──『死神の弾丸』。

 そう呼ばれる、黒光りするその拳銃で自分の胸を撃ち抜くと、仮死状態になり死を体験できる。

 ロシアンルーレットのように、装填できる弾は一発だけ。

 死を擬似体験する、恐怖とそれを上回るスリル。

 弾丸は塊になった空気で、引き金を引くとともに殺傷能力の高い弾丸に変わる。

 なので、弾は常に一発だけ入っていることになり、補充する必要はなく無限に使える。

 それを、自らを殺すという背徳感をひしひしと感じながら、自分の胸へと打ち込む。

 衝撃とともに身体に風穴が開く。

 身体を弾が貫通する何とも言えない虚無感。

 暗転、暗闇。

 途端、多幸感と浮遊感に包まれる。

 それは天国のような、極楽浄土のような。

 現世の苦しみすべてから解き放たれ、ただただ虹色に輝く世界をさまよう。

 そんなことを、もう何回となく続けてきたけれど、『死神の弾丸』がもたらす快楽は毎回違うものだった。

 天国ともいうべき幻想の世界に行くこともあれば、現実に似た世界で、普段なら絶対にできない犯罪を犯してみたり、永遠ともいえる間、地獄の責め苦にもがいたりと、『死神の弾丸』はめくるめく非日常の世界を体験させてくれる。

 本気で死にたいわけではない。

 自殺したいわけじゃない。

 けれど、死んでみたい。

 わたしは、父が残していったこの、非合法な拳銃の虜になっていた。

 つらい現実を一時的でも忘れさせてくれる『死神の弾丸』の中毒になったのだった。




 夏休みを控えた高校の教室で、女子生徒が数人、スマホの画面を見ながら、ひそひそと何事かをささやき合っていた。

「何見てるの?」

 わたしは、女子生徒──(はるか)たちの手元を覗き見る。

 小柄なわたしは、少し背伸びをした。

「『死神の弾丸』?」

 スマホの画面には、そんな言葉が表示されていた。

「『自分を撃ち抜くごとに天国にも地獄にも行くことができる。
 体験の内容は個人により様々だが、夢のような快楽を味わえるという……』
 本当かな?」

 そう読み上げた宇部遥(うべはるか)がスマホから目を離すと、同じように画面を見つめていたわたしたちの顔を見回す。

 遥は長い黒髪をポニーテールにまとめ、茶色がかった瞳を、不安そうに揺らしている。 

 取り立てて特徴のない、地味な印象の遥の周りに集まる女子生徒も、同じように自己主張が控えめなクラスで目立たない女の子ばかりだ。

「ただの都市伝説じゃない?」

 ショートカットに眼鏡が真面目そうな印象を与える田所多恵(たどころたえ)が、訝しげに眉をひそめる。

「でも、本当だったら、すごく魅力的だよね」

 華奢で、えくぼが可愛らしい竜田英梨(たつたえり)が屈託のない明るい声を上げる。

「自殺ごっこ、か。
 確かに、興味はあるね」

 長い前髪に童顔を隠した足利怜奈(あしかがれな)が興味深そうにスマホを凝視したまま言う。 

 わたしが何か言おうとしたとき、多恵が冷静に言った。

「高校生にもなって、する話じゃないでしょ。
 都市伝説なんて、他にも色々あるじゃない、これもそのうちのひとつだよ、きっと」

 わたしたちの間に沈黙が満ち、教室の喧騒がその隙に入り込んできて、ただでさえクラスで浮いているわたしたちを異物として際立たせる。

 わたしたちは、クラスに馴染むことができず、学校では、ほとんど今のメンバーで固まって過ごしている。

 わたしたちは、絶望的にコミュニケーションが苦手だ。

 友達も作れないし、勉強も運動も、得意なものが何もないと言っていいような有様だった。 

 いつものメンバーで固まっていればいるほど、他人を寄せ付けない雰囲気を醸し出してしまって、クラスメイトから話しかけづらい状況になってしまっている。

 必然的に、高校生活は全く面白くない。

 体育祭や文化祭なんかのイベントにも、積極的に参加しないし、参加しようにも、わたしたちが入れる隙が、すでに人間関係が構築されてしまったクラスには、存在しなかった。

 高校2年生の夏休みまであと少し。

 ハメを外して遊びたい、そんな願望がないわけではないけれど、引け目を感じてしまって、わたしたちは『普通の青春』を送れずにいる。

 みんな、自分の生い立ちに後ろ暗いところがあるし、『普通』とは程遠い環境で育ったため、ごく普通に生きているクラスメイトのようにはどうしたってなれないのだ。

 結果的に、世間から追い出されたわたしたちは、さらに闇へと、自分たちを追い立てる。

──死にたいね。

──うん、もう生きていたくないよ。

 いつしか、わたしたちは、自殺願望とともに暮らすようになった。 

 人生がつらければ、自殺したいと思うことなど普通のことだし、行き詰まった人生の、最後の手段として、自ら死を選ぶという逃げ道があることは、生きていくうえで安心材料でもある。

