臣くんに感情が芽生えたこと、教室のみんなにも、感情が芽生えつつあること、みんなが街に行きたがっていること。

 包み隠さず話すと、父の反応を伺う。

 父がどういうかはわからないが、どんな決断を下されても、受け入れるしかないと、諦めにも似た気持ちでいた。

 父は、無精ひげが生えた顎をさすると、しばらく無言で考え込んだ。

 その間にも、わたしの不安はむくむくと膨らむ。

 永遠にも感じる沈黙が流れ、わたしは難しい顔で思案し続ける父を眺めることしかできない。

 たっぷり数分黙ってから、父はため息混じりの息をして、「いいだろう」と重々しい言葉を発した。

「ただし、うちへ出入りする許可を出すのは光臣だけだ。
 他の子どもたちを街へ連れ出す許可も、一度だけ。
 成長すれば将来はこの施設を出て行くんだ、予行演習として、一回くらいならいいだろう」

「本当!?」

 わたしは、ぱっと笑顔になる。

 みんなを、街へ連れて行ける。

「本当に、仲が良くなったんだな、あの子たちと」

 わたしが頬を紅潮させて喜ぶ姿を見て、しみじみと父が言った。

「燈日には、同い年の友達が必要だったのかもしれんな。
 ごめんな、気づかないで」

「そんなっ、そんなことない、お父さんがいてくれたから、お母さんがいなくなっても、寂しくなったの。
 でも、光臣くんたちと出会って、友達ができて、なんだか嬉しくて……」

 しどろもどろになりながら訴えるわたしの背中を、父が優しくさすってくれた。

「もういいよ、燈日。
 燈日がお父さんのことを大切に思ってくれているのはよくわかった。
 みんなと、街で楽しく遊んでおいで」

 父の顔を見上げて、わたしは元気よくうなずいた。


 それから、しばらくの時を経て、光臣くんを除いた授業のメンバーを乗せた車が、麓の街に向かって出発した。

 念願の外出が叶い、施設を出たことに興奮して、1年で一番寒い時期の外気の冷たさに興奮して、父が手配したミニバンに興奮して、自動で動く車に興奮して、山道を曲がる車に揺られて興奮して、弱々しい冬の太陽に興奮して、建物が乱立する地方都市の光景にはしゃぎ、市街地の賑わいに興奮した。

 今回は、光臣くんと行った市街地よりも、少し時間がかかった。

 向かったのは、郊外の遊園地だったからだ。

 遊園地に来ることは、わたしも初めてだった。

 わたしが案内役をつとめられないので、今日はいつもの授業を担当する女性の先生が同行している。

 大人に手を引かれた幼い子どもたちが楽しそうに走り回っている。

 入口のゲートを潜ったときから、みんなの緊張が伝わってきた。

 光臣くんも驚いていた、見たこともない人の多さと、静寂に包まれるのが常の施設では有り得ない鼓膜に突き刺さる大音量で流れるBGM。

 光臣くんは、それらに驚いて、泣いてしまったけれど、女の子たちの反応は違った。

 我先にとゲートを潜り、遊園地の中に駆け出して行く。

「……こんなに、人がどこにいたの……?」

 遥が目を見張ってぐるりと園内を眺め回す。


 果てのない『外』に現れた想像すらできなかった世界。

 すると、女性の甲高い叫び声が聞こえて、みんながびくっと肩をすくめる。

 見上げると、巨大な骨組みを、急上昇し、次いで急降下した乗り物に乗っている人が上げた歓声なのだとわかった。

 遥たちは、それを見て表情を強張らせている。

「……ねえ、あれも『車』なの?」

 多恵が訊くので、わたしは画面の向こうでしか見たことのないそのアトラクションの名前を教える。

「あれは、ジェットコースターっていって、車とは違うの。
 高いところからスピードに乗って落下するのが、怖いけど、楽しいんだって」

「へ、へえ……でも、私は乗りたくないな」

 怜奈が頬をぴくぴくさせながら落下するスリルに歓声を上げる人たちを、信じられないものを見るような怯えた目つきで眺めている。

「……私も」

 遥が同調すると、多恵も英梨も大きくうなずいて同意を示す。

「遊園地はジェットコースターだけじゃないわよ、安心して。
 みんなが楽しめる乗り物もあるから、さ、行きましょう」

 先生が青い顔をするわたしたちに明るく言って、率先して歩いて行く。

 賑やかな音楽、どこからともなく聞こえる笑い声。

 はしゃぎ回る子どもの足音。

 夢の中のような、現実感が乏しい風景。

 広い、広い、どこまでも続く果てない空。

 開放感が呼び醒まされたのか、みんなは笑顔になって先生のあとをついて駆け出した。

 メリーゴーラウンド、コーヒーカップ、お化け屋敷……。

 様々なアトラクションを制覇して、その余韻に浸りながら、ダンサーや着ぐるみのキャラクターが踊るパレードを見ていると、多恵がキャラクターを実在する生き物と誤って捉えてしまって、わたしと先生が慌てて否定することになった。

