☆
滅多に人が来ない山奥にある稲原村。
そこに、場違いなほど巨大な、鉄筋コンクリートの3階建ての建造物があった。
病院にも、学校にも見える、建物は『稲原研究センター』という施設だった。
わたしの父、仙道昭嗣は、『稲原研究センター』の所長をつとめていた。
施設に立ち入ることを許された人間は、ごくわずかだった。
施設の中でどんなことが行われているのか、知っている人はほとんどいない。
施設の中で父は、他の科学者と共同研究という形で、悪魔のような、非人道的な実験を行っていた。
人間には、善悪や道徳、倫理観や感情が先天的に備わっているのか。
それともそれらは、後天的に教わらなければ身につかないものなのか。
それを研究するため、父ら研究者たちは、非合法な方法で、生まれて間もない乳児を集め、食事や排泄の世話以外のコミュニケーションを一切とらずに育てた。
その結果、子どもは全員、生まれて初めての誕生日を迎えることはなかった。
なぜそんな極悪非道な実験を行ったかというと、それは政府が主導した国策だったからだ。
国策、とはいっても、非人道的な実験を伴うこの研究は、極秘裏に行われたもので、研究そのものは民間の研究機関に委託された。
天才的な頭脳と、研究のためなら倫理観すら顧みないマッドサイエンティストな一面を持つ父に研究センターの所長という白羽の矢が立ち、数人の共同研究者と、父は研究を開始した。
所長という大役を任された当時、まだ父は30代前半で、独身だった。
科学者として期待されていることがありありと窺える若さでの抜擢だった。
試行錯誤しながらの研究が始まってまもなく、父は母と結婚した。
母は父よりひとつ年下で、同じ大学のゼミで出会ったらしい。
らしい、というのは、両親の馴れ初めをわたしが詳しくは知らないからだ。
父は母との出会いについて多くを語らなかったし、母も母で父の話をすることを避けた。
まだ愛し合っていた両親が結婚してまもなく、わたしの命が母のお腹に宿った。
結婚後、母は父と暮らすため、稲原村へと移住していた。
研究センターすぐそばの、古民家。
センターに勤務する職員は施設の中に部屋をもらい、生活は全て施設内で完結していた。
買い物ひとつするにも不便な村での生活。
研究センターに入り浸り実験にのめり込んでいた父は、あまり家に寄り付かず、周囲に頼れる人もいない孤独の中、母はわたしを出産した。
初めての子育てに、苦労していた母は段々追い詰められていった。
父に救いを求めることはできない。
ひとりでなんとかしなければ……。
責任感の強い母は、父の迷惑になるからと、悩みを相談しなかった。
徐々にふたりの仲は冷めていった。
父は、母の異変に気づいてもいなかった。
わたしのことなんて、気にも止めなかった。
わたしのことなんて、父も母も、気にも止めなくなった。
愛してくれなくなった。
やがて、冷え切った家族愛が、引き裂かれる決定的なことが起きた。
母が、父の研究内容を知ってしまったのだ。
恐ろしい実験に、自分の夫が関わっていることに、夫に倫理観も人としての感情も欠けていることを知り、衝撃を受けた。
もうやっていられないと、とうとう母は、1歳のわたしを残して、村を出て行った。
そこまでいって初めて、父は自分が家庭を顧みないことで、母に苦労をさせていたこと、傷つけてしまったこと、なにより放り出されたわたしという存在にひどい扱いをしていたことを思い知り、愕然とした。
母が出て行ったあと、父は勤務後、わたしが待つ家へと毎日帰るようになった。
わたしのために食事を作り、風呂へ入れて、寝かせて、残りの時間を研究ではなく家事に充てる。
わたしが歳を重ねるごとに、父は人間味を増していった。
いつも難しい顔をして、にこりともしない父を、子ども心に怖いと思っていたが、次第に父はわたしに対して優しく、柔らかい表情を浮かべるようになり、母の代わりをしてくれた。
おかげで、わたしは母がいないという寂しさを感じずに済んだ。
それからすぐ、父たちの研究は、一定の成果と呼べるものを上げた。
実験データを集めるうちに、子どもを生かす方法が確立されていったのだ。
生存する子どもが増え、5歳になると、対面での言葉の教育が始まった。
もちろん、研究データを得るためである。
何故、時の政府はこのような実験を推し進めていたのか。
最大の目的は、子どもに感情を覚えさせないこと。
まだ物事を知らないまっさらな状態の子どものうちから、感情や倫理観、道徳心を教えないことによって、感情の起伏が激しくならないように、無感情な人間に育てる。
誰にも恨みを持たないように、憎しみを知らないように、暴力や人殺しに繋がらないようにと。
いつもにこにこ笑っていましょう、お互い良いところを探して褒めましょう、あなたはあなたです、お友達と比べてはいけません──。
感情を知らない子どもがそのまま大人になれば、揉め事や諍いが起こることもなくなる。
犯罪率は減少し、この国は平和を享受することができる。
誰かに嫉妬することもなければ、卑屈になることもない。
そんな感情を、知らないのだから。
この国の未来のために、犠牲になった子どもは数知れない。
数多の屍を越えて、平和な未来への展望は開かれたのだ。
稲原村には、研究施設の職員の家族や関係者が住んでいた。
もとから稲原村に住んでいた数少ない村民は、建設された巨大な施設に、戸惑ってもいたという。
過疎化が進み、村民が老人ばかりだった稲原村の土地を、買いたいと突然の申し入れがあったという。
目を疑うほどの莫大な金額で。
村に多額のお金が入る。
ただ広いだけで、なんの特産品もない土地を、こんな高値で買いたいという人がいる。
村長を始め、村民は土地を売ることを即決した。
土地を買いたがっているのは、どうやら国らしい。
それなら安心だ、すぐ売ってしまおう。
降って湧いた話に舞い上がった村民は、買った土地を、どう使うのかも確認せずに、売ることを決めてしまった。
元々あった広大な土地に、さらに森を切り拓いた土地を加え、建設は着工した。
やがて、みるみるうちに、鉄筋コンクリートの3階建ての巨大な建造物が完成した。
平屋建てか、2階建てがほとんどだった村に突如できた異色の建造物に、村民はあ然とした。
この建物が、何に使われる施設なのかすら聞かなかったことに、村民はようやく思い至った。
完成した施設には、数多くの職員と、子どもがたくさんいるらしい……。
──あの施設の中では、何が行われているのだろう。
立ち入り禁止。
村民は、建物に近づくことすら許されなかった。
出入り口には、警備員が常時張り付いている。
子どもがいるはずなのに、その声すら聞こえない、物々しい雰囲気の施設。
子どもがいるのだから、養護施設なのかもしれない。
けれども、姿を見ないなんておかしい。
普通じゃない。
──一体、なんの施設なんだ?
村民の間で、施設の不気味な噂が広がり始める。
子どもをさらってきて、人体実験をしているのではないか。
あるいは、未知のウイルスを作り出す実験、開発が行われているのではないか。
そんな、当たらずとも遠からずな根拠のない噂話が、村民に拡散した。
そして、得体のしれない施設を建設する許可を出してしまった村長が、金に目がくらんだ罪悪感から村民を代表して、施設に乗り込み説明を求めた。
施設の代表だという強面の中年男性は、仙道昭嗣と名乗り、施設で何をしているのか詰問した村長に、一言言い放った。
「カネなら、渡したはずです」と。
土地を売った莫大な金で、潤った村の予算。
当面の間、金銭的な面で憂いがなくなった村。
その金の中に、口止め料のような意図があったことに、村長は気付かされ、愕然とした。
多額の金を渡したのだから、こちらがなにをしていても口を出すな、つまりそういうことなのだった。
仙道は、顔色を真っ青にした村長を置いて、さっさと施設の中に戻ってしまった。
残された村長の前に、屈強な警備員が立ちはだかり、小柄な村長を睨めつけた。
村長は、自分たちの浅はかさを知り、耐えきれない悔しさに、唇を強く噛んだ。
村民たちに、なんと説明したらよいものかと、ふらふらとした足取りで、来た道を引き返すしかなかった。
我々は間違えた。
村民に、なんと報告しよう。
あの施設は異常だ。
あんなやつらを村に迎え入れてしまった自分たちが愚かだったのだ。
もう、やつらに関わるのはやめよう、危険だ。
やつらの逆鱗に触れたら、村民がどうなるかわかったものではない。
近づかないのが一番だ。
その日を以降、村の人間は、施設に近づくことを禁止された。
もちろん、村に住み着いた施設の関係者や家族とも、関わらないよう村長は重ねて注意した。
村人たちは、息を潜めて村に住み続けるしかなかった。
☆
『稲原研究センター』に、わたしが初めて足を踏み入れたのは、5歳のときだった。
父に手を引かれ、それまで父が勤める場所、という認識しかなかった施設に入れてもらったのだ。
何故、このタイミングで父がわたしを仕事場に入れたのかは、よくわからない。
父にどんな意図があったのか、今でもわからないままだ。
警備員が守る入口を抜けて、1階に入る。
白を貴重とした神経質なほど清潔な広いエントランス。
大股でエレベーターへと向かう父を小走りで追っていたから、細部まで見ることはできなかったけれど、ガラス張りの部屋がいくつかあって、その中で白衣を着たお医者さんのような大人が忙しそうに働いていた。
機械やパソコンに似た見たこともない機器が部屋の中に溢れているのが見えた。
父の仕事に、あまり興味がなかったわたしは、そこで初めて、父はここで何の仕事をしているのだろう、と単純に好奇心を抱いた。
エレベーターで2階へと上がる。
扉が開いた先、広がっていた光景に、わたしは思わず息を呑んだ。
ずらりと、本当にずらりと、広大なフロアに、透明な小部屋が並んでいた。
五畳ほどの部屋には、わたしと同じか、少し小さい子どもが、一部屋にひとりずつ何をするでもなくひたすら虚空を見上げていた。
長い廊下が中央に伸びていて、その両脇に小部屋が並ぶ、異常な光景。
それはまるで、映画で観た刑務所、のような。
父は、泰然と廊下を歩き、わたしもそれに続く。
子どもたちからの、強烈な視線が突き刺さる気がした。
廊下の中程まで来たとき、わたしは左側の小部屋に膝を抱えている髪の長い男の子と目が合った。
さらさらの髪と、整った顔立ち、大きな大きな、色素の薄い茶色の瞳。
彼を見た瞬間、自分の血液が沸騰したように躍った。
顔が熱くなり、心臓がばくばくと脈打ち始める。
こんなこと経験なくて、わたしは戸惑った。
どうしちゃったんだろう、この感情は、なに?
戸惑いながらも、男の子から目を離すことができない。
彼の瞳の深淵に吸い込まれそうになり、立ち尽くしているわたしに気づいて、父が引き返してきて、興味深そうにわたしに訊いた。
「燈日、どうした?」
父がわたしの肩に手を置く。
「この子と目が合って……」
わたしが男の子を指し示して言うと、父は小さく笑った。
「そんなはずはないよ。
この部屋の壁は、ガラスじゃないんだ。
マジックミラーといって、こちらからは部屋の中を見られるが、向こうからこちらは見えないんだ」
だから、目が合うなんて有り得ない、と父は言うのだ。
しかし、現実に男の子とわたしは、目が合っている。
気のせいとは思えないほど、長い時間、彼がわたしの瞳を捉え続ける。
でも、と言い募ろうとするわたしに、父が少し驚いた表情を見せる。
わたしがなにかに興味を示したのは初めてで、興味の対象が自分の研究であることに、父は嬉しそうだった。
「この子は光臣というんだ。
お前と同じ5歳だよ。
せっかくだから、話してみるか?
言葉の教育を始めたばかりなんだ。
光臣に、燈日が知っている言葉を教えてあげなさい」
父はそういうと、職員の人を呼んで、『光臣』という男の子がいる部屋の鍵を開けさせる。
「光臣、出ておいで」
呼びかけに、男の子は反応をしなかった。
「さあ、出るんだ」
父が腰を屈めて小部屋の扉を潜り、光臣くんの細い腕を引っ張って外に出そうとする。
わたしの正面に立った光臣くんは、わたしよりも背が低かった。
身体もすごく細くて、指なんか折れてしまわないか、心配になるほどだ。
顔色も悪い。
一日中、この小部屋に閉じ込められているのだろうか。
外に出て太陽を浴びたりしないのだろうか。
光臣くんを前にして、わたしは緊張を隠せず、どきどきとして、話すことができなかった。
幼稚園に行かず、父から勉強を教わっているわたしは、同年代の子との触れ合いに慣れていない。
父以外に会話するのは、リモートで勉強を教わっているパソコンの向こうの先生のみだ。
「あ、あの、こんにちは」
もじもじとしながら、わたしはそう話しかけてみる。
「こんにちは」
表情を一切変えずに、光臣くんが言った。
まるでロボットが喋ったかのようだった。
「あの、わたし、仙道燈日です」
「ぼくは、みつおみです。
よろしくね」
『よろしくね』という言葉のイントネーションが、女性の言い回しのようで、首を傾げるわたしに、お父さんが説明してくれる。
「光臣に言葉を教えているのは若い女性の職員なんだよ。
まだおうむ返しすることが多いから燈日も話し方に気をつけて」
わかった、と言って、次の話題を探す。
でも、どういう話をすればいいのだろう。
「光臣くんの好きな食べ物はなんですか?」
結果、わたしは無難な質問を彼にぶつけた。
本当は、もっと他に、聞きたいことや聞くべきことがあったのに、と自分に失望した。
「ぼくは、せんどうとうかがすきです」
「えっ、わたしが!?」
驚いているわたしに、父がそっとささやく。
「光臣は、まだ言葉が覚束なくて、覚えた言葉を使いたがるんだ。
気長に付き合ってあげて」
それを聞いて、どこか残念な気分になった。
光臣くんに、『すき』と言われたことが嬉しくて、舞い上がってしまった自分が恥ずかしい。
けれど、悪い気はしなかった。
こちらの意図とは違うが、ただ単純に『すき』だと言われたことが、その事実が、例え意味のない単語を彼が言っただけだろうが、嬉しいことに違いはなかった。
わたしは他人から好きだと言われたことがない。
父にも母にも。
父は優しいが、積極的にコミュニケーションを取ってくる方ではなかったし、母には棄てられた。
だから、誰かからもたらされる『すき』にこんなに心の底から喜びを感じるなんて、自分でも想像していなくて、でもやっぱり嬉しかった。
「光臣くん、食べ物、わかる?
一番好きな食べ物、なに?」
わたしが根気強く訊いていると、やがて質問の答えが返ってきた。
「ぼくは、にんじんがすきです」
「にんじん!?
あんな土臭い野菜が好きなの!?
わたしは嫌い。
お父さんがよく野菜炒めを作ってくれるけど、にんじんは残しちゃう。
それでいつも、怒られるんだけどね」
「とうかのすきなたべものはなんですか」
「わたし?
お父さんがよく作ってくれる料理の中では、オムライスが一番好き」
「おむらいす……」
初めて聞く単語なのか、光臣くんが首を傾げたまま固まってしまう。
そんな光臣くんを見て苦笑してしまいながら、わたしは言った。
「ねえ、光臣くん、良かったら、うちに食べにおいでよ」
わたしがそういうと、すかさず父が制止した。
「燈日、光臣はここから出ることはできないんだよ」
やっぱりか、と予想通りの父の言葉にわたしは落胆を隠せなかった。
「でも、毎日燈日がここへ来たいなら、許可証をあげよう。
オムライスをお弁当にしてあげるから、光臣に食べさせてやるといい」
わたしはぱっと笑顔になる。
「ありがとう、お父さん!」
わたしの反応を見て、お父さんは苦笑していた。
「娘を嫁に出すって、こういう気分なのかもな」
「それは、わたしが結婚するっていうこと?」
「そうだよ、寂しいから、まだ燈日は結婚はしないでくれよ」
父の反応は予想外だった。
わたしがいなくなるのは寂しい。
父は父なりに、わたしを大切に思ってくれているのかもしれない。
わたしは恥ずかしい気持ちと、嬉しくてくすぐったい気持ちにサンドイッチのように挟まれた。
ぎゅうぎゅうとわたしを心地よい弾力で挟む感情。
それを知れただけでも、今日ここに来た甲斐があったのかもしれない。
光臣くんとも出会えた。
光臣くんは、「とうか、とうか」と、覚えたてのわたしの名前を何回も呼んでくれた。
帰り際、わたしは光臣くんに尋ねてみた。
「ねえ、さっき、目が合ったよね?