 つらくなったら死ねばいい、そんな風に、人は心の何処かで死を拠り所にする。

 けれど、これまで自殺を実行しなかったのは、自ら掴み取った自由を、かすかながら胸に存在する未来への希望を、そんな簡単に捨てることをためらったからだ。

 どうしようもなく壊れてしまった人生を、諦められなかったからだ。

 わたしたちが生きてきた道は、理不尽とか、諦観とか、怒りとか絶望とか、そういったものに溢れている。

 自分が望んだわけでもないのに、背負わされてしまった、人生を狂わされてしまった、罪深いわたしたちの半生。

 しかし、その罪だって、犯したくて犯したわけじゃない。

 わたしたちの人生を狂わせた大人たちがいる。

 右も左もわからなかったわたしたち子どもを、都合のいい道具として扱った大人たちへの怒りが、復讐心が、みんなの胸にはくすぶっている。

 大人たちによって左右されるだけの人生は送りたくない。

 ここで死ねば、罪深い大人たちに負けるような気がして、悔しくて、自らこの世を退場することはできなかった。

 とはいえ、つらいものはつらい。

 この世界から目を逸らせてくれる何かにすがりたい。

 自分たちを受け入れてくれない世界から逃げたい。

 だから、わたしたちは『死』を求める。

 本気で死にたいわけではない。

 痛いのだって、苦しいのだって嫌だ。

 単純に、死ぬことは怖い。

 だからか、死を追い求めて、スマホの向こうに広がる闇の中から、都市伝説めいた話をすくい上げてしまうのだ。

 多恵が言ったように、高校生にもなって、幼稚な夢物語を追い求めてしまうのだ。

 耽美な『死』に憧れる、夢を見る。

 孤立した、わたしたちの小さな世界で夢は、急速に育っていく。

 もう、直視せずにはいられないほど、意識せずにはいられないほど、夢や憧れは発芽し、わたしたちに毒をたっぷり含んだ触手を伸ばす。

 誘うように、突き落とすように。

 わたしたちは、それに今にも絡め取られそうになっている。

 昏い穴のふちに立ち、穴から伸ばされる触手に足首を捕まれながらも、踏ん張って落ちないように耐えている。

 わたしたちを踏み止まらせているものは何なのか、わからなくなってくる。

 穴の向こうに広がる甘美な世界を想像して、その身を投げ出してしまいたくなる。 

──ああ、死んでみたい。

──死んだあとは、どうなるのだろう。

 答えを得られるはずのない疑問の解答を知りたくて、わたしたちはまた耽美な『死』に希望を見出してしまう。



 放課後を迎え、クラスメイトたちは部活に習い事にあるいは自宅に向かうため、騒がしくお喋りしながら教室を出ていく。

 彼らのように、青春を謳歌できたら、どんなにいいだろう、幸せだろう。

 でも、わたしたちには、それができないだろうことはわかっている。

 今日も明日も、居場所のない学校で、ただただ貴重な人生の時間を消費していくだけなのだ。

 

 日々膨らむ自殺願望を持て余していた、夏休み直前の放課後のことだった。


 スマホの画面を見ていたわたしたちに、声をかける人がいた。

「『死神の弾丸』は実在するよ」

 びっくりして、わたしたちは一斉に振り返る。

「……光臣(みつおみ)くん……」

 わたしは、背後から声をかけてきた光臣くんを見て、思わず笑顔になる。

 鶴橋光臣(つるはしみつおみ)くんは、わたしの恋人だ。

 背が高くて、爽やかで、ビジュアルが良くて、でもちょっと制服を着崩していたりして、やんちゃな雰囲気でもある。

 笑顔が可愛くて、頼りがいがあって、何より、わたしを大切にしてくれる。

「鶴橋くん……聞いてたの?」

 遥が少し責めるような口調で光臣くんを警戒するように睨む。

 光臣くんは、追及をかわすように、柔らかく微笑んで、「ごめん、聞こえてきちゃったんだよ」と言い訳をしてから続ける。

「『死神の弾丸』は実在する。
 ついでに、『女神の弾丸』ってやつも、存在するんだ」

 英梨が不思議そうに、瞬きをしてから光臣くんに問う。

「『女神の弾丸』?」

「そう。
 『死神の弾丸』は、自殺ごっこで、これ以上ないってくらいの快感を得られるって話だろ。
『女神の弾丸』は、自分以外、つまり他人しか殺すことができない。
『女神の弾丸』に撃たれ死んだ者は、撃った人間だけが視ることのできる幽霊になるって話だよ。
 『女神の弾丸』は、使う人間に弊害が生じる、とも聞くけどね」