 わたしたちが夢中になって遊んでいる間、先生は頻繁に写真を撮っているようだった。

「甘い、美味しい!」

 売店で買ったソフトクリームを恐る恐る舐めて、みんなは顔を輝かせた。

「ねえ、先生、違う味もあるの?もうひとつ食べたい!」

「あまり食べると冷えるから、ひとりひとつね」

 せがむ遥たちを苦笑しながら先生が説得する。

 むー、とみんなは不満そうだ。

 楽しい時間は、何故か普段の時間の流れとは違って、光りのような速さで流れて行く。

 日帰りのため、もう遊園地を出なくてはいけない。

「最後にお土産を買いに行きましょう」

 聞き慣れない単語に、揃って首を傾げる。

「お土産……?」

「ここでしか買えないもの、遊園地に来た記念に買っていくものよ」

 入口近くにあるお土産屋さんには、キャラクターのぬいぐるみや、飴やクッキー、チョコレートの缶など、色とりどりの商品が並んでいた。

 みんなの目が輝く。

 光臣くんにもらったクマのぬいぐるみを思い出す。

 光臣くんに、なにか買っていってあげよう。

 光臣くん、甘いもの好きだったっけ?

 チョコレートなら、食べられるかな?

 わたしは、出かける際、父にもらったお小遣いで、可愛らしいイラストのチョコレートクッキーの缶を買った。

 まだまだ日が暮れるのが早い。

 暗くなり始める前に遊園地を出発して、わたしたちは家路についた。

 わたしを含め、はしゃぎ疲れたみんながすっかり眠っている間に、無事施設に帰り着いた。

 先生に起こされたとき、すっかり外は夜の暗闇に包まれていた。

 車を降り、静寂が落ちた村へと、寝ぼけ眼でふらふらと進んで行く。

 施設の職員が迎えにきて、わたしと同じような眠そうな遥たちを連れて行った。

 耳が痛くなりそうな静けさ。

 人の気配がない。

 帰ってきた、と思う。

 施設に入って行くみんなを眺めながら、のろのろと自宅の扉を開けた。

 明日、光臣くんにお土産を渡そう、そうぼんやりした頭でそう考えた。


「なに?
 わかった、今から行く」

 簡単な夕食を済ませ、シャワーを浴びて、パジャマに着替えてリビングに入ると、深刻そうな声で、父が電話で遣り取りしていた。

 電話を切ると、わたしに気づいて苦い顔をした。

「どうしたの?」

「……遥たちが、部屋へ戻りたくないと、騒いで暴れているそうだ。
 職員がなだめているようだが、興奮しているらしくてな、強引に閉じ込めるのは可哀想だし、説得しているようなんだが、難航しているようでね。
 私もちょっと手伝いに行ってくる。
 先に寝ていなさい、いいね」

 はい、と返事をするが、釈然としないまま、家を出る父を見送った。

──可哀想だから。

 やはり父は、みんなをあの小部屋に『閉じ込めている』自覚があり、さらにはそれが可哀想だとも知っている。

──どうして、可哀想そうだと思うことが平気でできるの?

 人が嫌がることしないように、わたしに言い聞かせてきたのは誰?

 父への不信感が、膨れ上がる。

 遥たちがあの小部屋に帰ることを拒むのは当たり前だ。

 わたしたちを遊園地に行かせた時点で、こうなることを父なら予測くらいできたのではないだろうか。

 いつの間にか撮られていた写真を思い出す。

 父は、なにを考えている?

 光臣くんたちを、どうしようと考えているのだろうか。

 自室に戻り、机の上に置かれている遊園地のロゴが入った紙袋を見て余計に、今日1日の楽しかった思い出が暗澹たる気持ちに上塗りされてしまう。

 どうか遥たちを、優しく扱ってほしい。

 嫌がることしないでほしい。

 カーテンをそっと開け、煌々と照明が点いた施設を眺めて、わたしには、そう願うしかできなかった。

 当分の間、遥たちは授業に出ないと聞かされたとき、わたしは強いショックを受けた。

 遥たちは、なにか罰を受けたのだろうか?