部屋の中から、わたしのことが見えたの?」
わたしの問いに、光臣くんが初めて触れた言語を聞いたような、不思議そうな顔をして首を左右に振った。
「……そっか、そうだよね、見えて、なかったよね」
わたしが肩を落とす横で、職員の大人に促され、光臣くんが小部屋に入っていく。
がちゃり、と物々しい音がして、鍵が閉められた。
それを聞いてわたしは、父が何故、光臣くんたちを閉じ込めているのか疑問が浮かんだ。
光臣くん以外にも、フロアいっぱいに閉じ込められた子どもたちがいる。
どうして、みんな、こんなひどい目に遭っているのだろう。
わたしがみんなのように小部屋に閉じ込められず、自由にさせてもらっているのは、わたしが所長──お父さんの娘だからなのだろうか。
ちくり、と罪悪感が胸を刺激して、わたしは父に訊くことができなかった。
──どうして、あの子たちは犯罪者みたいに、あんなに狭いところに押し込められているの?
それとも、あの子たちは、何か悪いことをしたの?
罰を受けているの?
お父さんは、仕事で、あの子たちを閉じ込めているの?
だったら一体、なんの仕事をしているの?
疑問は止めどなく浮かんできたが、声として発することはできなかった。
真実を知らされることが、怖かった。
知ることが恐ろしく感じる程度には、父の仕事が後ろ暗いものであることは理解していた。
疑問と恐怖に蓋をして、わたしは父に仕事の話を訊くことをやめた。
わたしの方から訊かなくても、いずれ明るみに出ることなのではないかと、心の何処かではそんな予感を抱いていたのも、また事実だった。
生まれてしまったわだかまりを心の奥深くに飼い慣らしながらも、表面上は平穏を装ってわたしはひと足早く帰宅した。
娯楽がない村での生活ではあるが、父からパソコンを与えられていたため、暇潰しになったし、映画やドラマを見て『普通の暮らし』も知ることができたし、たまに父の気まぐれで、麓の街に下りて買い物をしたり、散策したりして過ごし、そうする度に、村の施設に閉じ込められた光臣くんの顔が脳裏に浮かんだ。
連れてきてあげたい、外の世界を知らないあの、可哀想な男の子を。
光臣くんに出会った日から、わたしの頭の中は彼のことでいっぱいになった。
「美味しい?」
稲原研究センターの2階フロアの最奥にある一室。
談話室と呼ばれ、5歳を迎えた子どもに、職員が言葉を教えるために作られた、会議室のような部屋だった。
わたしは、この日も、父お手製のオムライスをお弁当箱に詰めてもらい、光臣くんを訪ねていた。
白いテーブルと椅子、壁沿いにソファが置かれた10畳ほどの広さがある談話室には、それぞれ仕切りがあり、話し声が届かない程度の距離は保たれていた。
そこで光臣くんは、オムライスを無言で、でもスプーンを運ぶ手は止めず、黙々と一心不乱に食べていた。
普段の食事がどれだけ不味いんだろうかと、ちょっと不安になってしまう。
「……美味しい」
半分ほど食べたところで、光臣くんがぽつりと感想をもらした。
「良かった」
わたしが笑顔を浮かべると、光臣くんの口元がぎこちなく不器用に小さく歪んだ。
しまった、と思って、わたしは慌てて笑みを引っ込める。
わたしが光臣くんと会うのは、彼に言葉を教えるため。
嬉しいとか、恥ずかしいとか、そういった感情は彼の前で見せてはいけない。
あくまで言葉を教えるだけの関係なのだ、わたしたちは。
しかし、感情を抜きにして言葉を教えるというのは、中々に難しい。
言葉というのは、基本的に自分の心に浮かんだ形のない気持ちを、言葉に変換して伝える手段だ。
好きとか嫌とか、嬉しいとか悲しいとか、感情を伴わずに言葉を使う場面というのは、意外と少ないことに気づいて、わたしは苦悩した。
「これ、全部読めるようになった?」
もぐもぐと、オムライスを咀嚼する光臣くんを、可愛いな、とうっとり見つめながら、わたしは五十音順が記された表を爪の先でこつこつ、と叩いて訊いた。
まずは、ひらがな、次はカタカナ、最後に漢字。
学習のカリキュラムは、施設によって厳格に決められていた。
光臣くんは、ひらがなを見事攻略し、カタカナに駒を進めていた。
漢字になると、わたしもまだ覚束ないから、そこから先はわたしが光臣くんに教えることはできない。
でも、すでに何回か言葉の勉強はしているとあって、彼は会話をそつなくこなすようになっていた。
5歳まで、誰ともコミュニケーションを取ったことがないというだけはあって、光臣くんに感情らしい感情はなかった。
いつも無表情で、話し方にも抑揚がない。
どこか遠くを見ているようで、見ていないようで、わたしを見てくれない。
コミュニケーションを取らず育った光臣くんは、まだなにも知らない赤ちゃんのようなものだ。
痛いとか、つらいとか、そういうことを訴えられないのは困るから、会話ができる状態にまでは成長させたい、父たちが目指しているのは、そういうことなのだろう。
しかし、感情を教えてはいけない。
繊細な力加減のいる、バランス感覚を要する作業でもあった。
光臣くんを見るたび思う。
わたしが好きな映画やドラマ、アニメを一緒に観て、同じタイミングで泣いたり笑ったりしてみたい。
同じ感情を抱き、分かち合いたい。
父は、施設の子どもたちに感情を教えないのは、未来の平和のためだと言っていた。
でも、わたしは父の話に納得できなかった。
感情を知るわたしは、誰かを貶めたり攻撃することが悪いことだと理解できている。
善悪の判断さえ間違わずに教えれば、こんな回りくどい教育で育てずとも、平和なんて実現できるのではないか。
この世界が平和でないのは、悪いことを悪いことと知っている人が、悪いことと知りながら悪いことをしているからだ。
そういう人だって、良いことは良いと、きちんと知っているのだ。
だから、こんな人体実験まがいのことに巻き込まれている光臣くんたちが、可哀想で堪らない。
光臣くんたちは、将来の希望となるべく、自由を奪われている。
助けてあげたい。
いつしか、わたしは大人が描いた理不尽に、強い反発を覚えるようになっていった。
「いつか助けてあげるからね」
オムライスを頬張る光臣くんを見守りながら、わたしは呟いた。
「……なに?」
わたしの呟きを捉えて聞き返してきた光臣くんに、なんでもない、とわたしは首を振った。
光臣くんと出会ってから、わたしは積極的になった。
毎日のように父にお弁当を作ってもらい、施設の談話室で光臣くんに言葉の教育──という名の雑談──をしながら、日々レパートリーを増やし、さらに腕が向上している父のお弁当を食べる。
「美味しいね、この料理の名前覚えた?」
「もう、覚えたよ。
ハンバーグ、でしょ。
前に作ってくれたときは、ちょっとぱさぱさしてたけど、今日のはとっても美味しい」
すらすらと光臣くんが答えを口にする。
「良かった、お父さんも、喜ぶと思うよ、帰ったら報告するね」
そう言ったとき、光臣くんの視線が白い扉を凝視していることに気づいた。
談話室のドアは透明でもマジックミラーでもない。
なんの変哲もない、空間を仕切るただのドアだ。
その向こうに広がる光景を思い出して、光臣くんが浮かべる表情の正体に思い至った。
ドアの向こうには、小部屋に閉じ込められた光臣くんと同じ子どもたちがいる。
わたしが気に入ったというだけで、光臣くんは小部屋を出られて、施設にいたら食べられないものを食べている。
特別扱いされている。
「……ぼくだけが、こんなに美味しいご飯を食べていいのかな」
思った通りの言葉を、光臣くんは言った。
『罪悪感』が光臣くんの中で芽生えている。
どんなに気をつけていても、会話をする以上、言葉に感情を含んでしまう。
けれど、会話をしなければ、わたしが彼に会う意味はない。
罪悪感が枝分かれして、よろしくない感情を抱かないように、覚えないようにと、わたしは神経を尖らせる。
光臣くんと『言葉の先生』と、『生徒』として、会話をするようになって一ヶ月ほどが経過していた。
最初、あまり言葉のバリエーションがなかった彼は、言葉を覚え始めた子どもが、大人の話を聞いて、知らない単語を吸収するように、ぐんぐんと言葉を覚えていった。
わたしは、お姉さんぶって、彼に良いことと悪いことを教えた。
良いことは良い、悪いことは悪い、そこに余計な感情は含まず、『そういう決まり』になっているから、やって良いこととやって悪いことがある。
曖昧な教え方になってしまったけれど、わたしの拙い説明に、光臣くんはうなずいてくれた。
しかし完全に理解してもらうことはやはり難しい。
例えば、人を叩いてはいけません、と教えようとするには、まず『叩く』とはどういうことなのか、という説明から始めなければいけない。
外の世界を知らない彼に、『人の物を盗んではいけない』と教えるには、『人の物』とは何かを伝え『盗む』という悪事の説明から始まる。
何故盗むのがいけないのか、と彼は聞き返すことはしなかったが、説明を求められたら、『理由』なんてない、と答えるしか、わたしにはできなかっただろう。
誰が決めたのかは知らないが、決まりは決まりだ。
そこに感情は関係ない。
ただ、将来のことを考えると、善悪はきちんと教えた方がいい、とわたしは思ったのだ。
他人を褒めるのは良いことだ、と説明している間に、いたずら心で、「わたしのことを褒めてみて」と言った。
光臣くんは、しげしげとわたしを見つめながら、「かわいい」と一言言った。
ぼっ、と顔が熱を持つ。
嬉しくて、恥ずかしくて、やっぱり叫び出したいほど嬉しくて、照れていることを隠すように、わたしは平静を装って彼を言った。
「本当?嬉しい、ありがとう」
思いがけない僥倖に声が若干震える。
「ぼくは?」
「え?」
「ぼくを褒めてはくれないの?」
「あ、ああ、そうか、良いことだもんね、褒めることは」
わたしは少し考えて、ありすぎる彼の良いところから、何を答えにしようかしばし悩んだ。
「ぼくの褒めるところ、ないの?」
光臣くんが、少し拗ねたような口調でそう聞いてくる。
「あっ、あるよ!
全部、全部なの。
だから、困ってるの、その、光臣くんをどこを褒めたらいいのかなって」
焦ったわたしは、本心を全てさらけ出してしまった。
自分でも顔が真っ赤になっていることがわかる。
いたずらっ子のように、光臣くんが、にっと笑った。
「さっきのいじわるのお返し」
わたしは驚きのあまり目を見開いた。
光臣くんが、笑った。
感情が、芽生えてしまった。
どうしよう、お父さんにあれだけ気をつけるよう言われていたのに、わたしは光臣くんに感情を教えてしまったのか。
ぐるり、と視界が回る。
「とうか、秘密だよ」
「……え?」
わたしが青い顔をしていると、光臣くんが言った。
「ぼくが笑うのは、ぼくととうかの秘密。
ふたりのときだけだよ」
光臣くんは、聡い。
言葉をあっという間に呑み込んでしまったときにも思ったけれど、光臣くんは、大人の思惑などとっくに見越していて、その上で大人が望むような態度を崩さないでいる。
一体、光臣くんは、自分が置かれた状況をどこまで理解しているのだろう。
目の前でにこにこしている光臣くんを見ているうちに、わたしの胸にわくわくとした冒険心が膨れ上がった。
大人に隠れて、ふたりだけの秘密を共有する。
なんて素敵で刺激的な話だろう。
誰もいないのに、わたしはささやき声で返した。
「わかった、ふたりだけの秘密、ね」
とっても可愛らしい光臣くんの無邪気な笑顔を見て、わたしはまだ真っ白な彼にたくさんの感情を教えてあげようと思った。
もちろん、お父さんには秘密で、だ。
いつものように、談話室で光臣くんと雑談していると、離れた席で言葉の練習をしていた女の子が、机を挟んで座るわたしと光臣くんに近づいてきた。
「美味しそうね」
わたしたちは、お父さんお手製のオムライスを食べていた。
光臣くんが、すっかりオムライスを気に入ってしまって、週に一度はお弁当箱に入っている。
声をかけてきた女の子には、見覚えがあった。
わたしと光臣くんが談話室で話すようになってから、何度か顔を合わせている子だ。
長い髪をポニーテールにしていて、地味な顔立ちの女の子。
「突然話しかけてしまってごめんなさい。
いつも、あなたたちが珍しいお昼ご飯を食べているから、気になって、つい」
女の子は、柔らかく、でも温度のない声音で言った。
女の子がそのまま立ち去ろうとするので、思わずわたしは呼び止めてしまった。
「あの、食べてみる?」
恐る恐るわたしが訊くと、女の子は無表情ながらも、「いいの?」と好奇心を隠し切れない様子で言った。
「いいよ、座って」
わたしがそう言うと、女の子は椅子を持ってきて、わたしの隣にちょこんと座る。
女の子の言葉の先生である女性は、訝しげにわたしたちの遣り取りを見ていたが、やがて一足先に談話室を出て行った。
わたしがスプーンを渡すと、女の子は、緊張した眼差しでふわふわ卵のオムライスをスプーンに載せて、そろそろと口に運ぶ。
咀嚼する女の子の顔を、わたしも緊張しながら見つめる。
気に入ってくれるかな?
という、わたしの心配は杞憂だったようで、オムライスを食べた女の子は、出会って最初のころの光臣くんと同じように、無表情だったが、ぽっと頬を赤らめると、ぽつりと一言、「美味しい」と言った。
「初めて食べた、こんな料理。
これは、卵だよね?
お米が赤いのはなんで?」
「それはケチャップライスっていうの」
わたしが答えると、横から光臣くんが話に割り込んできた。
「それ、オムライスっていうんだよ」
得意げに光臣くんが胸を張って言う。
「ふうん、そうなんだ。
給食でも出してくれないかな、オムライス。
誰が作ってくれるの?」
女の子が、やはり無感動な表情で訊くので、「お父さんだよ」とわたしは嬉しくなって答えた。
「おとうさん……?」
あ、とわたしは思う。
この施設にいる子は、家族という存在を知らないのかもしれないと思い至る。
この子たちは、どうしてこの施設にいるんだろう。
お父さんやお母さんはいないのだろうか。
「あの、一緒に住んでいる家族のこと、なんだけど。
お弁当を作ってくれるの」
家族、と女の子は口の中で繰り返して首を傾げる。
「ねえ、お弁当って、この給食のこと?」
給食、という耳慣れない単語に今度はわたしが首を傾げる。
前にも聞いた言葉だが、わたしはそれがなんなのか確かめなかったことに今更気づいた。
「給食は、みんなが食べるご飯のことだよ。
燈日のオムライスみたいに美味しいご飯はあんまり出ないんだ。
えいよう?を考えてるんだって」
光臣くんの言葉に、女の子が憂鬱そうにうつ向いて「本当だよね」と同意する。
「あなた、とうかちゃんって名前なの?
毎日こんなに美味しいご飯を食べてるなんて、羨ましいな」
羨ましい、という言葉にどきりとする。
これは、部屋を出て行った、さっきの女性には聞かせたらまずいのではないかと、ひやひやした。
「とうかちゃん、いくつ?」
「……5歳、だけど」
「えっ、私と同じなんだ。
どこの部屋にいるの?」
「あ……わたしはここに住んでるわけじゃなくて」
「ここじゃない?