「弊害って……?」

 怜奈が好奇心を刺激されたように尋ねる。

「『女神』の方は、使う人間を選ぶ。
 一度『女神』を使ってしまった人間は、人の血を求める『女神』の気が済むまで殺戮を繰り返すという」


 光臣くんの話に、ほう、とみんな感嘆のため息を洩らす。

『女神の弾丸』なんて言葉は、スマホには書いていなかった。

「……なんで、鶴橋がそんなこと知ってるの?」

 多恵が疑わしそうに光臣くんを睨めつける。

「そんな怖い顔すんなって。
 別に、俺が死ぬこととか自殺に興味があるとしたって、どこも不思議じゃないだろ。
 俺だって、お前たちと同じなんだから」

 他の生徒に聞かれないよう、幾分か声を潜めながら言って、光臣くんが苦笑いする。

 光臣くんの言葉で、場の空気が弛緩する。

「……確かにそうだけどさ、光臣は上手くやってる方じゃん。
 クラスに馴染んでるし、友達だっている。
 自殺する動機なんてないでしょ?」

 光臣、とかつてのように呼びながら、厳しい表情を崩さないまま多恵が言い募る。

 いつからか、遥たちと光臣くんは、見えない壁で隔てられたように距離ができて、まともに話す機会もほとんどなくなっていた。

 そうするしかなかったからかもしれないけれど、呼び方も、『光臣』から『鶴橋』に変わった。

 わたしから見ても、浮いてしまっている遥たちとは違って、光臣くんは学校という小さな社会に上手く順応できていると思う。

 それはすなわち、円滑に人間関係を構築することに成功した、わたしたちとは違う人種なのだと、遥たちに敬遠されても仕方のないことなのかもしれない。

 でも、やはり『同じ』なのだ、わたしたちは。

 過去とは、どうしたって離れることはできない。

 わたしたちを縛りつける因縁から抜け出すことは難しい。   

「お前たちから見れば、上手くやってる方かもしれない。
 でも、わかるだろ、俺たちが、本当の意味で『普通』になることはできない、ありえないってことくらい」

 光臣くんの言葉に、みんな黙り込む。

 重い沈黙を破ったのは、多恵だった。

「それで、あんたも自殺しようと思ったの?
 だから、『死神の弾丸』なんて都市伝説を知ってた」

「そうだな……いや、正確には違う。
 本気で死ぬ方法を調べてたんじゃない。
 たぶん、お前らと同じだ。
 現実から目を逸らせてくれる非日常の何かがほしい、苦しみを、一時的でもいいから忘れさせてくれる何かがあればいい……。
 そんなことを思っているうちに、『死神の弾丸』に辿り着いた」

「でもそれって、誰が書いたかわからない都市伝説じゃないの?」

 怜奈が光臣くんを窺うように見上げる。

「いや、『死神の弾丸』は実在する。
 俺は、それがある場所を知ってる。
 もちろん、『女神の弾丸』もある。
 ……試してみたければ、『弾丸』があるところまで案内することはできるけど……。
 でも、そこまでお前らは人生に絶望してるわけでも追い詰められてるわけでもないか。
 遊びのつもりで『あれ』を使うのは危険だもんな」

 最後の方は、独り言のように言うと、友達に呼ばれ、光臣くんは踵を返そうとする。

 追い詰められているわけではない。

 死に急がなくても、わたしたちはまだ若い、人生を立て直す時間はたっぷり残されている。

──だけど。

 わたしたちは目配せし合う。

──死んでみたい。

 『死』が、わたしたちに取り憑き、離さない。

「待って!」

 たまらず声を上げたのは、遥だった。

 光臣くんが、さらりと色素の薄いブラウンの髪を翻してわたしたちを振り向く。

「本当にあるの?
 『死神の弾丸』は」

「あるよ」

 何でもないことのように、光臣くんは告げる。

 わたしたちは無言でうなずき合った。 

「本当に、死なないんだよね?」

 慎重に怜奈が光臣くんに確認する。

「うん、『死神の弾丸』では死なない。
 『女神』の方は死ぬけど」

「……どうして、光臣が、その、『弾丸』のある場所を知ってるの?」

 多恵が、光臣くんの本心を見極めるように眼鏡の奥の瞳を光らせる。

「やったことがあるからだよ、『死神の弾丸』で、仮死状態になったんだ」

「え!?」

 その場にいたみんなが、驚愕を隠せずに声を張り上げる。 

 当の光臣くんは、みんなの驚きなんてどこ吹く風で、涼し気な目元で可笑しそうに口角を吊り上げる。

「すごかったよ、『死神の弾丸』は。
 あれは、本当なら誰にも渡したくない、知られたくない、独り占めしたいくらい幸せな体験だった。
 今思い出しても、身震いするくらいの快感を味わうことができたよ」