 今、どうしているのだろう。

 父に、遥たちがどうなったのか、聞いてみたが、「燈日は心配しなくていい」と言うだけで、突き放されたような気分になって、二度とその問いを向けることはなかった。



「これがいい」

 ソフトのパッケージを見せながら光臣くんがそう言うので、わたしは苦笑いして「また?」と少し呆れたような顔をしてみせた。

 もちろん、本気で呆れてはいない。

「ねえ、そのセーター、もう暑くない?」

 今日も例のセーターを着ている光臣くんにこれまた呆れた表情を浮かべて言った。

 季節はもう春。

 光臣くんが、わたしの家に遊びにくるようになってしばらくが経つ。

「暑いけど、着たいから」

 自分で初めて買った服がよほど嬉しかったらしく、季節外れのセーターを頑なに脱ごうとはしない。

「今日はこのシリーズのパート3か。
 光臣くん、本当、脱獄もの好きだよねえ」 

 受け取ったディスクをデッキにセットしながら、わたしはまた苦笑した。

 光臣くんはうちにやってきては、父のコレクションの映画や海外ドラマを興味津々に観ている。

 特に脱獄ものや犯罪を扱った作品が好きで、善悪の判断を学ぶことも必要だろうというわたしの独断で、作品を鑑賞することを許可している。

 遊園地に行った日以来、授業は行われないままでいる。

 光臣くんは、突然できた暇を持て余しているのだ。

 わたしはまた家に閉じこもり、父とリモートの先生から勉強を教わる生活に逆戻りしてしまった。

 味気ない、と思う。

 みんなで並んで、授業を受けて、給食を食べて、わからないところを教え合う。

 充実した日々。

 寂しい、と思う。

 授業を受ける前は、暮らしに満足していたし、寂しいと思ったこともなかった。

 知らない間に、欲張りになっていたのかもしれない。

 今、わたしの胸を満たしてくれるのは、光臣くんと映画を観ているときだけだ。

 リモコンを操作して、再生しようとすると、やんわりとそれを制して、光臣くんが、じっとわたしを見つめた。

 初めて会った日の、あの瞳を思い出してどきっとする。

「昨日から、授業が再開したんだ」

「えっ」

 心臓が止まりかける。

 言葉が出ない。

「みんな、いる。
 しばらく会えなかったから心配してたけど、元気だったよ」

「そ、うなんだ……」

 なんと言ったらよいものかわからず、口ごもった。

 わたしだけが、除け者にされていたことを知らされたとき、どんな反応をするべきかなんて、誰も教えてくなかったから、本当になんと言っていいかわからなかったのだ。

「……燈日は、来ないほうがいい。
 みんな、自分たちを閉じ込めてる、悪い人は燈日のお父さんだって、燈日も、キョウハンだって言ってる」

 キョウハン──共犯。

「みんな、燈日のこと恨んでる。
 だから、授業には来ないほうがいい」

 恨んでる……。

 友達だと思っていたみんなから、わたしは恨まれている。

 心がぽきりと音を立てて折れた。

 あまりのショックにくらくらしてきた。

 でも、仕方がないことなのかもしれない。

 わたしも、父も、あの施設に閉じ込められている子どもたちにとっては憎い敵でしかない。

 父の行いに目を瞑るわたしも、彼らに言わせれば共犯なのだ。

 許してもらおうなど、思ってはいけないのかもしれなかった。

 もう、みんなには一生会えないのか。

 大事なことは言ったとばかりに、肩の荷を下ろした光臣くんが、わたしからリモコンを奪い取って、死刑囚が脱獄するまでを描いた海外ドラマを大画面のテレビで流し始めた。

 わたしはドラマに集中している光臣くんに見られないように、溢れてくる涙をそっと服の袖で拭った。

 授業が再開してから、光臣くんがうちに来る機会はめっきり減った。

 でも、時間があるときは、わたしの家に来て、父のコレクションの洋画やドラマを熱心に観ている。
 
 よほど、父と好みが合うのか、テレビの隣に置かれたラックに詰め込まれたビデオやDVDのコレクションを制覇してしまいそうな勢いだ。

 父のコレクションには、勧善懲悪の作品が多い。

 光臣くんは、勧善懲悪というよりは、犯される犯罪そのものに興味があるような気がする。

 この世界にはどんな犯罪があって、それをするとどんな罰が科されるのか……。

 たくさんの犯罪を学んでいるように見える光臣くんを、次第に不安な面持ちで見つめるようになった夏の始まりのことだった。

 犯罪の知識ばかり増やしていく光臣くんに、不穏な陰が差していることに、気づかずにいられなくなったころのことだった。

 いつも通り、授業終わりの光臣くんを迎えて、映画の鑑賞会をする準備を進めていた夜の始まり。

 外は薄闇が降り、民家の窓から灯りが洩れ始める。

 父はすでに帰宅していて、仕事をするから、と言って、光臣くんが来る前に自室にこもっていた。

 それは、光臣くんと並んでソファに座り、映画を観ているときだった。

 にわかに外が騒がしくなり出して、テレビの音声に重なってくる。

 誰かの叫び声が、とうとうテレビの音声より大きくなって、わたしたちは外の異変に気づいて、映画を一時停止にして、リビングのカーテンをめくって、外の様子を確かめた。

 途端、凍りつく。

 施設が、燃えていた。

 暗闇にオレンジの炎がひときわ鮮やかに噴き上がっている。

 ちろちろと、巨大な生き物めいた炎が、長くて細い舌で施設を舐めているような、不気味な獣の形にみるみるうちに育っていく。

 窓を開けると、ごおごおと燃え盛る音と、ガラスが割れる音、熱風が吹き込んできた。

 叫び声は、消火活動をしている村人たちの必死の声だった。

「うそっ、火事?
 お父さんに知らせなきゃ!」
 