じゃあ、どこに住んでるの?」
「ここの近くに、お父さんとふたりで住んでる」
「……?」
女の子の反応を見て思い知る。
光臣くんや女の子は、生まれてから一度も、この施設の外に出たことがないのだ。
施設が世界の全てで、施設を出れば、広い広い世界がどこまでもあることを、きっと知らない。
きゅっと、胸が締め付けられる。
世界はここだけじゃない、と叫びたくなるけれど、きっとそれは、この施設で一番言ってはいけない言葉なのだと、気づいてもいた。
彼らが置かれた境遇に、わたしは目をつぶった。
父がなにをしているのか、探ろうとするのをやめた。
今はただ、初めてできた友達と、親交を深めたい、そう思った。
「ねえ、そのおとうさん、私にもお弁当作ってくれるかな?」
「え?」
「……やっぱり駄目だよね?」
女の子の表情が諦めたように、でもその諦めに慣れ切ったような表情で自分を納得させるように呟く。
「そんなことないよ!
お父さんに頼んでみるから!
……えっと……」
女の子を何と呼んだらいいのかわからず口ごもると、女の子の方から言葉を繋いでくれる。
「私、遥。
遥っていうの」
「あ、えっと、遥、ちゃん。
3人分作れるか、お父さんに聞いてみるね」
「本当?ありがとう」
やはり、遥の顔に表情らしいものは浮かばない。
でも雰囲気で、喜んでいる、嬉しがっていることが窺える。
──友達になれるかもしれない。
遥と、もう少し話してみたい。
「遥ちゃんも、言葉の練習してるの?」
「そう、もうすぐ『授業』が始まるんだって」
「『授業』?」
「そう、私だけじゃなくて、何人か集まって先生が勉強を教えてくれるんだって」
「へえ、そうなんだ」
授業という言葉を聞いて、映画やドラマで観た『学校』の風景が思い浮かんでくる。
30人ほどの生徒が教室で、机を並べて、教壇に立つ先生の授業を静かに聞く。
わたしも、もうすぐ小学校に入学する年齢だが、父の方針によって、小学校へは通わず、父に勉強を教わりながら、あるいは家庭教師にリモートで授業をしてもらうことが決まっている。
みんなで一緒に授業を受ける──映画の中では、学校は子どもにとって、楽しい場所として描かれている。
わたしは、学校に憧れを抱いてもいた。
友達と一緒に楽しく学校で過ごせたら、どんなにいいだろう。
「燈日ちゃんも来ればいいのに」
遥の言葉が、単純に嬉しかった。
仲間に入れてもらえるかもしれない。
これまで、同年代の子どもとの関わりに飢えていた。
友達は、たくさんいればいるほど楽しい。
画面の向こうに広がるフィクションの世界では、友達はいればいるだけ楽しいのだと、友達を作れない人間は、ぼっちとか言われて、負け組、なのだそうだ。
わたしも、友達が欲しい。
でも、一緒に笑ったり、ときには喧嘩したり、『青春』というらしい日々を、光臣くんや遥と過ごすことはできない。
青春は、感情と密接に繋がっているのだから、感情を持たない、教えてもいけない彼らと、憧れの友達との楽しい毎日を過ごす、ということは叶わないのだ。
「うん、そうなれたらいいね……」
切なくなってしまって、わたしはやや湿った声でそうとだけ呟いた。
「オムライス、美味しかった、ありがとう、燈日ちゃん。
またね」
席を立った遥は、無表情のままそう言うと、談話室を出て行った。
ぱたん、と扉が閉ざされると、何故だかわたしは泣きそうになってしまった。
遥はまた、あのプライバシーもなにもない、あの小部屋に押し込められるのだ。
話し相手もおらず、ただ静寂と無言の時間をひたすら消費するだけ。
ここにいる子どもたちは、みんなそうなのだ。
美味しそうにお気に入りのオムライスを食べている光臣くんだって、そうだ。
「ごちそうさま。
燈日ちゃん、お父さんにお礼ちゃんと言ってね」
わたしが呆けていると、光臣くんが丁寧に手を合わせてそう言ってからスプーンを置いた。
「あ、それは大丈夫。
いつも空になったお弁当箱を見て、美味しかったんだって、お父さん、ちゃんとわかるから」
「そっか、それならいいんだ。
……やっぱり、ぼくばっかり美味しいもの食べさせてもらって、なんか……なんていうのかな……」
遥を見たせいか、光臣くんの罪悪感が再燃したようだ。
自分だけが贅沢をしている、他の子に申し訳ない、多分、光臣くんはそう考えているのだろうことが窺える。
「光臣くん、あんまり悩まないで。
約束しちゃったから、明日は3人分お弁当作ってもらうけど、光臣くんがつらいなら、もう、やめる?」
光臣くんが、ふと、棄てられた仔犬のように、しょんぼりと項垂れる。
「燈日は、もうぼくに会わなくていいってこと?
燈日は、ぼくに会いに来てくれているんだと思ってた」
わたしは慌てて訂正する。
「そっ、そうだよ、わたしは光臣くんに会うためにここに来てるの。
お弁当作ってもらうのだって、光臣くんに喜んでほしいからで……」
言ってしまってから、自分の失敗に気づいてまたも否定する。
「あ、いや、喜ぶっていうのは、その……」
「喜ぶ、の意味なら、もうわかってるよ。
オムライス食べて、美味しい、また食べたいなって思うことでしょ?」
「う、うん……。
合ってる、多分」
「よかった」
光臣くんが浮かべる笑みには敵わない。
感情がどうのなんて、全て忘れて、光臣くんと笑い合って、気持ちを共有したい。
でも、それをしたら、おそらく、わたしはここにはもう来られないだろう。
光臣くんに会えないのはつらいから、これ以上、光臣くんに感情を芽生えさせてはいけない。
それが、わたしがここに来られる最低条件だ。
どんどん人らしくなっていく光臣くんにかけられる言葉が嬉しくはあるけれど、多くを望んではいけないのだ。
光臣くんと、ずっと一緒にいるために。
3人分のお弁当を作ってほしいと父に言ったところ、父は驚きで絶句していた。
談話室で遥という女の子と出会ったこと、遥がお弁当を食べたがったことを説明すると、父はしばらくわたしを見下ろして、難しい顔をして、なにかを思案したので、駄目だったかと諦めかけたとき、「わかった」とうなずいた。
「燈日と言葉の練習をするようになってから、光臣の言語能力が上がったと報告を受けている。
燈日は言葉を教えるのが上手なんだね」
なにも知らない父に、光臣くんには感情が芽生えつつあることは、なんとしてでも隠し通さなければならない。
感情を持たない人間を育てる、そのために子どもを閉じ込めて実験台にする。
全てはこの国の未来の平和のため。
光臣くんも遥も犠牲になる。
わたしは、外からそれを眺めているだけ。
間違っているとも言えず、助けてあげることもできない。
わたしは、卑怯なのかもしれない。
「学校に通ってみるか?」
夕食を摂っていると、父にそんなことを言い出した。
「遥に授業のことは聞いたんだろう?
5歳を迎えた子どもは、対面で言葉の教育を受けたあと、学校で習う教科を勉強する。
いつまでもあの施設にいるわけじゃないから、成長して施設を出たあとに困らないよう、義務教育で学ぶ知識は教えることになっている。
まあ、今のところ成長して施設を出た子どもはひとりもいないがね」
最後の言葉は引っかかったけれど、わたしは学校に通えることに興奮していた。
「燈日が行きたいなら、頼んであげるよ」
「うん、行きたい。
いいの?」
「光臣と知り合ってからの燈日は楽しそうだから、まあ、いいかなって。
ただし、みんなに感情を教えてはいけない、これは変わらない、いいね?」
「うん、わかった」
正直、父の念押しにひやりとして、隠していることの後ろめたさを覚えたが、素直な振りをしてうなずく。
翌日、3人分のお弁当を抱えて、わたしは意気揚々とお昼どきの施設に乗り込んだ。
談話室で待っていると、職員の女性に連れられた遥と光臣くんが入ってきた。
遥は、テーブルに置かれたお弁当の包みを見て、目を輝かせた。
職員が退室し、3人だけになると、遥は待ち切れないとばかりに、お弁当箱を開けた。
たらこパスタに唐揚げ、野菜炒め。
遥は、懐疑的な視線を隠しもせずに、お弁当を睨んでいる。
まずは、見覚えのあるだろう野菜炒めを口に運び、安心したようにうなずくと、唐揚げへと箸を伸ばした。
光臣くんは慣れた様子で、「うん、上手い」と言いながらがつがつとパスタをすすっている。
遥も、満足そうに順調に食べ進めている。
そんな遥に、わたしは言った。
「授業のことなんだけど、わたしも参加できることになったの」
「本当?
一緒に授業を受けられるの、やった」
相変わらず無表情を崩さない遥だが、醸し出す雰囲気が雄弁に物語っている。
嬉しい、と。
わたしは思う。
人間から、感情を排除するなんて、無理なのではないかと。
どう教育したって、嫌いを好きには変えられないし、楽しいことを制限されたくはない。
完全に人間の感情をコントロールして、無感動な人間を作り出すなど、できないのではないか。
父や他の者が目指す青写真なんて、実現可能なのだろうか。
もやもやした気分を抱えたままだったので、せっかく光臣くんと話せるお昼の時間が、上の空で終わってしまった。
わたしが6歳を迎えたころから、『授業』が始まった。
授業を受けるのは、みんな同い年の施設に住む子どもたち。
わたしだけが違う。
初めて足を踏み入れる、3階のフロア。
いつ見ても異様だと思う、小部屋がずらりと並ぶ光景は2階と変わらないが、わたしたちよりもお姉さんお兄さんに見える子どもが多く目についた。
そして、空の小部屋もいくつか見受けられる。
小部屋に挟まれた廊下を抜けると、突き当りには、扉が3つ、並んでいた。
「ここが教室」
と、遥が教えてくれる。
「部屋にいない子は、みんな教室にいる」
なるほど、と納得して遥のあとをついていくと、遥は一番右の扉を開ける。
白い壁に灰色の絨毯、机が整然と並ぶ光景は、まさしく画面の向こうに観た教室だった。
ホワイトボードの前に立つ職員とみられる若い女性。
すでに席についていた子どもが、わたしたちを振り向く。
みんな女の子だ。
みんな長い髪をまとめていて、光臣くんや遥と同じパジャマともジャージともいえない服を着ている。
「授業を始める前に、自己紹介をしましょう」
女性──先生の一言で、みんなががたがたと、席を立った。
「多恵です、よろしく」
真面目そうな雰囲気の女の子が口火を切る。
簡単にそう済ませると、さっさと席に座ってしまう。
「初めまして、英梨です」
えくぼが可愛らしい女の子が柔らかい声音で続く。
「怜奈です、よろしくお願いします」
少しおどおどたした様子の女の子が小柄な身体をもじもじとさせながら、ほっとしたように席につく。
「遥です、目標は名前を漢字で書けるようになることです、よろしくお願いします」
遥の真剣なのに、笑えてしまう自己紹介に、わたしはくすっと笑ってしまう。
けれどすぐに、まずいと思って笑みを引っ込める。
わたし以外に笑う人はいなかった。
「光臣です、6歳です、よろしく」
光臣くんが席に座ると、急に緊張してきた。
わたしは施設で暮らしているわけではない。
いわば部外者なのだ。
そんなわたしを、みんなは受け入れてくれるだろうか。
「初めまして、仙道燈日といいます、よろしくお願いします」
わたしはみんなに向かって深々と頭を下げた。
挨拶は、父から最初に教わった礼儀だ。
「仙道……?」
多恵が訝しげにわたしの苗字を繰り返す。
当然なのかもしれないが、みんなには苗字がないようだ。
「じゃあ、授業を始めましょう。
みんなもう、字は読めるのよね?
じゃあ、教科書を開いてください」
机の上には、何冊かの本が置いてある。
ごく普通の小学生が使う教科書のようだった。
算数、理科、音楽、図工、家庭科。
国語や社会などの教科は基本的に教えないようだ。
読書も、ここではさせてもらえないのだろうか。
父の影響で、古い紙の本を読むことを好むわたしは、好きな本の話題でみんなと盛り上がることができないと知るや落胆した。
映画もドラマもアニメも、会話の糸口になりそうなのに、本当に残念だ。
世の中には、娯楽がたくさんあるのに、みんなはそれを知らない。
わたしだけ、違う世界に迷い込んだような、のけ者にされているような心細さを感じる。
一番後ろの席に座ったわたしは、算数の教科書を開く。
ぱらぱらとめくると、わたしも習っていない数式に出くわし、どこかほっとする。
みんなと一緒にスタートラインを切れるのだ。
光臣くんの学習能力は群を抜いていた。
未知の教科であるはずの算数を、習い始めるや、底知れない好奇心を発揮して、知識をスポンジのようにぐんぐんと吸収していく。
授業が終わってからも、部屋に教科書を持ち込み、寝る時間以外は手放さなかったらしい。
そんなだから、あっという間に教科書を丸暗記してしまい、わたしがもたもたしている隙に、1年生で習う算数を、ものの一週間で理解してしまった。
理科も同じようなものだ。
実験に目を輝かせていたし、先生に積極的に質問したり、とにかく学習意欲が半端ではないのだ。
他のみんなは、取り残されないように、光臣くんに必死についていくことしかできなかった。
でもやはり、授業は楽しかった。
同じ歳の子と、知らないことを一緒に理解していく、お互いを高め合っていく作業は、ひとりで勉強しているときには、得られなかった達成感を与えてくれる。
お昼休み、みんなと給食を食べるのも、楽しかった。
遥の言う通り、最低限の栄養を重視した給食は、お世辞にも美味しいとは言えなかったけれど、みんなと許される範囲の雑談をしながらご飯を食べるというのは、有意義な体験だった。
授業で教わらないことは、家でひとりで学習する。
パソコンの画面の向こうには、確かに先生がいるのに、その学習法が当たり前だったはずなのに、なんだか味気ない。
教室での学習も順調に進み、国語や社会、英語など、授業では習わない教科をリモートの授業で補完しながら、わたしの学校生活は穏やかに過ぎていった。
みんなとの適切な距離のとり方がわかり始め、全員が、お互いに心を許し始めたころのことだった。
会話も弾むようになり、わたしは自分がごく普通の小学生なのではないかと思うようになっていた。
そんなとき、家に帰ると、父が言ってきたことを聞いて、わたしはすぐさま問い返した。
「光臣くんを連れて?」
わたしに温かいココアを差し出しながら、父はうなずいた。
──光臣を、街まで連れて行ってあげたらどうだ?
最初、父が何故突然そんなことを言い出したのか、意味がわからなかった。
あれだけ感情は教えないように、外の世界を知らせないようにと、神経を尖らせていた父が言うこととは思えなかったからだ。
「施設の、外に光臣くんを出していいの?
外、だよ?」
わたしは聞き間違いではないかと何度も確認した。
しかし、わたしの認識は間違いではないのだと、やがて理解した。
光臣くんを、施設から連れ出す……。
考えたこともない展開だった。
父は、光臣くんに街を案内してあげたらどうか、と提案してきた。
意図はわからないながらも、わたしの心は弾んだ。
「光臣くんだけ?
他の子は?」
「……いや、1人で充分だろう」
父の意味深な言葉の意味を、わたしは掴みかねたが、すでに、光臣くんをどこに連れて行こうかということで頭はいっぱいになっていた。
雪がちらつく年の暮れ。
部屋着から着替えた光臣くんが、エントランスで待つわたしのもとに連れて来られる。
6年間過ごした施設の2階、3階フロア以外には行ったことのない光臣くんが、不安そうに、辺りをきょろきょろと見回している。
「行こう、光臣くん。
……寒くない?」
彼は、丈の合わないコートを着せられていた。
警備員が守る入口から外に出る。
寒さに、光臣くんがぶるりと震える。
初めて見る、どこまでも続いている、曇天の空。
そこから降りてくる、冷たくて白い塊。
ほう、と吐いた息が白くなるのを見て、不思議そうにしたあと、何度も何度も息をして、空気を白くして、と初めて目にする現象に夢中になった。
「風邪引いちゃうよ、行こう」
立ち尽くしている光臣くんの腕を引いて歩き出す。
鬱蒼とした木々に四方を囲まれている山の景色。
これから見る、なにもかもが初めてで、新鮮なものに映るだろう。
少し施設から離れた位置で立ち止まると、立派な建造物を振り返る。
「あそこに、ぼくはいたの?」
「そうだよ、あそこが光臣くんが生活してた部屋があった建物。
大きいでしょう?」
光臣くんは、うなずくと、村をざっと見回す。
ひなびた村に建つ、施設とは比べものにならないこぢんまりとした古民家が、ぽつぽつと並ぶモノクロの景色。
しんしんと降る雪が、村に静寂の蓋をする。
しばらく歩くと、早くも光臣くんの呼吸が乱れた。
無理もない、ずっとあの小部屋に入れられて育ったのだ。
運動不足なのだろう。
わたしは、ゆっくりとした歩みで、村の出口に停まった車を指差す。
「もうすぐ車に乗れるから、頑張って」
励ますように肩をぽんと叩くと、光臣くんに不安そうな視線を向けられた。
「あれは、なに?」
「車っていうの。
座っているだけで、運んでくれるんだよ」
「運ぶ……?