「自分を、撃ったの?」

 こわごわと、怜奈が訊く。

 好奇心がありつつも、臆病な一面もある怜奈の性分がそう尋ねさせる。

「そうだよ。
 拳銃に入っている弾丸は一発だけ。
 自分を撃つスリル、空振りだったときの安心感と、実際に弾丸が身体を貫通したときの得も言われぬ恐怖と、死後の世界への扉が開いたような高揚感……。
 言葉にするのは中々難しいな。
 でもあれは、一度味わってしまうと、抜け出せなくなる中毒性がある。
 よく考えてみることだ。
 あれは、人生を狂わせる代物と言って過言ではない」

 生々しい光臣くんの証言に、スマホで読んだ都市伝説が、浮き上がり、形を帯び、現実味を増した。

 ごくりと、みんなの喉が鳴る。

 思いは、みんな一緒だ。

──体験してみたい。

 言葉を交わさずとも、お互い考えていることがわかる。

 今度こそわたしたちから離れていこうとする光臣くんに、遥が叫んだ。

「やりたい、知ってるなら、どこにあるか教えて!」

 遥の必死の呼びかけに、振り向いた光臣くんは、わたしたちの本気度を確認するように、ひとりひとりに目を合わせると、納得したようにうなずいた。

「わかった、でも、説明するの難しいし、危険な場所でもあるし、女子だけで行かせるのは心配だから、俺も一緒に行って案内してやる。
 夏休みに入ってからでいいか?」

「もちろん!」

 みんなの声が揃う。

 こんなにも、わたしたちは『死』を渇望していたのか。

 みんなは一様に明るい表情をみせた。 

 『死』にみんな、心を躍らせている。

 わたしの心も踊る。 

 『死』が、未来への希望になることをわたしは改めて知った。

「ねえ、わたしも一緒に行っていい?」

 と、光臣くんに尋ねたのだけれど、光臣くんは、わたしの言葉に苦い顔をみせただけだった。 



 蝉の鳴き声がシャワーのように降り注ぐ、夏休みが始まったばかりの7月中旬。

 まだ早朝だというのに、夏の虫たちは元気で、夏本番が不安になるほど蒸し暑い。

 照りつける日差しに目を細めつつ、わたしは待ち合わせ場所の、高校の校門前にやってきた。

 すでにみんなは集合していて、日傘をさしていたり、日焼けも構わずノースリーブのワンピースを着ていたりと、それぞれの個性が出た私服姿で校門前に立っていた。

 夏休み中の高校にも、部活の練習にやってくる生徒が当たり前だがたくさんいて、私服姿のわたしたちを珍しそうに横目で見ながら校舎へと消えていく。 

 特に言葉もないまま時間をやり過ごしていると、校門の前に、一台のミニバンが停車した。

 助手席から光臣くんが顔を出す。

 みんなの顔に、緊張が走るのがわかった。

 目的地も知らされず、これからやろうとしていることを考えると、緊張と不安を抱くのも、無理はないのだろう。

 暑さに鈍感になってしまったわたしとは違って、みんなの首筋を汗が伝う。

 ミニバンから颯爽と降りてきた光臣くんが、ざっとわたしたちを見回す。 

「おはよう、悪いな、朝早くから集まってもらって」

 多恵がハンカチで首筋の汗を押さえながら、ミニバンに目を遣り、光臣くんに尋ねる。

「あれは?」

 その視線が運転席の知らない顔の人物を捉えている。

「貴重な休みを、俺たちの送迎に充ててくれる奇特な人。
 土地勘があって、信用できる人だから、安心して」

 光臣くんの言葉に、「疑ってるわけじゃないけど……」と英梨が多恵をなだめながら苦笑して言う。

 スライドドアが開き、広い車内があらわになる。