 わたしは信じがたい景色に動転しながらも、階段を駆け上がって父の部屋の扉を叩く。

 集中していると父は、周りの音が聞こえなくなる。

 わたしは扉を割るような勢いで、叩き続けた。

 やがて、手がじんじんとしだしたころ、鍵が開く音がして、父が顔を覗かせた。

「なんだ、どうした?」

「お父さん!
 大変なの、火事、火事!
 施設が燃えてるの!」

「なに!?」

 さすがの父も動揺して、階段を駆け下り、玄関の扉を開ける。

 外に飛び出した父のあとを、光臣くんとともに追う。

 村人が懸命に消火活動をしているけれど、その程度の放水では焼け石に水だった。

「みんな……みんなは無事なの?」

 施設に駆け寄ろうとしたわたしを、父が手を引いて止めた。

「危ない、近づくな」

「でもっ、中にまだみんながいるのにっ!」

 身体中に熱風を浴びながら、わたしの心は恐怖で満たされ、その場に縫い留められたように動けなくなる。

──どうしよう、みんなが死んでしまったら。

 熱いだろう、痛いだろう、苦しいだろう──。

 もう、ずいぶんと顔を合わせていない遥たちの姿が脳裏に浮かんで、居ても立っても居られなくなる。

 わたしが立ち尽くしていると、隣にやってきた光臣くんが、わたしの手を握る。

「光臣くん……」

 わたしの涙腺は決壊した。

 もう、止まらなかった。

 がたがたと震えるわたしの身体を、温かい光臣くんの身体が包み込む。

 一緒に火の粉を浴びて、為す術もなく、夜空を照らし出すオレンジの炎に照らされて、誰も救い出すこともできずに、無力感と絶望とともに
わたしたちは手を繋いで立ち尽くしていた。

 施設が焼けていく様子を見守っていると、大人たちが慌ただしい動きをみせた。

「こっちだ!
 こっちに子どもがいるぞ!」

 わたしたちの視線が、建物の裏から連れ出され、毛布にくるまれた少女たちを捉える。

「遥……多恵…英梨……怜奈」

 震える声で、わたしは彼女たちの名前を呼ぶ。

 こちらを向いた彼女たちは、空虚な瞳をわたしに向けた。

 怪我がないようで、わたしはほっと、一安心する。

 顔にも身体にも煤がついたみんなが、大人たちに囲まれて、わたしの横を通り過ぎていく。

 わたしの存在を無視するように。

 消火活動は続いている。

 結局、その火事で助かったのは遥たち4人のみ。

 施設にいた30人近くの子ども、職員が犠牲になった。


 人里離れた山奥に存在した、人体実験まがいの研究をする施設で起きた謎の火災。

 そのセンセーショナルな話題は、一夜にして列島を駆け巡った。

 施設の所長、仙道昭嗣は誘拐や監禁など複数の罪で逮捕され、子どもを実験台にした前代未聞の研究を行った、稀代のマッドサイエンティストとして、しばらく世間を騒がせた。
 
 村には村人の人数をはるかに超える数のメディアや野次馬が集まり、テレビでは日々父を糾弾する報道が流れた。

 火災の原因は不明としか報じられなかった。

 仙道昭嗣の娘として、メディアは執拗にわたしを追いかけた。

 7歳にして身寄りがなくなったわたしを不憫に思った村長が、わたしと、同じく身寄りがない光臣くんを引き取ってくれた。

 子どもに、罪はないから、と。

 わたしは、身を隠すようにして、息を潜めて数ヶ月を過ごした。

 村長──門前忠人(もんぜんただひと)の家の窓から、未だ焦げ臭い全焼した施設を眺めてはため息をつく日々。

 骨組みだけになってしまった廃墟。

 あそこで、無念にも死を遂げた子どもたち。

 奇跡的に生き残った遥たちは、親や親族のもとに返されたという。

 監禁されていた子どもたちは、生まれてすぐ、稲原研究センターの職員が病院から誘拐したり、乳児院か養護施設から連れ出された子どもだった。

 生まれたばかりの赤ちゃんをさらって研究材料にする。

 非人道的な行為に、世間の非難は止む気配をみせない。

 父は、実験を主導した『悪魔の研究者』と呼ばれる極悪人なんだから、仕方がないのだと自分を納得させようとするが、用意してもらったベッドに入ると、自然に涙が溢れてきた。

 わたしは、父が好きだったのだと、今更ながらに気がついた。

 母がいなくなったのは、父のせいだと恨んだこともあるけれど、ふたりで苦難を乗り越えて、父はわたしを大切にしてくれるようになった。

 優しい父だった。

 でも、たくさんの人を傷つけ、苦しませた極悪非道な父だった。

 わたしの髪を優しく撫でるその手で、なんの罪もない子どもをあんな狭い部屋に押し込めた。

 温かくて、大きなかさついた、あの手で。

 家宅捜索が入り、わたしたちの思い出がたくさん詰まった家は、遠慮なく荒らされた。

 そこで判明したのは、父がガンマニアだったという、わたしの知らない一面だった。

 鍵がかけられ、立ち入ることはなかった父の自室。

 家宅捜索の結果、父の自室から、多数のモデルガンが押収された。

 警察官に、モデルガンを見たことはないかと聞かれたが、わたしは首を横に振った。

 父の趣味なんて、知らなかった。

 部屋に入ることを許可してくれなかったし、どんなに父を好きでも、不可侵の一線が引かれていたことには気づいていた。

 本当は父は、わたしのことをどう思っていたのだろう。

 お母さんから連絡がくることもなかった。

 寂しさを虚しく飼い慣らすつらい時間が続いた。

 門前村長の家から出られない日々が続き、光臣くんとともに肩身の狭い生活を強いられたが、村長の温かさにずいぶんと助けられた。

 そんなとき、与えられた部屋で、鎮まりつつある喧騒を眺め、光臣くんからもらったクマのぬいぐるみをぎゅうっと抱え込んだわたしは、ぬいぐるみの背中に違和感を感じて裏返して観察した。