どこに?」
「行けばわかるよ、ほら」
わたしは光臣くんと手を繋いで、父が手配してくれた送迎の車へと向かう。
ドアを開けて、後部座席へと光臣くんを座らせ、シートベルトを締める。
「え……え……」
シートベルトに恐怖を覚えたのか、動揺したようにシートベルトを掴んで外そうとする。
「大丈夫、安心して、怖くないよ」
わたしはできるだけ彼が安心できるように柔らかい声音で微笑む。
反対側にぐるりと迂回して自分も光臣くんの隣に乗り込むと、シートベルトをして、安全性をアピールする。
「行きますよ」
運転席の中年男性が、わたしたちの様子を確認すると言った。
「はい、お願いします」
わたしが言うと、エンジンをかけた車が振動する。
走り始めた車に驚いて、ひっと悲鳴をもらすと、光臣くんがわたしにしがみつく。
わたしは彼を抱きしめるようにして背中をとんとん、と撫でてあげる。
すると、次第に車に慣れてきた光臣くんが、窓の外へと視線を向けたのがわかった。
「外、見てみる?」
抱擁を解くと、まだ不安そうな表情だったが、そろそろと、光臣くんが身体を離した。
「わあ……」
ぐねぐねと曲がる山道。
車道にまで枝葉を伸ばす、誰にも手入れされない見棄てられた秘境。
分厚い雲から舞い落ちる雪が色を奪って、景色の全てが灰色に塗り潰される。
光臣くんは、両手と額を窓ガラスにぺったりと貼り付けて、高速で過ぎ去る風景に釘付けになっている。
「……どこへ行くの?」
「麓の街だよ」
「ふもとのまち?」
「うん、光臣くんが住んでる施設以外にも、人が住んでる場所がたくさんあるんだよ」
「ふうん……?」
光臣くんは、どこか釈然
しない様子で、それでも視線は窓の外へ向けたまま、順調に山を下る光景を眺め続けていた。
2時間ほど走った車は、高速を下り市街地へと向かっていた。
山の麓に位置する、地方都市まであと少し。
振動が心地よかったのか、眠ってしまった光臣くんが目を醒ます。
「着きました」
運転手の男性が停車して、わたしたちを振り返る。
そこは街の中心部、駅前の商業施設の前だった。
まだ眠そうな光臣くんを車から降ろす。
途端、彼は襲い来る音の洪水に、両耳を塞いでしゃがみ込んでしまった。
「う、うるさい、うるさい、うるさいっ、耳が壊れる!」
道行く人の話し声、車の走行音、 店舗の軒先から流れるBGM、巨大ビジョンに流れる人気アーティストのMV、街に溢れるあらゆる音を、初めて身体に浴びた光臣くんは、明らかに怯えていた。
「……どうして、こんなに人が……どこにいたの、どこへいくの……」
こわごわと視線を上げ、涙目になりながら、光臣くんが呟く。
「大丈夫、楽しいから、行こう」
うずくまったままの彼の腕を引く。
人の往来が激しい駅前通りでは、泣きじゃくる6歳児は、非常に目立った。
中々動けないでいると、駐車場に車を停めてきた運転手のおじさんが光臣くんをひょいと抱え上げて、すたすたと歩き出した。
父お抱えの運転手は、わたしたちの保護者、言い方を変えるなら、お目付け役だった。
光臣くんを抱えたおじさんは、大型商業施設へと入っていく。
わたしも、父と来たことがある。
店内に入ると、照明が眩しいのか、光臣くんがぎゅっと目を閉じる。
行き交う恋人や家族連れの視線を感じたのか、光臣くんが居心地悪そうに身動ぎした。
「あの、もう下ろしてください」
光臣くんの言葉に、おじさんは素直に彼を床へと下ろす。
光臣くんは、珍しそうに店内をきょろきょろと見回す。
1階フロアには、アパレルショップが複数店舗入っている。
子ども服のブランドもある。
「光臣くん、お洋服買わない?」
光臣くんは、ハンガーにかかっているたくさんの服を見て戸惑い顔だ。
「光臣くんの好きな色とか柄の服にしようよ」
ずらりと並んだ色とりどりの子ども服。
「光臣くんは何色が好き?」
光臣くんが首を傾げながら、ととっと店内に踏み入ると、胸元にキャラクターが刺繍された薄い青色のセーターを控えめに示した。
「可愛いね、サイズが合ったら買っちゃう?」
「かっちゃう?」
「お金っていってね、お金を払うとこのセーターをもらえる、買うことができるの」
わたしはおじさんから渡された千円札を光臣くんに差し出す。
「ね、試着しよ」
困り顔の光臣くんを引っ張って試着室に入る。
それから30分近く、わたしは光臣くんに次々と試着をさせ、ファッションショーを繰り広げた。
「うん、やっぱりこれが似合うかな」
最初に光臣くんが好きだと言ったセーターと、サイズの合ったコートを買うことにする。
光臣くんは、おどおどとしながら、服をレジに持って行き、愛想を振りまく店員の若い女性におじさんから渡された五千円札を渡す。
お釣りをもらって、服が入った紙袋を受け取ると、近くで待機していたわたしの元に帰ってくる。
その顔に、隠し切れない充実した笑みが浮かんでいる。
わたしも嬉しくなって、どうだった?と訊くと、紙袋を大事そうに抱え、光臣くんが大きくうなずく。
まだ、自分を満たす初めての感情の名前がわからないのだろう。
「喜んでる、とは違う?」
「うーん、それでも合ってるけど、『嬉しい』の方が近いかな」
「嬉しい、嬉しいだね」
光臣くんの満面の笑み。
父が必死で阻止していた感情を教えないという教育方針を、わたしは壊してしまっている。
しかし、街へ出かけて初めての体験をさせて、感情を芽生えさせないというのは、不可能ではないだろうか。
父の真意が、意図がわからない。
でも、父が光臣くんを街へ連れ出せと言ったのだ。
あまりよろしくない理由のような気もするが、久々に訪れた商業施設に、わたしも興奮してしまっていた。
「ねえ、プリントシール、撮らない?」
わたしは一層きらびやかな照明が照らすゲームセンターを指差す。
渋る光臣くんを強引に機械の前に立たせ、撮影する。
機械から出てきた自分の写真を見て、「これ、ぼく?」としげしげと眺める。
花柄の可愛らしいフレームに、ツーショットで並び、笑顔のわたしのところに『とうか』光臣くんのところに『みつおみ』と書いた。
加工はあえてしなかった。
6歳の、ありのままのふたり。
わたしは、嬉しくなってしまって、宝物のように大切にプリントシールをかばんにしまう。
それから、わたしたちは、ゲームセンター内に長時間留まり、クレーンゲームやスロット、もぐら叩きなんかのゲームに興じた。
ここでも、光臣くんは知らないことを柔らかい頭でぐんぐんと吸収する。
ゲームのルールを理解して、すぐに攻略法を導き出す。
何回か挑戦しただけのクレーンゲームで、可愛らしいクマのぬいぐるみを取って、わたしにくれた。
はしゃぎ疲れたわたしたちは、フードコートで一息ついていた。
光臣くんは、ハンバーガーを美味しそうにぱくぱくと食べている。
その横で、わたしはフライドポテトをかじっていた。
「ねえ、光臣くん、来てよかった?」
「うん!楽しかったよ」
すっかり人混みにも順応し、リラックスした様子で外出を楽しむ光臣くんを見て、わたしは心から来てよかったと胸を撫で下ろした。
そのあとも商業施設内をぶらついて楽しい時間を過ごし、わたしたちは帰途についた。
帰りの車の中で、半分に切ったプリントシールを光臣くんに渡す。
満面の笑みのわたしと、少し緊張気味の光臣くんを捉えた一枚。
光臣くんも、プリントシールを大事に抱え込んだ紙袋に入れ、わたしに微笑んだ。
その顔を見ただけで、わたしは幸せになる。
なんだかとても愛おしい。
ああ、好きなんだ、と唐突に気づいた。
わたしは、光臣くんに恋をしている。
フィクションの世界に存在する、恋愛という現象が、わたしにも起こったのだ。
いや、彼を好きになったのは、昨日や今日ではない。
初めて施設に連れて行かれ、目が合ったと錯覚したあのとき、すでに自分は光臣くんに特別な、でも正体のわからない感情を抱いていたのだ。
これが、初恋。
漠然と夢に見ていた恋。
「……好きだよ、光臣くん」
ぼおっとした勢いに任せて、わたしは告白してしまった。
光臣くんは、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせると、満面の笑みを浮かべた。
「ぼくも、燈日が好きだよ」
「本当!?」
わたしは、嬉しくてシートの上で少し飛び上がってしまった。
「ぼく、知ってる。
好きな人同士は、恋人っていうんだ」
「……恋人……。
わたしたち、恋人なんだね」
「うん。
……燈日は、嫌?」
「そんなことないよ、嬉しいに決まってる!」
「よかった、ぼくも嬉しい」
なんのためらいもなくそう告げる光臣くんに対して、わたしは恥ずかしくて顔を上げられない。
わたしは夢を見ている心地で、うっとりとしていた。
でも、一方で、このことは、誰かに言ってはいけないことなのではないかと不安になった。
知られてはいけない、特に父には。
けれど、本当は、そんな淡いわたしの気持ちなど、父は見抜いているのではないだろうか。
だから、わたしを光臣くんに近づけた。
特別扱いをさせた。
わたしが光臣くんを好きだから。
市街地を離れた車が、未舗装の山道で揺れても起きないほど、光臣くんは疲れて眠り込んでいた。
人生初めての大冒険。
その案内役をつとめられて、彼の初体験に関われて、とても誇らしい。
今日だけじゃない、ずっと、ずっと一緒にいたい。
けれど、帰り着いた村で、無常にも光臣くんは施設の職員によって抱えられ、連れていかれてしまった。
運ばれる途中で目を醒ました光臣くんは、何度も何度もわたしを振り返った。
絶対に離さないとばかりに、紙袋を強く抱いて。
彼がまた、あの小部屋に閉じ込められるのかと思うと、自然に涙が溢れてきた。
なんの力もないわたしには、光臣くんを助けることができない。
歯がゆくて、悔しくて、情けなくて。
いつか、この閉鎖された村から連れ出してあげたい。
早く、大人になりたい。
光臣くんを助けられる立派な大人に。
遠ざかっていく光臣くんを涙を流しながら見送ると、わたしは誓いを握り込むように拳を震わせた。
☆
夢のような体験をして、週末を挟んだ日『授業』に行くと、みんなが光臣くんの机の周りに集まっていた。
光臣くんは、あのセーターを着て、机の上に何枚かの紙を並べて何事か解説していた。
「おはよう……」
みんながあまりに夢中になっているから、気後れして小声で言うが、誰もわたしに見向きもしない。
「でね、これがハンバーガー。
パンにチーズとハンバーグが挟んであって、すっごく美味しかったんだ」
机に並べられたのは、光臣くんがハンバーガーを手に笑顔を見せる、フードコートで撮られた写真だった。
一体、誰が撮ったのか──と、動揺したのも束の間、あの日、わたしたちについて回っていた運転手のおじさんが、カメラをわたしたちに向けていたことを思い出した。
父がなにか命令したのかもしれない。
「『エキマエ』には、たくさんの人がいて、とってもうるさくて、びっくりしたよ。
ほら、この服も、『カイモノ』したんだ。
『オカネ』を払うことを、買い物するっていうんだって」
興奮した様子で、普段からは考えられない早口で光臣くんがまくし立てる。
「へえ、オカネって、どうやったら手に入るの?
私たちも、お金で買い物できるの?」
興味津々といった表情で遥が訊くが、光臣くんは困ったように首を傾げる。
「う〜ん、お金をどうやったら手に入れられるのかは、ぼくにはわからない。
お金をくれたのは燈日だけど、燈日も一緒に行ったおじさんからもらってたから」
みんなが一斉に少し離れた位置にいるわたしに視線を移す。
「えっ……」
みんなの視線にさらされて、わたしはたじろぐ。
「お金は、働いた人がもらえるんだけど……。
子どもはお小遣いっていって、大人からお金をもらえるの」
へえ、とみんなが揃って息をつく。
「燈日、どうして光臣だけ連れて行ったの?
私も行ってみたかったな。
羨ましい」
遥が、様々な場所で、明るい表情を見せる光臣くんとわたしが写った写真を眺めて、ぽつりと呟く。
「そ、それは……お父さんに光臣くんを連れて街に行って来なさいって、言われたからなんだけど……」
「私も、見てみたい、外の世界。
光臣、いいなあ」
多恵からの羨望の眼差しを受けて、光臣くんも申し訳なさそうに目を伏せる。
「うん、ぼくもみんなに行ってほしい。
本当に、楽しかったから。
燈日、また街へ行くことはないの?」
みんなの視線が突き刺さる。
「ごめんね、わからない。
お父さんがいいって言ってくれないと、わたしだけじゃどうにもならないから」
わたしの言葉に、しょんぼりと、みんなが落胆してうつ向いてしまう。
「ごめんね、本当に、ごめん」
「燈日が謝ることはないよ。
でも、外に世界があるなら、どうして私たちは外に出られないのかな?」
怜奈の言葉にどきりとする。
みんなをこんな目に遭わせているのは、わたしの父なのだ。
みんなは明らかに、普通に育てられる子どもと比べたら、理不尽な扱いを受け不幸な境遇にいる。
外に広い世界があることに気づいてしまった彼らの好奇心を抑えることは、わたしにはできなかった。
わたしは彼らを助けたいと思った。
では、わたしになにができる?
……なにも、ない。
わたしは虚無感に囚われた。
『外』が写る写真を眺めながら、憧れの存在へと思いを馳せるように、みんなが嘆息する。
「いつかは、行けるのかな、私たちも、外に」
交差点を歩く雑踏の写真を手にとって見つめながら、多恵が言った。
「こんなに世界は広いのに、私たちはこんな狭い場所にいる。
……ねえ、燈日」
英梨がわたしに視線を定める。
「な、なに?」
「みんな、同じなの?
写真に写ってる人も、家に帰ると私たちと同じ、狭いところに閉じ込められてるの?」
「そ、そんなことは、ない、と思うけど……」
「じゃあなんで、私たちだけこんな狭いところに閉じ込められてるの?