 座席は清潔だったが、そこはかとなく染みついた、煙の匂いが鼻を刺激する。

 運転手はたばこを吸う人のようだ。

 こわばった顔のわたしたちを乗せると、車はゆっくり走り出した。

 
 暑さから遮断された涼しい車内は快適で、ラジオDJの軽快なトークと、お馴染みの夏ソングが無言の空間を埋めている。

 車は順調に進み、街の中心部を外れ、高速道路を走り、1時間ほどが経過したころ、休憩のためサービスエリアへと入っていった。

 車を降り、うーんと伸びをする。

 夏休みなだけはあって、サービスエリアはどこを見ても、家族連れで賑わっていた。

 気温もぐんぐんと上昇していて、日差しが痛いくらいだ。

 軽食でお腹を満たして、再び車に乗り込む。

「まだ着かないの、『目的地』には?」

 シートベルトを締めながら、どこか不満げに多恵が光臣くんに問いただす。

「うん、まだかかるね。
 これ、どうぞ、長旅になるから」

 そういうと、光臣くんがわたしたちにコーヒーが入ったカップを渡してくれる。

 わざわざ買ってきてくれたようだ。

 コーヒーが苦手なわたしと、運転手さん、光臣くんを除いた全員がカップに口を付ける。

 再び車が高速道路を走り出してまもなく、後部座席にもたれた遥たちが、寝息を立て始めるかすかな息遣いが、空気を震わせた。

 学校でみせる張り詰めた雰囲気を消し、すっかり警戒を緩めたみんなの寝顔を、微笑ましく眺める。

 ぐんぐんと加速する車。

 夢の世界に囚われた遥たちを乗せた車は、鬱蒼と緑が生い茂った山道へと突入していく。
 

 ぐねぐねと右に左にカーブする山道。

 がたごとと小石をタイヤが弾き飛ばす振動がお腹の奥深くに突き刺さる。

 辺りは昼間にも関わらず木々に遮られた日光が届かず、じめじめと湿気ていて薄暗い。

 どことなく懐かしい匂いがして、わたしは目を閉じて振動に身を委ねる。

 車に最大限の負荷をかけつつ、山道を登ること数十分。

 変わらない景色が続いた先が突然開け、集落が姿を見せた。 

 古民家が、ぽつりぽつりと建つ、人の気配が全くしない村だった。

 全体的に空気が茶色がかっていて、砂ともほこりともつかない粒子が覆い、村の景色を、曖昧にしている。

 まだ寝ているみんなを置いて、わたしは光臣くんとともに車を降りる。

 生温い風が、わたしの髪をさらう。

 たばことは違う、何かが焦げたような匂いが風に乗って運ばれてきて、鼻腔を刺激する。

 すえたような、不快な匂いも漂っていて、わたしも光臣くんも少しだけ眉をひそめる。

 しばらく道なりに歩くと、古民家やトタン屋根の平屋建ての古びた家々が隣の家と広い間隔を空けて建っていた。

 塗装のはげかけた家、放置され草木が生い茂った庭、色褪せた看板の元商店、打ち捨てられた村は、すでにこの村で暮らす住民がいないことを物語っていた。

 わたしたちは、しばらく無言で歩く。

 わたしの鼓動が走り出す。

 忘れていた思い出が蘇る。

「光臣くん、みんなを起こそう」

 わたしがそう提案すると、光臣くんはやはり、わたしの言葉に苦い顔をしながらも、もと来た道を辿り始めた。


 眠ってしまったみんなを起こすのには、結構骨が折れた。

 朝早くに集合したせいか、みんな、ぐっすり眠っていて、呼びかけても身体を揺らしても中々目覚めなかったのだ。

 わたしたちに起こされ、目を擦りながら起きてきたみんなは、まだぼんやりとした顔つきながら、ようやく自分たちが置かれた状況を思い出したようで、「着いたの?」と緩慢にシートベルトを外しながら車から降りた。