 クレーンゲームで光臣くんがとったぬいぐるみは、いつしかわたしの心を落ち着けるためのお守りになっていた。

 やるせなさが飽和するたびに、茶色くてふさふさな毛並みのぬいぐるみを、抱きしめて平穏を保つ。

 そんなクマの背中に、覚えのない切り込みが入っていた。

 はさみで切られたような跡だった。

 切り込みの中に、白い紙が埋め込まれており、それが違和感の原因のようだった。

 まず、大切なぬいぐるみを傷つけられたことに憤慨し、次にそろそろと引き出した紙を開き、父の筆跡で記された内容に、驚愕した。

 いつの間にか父がぬいぐるみに埋め込み、わたしに託したものは、宝物を探す地図のようなものだった。

──『死神の弾丸』。

 父が創ったという拳銃の名前とそれによってもたらされる現象の解説。

 隠した場所。

 お前に管理を託す、という父の願いが達筆な文字で記されていた。

 わたしはその内容を、光臣くんに話し、人目を忍んで廃墟となった施設跡を訪れた。

 1階の、リビングと呼ばれていた職員たちの休憩所。

 壁一面に、本棚が並んでいた子どもは立ち入る機会がなかった場所。

 わたしはそこで何回か、大人に混じってソファに座り、父の秘書に紅茶を淹れてもらったりして過ごしたことがあったため、紙に記された場所を、すぐ見つけることができた。

 本棚が焼け、剥き出しになった壁。

 その窪みに手をかける。

 抵抗がなく隠し扉がスライドして開き、地下へと続く鉄の階段が姿を現す。

 父から託された紙に記された手順でふたつの黒光りする拳銃に辿り着いた。

 そうして、わたしたちと『死神の弾丸』は出会った。


 光臣くんは、リモートで学習をするわたしとは違って、麓の小学校に通っている。

 村長のはからいで麓まで送迎してもらい、通学しているのだが、あの施設に閉じ込められていた子どもだということが、すぐに知れ渡り、まずは保護者が噂を流し、それを聞いた子どもが、面白がって光臣くんをからかい始めた。

 集団生活に慣れていない光臣くんは、たくさんの子どもたちと打ち解ける術を知らず、孤立して、やがていじめのターゲットになった。

 学校から持ち帰ったストレスを発散するため、光臣くんは死神の弾丸に救いを求めた。

 お世話になっている村長に心労をかけたくないと、いじめられていることを、わたしにしか話さなかった。

 わたしはただ、地下室で自分を『殺し』続ける光臣くんが目醒めるまで見守ることしかできなかった。

 時が経つにつれ、光臣くんは社会生活に順応していった。

 会話も自然に話せるようになり、知識の吸収の早さを発揮して、勉強にも追いついた。

 人間関係を構築することは相変わらず苦戦しているようだが、それ以外は普通の子どもとなんら変わらないほどにまで成長した。

 勉強も運動もこなし、様々な才能を発揮するにつれ、友達ができた光臣くんは、自分がどれだけ異常な、『普通』とはかけ離れた育ち方をしてきたのかを思い知らされた。

 子ども時代の自由を奪った父を、施設を、そしてわたしを、光臣くんは恨むようになった。

 言葉では直接言われたことはないけれど、わたしに接する態度があからさまに違ったことが、なによりの証拠であった。

 小学校を卒業する直前のことだった。

 中学から、光臣くんは中学校の近くに下宿することになっていた。

 地下室で、自殺ごっこをしていたときわたしが、もう死にたい、と身を隠し続けなければいけない身の上を嘆いたとき、「お前が死にたいとか言うんじゃねえよ」と光臣くんはわたしに銃口を向けた。