どうして燈日みたいに、外へいっちゃいけないの?」
普段穏やかな英梨が、怒りを滲ませた声音でわたしに詰め寄る。
「ごめんね、ごめん。
多分、わたしのお父さんが悪いの。
わたしのお父さんが、みんなをここに閉じ込めてるんだと思う」
「じゃあ、お父さんに私たちが外に行ってもいいか、聞いてみてよ」
多恵が強い調子で私を睨んで言う。
「う、うん。
聞いて、みるけど……、約束はできないよ」
「それでもいいから、聞いてみて!」
ものすごく早いスピードで、みんなの中の感情が育っている。
自分の置かれた境遇に、憤りを隠せないでいる。
それは、当たり前だと思う。
わたしが謝ろうとしたとき、教室の扉を開けて、先生が入ってきた。
「ずいぶんと盛り上がってるみたいね。
部屋の外まで話し声が聞こえたわよ」
光臣くんが慌てて机の上の写真をかき集めてかばんの中に放り入れる。
みんなも、後ろ髪を引かれるようにしながらも、それぞれの席に着く。
こうして気もそぞろなまま、授業が始まった。
滅多に人が来ない山奥にある稲原村。
そこに、場違いなほど巨大な、鉄筋コンクリートの3階建ての建造物があった。
病院にも、学校にも見える、建物は『稲原研究センター』という施設だった。
わたしの父、仙道昭嗣は、『稲原研究センター』の所長をつとめていた。
施設に立ち入ることを許された人間は、ごくわずかだった。
施設の中でどんなことが行われているのか、知っている人はほとんどいない。
施設の中で父は、他の科学者と共同研究という形で、悪魔のような、非人道的な実験を行っていた。
人間には、善悪や道徳、倫理観や感情が先天的に備わっているのか。
それともそれらは、後天的に教わらなければ身につかないものなのか。
それを研究するため、父ら研究者たちは、非合法な方法で、生まれて間もない乳児を集め、食事や排泄の世話以外のコミュニケーションを一切とらずに育てた。
その結果、子どもは全員、生まれて初めての誕生日を迎えることはなかった。
なぜそんな極悪非道な実験を行ったかというと、それは政府が主導した国策だったからだ。
国策、とはいっても、非人道的な実験を伴うこの研究は、極秘裏に行われたもので、研究そのものは民間の研究機関に委託された。
天才的な頭脳と、研究のためなら倫理観すら顧みないマッドサイエンティストな一面を持つ父に研究センターの所長という白羽の矢が立ち、数人の共同研究者と、父は研究を開始した。
所長という大役を任された当時、まだ父は30代前半で、独身だった。
科学者として期待されていることがありありと窺える若さでの抜擢だった。
試行錯誤しながらの研究が始まってまもなく、父は母と結婚した。
母は父よりひとつ年下で、同じ大学のゼミで出会ったらしい。
らしい、というのは、両親の馴れ初めをわたしが詳しくは知らないからだ。
父は母との出会いについて多くを語らなかったし、母も母で父の話をすることを避けた。
まだ愛し合っていた両親が結婚してまもなく、わたしの命が母のお腹に宿った。
結婚後、母は父と暮らすため、稲原村へと移住していた。
研究センターすぐそばの、古民家。
センターに勤務する職員は施設の中に部屋をもらい、生活は全て施設内で完結していた。
買い物ひとつするにも不便な村での生活。
研究センターに入り浸り実験にのめり込んでいた父は、あまり家に寄り付かず、周囲に頼れる人もいない孤独の中、母はわたしを出産した。
初めての子育てに、苦労していた母は段々追い詰められていった。
父に救いを求めることはできない。
ひとりでなんとかしなければ……。
責任感の強い母は、父の迷惑になるからと、悩みを相談しなかった。
徐々にふたりの仲は冷めていった。
父は、母の異変に気づいてもいなかった。
わたしのことなんて、気にも止めなかった。
わたしのことなんて、父も母も、気にも止めなくなった。
愛してくれなくなった。
やがて、冷え切った家族愛が、引き裂かれる決定的なことが起きた。
母が、父の研究内容を知ってしまったのだ。
恐ろしい実験に、自分の夫が関わっていることに、夫に倫理観も人としての感情も欠けていることを知り、衝撃を受けた。
もうやっていられないと、とうとう母は、1歳のわたしを残して、村を出て行った。
そこまでいって初めて、父は自分が家庭を顧みないことで、母に苦労をさせていたこと、傷つけてしまったこと、なにより放り出されたわたしという存在にひどい扱いをしていたことを思い知り、愕然とした。
母が出て行ったあと、父は勤務後、わたしが待つ家へと毎日帰るようになった。
わたしのために食事を作り、風呂へ入れて、寝かせて、残りの時間を研究ではなく家事に充てる。
わたしが歳を重ねるごとに、父は人間味を増していった。
いつも難しい顔をして、にこりともしない父を、子ども心に怖いと思っていたが、次第に父はわたしに対して優しく、柔らかい表情を浮かべるようになり、母の代わりをしてくれた。
おかげで、わたしは母がいないという寂しさを感じずに済んだ。
それからすぐ、父たちの研究は、一定の成果と呼べるものを上げた。
実験データを集めるうちに、子どもを生かす方法が確立されていったのだ。
生存する子どもが増え、5歳になると、対面での言葉の教育が始まった。
もちろん、研究データを得るためである。
何故、時の政府はこのような実験を推し進めていたのか。
最大の目的は、子どもに感情を覚えさせないこと。
まだ物事を知らないまっさらな状態の子どものうちから、感情や倫理観、道徳心を教えないことによって、感情の起伏が激しくならないように、無感情な人間に育てる。
誰にも恨みを持たないように、憎しみを知らないように、暴力や人殺しに繋がらないようにと。
いつもにこにこ笑っていましょう、お互い良いところを探して褒めましょう、あなたはあなたです、お友達と比べてはいけません──。
感情を知らない子どもがそのまま大人になれば、揉め事や諍いが起こることもなくなる。
犯罪率は減少し、この国は平和を享受することができる。
誰かに嫉妬することもなければ、卑屈になることもない。
そんな感情を、知らないのだから。
この国の未来のために、犠牲になった子どもは数知れない。
数多の屍を越えて、平和な未来への展望は開かれたのだ。
稲原村には、研究施設の職員の家族や関係者が住んでいた。
もとから稲原村に住んでいた数少ない村民は、建設された巨大な施設に、戸惑ってもいたという。
過疎化が進み、村民が老人ばかりだった稲原村の土地を、買いたいと突然の申し入れがあったという。
目を疑うほどの莫大な金額で。
村に多額のお金が入る。
ただ広いだけで、なんの特産品もない土地を、こんな高値で買いたいという人がいる。
村長を始め、村民は土地を売ることを即決した。
土地を買いたがっているのは、どうやら国らしい。
それなら安心だ、すぐ売ってしまおう。
降って湧いた話に舞い上がった村民は、買った土地を、どう使うのかも確認せずに、売ることを決めてしまった。
元々あった広大な土地に、さらに森を切り拓いた土地を加え、建設は着工した。
やがて、みるみるうちに、鉄筋コンクリートの3階建ての巨大な建造物が完成した。
平屋建てか、2階建てがほとんどだった村に突如できた異色の建造物に、村民はあ然とした。
この建物が、何に使われる施設なのかすら聞かなかったことに、村民はようやく思い至った。
完成した施設には、数多くの職員と、子どもがたくさんいるらしい……。
──あの施設の中では、何が行われているのだろう。
立ち入り禁止。
村民は、建物に近づくことすら許されなかった。
出入り口には、警備員が常時張り付いている。
子どもがいるはずなのに、その声すら聞こえない、物々しい雰囲気の施設。
子どもがいるのだから、養護施設なのかもしれない。
けれども、姿を見ないなんておかしい。
普通じゃない。
──一体、なんの施設なんだ?
村民の間で、施設の不気味な噂が広がり始める。
子どもをさらってきて、人体実験をしているのではないか。
あるいは、未知のウイルスを作り出す実験、開発が行われているのではないか。
そんな、当たらずとも遠からずな根拠のない噂話が、村民に拡散した。
そして、得体のしれない施設を建設する許可を出してしまった村長が、金に目がくらんだ罪悪感から村民を代表して、施設に乗り込み説明を求めた。
施設の代表だという強面の中年男性は、仙道昭嗣と名乗り、施設で何をしているのか詰問した村長に、一言言い放った。
「カネなら、渡したはずです」と。
土地を売った莫大な金で、潤った村の予算。
当面の間、金銭的な面で憂いがなくなった村。
その金の中に、口止め料のような意図があったことに、村長は気付かされ、愕然とした。
多額の金を渡したのだから、こちらがなにをしていても口を出すな、つまりそういうことなのだった。
仙道は、顔色を真っ青にした村長を置いて、さっさと施設の中に戻ってしまった。
残された村長の前に、屈強な警備員が立ちはだかり、小柄な村長を睨めつけた。
村長は、自分たちの浅はかさを知り、耐えきれない悔しさに、唇を強く噛んだ。
村民たちに、なんと説明したらよいものかと、ふらふらとした足取りで、来た道を引き返すしかなかった。
我々は間違えた。
村民に、なんと報告しよう。
あの施設は異常だ。
あんなやつらを村に迎え入れてしまった自分たちが愚かだったのだ。
もう、やつらに関わるのはやめよう、危険だ。
やつらの逆鱗に触れたら、村民がどうなるかわかったものではない。
近づかないのが一番だ。
その日を以降、村の人間は、施設に近づくことを禁止された。
もちろん、村に住み着いた施設の関係者や家族とも、関わらないよう村長は重ねて注意した。
村人たちは、息を潜めて村に住み続けるしかなかった。
☆
『稲原研究センター』に、わたしが初めて足を踏み入れたのは、5歳のときだった。
父に手を引かれ、それまで父が勤める場所、という認識しかなかった施設に入れてもらったのだ。
何故、このタイミングで父がわたしを仕事場に入れたのかは、よくわからない。
父にどんな意図があったのか、今でもわからないままだ。
警備員が守る入口を抜けて、1階に入る。
白を貴重とした神経質なほど清潔な広いエントランス。
大股でエレベーターへと向かう父を小走りで追っていたから、細部まで見ることはできなかったけれど、ガラス張りの部屋がいくつかあって、その中で白衣を着たお医者さんのような大人が忙しそうに働いていた。
機械やパソコンに似た見たこともない機器が部屋の中に溢れているのが見えた。
父の仕事に、あまり興味がなかったわたしは、そこで初めて、父はここで何の仕事をしているのだろう、と単純に好奇心を抱いた。
エレベーターで2階へと上がる。
扉が開いた先、広がっていた光景に、わたしは思わず息を呑んだ。
ずらりと、本当にずらりと、広大なフロアに、透明な小部屋が並んでいた。
五畳ほどの部屋には、わたしと同じか、少し小さい子どもが、一部屋にひとりずつ何をするでもなくひたすら虚空を見上げていた。
長い廊下が中央に伸びていて、その両脇に小部屋が並ぶ、異常な光景。
それはまるで、映画で観た刑務所、のような。
父は、泰然と廊下を歩き、わたしもそれに続く。
子どもたちからの、強烈な視線が突き刺さる気がした。
廊下の中程まで来たとき、わたしは左側の小部屋に膝を抱えている髪の長い男の子と目が合った。
さらさらの髪と、整った顔立ち、大きな大きな、色素の薄い茶色の瞳。
彼を見た瞬間、自分の血液が沸騰したように躍った。
顔が熱くなり、心臓がばくばくと脈打ち始める。
こんなこと経験なくて、わたしは戸惑った。
どうしちゃったんだろう、この感情は、なに?
戸惑いながらも、男の子から目を離すことができない。
彼の瞳の深淵に吸い込まれそうになり、立ち尽くしているわたしに気づいて、父が引き返してきて、興味深そうにわたしに訊いた。
「燈日、どうした?」
父がわたしの肩に手を置く。
「この子と目が合って……」
わたしが男の子を指し示して言うと、父は小さく笑った。
「そんなはずはないよ。
この部屋の壁は、ガラスじゃないんだ。
マジックミラーといって、こちらからは部屋の中を見られるが、向こうからこちらは見えないんだ」
だから、目が合うなんて有り得ない、と父は言うのだ。
しかし、現実に男の子とわたしは、目が合っている。
気のせいとは思えないほど、長い時間、彼がわたしの瞳を捉え続ける。
でも、と言い募ろうとするわたしに、父が少し驚いた表情を見せる。
わたしがなにかに興味を示したのは初めてで、興味の対象が自分の研究であることに、父は嬉しそうだった。
「この子は光臣というんだ。
お前と同じ5歳だよ。
せっかくだから、話してみるか?
言葉の教育を始めたばかりなんだ。
光臣に、燈日が知っている言葉を教えてあげなさい」
父はそういうと、職員の人を呼んで、『光臣』という男の子がいる部屋の鍵を開けさせる。
「光臣、出ておいで」
呼びかけに、男の子は反応をしなかった。
「さあ、出るんだ」
父が腰を屈めて小部屋の扉を潜り、光臣くんの細い腕を引っ張って外に出そうとする。
わたしの正面に立った光臣くんは、わたしよりも背が低かった。
身体もすごく細くて、指なんか折れてしまわないか、心配になるほどだ。
顔色も悪い。
一日中、この小部屋に閉じ込められているのだろうか。
外に出て太陽を浴びたりしないのだろうか。
光臣くんを前にして、わたしは緊張を隠せず、どきどきとして、話すことができなかった。
幼稚園に行かず、父から勉強を教わっているわたしは、同年代の子との触れ合いに慣れていない。
父以外に会話するのは、リモートで勉強を教わっているパソコンの向こうの先生のみだ。
「あ、あの、こんにちは」
もじもじとしながら、わたしはそう話しかけてみる。
「こんにちは」
表情を一切変えずに、光臣くんが言った。
まるでロボットが喋ったかのようだった。
「あの、わたし、仙道燈日です」
「ぼくは、みつおみです。
よろしくね」
『よろしくね』という言葉のイントネーションが、女性の言い回しのようで、首を傾げるわたしに、お父さんが説明してくれる。
「光臣に言葉を教えているのは若い女性の職員なんだよ。
まだおうむ返しすることが多いから燈日も話し方に気をつけて」
わかった、と言って、次の話題を探す。
でも、どういう話をすればいいのだろう。
「光臣くんの好きな食べ物はなんですか?」
結果、わたしは無難な質問を彼にぶつけた。
本当は、もっと他に、聞きたいことや聞くべきことがあったのに、と自分に失望した。
「ぼくは、せんどうとうかがすきです」
「えっ、わたしが!?」
驚いているわたしに、父がそっとささやく。
「光臣は、まだ言葉が覚束なくて、覚えた言葉を使いたがるんだ。
気長に付き合ってあげて」
それを聞いて、どこか残念な気分になった。
光臣くんに、『すき』と言われたことが嬉しくて、舞い上がってしまった自分が恥ずかしい。
けれど、悪い気はしなかった。
こちらの意図とは違うが、ただ単純に『すき』だと言われたことが、その事実が、例え意味のない単語を彼が言っただけだろうが、嬉しいことに違いはなかった。
わたしは他人から好きだと言われたことがない。
父にも母にも。
父は優しいが、積極的にコミュニケーションを取ってくる方ではなかったし、母には棄てられた。
だから、誰かからもたらされる『すき』にこんなに心の底から喜びを感じるなんて、自分でも想像していなくて、でもやっぱり嬉しかった。
「光臣くん、食べ物、わかる?
一番好きな食べ物、なに?」
わたしが根気強く訊いていると、やがて質問の答えが返ってきた。
「ぼくは、にんじんがすきです」
「にんじん!?
あんな土臭い野菜が好きなの!?
わたしは嫌い。
お父さんがよく野菜炒めを作ってくれるけど、にんじんは残しちゃう。
それでいつも、怒られるんだけどね」
「とうかのすきなたべものはなんですか」
「わたし?
お父さんがよく作ってくれる料理の中では、オムライスが一番好き」
「おむらいす……」
初めて聞く単語なのか、光臣くんが首を傾げたまま固まってしまう。
そんな光臣くんを見て苦笑してしまいながら、わたしは言った。
「ねえ、光臣くん、良かったら、うちに食べにおいでよ」
わたしがそういうと、すかさず父が制止した。
「燈日、光臣はここから出ることはできないんだよ」
やっぱりか、と予想通りの父の言葉にわたしは落胆を隠せなかった。
「でも、毎日燈日がここへ来たいなら、許可証をあげよう。
オムライスをお弁当にしてあげるから、光臣に食べさせてやるといい」
わたしはぱっと笑顔になる。
「ありがとう、お父さん!」
わたしの反応を見て、お父さんは苦笑していた。
「娘を嫁に出すって、こういう気分なのかもな」
「それは、わたしが結婚するっていうこと?」
「そうだよ、寂しいから、まだ燈日は結婚はしないでくれよ」
父の反応は予想外だった。
わたしがいなくなるのは寂しい。
父は父なりに、わたしを大切に思ってくれているのかもしれない。
わたしは恥ずかしい気持ちと、嬉しくてくすぐったい気持ちにサンドイッチのように挟まれた。
ぎゅうぎゅうとわたしを心地よい弾力で挟む感情。
それを知れただけでも、今日ここに来た甲斐があったのかもしれない。
光臣くんとも出会えた。
光臣くんは、「とうか、とうか」と、覚えたてのわたしの名前を何回も呼んでくれた。
帰り際、わたしは光臣くんに尋ねてみた。
「ねえ、さっき、目が合ったよね?