 頭が重そうで、夢の世界から、まだ完全に覚醒していない様子のみんなが、ぞろぞろと村の方へと向かう。

「じゃあ、また夕方、お願いします」

 みんなが車を降りると、光臣くんが運転手さんにそう告げた。

 寡黙な運転手さんは、声もなくそれにうなずくと、ミニバンはすぐに発進して、わたしたちを置き去りにして姿を消した。

「なに、帰しちゃったの?」

 眼鏡を外し、眉間を揉んでいた多恵が、光臣くんに近づいてきてようやく働いてきた頭で言った。

「うん。
 こんな何もないところで待たせるの失礼だし、これからすることを見られるのもまずいからさ」

 光臣くんの言葉に、みんながはっとしたように、周囲を見渡す。

「そういえば、ここはどこ……」

 多恵が辺りを見回したとき、誰かの小さな悲鳴が聞こえた。

 ふらふらと村に入って行った誰かの──おそらく英梨の声だった。

「なに、どうしたの?」

 怪訝そうに声のした方向に向かって歩き出した多恵が、しかしすぐに悲鳴にはならない程度に息を呑んだ気配がした。

 他のみんなも、足がすくんだように棒立ちになっている。

 一様に顔色が悪く、かたかたと、小刻みに震えている子もいる。

 みんなの後を追って歩いて行った光臣くんが、鷹揚に手を広げて言った。

「ここがどこか、わかったようだな。
 懐かしいだろ?」

 光臣くんの言葉に、答えられる人は誰もいない。

 みんな、今にも卒倒しそうな恐怖に満ちた表情でただただ震えているだけだ。

「何で、こんなところに……」

 遥が呻くように声を絞り出す。

「ここにあるからだよ、『死神の弾丸』が」

 みんなの反応を愉しむように、光臣くんが種明かしをする。

 みんな、激しく動揺していて、誰もなにも言えない。

「どうした?
 懐かしいだろ?
 ここは俺たちの、生まれ故郷なんだから」

「……いてない……」

 「え?」と英梨の呟きに光臣くんが聞き返す。

「聞いてない、ここに来るなんて……」

 蒼白になった唇から、英梨がやっとのことで言葉を送り出す。

「あれだけ体験したがってた、『死神の弾丸』があるんだ、場所はどこだって構わないだろ?
 それとも、ここに来ることに、都合が悪い事情でもあったか?
 まあ、確かに、良いことがあった思い出はないが、4年前に『あんなこと』があって以降、滅多に人が立ち入らない。
 自殺ごっこをするにはぴったりの場所だと思うが、嫌なら帰るか?」

 光臣くんの言葉に、みんなに困惑の色が差す。

 ここに来た本来の目的を思い出したのだ。

『死神の弾丸』で仮死体験をするため。

 気まずそうに顔を見合わせて、みんなが押し黙る。

 ただ、帰ろうと言い出す人はいない。

 みんな、ここに留まることと、夢にまで見た仮死体験ができる貴重な機会を天秤にかけ、的確な選択をしようと必死に頭を働かせている。

 わたしたちが住む街とは、比べものにならないほど、蝉の鳴き声が騒音めいて、鼓膜を震わせる。

 命を賭けて鳴く、哭く。

 騒音に支配された田舎の村。

 思案を続けていた遥たちが、顔を上げ、重大な決断をしたように、力強くうなずき合う。

「行こう、案内して」

 多恵の冷静な言葉に、光臣くんがうなずき、「じゃあ行こう」と先頭に立って歩き始めた。

 手つかずの村は、森のように育った木々に遮られ、気温が異常なほど低い、寒い。

 ノースリーブを着た英梨が、むき出しの二の腕をさする。

 歩き出して10分もしないうちに、光臣くんが足を止めた。

「ここって……」

 そこには、立派な建物の『残骸』があった。

 学校か病院を思わせる3階建ての、鉄筋コンクリートの、一際目を引く建物。

 ここに来るまでに見た、寂れた古民家とは桁違いの巨大な建造物だった。

 しかし、建物の窓は全て割れ、外壁は焼け焦げ、扉も外れていて、一目で、火災があったことが窺える。

 建物の残骸の前で、しばし迷うように立ち止まっていたわたしたちは、光臣くんに急かされ、こわごわと一歩を踏み入れる。

 ぱき、と足元で散乱したガラス片が音を立てる。

 建物内は、ひどい有様だった。

 建物内のドアや仕切りはことごとく破壊され、2階、3階は骨組みだけが残され、綺麗に焼け落ちていた。

 最上階の天井だけは壊れていないので、かろうじて建物らしさを保っている。

 広い空間には、家具などが散乱していて、かつてここで人が生活していたことを物語っている。

 嵐が直撃したあとのような荒れ果てた室内を進んでいく。

「……懐かしいよな、あんなことがあって、みんな燃えてしまった。
 ……みんな、みんな、煙に巻かれて……。
 俺たちだけが助かって、今でも死んだやつらに対しては、申し訳ない思いでいっぱいだよ」

 光臣くんは、寂しそうに、悲しそうに、懐かしそうに、そして、申し訳なさそうに複雑な笑みを廃墟と化した室内を見回しながらささやいた。

 在りし日を鮮明に思い出そうとするように。

「『あれ』があってからも、光臣はここに来てたの?」

 青ざめた顔の多恵が訊いた。

「うん、来てた。
 生まれ故郷だし、死んだやつらの供養のため……と言いたいところだけど、4年前のことがあって以降、ここ、心霊スポットみたいになってただろ、場所知ってるなら肝試ししようぜって、友達に言われて、ここで酒盛りした」