 わたしは、それを呆然と眺めていた。

『女神の弾丸』が火を噴いた。


☆ 
「ねえ、光臣、遅くない?」

 二の腕をさすりながら不安そうに、英梨が呟く。

 外では豪雨が降り続いている。 

 光臣くんが帰ってくる気配はない。

 屋根から流れてくる水の音が支配する空間で、不意に怜奈が周囲を見回した。

「……ねえ、なんの音?」

 多恵が眉間にしわを寄せる。

「なにって、雨でしょ」

「違うよ、なんか、人の声みたいな……」

 怜奈の言葉に、遥が眉をひそめる。

「やめてよ、そういうの。
 趣味悪いよ」

「でも、光臣が、ここは出るって……」

 なおも怜奈が言い募り、多恵が口を開こうと、一瞬の沈黙ができたその隙間。

 そこにか細い声が割り込んできた。

「……えせ」

「え?」

 英梨が声の出どころを探ろうと廃墟に視線を走らせる。

「……今、誰かなにか言った?」

 全員が首を振る。

「じゃあ、今のは……」

「……かえせ」

 その瞬間、ひっと、怜奈が引きつった悲鳴を喉の奥から絞り出した。

「からだ、かえせ」

「あついよ、たすけて」

「おねえちゃん、おねえちゃん……」

 男の子とも女の子ともとれる幼い声が複数、はっきりと耳に届いた。

 みんなが決定的な答えを口に出せないでいると、暗闇がわだかまる廃墟の四方から、ぺた、ぺた、と湿ったなにかがうごめく音がする。

 みんなが立ち上がり、得体のしれない恐怖にすくみ上がる。

「ね、ねえ、なにあれ……?」

 怜奈が英梨に抱きついて隠れようとする。

 わたしは暗がりに目を凝らし、音の正体を確かめた。

 かつて、光臣くんたちも着ていた施設の部屋着姿の子どもが、よつん這いで、わたしたちへと近づいてくる。

 痩せた体型、伸ばされた髪、髪に隠された顔……。

 湿った音の正体は、子どもが這う際に、コンクリートの床に手をつく音だった。

 何故が暗がりでも、その手が血に濡れていることがわかった。

 血をまとった子どもが、廃墟の中央にいるわたしたちに向かって近づいてくる。

「どっ、どうしよう、どうしよう?」

 怜奈が地団駄を踏むようにして英梨にしがみつく。

 怜奈を落ち着けようとその背中を撫でる英梨の顔も真っ青だった。

 多恵が叫ぶ。

「光臣は!?」

「まだ!」

 遥が叫び返す。

「あつい」

「くるしいよう」

「たすけて、どうしてたすけてくれないの?」 

 近づいてくるよつん這いの子どもにじりじりと追い詰められ、わたしたちは抱き合うようにひとかたまりになって、震えることしかできなかった。

「ね、ねえ、これって、あの火事で死んだ……」

 遥が恐怖におののきながら多恵の腕を掴む。

「まさか……幽霊なんて……」

 現実主義者の多恵が否定しようとするが、ずるずると這う黒い影に、さすがの多恵も顔が引きつっている。

 怖い。

 総毛立つ。

 がたがたと、歯の根が合わない。

 逃げ場を探して、わたしは必死になって辺りを見回した。

「いのち、よこせ」

「たすけて、おねえちゃん」

「からだ、かえせ」

 雷鳴が轟いた。

 稲妻がまるで昼間のように廃墟を照らす。

「───っ!」

 照らされた廃墟。

 その建物をぐるりと、髪を伸ばした子ども、血の気の失せた虚ろな目の大人が取り囲んでいた。

 怜奈が声にならない悲鳴を上げる。

 大人の声で呪詛がささやかれる。

「人殺し、呪ってやる」

「いや、いや──!」

 そう叫ぶと、怜奈が走り出し、人影がない空間から外へ逃げていく。

「待って、ひとりにならないほうが……!」

 わたしが叫ぶが、もう遅い。   

 土砂降りの雨の中、怜奈が走り去っていく。

「追いかけよう、ここにいたらまずい。
 私たちが殺される」

 遥が緊迫した声音で言った。

「でも、光臣くんを待ったほうが……」

 わたしの言葉にみんなは答えず、雷鳴が止まない外に飛び出していく。

 わたしも慌ててみんなの後を追った。


 打ち捨てられた村には、主を失った家が点在している。

 身を隠すには、適した場所ともいえる。

 まず、わたしは光臣くんを探すことにした。

 重たい雲に覆われた、月明かりのない夜。

 暗闇に必死に目を凝らして見知ったはずの村を思い浮かべて光臣くんを探す。

「光臣くん……?」

 どこから先ほど見た幽霊が現れるかわからず、背中を冷や汗が伝う。

  あれは、一体なんだったんだろう。

 あんな幽霊が、村の至るところにいるんだろうか。

 ぶるっと身を震わせる。

 怖くて何度も背後を振り返ってしまう。

 土砂降りの中から、あの、ぺたぺた、という音が聞こえないかを耳を済ませて確かめつつ、空き家を一軒一軒調べていく。

 そのときだった。

 ぱあん、という破裂音が炸裂した。