部屋の中から、わたしのことが見えたの?」
わたしの問いに、光臣くんが初めて触れた言語を聞いたような、不思議そうな顔をして首を左右に振った。
「……そっか、そうだよね、見えて、なかったよね」
わたしが肩を落とす横で、職員の大人に促され、光臣くんが小部屋に入っていく。
がちゃり、と物々しい音がして、鍵が閉められた。
それを聞いてわたしは、父が何故、光臣くんたちを閉じ込めているのか疑問が浮かんだ。
光臣くん以外にも、フロアいっぱいに閉じ込められた子どもたちがいる。
どうして、みんな、こんなひどい目に遭っているのだろう。
わたしがみんなのように小部屋に閉じ込められず、自由にさせてもらっているのは、わたしが所長──お父さんの娘だからなのだろうか。
ちくり、と罪悪感が胸を刺激して、わたしは父に訊くことができなかった。
──どうして、あの子たちは犯罪者みたいに、あんなに狭いところに押し込められているの?
それとも、あの子たちは、何か悪いことをしたの?
罰を受けているの?
お父さんは、仕事で、あの子たちを閉じ込めているの?
だったら一体、なんの仕事をしているの?
疑問は止めどなく浮かんできたが、声として発することはできなかった。
真実を知らされることが、怖かった。
知ることが恐ろしく感じる程度には、父の仕事が後ろ暗いものであることは理解していた。
疑問と恐怖に蓋をして、わたしは父に仕事の話を訊くことをやめた。
わたしの方から訊かなくても、いずれ明るみに出ることなのではないかと、心の何処かではそんな予感を抱いていたのも、また事実だった。
生まれてしまったわだかまりを心の奥深くに飼い慣らしながらも、表面上は平穏を装ってわたしはひと足早く帰宅した。
娯楽がない村での生活ではあるが、父からパソコンを与えられていたため、暇潰しになったし、映画やドラマを見て『普通の暮らし』も知ることができたし、たまに父の気まぐれで、麓の街に下りて買い物をしたり、散策したりして過ごし、そうする度に、村の施設に閉じ込められた光臣くんの顔が脳裏に浮かんだ。
連れてきてあげたい、外の世界を知らないあの、可哀想な男の子を。
光臣くんに出会った日から、わたしの頭の中は彼のことでいっぱいになった。
「美味しい?」
稲原研究センターの2階フロアの最奥にある一室。
談話室と呼ばれ、5歳を迎えた子どもに、職員が言葉を教えるために作られた、会議室のような部屋だった。
わたしは、この日も、父お手製のオムライスをお弁当箱に詰めてもらい、光臣くんを訪ねていた。
白いテーブルと椅子、壁沿いにソファが置かれた10畳ほどの広さがある談話室には、それぞれ仕切りがあり、話し声が届かない程度の距離は保たれていた。
そこで光臣くんは、オムライスを無言で、でもスプーンを運ぶ手は止めず、黙々と一心不乱に食べていた。
普段の食事がどれだけ不味いんだろうかと、ちょっと不安になってしまう。
「……美味しい」
半分ほど食べたところで、光臣くんがぽつりと感想をもらした。
「良かった」
わたしが笑顔を浮かべると、光臣くんの口元がぎこちなく不器用に小さく歪んだ。
しまった、と思って、わたしは慌てて笑みを引っ込める。
わたしが光臣くんと会うのは、彼に言葉を教えるため。
嬉しいとか、恥ずかしいとか、そういった感情は彼の前で見せてはいけない。
あくまで言葉を教えるだけの関係なのだ、わたしたちは。
しかし、感情を抜きにして言葉を教えるというのは、中々に難しい。
言葉というのは、基本的に自分の心に浮かんだ形のない気持ちを、言葉に変換して伝える手段だ。
好きとか嫌とか、嬉しいとか悲しいとか、感情を伴わずに言葉を使う場面というのは、意外と少ないことに気づいて、わたしは苦悩した。
「これ、全部読めるようになった?」
もぐもぐと、オムライスを咀嚼する光臣くんを、可愛いな、とうっとり見つめながら、わたしは五十音順が記された表を爪の先でこつこつ、と叩いて訊いた。
まずは、ひらがな、次はカタカナ、最後に漢字。
学習のカリキュラムは、施設によって厳格に決められていた。
光臣くんは、ひらがなを見事攻略し、カタカナに駒を進めていた。
漢字になると、わたしもまだ覚束ないから、そこから先はわたしが光臣くんに教えることはできない。
でも、すでに何回か言葉の勉強はしているとあって、彼は会話をそつなくこなすようになっていた。
5歳まで、誰ともコミュニケーションを取ったことがないというだけはあって、光臣くんに感情らしい感情はなかった。
いつも無表情で、話し方にも抑揚がない。
どこか遠くを見ているようで、見ていないようで、わたしを見てくれない。
コミュニケーションを取らず育った光臣くんは、まだなにも知らない赤ちゃんのようなものだ。
痛いとか、つらいとか、そういうことを訴えられないのは困るから、会話ができる状態にまでは成長させたい、父たちが目指しているのは、そういうことなのだろう。
しかし、感情を教えてはいけない。
繊細な力加減のいる、バランス感覚を要する作業でもあった。
光臣くんを見るたび思う。
わたしが好きな映画やドラマ、アニメを一緒に観て、同じタイミングで泣いたり笑ったりしてみたい。
同じ感情を抱き、分かち合いたい。
父は、施設の子どもたちに感情を教えないのは、未来の平和のためだと言っていた。
でも、わたしは父の話に納得できなかった。
感情を知るわたしは、誰かを貶めたり攻撃することが悪いことだと理解できている。
善悪の判断さえ間違わずに教えれば、こんな回りくどい教育で育てずとも、平和なんて実現できるのではないか。
この世界が平和でないのは、悪いことを悪いことと知っている人が、悪いことと知りながら悪いことをしているからだ。
そういう人だって、良いことは良いと、きちんと知っているのだ。
だから、こんな人体実験まがいのことに巻き込まれている光臣くんたちが、可哀想で堪らない。
光臣くんたちは、将来の希望となるべく、自由を奪われている。
助けてあげたい。
いつしか、わたしは大人が描いた理不尽に、強い反発を覚えるようになっていった。
「いつか助けてあげるからね」
オムライスを頬張る光臣くんを見守りながら、わたしは呟いた。
「……なに?」
わたしの呟きを捉えて聞き返してきた光臣くんに、なんでもない、とわたしは首を振った。
光臣くんと出会ってから、わたしは積極的になった。
毎日のように父にお弁当を作ってもらい、施設の談話室で光臣くんに言葉の教育──という名の雑談──をしながら、日々レパートリーを増やし、さらに腕が向上している父のお弁当を食べる。
「美味しいね、この料理の名前覚えた?」
「もう、覚えたよ。
ハンバーグ、でしょ。
前に作ってくれたときは、ちょっとぱさぱさしてたけど、今日のはとっても美味しい」
すらすらと光臣くんが答えを口にする。
「良かった、お父さんも、喜ぶと思うよ、帰ったら報告するね」
そう言ったとき、光臣くんの視線が白い扉を凝視していることに気づいた。
談話室のドアは透明でもマジックミラーでもない。
なんの変哲もない、空間を仕切るただのドアだ。
その向こうに広がる光景を思い出して、光臣くんが浮かべる表情の正体に思い至った。
ドアの向こうには、小部屋に閉じ込められた光臣くんと同じ子どもたちがいる。
わたしが気に入ったというだけで、光臣くんは小部屋を出られて、施設にいたら食べられないものを食べている。
特別扱いされている。
「……ぼくだけが、こんなに美味しいご飯を食べていいのかな」
思った通りの言葉を、光臣くんは言った。
『罪悪感』が光臣くんの中で芽生えている。
どんなに気をつけていても、会話をする以上、言葉に感情を含んでしまう。
けれど、会話をしなければ、わたしが彼に会う意味はない。
罪悪感が枝分かれして、よろしくない感情を抱かないように、覚えないようにと、わたしは神経を尖らせる。
光臣くんと『言葉の先生』と、『生徒』として、会話をするようになって一ヶ月ほどが経過していた。
最初、あまり言葉のバリエーションがなかった彼は、言葉を覚え始めた子どもが、大人の話を聞いて、知らない単語を吸収するように、ぐんぐんと言葉を覚えていった。
わたしは、お姉さんぶって、彼に良いことと悪いことを教えた。
良いことは良い、悪いことは悪い、そこに余計な感情は含まず、『そういう決まり』になっているから、やって良いこととやって悪いことがある。
曖昧な教え方になってしまったけれど、わたしの拙い説明に、光臣くんはうなずいてくれた。
しかし完全に理解してもらうことはやはり難しい。
例えば、人を叩いてはいけません、と教えようとするには、まず『叩く』とはどういうことなのか、という説明から始めなければいけない。
外の世界を知らない彼に、『人の物を盗んではいけない』と教えるには、『人の物』とは何かを伝え『盗む』という悪事の説明から始まる。
何故盗むのがいけないのか、と彼は聞き返すことはしなかったが、説明を求められたら、『理由』なんてない、と答えるしか、わたしにはできなかっただろう。
誰が決めたのかは知らないが、決まりは決まりだ。
そこに感情は関係ない。
ただ、将来のことを考えると、善悪はきちんと教えた方がいい、とわたしは思ったのだ。
他人を褒めるのは良いことだ、と説明している間に、いたずら心で、「わたしのことを褒めてみて」と言った。
光臣くんは、しげしげとわたしを見つめながら、「かわいい」と一言言った。
ぼっ、と顔が熱を持つ。
嬉しくて、恥ずかしくて、やっぱり叫び出したいほど嬉しくて、照れていることを隠すように、わたしは平静を装って彼を言った。
「本当?嬉しい、ありがとう」
思いがけない僥倖に声が若干震える。
「ぼくは?」
「え?」
「ぼくを褒めてはくれないの?」
「あ、ああ、そうか、良いことだもんね、褒めることは」
わたしは少し考えて、ありすぎる彼の良いところから、何を答えにしようかしばし悩んだ。
「ぼくの褒めるところ、ないの?」
光臣くんが、少し拗ねたような口調でそう聞いてくる。
「あっ、あるよ!
全部、全部なの。
だから、困ってるの、その、光臣くんをどこを褒めたらいいのかなって」
焦ったわたしは、本心を全てさらけ出してしまった。
自分でも顔が真っ赤になっていることがわかる。
いたずらっ子のように、光臣くんが、にっと笑った。
「さっきのいじわるのお返し」
わたしは驚きのあまり目を見開いた。
光臣くんが、笑った。
感情が、芽生えてしまった。
どうしよう、お父さんにあれだけ気をつけるよう言われていたのに、わたしは光臣くんに感情を教えてしまったのか。
ぐるり、と視界が回る。
「とうか、秘密だよ」
「……え?」
わたしが青い顔をしていると、光臣くんが言った。
「ぼくが笑うのは、ぼくととうかの秘密。
ふたりのときだけだよ」
光臣くんは、聡い。
言葉をあっという間に呑み込んでしまったときにも思ったけれど、光臣くんは、大人の思惑などとっくに見越していて、その上で大人が望むような態度を崩さないでいる。
一体、光臣くんは、自分が置かれた状況をどこまで理解しているのだろう。
目の前でにこにこしている光臣くんを見ているうちに、わたしの胸にわくわくとした冒険心が膨れ上がった。
大人に隠れて、ふたりだけの秘密を共有する。
なんて素敵で刺激的な話だろう。
誰もいないのに、わたしはささやき声で返した。
「わかった、ふたりだけの秘密、ね」
とっても可愛らしい光臣くんの無邪気な笑顔を見て、わたしはまだ真っ白な彼にたくさんの感情を教えてあげようと思った。
もちろん、お父さんには秘密で、だ。
いつものように、談話室で光臣くんと雑談していると、離れた席で言葉の練習をしていた女の子が、机を挟んで座るわたしと光臣くんに近づいてきた。
「美味しそうね」
わたしたちは、お父さんお手製のオムライスを食べていた。
光臣くんが、すっかりオムライスを気に入ってしまって、週に一度はお弁当箱に入っている。
声をかけてきた女の子には、見覚えがあった。
わたしと光臣くんが談話室で話すようになってから、何度か顔を合わせている子だ。
長い髪をポニーテールにしていて、地味な顔立ちの女の子。
「突然話しかけてしまってごめんなさい。
いつも、あなたたちが珍しいお昼ご飯を食べているから、気になって、つい」
女の子は、柔らかく、でも温度のない声音で言った。
女の子がそのまま立ち去ろうとするので、思わずわたしは呼び止めてしまった。
「あの、食べてみる?」
恐る恐るわたしが訊くと、女の子は無表情ながらも、「いいの?」と好奇心を隠し切れない様子で言った。
「いいよ、座って」
わたしがそう言うと、女の子は椅子を持ってきて、わたしの隣にちょこんと座る。
女の子の言葉の先生である女性は、訝しげにわたしたちの遣り取りを見ていたが、やがて一足先に談話室を出て行った。
わたしがスプーンを渡すと、女の子は、緊張した眼差しでふわふわ卵のオムライスをスプーンに載せて、そろそろと口に運ぶ。
咀嚼する女の子の顔を、わたしも緊張しながら見つめる。
気に入ってくれるかな?
という、わたしの心配は杞憂だったようで、オムライスを食べた女の子は、出会って最初のころの光臣くんと同じように、無表情だったが、ぽっと頬を赤らめると、ぽつりと一言、「美味しい」と言った。
「初めて食べた、こんな料理。
これは、卵だよね?
お米が赤いのはなんで?」
「それはケチャップライスっていうの」
わたしが答えると、横から光臣くんが話に割り込んできた。
「それ、オムライスっていうんだよ」
得意げに光臣くんが胸を張って言う。
「ふうん、そうなんだ。
給食でも出してくれないかな、オムライス。
誰が作ってくれるの?」
女の子が、やはり無感動な表情で訊くので、「お父さんだよ」とわたしは嬉しくなって答えた。
「おとうさん……?」
あ、とわたしは思う。
この施設にいる子は、家族という存在を知らないのかもしれないと思い至る。
この子たちは、どうしてこの施設にいるんだろう。
お父さんやお母さんはいないのだろうか。
「あの、一緒に住んでいる家族のこと、なんだけど。
お弁当を作ってくれるの」
家族、と女の子は口の中で繰り返して首を傾げる。
「ねえ、お弁当って、この給食のこと?」
給食、という耳慣れない単語に今度はわたしが首を傾げる。
前にも聞いた言葉だが、わたしはそれがなんなのか確かめなかったことに今更気づいた。
「給食は、みんなが食べるご飯のことだよ。
燈日のオムライスみたいに美味しいご飯はあんまり出ないんだ。
えいよう?を考えてるんだって」
光臣くんの言葉に、女の子が憂鬱そうにうつ向いて「本当だよね」と同意する。
「あなた、とうかちゃんって名前なの?
毎日こんなに美味しいご飯を食べてるなんて、羨ましいな」
羨ましい、という言葉にどきりとする。
これは、部屋を出て行った、さっきの女性には聞かせたらまずいのではないかと、ひやひやした。
「とうかちゃん、いくつ?」
「……5歳、だけど」
「えっ、私と同じなんだ。
どこの部屋にいるの?」
「あ……わたしはここに住んでるわけじゃなくて」
「ここじゃない?