 誰にも言うなよ、と軽い調子で口止めして、いたずらっ子のように光臣くんは笑った。

 そのことを知っていたわたしも、笑いながら唇に人差し指を立てて、内緒、とやはりいたずらっ子のように笑う。

「……よく、来れるね、こんなとこ」 

 多恵が、少し引いた目付きで光臣くんを見る。

「ここで、一緒に暮らしてた仲間が何人も死んだんだ、供養にも来ないなんて、薄情だろ」

 光臣くんの言葉に、みんなが押し黙る。

 あれだけうるさかった騒音が遠くなる。

 廃墟に、沈黙が降りる。



 ここ、稲原村は、わたしたち全員が生まれた場所だ。

 数年前、隣の小石川市と合併した旧稲原村は、地図からその名前を消した。

 わたしが7歳のときと12歳のときに起きた事件により、村から人はいなくなり、今では悪乗りして肝試しにやってくる若者がいるばかりだ。

「……どうかしたか?」

 あまりに重い沈黙に、光臣くんが怪訝そうにみんなを見回す。

「別に……。
 あまり帰ってきたくなかっただけ」

 英梨が口を尖らせて、みんなの気持ちを代弁する。

「まあ、そりゃそうか。
 俺たちの目の前で、施設は燃えたんだもんな。
 俺も子どもだったから、炎を見て怖かった記憶がある」

 わたしも、施設が燃え盛る様を、この目で見ている。

 施設にいる子を助けなきゃ、と気ばかり焦るけれど、まだ7歳の子どもだったわたしにできることはなくて、ただただ呆然と、窓から噴き出す炎を見つめていた。

 そのとき、光臣くんはわたしの隣にいた。

 一緒に火の粉を浴びて、為す術もなく、夜空を照らし出すオレンジの炎に照らされて、誰も救い出すこともできずに、無力感と絶望とともに手を繋いで立ち尽くしていた。


 その火事で助かったのは、わたしと光臣くんと、わたしの父親と、遥たち4人のみ。

 施設にいた30人近くの子ども、職員が犠牲になった。

 確かに、積極的に思い出したい光景ではない。

 できれば、早く忘れてしまいたい。

 記憶を拭い去ってしまいたい。

 助かってしまった負い目を、罪悪感を、蓋をして閉じ込めてしまいたい。

 重い重い蓋をして。

 室内を不気味そうに見回していた英梨が気を取り直したように光臣くんに向く。

「ねえ、ここに『弾丸』があるの?」

 はっと、みんなが目を見開く。

 到着してしまった場所が思いも寄らない村だったことに衝撃を受けてすっかり忘れていたが、本来の目的をようやく思い出したのだ。

 わたしたちは、自殺ごっこをするためにここへやってきた。

 どれだけ思い出したくない場所であろうと、『死神の弾丸』を体験しなければ、ここに来た意味がない。

 意識的に過去のことは思い出さないようにして、わたしたちは気持ちを切り替えた。

「こっちにある」

 光臣くんは、建物に入って左へと向きを変える。

 未だ焦げ臭さが残る荒れた室内を歩いて、壁の前でぴたりと止まる。

 何の変哲もない、焼け焦げ、一部煤けたただの壁の前で立ち止まった光臣くんに、みんなが困惑の表情を示す。

 光臣くんが、焼けてでこぼこになった壁の、『くぼみ』に指をかけた。

 息を呑むみんなの前で、指に力を加え、勢いよく左へ引っ張る。

 建て付けの悪い扉が、がたがたと詰まりながらも開いていく。

 その奥に広がる闇の中に、地下へ続く階段が顔を見せた。

「……こんなところに……」

 みんなは驚きながら、扉の向こうをこわごわと覗き込む。

「ここ、なにがあったところだっけ?」

 怜奈の疑問に、「確か本棚があったはず」と記憶の中の施設のレイアウトを引っ張り出して英梨が返す。

「そう、カムフラージュしてたんだ」

 壁一面に備え付けられていた本棚が焼け、秘密の隠し扉が姿を現したのだ。

 扉の先には灯りはなく、真暗闇がぽっかりと口のように穴を開けていた。

 光臣くんが、何の躊躇もなく階段を降りていく。

 みんなも、ぞろぞろとそれについて階段を降りる。

 かんかん、と鉄の階段を足元を確かめながら踏み鳴らす。

 外からの光りが差し込む入口付近では、ほこりがきらきらと、照らす光りの形に舞い、輝いていた。

 下るにつれ、ほこりとかびの匂いが鼻腔を突く。

 前を行く多恵が、袖で鼻と口を覆った。

 階段を降りきると、十畳ほどの部屋が薄闇に広がっていた。

 光臣くんがスマホのライトを点灯して、部屋を照らし出す。

 左側には原型のない、ごみとも部品ともつかない正体不明のものが山積みになっている。

 右側の突き当りには、木製の机が置かれていて、光臣くんは、一番上の引き出しを開けると、限界まで引き出して、引き出しの裏に手を突っ込む。

 ばり、と音がして、テープを引き剥がすと、光臣くんの手には小さな鍵が握られていた。