 わたしは、はっと顔を上げ、音がした方向に駆け出した。

 降り続く大粒の雨が当たって痛いほどだ。

 いの一番にわたしが到着したとき、光臣くんは、家と家の間の道路に倒れていた。

 倒れたまま、固く目を閉じ、ぴくりとも動かなかった。

「光臣くん、光臣くん!?」

 わたしが駆け寄ろうとしたとき、ばたばたと、足音が近づいてきた。

「なんの音!?」

「光臣?どうしたの?
 なにがあったの?」

 多恵や遥が音を頼りにやってきて、光臣くんを見て立ちすくんでいる。

 あとから、息を切らした怜奈と英梨もやってきた。

「光臣……死んでる」

 そばにしゃがみ込んで光臣くんの首筋の脈を確認した多恵が立ち上がりながら昏い声で重々しく告げる。

 みんなが、引きつった悲鳴を喉の奥だけで上げる。

「うそ、でしょう……なんで……」 


「……これは、死神の弾丸じゃない。
 女神の弾丸……」

 わたしは光臣くんの身体に空いた風穴を見つめながら呟いた。

 みんなが、光臣くんに空いた風穴に気づいて、呼吸を忘れたように凍りついて、ただ激しい雨に打たれ続けている。


「え……誰が、誰が撃ったの……?」

 英梨が消え入りそうな声で問いかける。

 その問いかけに全員が首を横に振る。

「ねえ、正直に言ってよ、誰が撃ったの?」

 遥も語調を強めてみんなを見回すが、誰も戸惑った表情を浮かべるだけだ。

「そうだ、『弾丸』……。
 弾丸はどうしたの、最後に使ったのは誰?」

 曖昧な記憶しかないのか、みんなが首をひねる。

「ねえ、これって死神の弾丸じゃないの?
 死神は、死なないって話だったよね?」

 怜奈が英梨の後ろから光臣くんを覗き込みながら確認する。

「これは、きっと『女神の弾丸』だよ。
 誰かが女神を使って光臣を殺した」

「え……誰かって誰?
 ここには、あたしたちしかいないよ……?」

 英梨が警戒も顕にびしょ濡れになった全員に鋭い視線を向ける。

「ねえ、女神って、どうなってるの?」

「どうって?」

「最後に女神を見たのはいつ?
 誰も持ち出してないよね?
 じゃあ、まだあの地下室にあるんじゃないの?」

 確かに、光臣くんが本当に死んでしまったのだとしたら、女神の弾丸が使われた可能性が高い。

 いや、ほぼそれで確定だろう。

「誰も持っていないなら、どこにあるのか、確かめないと……」

 多恵が濡れた眼鏡を外して服の裾で拭いながら、冷静を装って施設の方を振り返る。

「確かめるって、またあの地下室に行くってこと?
 冗談じゃない、あそこには幽霊がいるんだよ?」

 怜奈が悲鳴にも似た声を上げる。

「じゃあ、怜奈は来なくていいから、ここで待ってなよ」

 多恵が、率先して施設の方へ向かおうとすると、またも怜奈が金切りで叫んだ。

「待って!ひとりにされるのは、もっと嫌!」

 仕方がないとばかりに、英梨が怜奈の手を握ってやる。

 施設跡に戻ると、建物を取り囲んでいた忌々しい幽霊の姿は消えていた。

 辺りに響くのは、雨の音だけで、不審な人影はみられない。

 わたしは階段を転がるように下り、真っ先に地下室へと踏み込む。
 
 他のみんなが息を殺しながら、足音を立てずに階段を下りて、地下室に入ってきた。

 机の上には、一丁の拳銃が無防備に置かれていた。

「これ、小さいよね……。
 これが『死神の弾丸』。
 じゃあ、『女神』はどこ?」

 全員で暗い部屋を捜索するが、うず高く積まれた瓦礫の中も、机の引き出しの奥も、人の手で探せる範囲は全て探してしまった。

「……ない、『女神の弾丸』がない!」

 遥が絶望したように絶叫する。

「ねえ、本当に、素直に言ってよ。
 誰が女神を持っているの?
 女神で光臣を殺したの?」

 涙目になりながら、怜奈も声を荒らげる。

「私は持ってないよ、ボディーチェックして、確かめてくれても構わない」

気丈に振る舞う多恵が、濡れた自分の服をつまんでみせる。

「今持ってなかったとしても、どこかに隠しているかもしれない。
 信用はできないよ」

 遥が多恵を睨む。

 みんながみんなを疑っているように、視線で牽制し合う。

 沈黙の向こうに、ささやかな川の流れのように小さくなった雨音が耳朶に届く。 

「『女神の弾丸』は、他人しか殺せないんだよね?
 一度使ってしまったら、人を殺し続けなければならない、みたいなこと光臣が言ってなかった?」

 そういえば、と思い出すように全員が虚空に目を泳がせ、思い出すなり戦慄の表情になる。

「じゃあ、あたしたち、女神を持った殺人鬼に、皆殺しにされるの?」

 英梨が想像するだけで恐ろしい現実を言葉にすると、ざ、と靴音をさせて、みんなが距離を取る。

──誰が女神を持っているのか。

──殺人鬼が、この中にいる? 