じゃあ、どこに住んでるの?」
「ここの近くに、お父さんとふたりで住んでる」
「……?」
女の子の反応を見て思い知る。
光臣くんや女の子は、生まれてから一度も、この施設の外に出たことがないのだ。
施設が世界の全てで、施設を出れば、広い広い世界がどこまでもあることを、きっと知らない。
きゅっと、胸が締め付けられる。
世界はここだけじゃない、と叫びたくなるけれど、きっとそれは、この施設で一番言ってはいけない言葉なのだと、気づいてもいた。
彼らが置かれた境遇に、わたしは目をつぶった。
父がなにをしているのか、探ろうとするのをやめた。
今はただ、初めてできた友達と、親交を深めたい、そう思った。
「ねえ、そのおとうさん、私にもお弁当作ってくれるかな?」
「え?」
「……やっぱり駄目だよね?」
女の子の表情が諦めたように、でもその諦めに慣れ切ったような表情で自分を納得させるように呟く。
「そんなことないよ!
お父さんに頼んでみるから!
……えっと……」
女の子を何と呼んだらいいのかわからず口ごもると、女の子の方から言葉を繋いでくれる。
「私、遥。
遥っていうの」
「あ、えっと、遥、ちゃん。
3人分作れるか、お父さんに聞いてみるね」
「本当?ありがとう」
やはり、遥の顔に表情らしいものは浮かばない。
でも雰囲気で、喜んでいる、嬉しがっていることが窺える。
──友達になれるかもしれない。
遥と、もう少し話してみたい。
「遥ちゃんも、言葉の練習してるの?」
「そう、もうすぐ『授業』が始まるんだって」
「『授業』?」
「そう、私だけじゃなくて、何人か集まって先生が勉強を教えてくれるんだって」
「へえ、そうなんだ」
授業という言葉を聞いて、映画やドラマで観た『学校』の風景が思い浮かんでくる。
30人ほどの生徒が教室で、机を並べて、教壇に立つ先生の授業を静かに聞く。
わたしも、もうすぐ小学校に入学する年齢だが、父の方針によって、小学校へは通わず、父に勉強を教わりながら、あるいは家庭教師にリモートで授業をしてもらうことが決まっている。
みんなで一緒に授業を受ける──映画の中では、学校は子どもにとって、楽しい場所として描かれている。
わたしは、学校に憧れを抱いてもいた。
友達と一緒に楽しく学校で過ごせたら、どんなにいいだろう。
「燈日ちゃんも来ればいいのに」
遥の言葉が、単純に嬉しかった。
仲間に入れてもらえるかもしれない。
これまで、同年代の子どもとの関わりに飢えていた。
友達は、たくさんいればいるほど楽しい。
画面の向こうに広がるフィクションの世界では、友達はいればいるだけ楽しいのだと、友達を作れない人間は、ぼっちとか言われて、負け組、なのだそうだ。
わたしも、友達が欲しい。
でも、一緒に笑ったり、ときには喧嘩したり、『青春』というらしい日々を、光臣くんや遥と過ごすことはできない。
青春は、感情と密接に繋がっているのだから、感情を持たない、教えてもいけない彼らと、憧れの友達との楽しい毎日を過ごす、ということは叶わないのだ。
「うん、そうなれたらいいね……」
切なくなってしまって、わたしはやや湿った声でそうとだけ呟いた。
「オムライス、美味しかった、ありがとう、燈日ちゃん。
またね」
席を立った遥は、無表情のままそう言うと、談話室を出て行った。
ぱたん、と扉が閉ざされると、何故だかわたしは泣きそうになってしまった。
遥はまた、あのプライバシーもなにもない、あの小部屋に押し込められるのだ。
話し相手もおらず、ただ静寂と無言の時間をひたすら消費するだけ。
ここにいる子どもたちは、みんなそうなのだ。
美味しそうにお気に入りのオムライスを食べている光臣くんだって、そうだ。
「ごちそうさま。
燈日ちゃん、お父さんにお礼ちゃんと言ってね」
わたしが呆けていると、光臣くんが丁寧に手を合わせてそう言ってからスプーンを置いた。
「あ、それは大丈夫。
いつも空になったお弁当箱を見て、美味しかったんだって、お父さん、ちゃんとわかるから」
「そっか、それならいいんだ。
……やっぱり、ぼくばっかり美味しいもの食べさせてもらって、なんか……なんていうのかな……」
遥を見たせいか、光臣くんの罪悪感が再燃したようだ。
自分だけが贅沢をしている、他の子に申し訳ない、多分、光臣くんはそう考えているのだろうことが窺える。
「光臣くん、あんまり悩まないで。
約束しちゃったから、明日は3人分お弁当作ってもらうけど、光臣くんがつらいなら、もう、やめる?」
光臣くんが、ふと、棄てられた仔犬のように、しょんぼりと項垂れる。
「燈日は、もうぼくに会わなくていいってこと?
燈日は、ぼくに会いに来てくれているんだと思ってた」
わたしは慌てて訂正する。
「そっ、そうだよ、わたしは光臣くんに会うためにここに来てるの。
お弁当作ってもらうのだって、光臣くんに喜んでほしいからで……」
言ってしまってから、自分の失敗に気づいてまたも否定する。
「あ、いや、喜ぶっていうのは、その……」
「喜ぶ、の意味なら、もうわかってるよ。
オムライス食べて、美味しい、また食べたいなって思うことでしょ?」
「う、うん……。
合ってる、多分」
「よかった」
光臣くんが浮かべる笑みには敵わない。
感情がどうのなんて、全て忘れて、光臣くんと笑い合って、気持ちを共有したい。
でも、それをしたら、おそらく、わたしはここにはもう来られないだろう。
光臣くんに会えないのはつらいから、これ以上、光臣くんに感情を芽生えさせてはいけない。
それが、わたしがここに来られる最低条件だ。
どんどん人らしくなっていく光臣くんにかけられる言葉が嬉しくはあるけれど、多くを望んではいけないのだ。
光臣くんと、ずっと一緒にいるために。
3人分のお弁当を作ってほしいと父に言ったところ、父は驚きで絶句していた。
談話室で遥という女の子と出会ったこと、遥がお弁当を食べたがったことを説明すると、父はしばらくわたしを見下ろして、難しい顔をして、なにかを思案したので、駄目だったかと諦めかけたとき、「わかった」とうなずいた。
「燈日と言葉の練習をするようになってから、光臣の言語能力が上がったと報告を受けている。
燈日は言葉を教えるのが上手なんだね」
なにも知らない父に、光臣くんには感情が芽生えつつあることは、なんとしてでも隠し通さなければならない。
感情を持たない人間を育てる、そのために子どもを閉じ込めて実験台にする。
全てはこの国の未来の平和のため。
光臣くんも遥も犠牲になる。
わたしは、外からそれを眺めているだけ。
間違っているとも言えず、助けてあげることもできない。
わたしは、卑怯なのかもしれない。
「学校に通ってみるか?」
夕食を摂っていると、父にそんなことを言い出した。
「遥に授業のことは聞いたんだろう?
5歳を迎えた子どもは、対面で言葉の教育を受けたあと、学校で習う教科を勉強する。
いつまでもあの施設にいるわけじゃないから、成長して施設を出たあとに困らないよう、義務教育で学ぶ知識は教えることになっている。
まあ、今のところ成長して施設を出た子どもはひとりもいないがね」
最後の言葉は引っかかったけれど、わたしは学校に通えることに興奮していた。
「燈日が行きたいなら、頼んであげるよ」
「うん、行きたい。
いいの?」
「光臣と知り合ってからの燈日は楽しそうだから、まあ、いいかなって。
ただし、みんなに感情を教えてはいけない、これは変わらない、いいね?」
「うん、わかった」
正直、父の念押しにひやりとして、隠していることの後ろめたさを覚えたが、素直な振りをしてうなずく。
翌日、3人分のお弁当を抱えて、わたしは意気揚々とお昼どきの施設に乗り込んだ。
談話室で待っていると、職員の女性に連れられた遥と光臣くんが入ってきた。
遥は、テーブルに置かれたお弁当の包みを見て、目を輝かせた。
職員が退室し、3人だけになると、遥は待ち切れないとばかりに、お弁当箱を開けた。
たらこパスタに唐揚げ、野菜炒め。
遥は、懐疑的な視線を隠しもせずに、お弁当を睨んでいる。
まずは、見覚えのあるだろう野菜炒めを口に運び、安心したようにうなずくと、唐揚げへと箸を伸ばした。
光臣くんは慣れた様子で、「うん、上手い」と言いながらがつがつとパスタをすすっている。
遥も、満足そうに順調に食べ進めている。
そんな遥に、わたしは言った。
「授業のことなんだけど、わたしも参加できることになったの」
「本当?
一緒に授業を受けられるの、やった」
相変わらず無表情を崩さない遥だが、醸し出す雰囲気が雄弁に物語っている。
嬉しい、と。
わたしは思う。
人間から、感情を排除するなんて、無理なのではないかと。
どう教育したって、嫌いを好きには変えられないし、楽しいことを制限されたくはない。
完全に人間の感情をコントロールして、無感動な人間を作り出すなど、できないのではないか。
父や他の者が目指す青写真なんて、実現可能なのだろうか。
もやもやした気分を抱えたままだったので、せっかく光臣くんと話せるお昼の時間が、上の空で終わってしまった。
わたしが6歳を迎えたころから、『授業』が始まった。
授業を受けるのは、みんな同い年の施設に住む子どもたち。
わたしだけが違う。
初めて足を踏み入れる、3階のフロア。
いつ見ても異様だと思う、小部屋がずらりと並ぶ光景は2階と変わらないが、わたしたちよりもお姉さんお兄さんに見える子どもが多く目についた。
そして、空の小部屋もいくつか見受けられる。
小部屋に挟まれた廊下を抜けると、突き当りには、扉が3つ、並んでいた。
「ここが教室」
と、遥が教えてくれる。
「部屋にいない子は、みんな教室にいる」
なるほど、と納得して遥のあとをついていくと、遥は一番右の扉を開ける。
白い壁に灰色の絨毯、机が整然と並ぶ光景は、まさしく画面の向こうに観た教室だった。
ホワイトボードの前に立つ職員とみられる若い女性。
すでに席についていた子どもが、わたしたちを振り向く。
みんな女の子だ。
みんな長い髪をまとめていて、光臣くんや遥と同じパジャマともジャージともいえない服を着ている。
「授業を始める前に、自己紹介をしましょう」
女性──先生の一言で、みんなががたがたと、席を立った。
「多恵です、よろしく」
真面目そうな雰囲気の女の子が口火を切る。
簡単にそう済ませると、さっさと席に座ってしまう。
「初めまして、英梨です」
えくぼが可愛らしい女の子が柔らかい声音で続く。
「怜奈です、よろしくお願いします」
少しおどおどたした様子の女の子が小柄な身体をもじもじとさせながら、ほっとしたように席につく。
「遥です、目標は名前を漢字で書けるようになることです、よろしくお願いします」
遥の真剣なのに、笑えてしまう自己紹介に、わたしはくすっと笑ってしまう。
けれどすぐに、まずいと思って笑みを引っ込める。
わたし以外に笑う人はいなかった。
「光臣です、6歳です、よろしく」
光臣くんが席に座ると、急に緊張してきた。
わたしは施設で暮らしているわけではない。
いわば部外者なのだ。
そんなわたしを、みんなは受け入れてくれるだろうか。
「初めまして、仙道燈日といいます、よろしくお願いします」
わたしはみんなに向かって深々と頭を下げた。
挨拶は、父から最初に教わった礼儀だ。
「仙道……?」
多恵が訝しげにわたしの苗字を繰り返す。
当然なのかもしれないが、みんなには苗字がないようだ。
「じゃあ、授業を始めましょう。
みんなもう、字は読めるのよね?
じゃあ、教科書を開いてください」
机の上には、何冊かの本が置いてある。
ごく普通の小学生が使う教科書のようだった。
算数、理科、音楽、図工、家庭科。
国語や社会などの教科は基本的に教えないようだ。
読書も、ここではさせてもらえないのだろうか。
父の影響で、古い紙の本を読むことを好むわたしは、好きな本の話題でみんなと盛り上がることができないと知るや落胆した。
映画もドラマもアニメも、会話の糸口になりそうなのに、本当に残念だ。
世の中には、娯楽がたくさんあるのに、みんなはそれを知らない。
わたしだけ、違う世界に迷い込んだような、のけ者にされているような心細さを感じる。
一番後ろの席に座ったわたしは、算数の教科書を開く。
ぱらぱらとめくると、わたしも習っていない数式に出くわし、どこかほっとする。
みんなと一緒にスタートラインを切れるのだ。
光臣くんの学習能力は群を抜いていた。
未知の教科であるはずの算数を、習い始めるや、底知れない好奇心を発揮して、知識をスポンジのようにぐんぐんと吸収していく。
授業が終わってからも、部屋に教科書を持ち込み、寝る時間以外は手放さなかったらしい。
そんなだから、あっという間に教科書を丸暗記してしまい、わたしがもたもたしている隙に、1年生で習う算数を、ものの一週間で理解してしまった。
理科も同じようなものだ。
実験に目を輝かせていたし、先生に積極的に質問したり、とにかく学習意欲が半端ではないのだ。
他のみんなは、取り残されないように、光臣くんに必死についていくことしかできなかった。
でもやはり、授業は楽しかった。
同じ歳の子と、知らないことを一緒に理解していく、お互いを高め合っていく作業は、ひとりで勉強しているときには、得られなかった達成感を与えてくれる。
お昼休み、みんなと給食を食べるのも、楽しかった。
遥の言う通り、最低限の栄養を重視した給食は、お世辞にも美味しいとは言えなかったけれど、みんなと許される範囲の雑談をしながらご飯を食べるというのは、有意義な体験だった。
授業で教わらないことは、家でひとりで学習する。
パソコンの画面の向こうには、確かに先生がいるのに、その学習法が当たり前だったはずなのに、なんだか味気ない。
教室での学習も順調に進み、国語や社会、英語など、授業では習わない教科をリモートの授業で補完しながら、わたしの学校生活は穏やかに過ぎていった。
みんなとの適切な距離のとり方がわかり始め、全員が、お互いに心を許し始めたころのことだった。
会話も弾むようになり、わたしは自分がごく普通の小学生なのではないかと思うようになっていた。
そんなとき、家に帰ると、父が言ってきたことを聞いて、わたしはすぐさま問い返した。
「光臣くんを連れて?」
わたしに温かいココアを差し出しながら、父はうなずいた。
──光臣を、街まで連れて行ってあげたらどうだ?
最初、父が何故突然そんなことを言い出したのか、意味がわからなかった。
あれだけ感情は教えないように、外の世界を知らせないようにと、神経を尖らせていた父が言うこととは思えなかったからだ。
「施設の、外に光臣くんを出していいの?
外、だよ?」
わたしは聞き間違いではないかと何度も確認した。
しかし、わたしの認識は間違いではないのだと、やがて理解した。
光臣くんを、施設から連れ出す……。
考えたこともない展開だった。
父は、光臣くんに街を案内してあげたらどうか、と提案してきた。
意図はわからないながらも、わたしの心は弾んだ。
「光臣くんだけ?
他の子は?」
「……いや、1人で充分だろう」
父の意味深な言葉の意味を、わたしは掴みかねたが、すでに、光臣くんをどこに連れて行こうかということで頭はいっぱいになっていた。
雪がちらつく年の暮れ。
部屋着から着替えた光臣くんが、エントランスで待つわたしのもとに連れて来られる。
6年間過ごした施設の2階、3階フロア以外には行ったことのない光臣くんが、不安そうに、辺りをきょろきょろと見回している。
「行こう、光臣くん。
……寒くない?」
彼は、丈の合わないコートを着せられていた。
警備員が守る入口から外に出る。
寒さに、光臣くんがぶるりと震える。
初めて見る、どこまでも続いている、曇天の空。
そこから降りてくる、冷たくて白い塊。
ほう、と吐いた息が白くなるのを見て、不思議そうにしたあと、何度も何度も息をして、空気を白くして、と初めて目にする現象に夢中になった。
「風邪引いちゃうよ、行こう」
立ち尽くしている光臣くんの腕を引いて歩き出す。
鬱蒼とした木々に四方を囲まれている山の景色。
これから見る、なにもかもが初めてで、新鮮なものに映るだろう。
少し施設から離れた位置で立ち止まると、立派な建造物を振り返る。
「あそこに、ぼくはいたの?」
「そうだよ、あそこが光臣くんが生活してた部屋があった建物。
大きいでしょう?」
光臣くんは、うなずくと、村をざっと見回す。
ひなびた村に建つ、施設とは比べものにならないこぢんまりとした古民家が、ぽつぽつと並ぶモノクロの景色。
しんしんと降る雪が、村に静寂の蓋をする。
しばらく歩くと、早くも光臣くんの呼吸が乱れた。
無理もない、ずっとあの小部屋に入れられて育ったのだ。
運動不足なのだろう。
わたしは、ゆっくりとした歩みで、村の出口に停まった車を指差す。
「もうすぐ車に乗れるから、頑張って」
励ますように肩をぽんと叩くと、光臣くんに不安そうな視線を向けられた。
「あれは、なに?」
「車っていうの。
座っているだけで、運んでくれるんだよ」
「運ぶ……?