 殺戮の女神に取り憑かれ、殺人鬼となった誰かが、いる。

「誰?誰が光臣を殺した殺人鬼なの?」

 多恵が死神の弾丸を素早く手に取り、銃口をわたしたちに向ける。

「死神は自分以外殺せないんだから、そんなことしても意味ないよ」

「だとしても、護身用くらいにはなるでしょ」

 多恵は、わたしたちに銃口を向けたまま、地下室出口へとじりじりと後退する。

 そして身を翻すと、血走った目で階段を駆け上がっていく。

 みんなが呆然とするなか、さっき出て行った多恵の悲鳴がか細く聞こえてきた。

 顔を見合わせると、すぐに地下室を出て、地上に辿り着いたわたしたちは、非常事態に、悲鳴というわかりやすい表現をとった。

 多恵が、何人にもの髪の長い子どもに伸し掛かられ、身動きができずにいた。

「からだ、よこせ」

「いのち、よこせ」

 禍々しい呪文のような、またはそれしか言葉を知らないように、子どもたちは抑揚のない声で抑えきれない憎しみを多恵にぶつけている。

 そう、憎しみ。

 子どもたちは、わたしたちみんなを恨んでいる。

「多恵!」

 すぐにでも逃げようとしていた英梨と怜奈は、遥の声にはっとして、走り出そうとした足を止め、なんとかその場に踏みとどまる。

 遥は、不気味でしかない子どもたちの亡霊に近づいて行き、群がる子どもの間から伸ばされた多恵の腕を掴む。

「手伝って!」

 遥の叫びに、びくりと英梨たちが、落雷にでも遭ったように大きく身体を震わせる。

「かえせ、かえせ」

「いのち、よこせ」

 よつん這いの子どもが、遥をも覆い被さり始める。

 遥の姿に感化されたのか、 
英梨と怜奈が血まみれの子どもの手に怯みつつ、亡霊に埋もれた多恵のもう片方の腕を引っ張る。

「ゆるさない、ころす」

「しね、しね、しね」

 びたびたと、子どもの手が容赦なくみんなの身体に触れて、滴る血が付着していく。 

「やだ、もうやだ!」

 英梨が泣きながら、まとわりついてくる温度のない子どもの腕を振り払っている。

「引っ張るよ、せーの!」

 遥の掛け声に合わせて、みんなで多恵の両手を掴み、力任せに引っ張ると、ずるずると血に汚れた多恵を密集する子どもから救出することができた。

 子どもたちから自力で這って離れ、はあ、はあ、と多恵が荒い呼吸を繰り返す。

「大丈夫、多恵」

 助け出された多恵のそばに遥が膝をついて尋ねていると、疲れたようにうつ向いていた多恵が、遥の後ろに視線の焦点を定め、震える指で、指差し、言った。

「……ねえ、いる」

 はっと、みんなの視線が多恵の指を追って集中する。

 そこには、女性のシルエットの人影があった。

「あんなに、優しくしてあげたのに……」

 くぐもった声で、けれど、そうとわかる口調で人影は言った。

 稲妻が走る。

 廃墟内が明るく照らし出される。

 顔の半分に火傷痕のある、女性の姿が鮮明に浮かび上がる。

「……先生……」

 誰かが言った。

 誰かはわからない。

 そこには、わたしたちに『授業』をしてくれた女性、先生がいた。

「あなたたち、よくも私たちを殺してくれたわね。
 私たちが、どれだけ熱い思いをしたか、痛い思いをしたか、苦しい思いをしたか、許せない……」

 唸るように、抑えきれない怨念をわたしたちに向けた先生が、かっと目を見開いた気配がした。

 もう、先生の顔は暗闇に紛れて見えないはずなのに。

「お前たちも、殺してやる!」

 言うやいなや、壁際にいた先生の影が、驚くような速さで滑るようにこちらに向かってきた。

「きゃああああっ!」

 みんなが悲鳴を上げて、散り散りに走り出した。

 廃墟内にはまだ、這いずり回る子どもの亡霊がたくさんいる。

 先生は、恐るべきスピード  で、わたしたちを追いかけ回している。

 もう廃墟に安全な場所はなかった。

 光臣くんが死んでしまった悲しみと喪失感に浸る暇もなく、先生はわたしたちを追い回し続ける。

 気がついたときには、廃墟内にみんなの姿はなかった。

 遅れてわたしも廃墟を出る。

 雨は相変わらず降り続いている。

 わたしは、灯りひとつ差さない空を睨み、次いでため息をついた。

 なんだか、とんでもない展開になってしまった。

 ただ、夢のような現実逃避をしたかっただけなのに。

 みんなと合流するべきか、それとも光臣くんのいるところへ行こうか……。

 あてもなく村を徘徊していると、わたしの足音に反応した、誰かが小さく押し殺した悲鳴を上げた。

「……遥?」

 遥が、民家の軒先に身を小さくして隠れていた。

「大丈夫、安心して、わたしだよ」

 暗がりに溶けるように、じっと動かない遥を安心させたくて、わたしは小声で言った。

 そして、その隣に座り込む。

「どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。
 私はなにを間違えたの……?」

 遥は誰にともなく独りごちる。

「殺されるのかな、私。
 殺してしまったあの人たちに……」

「殺した?
 施設の人たちを殺したのは、遥なの?」

 遥はそれには答えない。

 遥は、抱え込んだ膝に顔を埋め、泣き出してしまった。

「許してください、許して……。
 全部、全部、私が悪かった、認めますから……」

 遥の独白は続く。

 遥が、施設で起きた火事に関わっているということだろうか。

 首を傾げるわたしの隣で、遥は沈黙してしまった。 

 雨の音がわたしたちを現世から切り離す。

 わたしたちを恨む亡霊、光臣くんを殺した、女神の弾丸を持っている殺人鬼。

 生き残ることは、絶望的に思えた。

 せめて嵐が過ぎ去ってくれればと、祈りにも似た思いで空を見上げるけれど、意地悪な雨は、降り止むことをしらない。

 早く朝が来てほしい。

「……死にたくないよ、私」

 ぽつりと遥が呟いた言葉にぎょっとする。

 わたしたちは、死にたいという同じ思いを抱いていたのだと思っていた。


 だから、不本意ながら因縁の場所まで来て、自殺ごっこにのめり込んだ。 

 わたしは、死にたいと思ったことはあるが、死にたくないと思ったことはない。

 痛くない、苦しくない、怖くない『死』があるなら、すぐに飛びつくだろう。

 恐らく、そこに未練はない。

 死にたくないと思えるなんて、なんて幸せな人生なのだろう。

 わたしは思った。

──死にたくないのなら、わたしと違って『生』に執着するのなら、遥には生き残ってほしい。

 火事の原因、あれが事故ではなく、故意に起きた悲劇なら、その『犯人』を許せない、とずっと思ってきた。

 もし本当に、遥が火事に関わっているのだとしたら──。

 わたしは震える遥の背中を、いつの間にか優しく撫でていた。