どこに?」
「行けばわかるよ、ほら」
わたしは光臣くんと手を繋いで、父が手配してくれた送迎の車へと向かう。
ドアを開けて、後部座席へと光臣くんを座らせ、シートベルトを締める。
「え……え……」
シートベルトに恐怖を覚えたのか、動揺したようにシートベルトを掴んで外そうとする。
「大丈夫、安心して、怖くないよ」
わたしはできるだけ彼が安心できるように柔らかい声音で微笑む。
反対側にぐるりと迂回して自分も光臣くんの隣に乗り込むと、シートベルトをして、安全性をアピールする。
「行きますよ」
運転席の中年男性が、わたしたちの様子を確認すると言った。
「はい、お願いします」
わたしが言うと、エンジンをかけた車が振動する。
走り始めた車に驚いて、ひっと悲鳴をもらすと、光臣くんがわたしにしがみつく。
わたしは彼を抱きしめるようにして背中をとんとん、と撫でてあげる。
すると、次第に車に慣れてきた光臣くんが、窓の外へと視線を向けたのがわかった。
「外、見てみる?」
抱擁を解くと、まだ不安そうな表情だったが、そろそろと、光臣くんが身体を離した。
「わあ……」
ぐねぐねと曲がる山道。
車道にまで枝葉を伸ばす、誰にも手入れされない見棄てられた秘境。
分厚い雲から舞い落ちる雪が色を奪って、景色の全てが灰色に塗り潰される。
光臣くんは、両手と額を窓ガラスにぺったりと貼り付けて、高速で過ぎ去る風景に釘付けになっている。
「……どこへ行くの?」
「麓の街だよ」
「ふもとのまち?」
「うん、光臣くんが住んでる施設以外にも、人が住んでる場所がたくさんあるんだよ」
「ふうん……?」
光臣くんは、どこか釈然
しない様子で、それでも視線は窓の外へ向けたまま、順調に山を下る光景を眺め続けていた。
2時間ほど走った車は、高速を下り市街地へと向かっていた。
山の麓に位置する、地方都市まであと少し。
振動が心地よかったのか、眠ってしまった光臣くんが目を醒ます。
「着きました」
運転手の男性が停車して、わたしたちを振り返る。
そこは街の中心部、駅前の商業施設の前だった。
まだ眠そうな光臣くんを車から降ろす。
途端、彼は襲い来る音の洪水に、両耳を塞いでしゃがみ込んでしまった。
「う、うるさい、うるさい、うるさいっ、耳が壊れる!」
道行く人の話し声、車の走行音、 店舗の軒先から流れるBGM、巨大ビジョンに流れる人気アーティストのMV、街に溢れるあらゆる音を、初めて身体に浴びた光臣くんは、明らかに怯えていた。
「……どうして、こんなに人が……どこにいたの、どこへいくの……」
こわごわと視線を上げ、涙目になりながら、光臣くんが呟く。
「大丈夫、楽しいから、行こう」
うずくまったままの彼の腕を引く。
人の往来が激しい駅前通りでは、泣きじゃくる6歳児は、非常に目立った。
中々動けないでいると、駐車場に車を停めてきた運転手のおじさんが光臣くんをひょいと抱え上げて、すたすたと歩き出した。
父お抱えの運転手は、わたしたちの保護者、言い方を変えるなら、お目付け役だった。
光臣くんを抱えたおじさんは、大型商業施設へと入っていく。
わたしも、父と来たことがある。
店内に入ると、照明が眩しいのか、光臣くんがぎゅっと目を閉じる。
行き交う恋人や家族連れの視線を感じたのか、光臣くんが居心地悪そうに身動ぎした。
「あの、もう下ろしてください」
光臣くんの言葉に、おじさんは素直に彼を床へと下ろす。
光臣くんは、珍しそうに店内をきょろきょろと見回す。
1階フロアには、アパレルショップが複数店舗入っている。
子ども服のブランドもある。
「光臣くん、お洋服買わない?」
光臣くんは、ハンガーにかかっているたくさんの服を見て戸惑い顔だ。
「光臣くんの好きな色とか柄の服にしようよ」
ずらりと並んだ色とりどりの子ども服。
「光臣くんは何色が好き?」
光臣くんが首を傾げながら、ととっと店内に踏み入ると、胸元にキャラクターが刺繍された薄い青色のセーターを控えめに示した。
「可愛いね、サイズが合ったら買っちゃう?」
「かっちゃう?」
「お金っていってね、お金を払うとこのセーターをもらえる、買うことができるの」
わたしはおじさんから渡された千円札を光臣くんに差し出す。
「ね、試着しよ」
困り顔の光臣くんを引っ張って試着室に入る。
それから30分近く、わたしは光臣くんに次々と試着をさせ、ファッションショーを繰り広げた。
「うん、やっぱりこれが似合うかな」
最初に光臣くんが好きだと言ったセーターと、サイズの合ったコートを買うことにする。
光臣くんは、おどおどとしながら、服をレジに持って行き、愛想を振りまく店員の若い女性におじさんから渡された五千円札を渡す。
お釣りをもらって、服が入った紙袋を受け取ると、近くで待機していたわたしの元に帰ってくる。
その顔に、隠し切れない充実した笑みが浮かんでいる。
わたしも嬉しくなって、どうだった?と訊くと、紙袋を大事そうに抱え、光臣くんが大きくうなずく。
まだ、自分を満たす初めての感情の名前がわからないのだろう。
「喜んでる、とは違う?」
「うーん、それでも合ってるけど、『嬉しい』の方が近いかな」
「嬉しい、嬉しいだね」
光臣くんの満面の笑み。
父が必死で阻止していた感情を教えないという教育方針を、わたしは壊してしまっている。
しかし、街へ出かけて初めての体験をさせて、感情を芽生えさせないというのは、不可能ではないだろうか。
父の真意が、意図がわからない。
でも、父が光臣くんを街へ連れ出せと言ったのだ。
あまりよろしくない理由のような気もするが、久々に訪れた商業施設に、わたしも興奮してしまっていた。
「ねえ、プリントシール、撮らない?」
わたしは一層きらびやかな照明が照らすゲームセンターを指差す。
渋る光臣くんを強引に機械の前に立たせ、撮影する。
機械から出てきた自分の写真を見て、「これ、ぼく?」としげしげと眺める。
花柄の可愛らしいフレームに、ツーショットで並び、笑顔のわたしのところに『とうか』光臣くんのところに『みつおみ』と書いた。
加工はあえてしなかった。
6歳の、ありのままのふたり。
わたしは、嬉しくなってしまって、宝物のように大切にプリントシールをかばんにしまう。
それから、わたしたちは、ゲームセンター内に長時間留まり、クレーンゲームやスロット、もぐら叩きなんかのゲームに興じた。
ここでも、光臣くんは知らないことを柔らかい頭でぐんぐんと吸収する。
ゲームのルールを理解して、すぐに攻略法を導き出す。
何回か挑戦しただけのクレーンゲームで、可愛らしいクマのぬいぐるみを取って、わたしにくれた。
はしゃぎ疲れたわたしたちは、フードコートで一息ついていた。
光臣くんは、ハンバーガーを美味しそうにぱくぱくと食べている。
その横で、わたしはフライドポテトをかじっていた。
「ねえ、光臣くん、来てよかった?」
「うん!楽しかったよ」
すっかり人混みにも順応し、リラックスした様子で外出を楽しむ光臣くんを見て、わたしは心から来てよかったと胸を撫で下ろした。
そのあとも商業施設内をぶらついて楽しい時間を過ごし、わたしたちは帰途についた。
帰りの車の中で、半分に切ったプリントシールを光臣くんに渡す。
満面の笑みのわたしと、少し緊張気味の光臣くんを捉えた一枚。
光臣くんも、プリントシールを大事に抱え込んだ紙袋に入れ、わたしに微笑んだ。
その顔を見ただけで、わたしは幸せになる。
なんだかとても愛おしい。
ああ、好きなんだ、と唐突に気づいた。
わたしは、光臣くんに恋をしている。
フィクションの世界に存在する、恋愛という現象が、わたしにも起こったのだ。
いや、彼を好きになったのは、昨日や今日ではない。
初めて施設に連れて行かれ、目が合ったと錯覚したあのとき、すでに自分は光臣くんに特別な、でも正体のわからない感情を抱いていたのだ。
これが、初恋。
漠然と夢に見ていた恋。
「……好きだよ、光臣くん」
ぼおっとした勢いに任せて、わたしは告白してしまった。
光臣くんは、ぱちくりと大きな瞳を瞬かせると、満面の笑みを浮かべた。
「ぼくも、燈日が好きだよ」
「本当!?」
わたしは、嬉しくてシートの上で少し飛び上がってしまった。
「ぼく、知ってる。
好きな人同士は、恋人っていうんだ」
「……恋人……。
わたしたち、恋人なんだね」
「うん。
……燈日は、嫌?」
「そんなことないよ、嬉しいに決まってる!」
「よかった、ぼくも嬉しい」
なんのためらいもなくそう告げる光臣くんに対して、わたしは恥ずかしくて顔を上げられない。
わたしは夢を見ている心地で、うっとりとしていた。
でも、一方で、このことは、誰かに言ってはいけないことなのではないかと不安になった。
知られてはいけない、特に父には。
けれど、本当は、そんな淡いわたしの気持ちなど、父は見抜いているのではないだろうか。
だから、わたしを光臣くんに近づけた。
特別扱いをさせた。
わたしが光臣くんを好きだから。
市街地を離れた車が、未舗装の山道で揺れても起きないほど、光臣くんは疲れて眠り込んでいた。
人生初めての大冒険。
その案内役をつとめられて、彼の初体験に関われて、とても誇らしい。
今日だけじゃない、ずっと、ずっと一緒にいたい。
けれど、帰り着いた村で、無常にも光臣くんは施設の職員によって抱えられ、連れていかれてしまった。
運ばれる途中で目を醒ました光臣くんは、何度も何度もわたしを振り返った。
絶対に離さないとばかりに、紙袋を強く抱いて。
彼がまた、あの小部屋に閉じ込められるのかと思うと、自然に涙が溢れてきた。
なんの力もないわたしには、光臣くんを助けることができない。
歯がゆくて、悔しくて、情けなくて。
いつか、この閉鎖された村から連れ出してあげたい。
早く、大人になりたい。
光臣くんを助けられる立派な大人に。
遠ざかっていく光臣くんを涙を流しながら見送ると、わたしは誓いを握り込むように拳を震わせた。
☆
夢のような体験をして、週末を挟んだ日『授業』に行くと、みんなが光臣くんの机の周りに集まっていた。
光臣くんは、あのセーターを着て、机の上に何枚かの紙を並べて何事か解説していた。
「おはよう……」
みんながあまりに夢中になっているから、気後れして小声で言うが、誰もわたしに見向きもしない。
「でね、これがハンバーガー。
パンにチーズとハンバーグが挟んであって、すっごく美味しかったんだ」
机に並べられたのは、光臣くんがハンバーガーを手に笑顔を見せる、フードコートで撮られた写真だった。
一体、誰が撮ったのか──と、動揺したのも束の間、あの日、わたしたちについて回っていた運転手のおじさんが、カメラをわたしたちに向けていたことを思い出した。
父がなにか命令したのかもしれない。
「『エキマエ』には、たくさんの人がいて、とってもうるさくて、びっくりしたよ。
ほら、この服も、『カイモノ』したんだ。
『オカネ』を払うことを、買い物するっていうんだって」
興奮した様子で、普段からは考えられない早口で光臣くんがまくし立てる。
「へえ、オカネって、どうやったら手に入るの?
私たちも、お金で買い物できるの?」
興味津々といった表情で遥が訊くが、光臣くんは困ったように首を傾げる。
「う〜ん、お金をどうやったら手に入れられるのかは、ぼくにはわからない。
お金をくれたのは燈日だけど、燈日も一緒に行ったおじさんからもらってたから」
みんなが一斉に少し離れた位置にいるわたしに視線を移す。
「えっ……」
みんなの視線にさらされて、わたしはたじろぐ。
「お金は、働いた人がもらえるんだけど……。
子どもはお小遣いっていって、大人からお金をもらえるの」
へえ、とみんなが揃って息をつく。
「燈日、どうして光臣だけ連れて行ったの?
私も行ってみたかったな。
羨ましい」
遥が、様々な場所で、明るい表情を見せる光臣くんとわたしが写った写真を眺めて、ぽつりと呟く。
「そ、それは……お父さんに光臣くんを連れて街に行って来なさいって、言われたからなんだけど……」
「私も、見てみたい、外の世界。
光臣、いいなあ」
多恵からの羨望の眼差しを受けて、光臣くんも申し訳なさそうに目を伏せる。
「うん、ぼくもみんなに行ってほしい。
本当に、楽しかったから。
燈日、また街へ行くことはないの?」
みんなの視線が突き刺さる。
「ごめんね、わからない。
お父さんがいいって言ってくれないと、わたしだけじゃどうにもならないから」
わたしの言葉に、しょんぼりと、みんなが落胆してうつ向いてしまう。
「ごめんね、本当に、ごめん」
「燈日が謝ることはないよ。
でも、外に世界があるなら、どうして私たちは外に出られないのかな?」
怜奈の言葉にどきりとする。
みんなをこんな目に遭わせているのは、わたしの父なのだ。
みんなは明らかに、普通に育てられる子どもと比べたら、理不尽な扱いを受け不幸な境遇にいる。
外に広い世界があることに気づいてしまった彼らの好奇心を抑えることは、わたしにはできなかった。
わたしは彼らを助けたいと思った。
では、わたしになにができる?
……なにも、ない。
わたしは虚無感に囚われた。
『外』が写る写真を眺めながら、憧れの存在へと思いを馳せるように、みんなが嘆息する。
「いつかは、行けるのかな、私たちも、外に」
交差点を歩く雑踏の写真を手にとって見つめながら、多恵が言った。
「こんなに世界は広いのに、私たちはこんな狭い場所にいる。
……ねえ、燈日」
英梨がわたしに視線を定める。
「な、なに?」
「みんな、同じなの?
写真に写ってる人も、家に帰ると私たちと同じ、狭いところに閉じ込められてるの?」
「そ、そんなことは、ない、と思うけど……」
「じゃあなんで、私たちだけこんな狭いところに閉じ込められてるの?
どうして燈日みたいに、外へいっちゃいけないの?」
普段穏やかな英梨が、怒りを滲ませた声音でわたしに詰め寄る。
「ごめんね、ごめん。
多分、わたしのお父さんが悪いの。
わたしのお父さんが、みんなをここに閉じ込めてるんだと思う」
「じゃあ、お父さんに私たちが外に行ってもいいか、聞いてみてよ」
多恵が強い調子で私を睨んで言う。
「う、うん。
聞いて、みるけど……、約束はできないよ」
「それでもいいから、聞いてみて!」
ものすごく早いスピードで、みんなの中の感情が育っている。
自分の置かれた境遇に、憤りを隠せないでいる。
それは、当たり前だと思う。
わたしが謝ろうとしたとき、教室の扉を開けて、先生が入ってきた。
「ずいぶんと盛り上がってるみたいね。
部屋の外まで話し声が聞こえたわよ」
光臣くんが慌てて机の上の写真をかき集めてかばんの中に放り入れる。
みんなも、後ろ髪を引かれるようにしながらも、それぞれの席に着く。
こうして気もそぞろなまま、授業が始まった。