 そして、流れるような慣れた動作で、机の下に潜り込んで、床に空いた穴に鍵を差し込む。

 かち、と鍵が回る小気味よい音がやけに鮮明に室内に響く。

 机の下から出てきた光臣くんは床下に埋め込まれた隠し扉を開け、中から二丁の黒光りする拳銃を取り出した。

 拳銃を手に持ち、立ち上がった光臣くんは、デニムの膝の辺りをぱんぱん、と叩いて汚れを落とすと、「ほら」とみんなに拳銃を見せつける。

「セキュリティとしては甘すぎる管理方法だけど、こんなところに来るやつはいないから、別に困らないんだよな」

 黒光りする、女性でも扱える手のひらサイズの拳銃。

 床の扉を閉めながら、「持ってみる?」と光臣くんが拳銃をわたしたちに差し出す。

 まだ信じられないとばかりに困惑した表情でみんなが顔を見合わせる。

「本当にこれが……?」

 疑わしそうな多恵の横から、英梨が興奮したように身を乗り出す。

「どっちがどっち?」

 光臣くんは、小さい方を示して、「こっちが『死神』」とわたしたちに見せ、もう片方の大きい方を示して、「『女神』がこっち」とそれもわたしたちに見せてくれる。

「見た目は変わらないんだね」

 と怜奈が感心したように拳銃を眺める。

「そう。
 間違っても『女神』を使うなよ、使ったが最後、『女神』に殺戮の道具にされる。
 『女神』の気が済むまで殺人鬼にされる」

 光臣くんの解説に、遥が不思議そうに尋ねる。

「誰がこんなものを……」

「所長だよ。
 燈日(とうか)の親父」

 突然、わたしの名前が出てきて驚いたが、肯定のうなずきをする。

「そう、『死神』はわたしのお父さんが作ったの」

 わたしは悪いことを告白した気分になる。

 みんなが父のことを、よく思っていないことがわかるからだ。

 ガンマニアだったわたしの父、仙道昭嗣(せんどうあきつぐ)は伝説上の『死』と『快楽』をもたらす拳銃を、何年も何十年もかけて研究を重ね、ふたつの拳銃を創ることに成功した。

 父は逮捕される前、この地下室に拳銃を隠し、拳銃について説明したメモを残し、その保管をわたしに託した。

 わたしは光臣くんにそのことを話し、当時7歳だったわたしと、光臣くんは『死神の弾丸』で仮死体験を繰り返し、めくるめく世界に没頭した。

 施設が火事になり、遥たちが村を出ていき、ばらばらになってからも、光臣くんはこの地下室に足を運んで、わたしたちは中毒のように自殺ごっこに興じた。

「まず、誰からやる?」

 光臣くんの言葉に、またしても空気が張り詰め、緊張が飽和する。

 誰も率先して手を挙げようとはしなかった。

「……なんだ、誰も覚悟がなかったわけか」

 落胆したような光臣くんの言葉に、負けん気の強い多恵が光臣くんから奪い取るように拳銃をひったくった。

 そして、銃口を胸に押し付ける。

 六分の一の確率で、弾が身体を貫通する。

 大丈夫、死ぬわけじゃない──多恵が、そう自分に言い聞かせていることが、ありありと窺える。

 ごくりと喉を鳴らす多恵の首筋に、汗が伝う。

 鼓動が早くなり、呼吸が浅くなる。

 引き金にかけられた細い指が小刻みに震える。

 ぎゅ、ときつく目を閉じてかたかたと揺れる拳銃を胸に定め、息を止めて引き金を引く。

 かち、という音がして、空間に静寂が落ちる。

 呼吸を乱した多恵が、一度拳銃を胸から離す。

「不発、だな。
 どう?
 初めての自殺ごっこは?」

 愉快そうに光臣くんが多恵を眺めながら訊く。

「どうって……」

 弾む呼吸の合間に、多恵がやっとという感じで言葉を挟む。

 無理はないと思う。

 わたしも、初めてのときは怖かった。

 でも、わたしはその当時、幼かったから、死というものを、今ほど捉えきれておらず、多恵ほどの恐怖は感じていなかったかもしれない。

「どうする、続ける?
 それとも辞めるか?」

 光臣くんの台詞に多恵は顔を歪めると、すぐさま銃口を再び自分の胸に当てた。


 今度はやや落ち着いて、呼吸を整えて引き金に指をかける。

 静まり返る、じめじめとした地下室。

 ぱあん、と耳をつんざく轟音が壁に当たって反響し、鼓膜を震わせる。

 ひっ、とみんなが悲鳴を上げる。

 弾丸を受け、胸に風穴を空けた多恵は、重力に逆らわず、ゆっくりと後ろに倒れていった。

「ね、ねえ、大丈夫だよね?」

 英梨が不安げに声を震わせながら、多恵から視線を離さずに光臣くんに問う。

「平気。
 すぐ目が醒めるよ」

 光臣くんが、軽い調子で答える。

 息を呑んで、わたしたちが推移を見守っていると、10分ほど経ってから、ぴくりとも動かなかった多恵の指が、痙攣するように動いた。

「あっ」

 それを見て、怜奈が声を上げる。

 多恵がゆっくりとまぶたを開ける。

「た、多恵……?
 良かった、大丈夫?」

「なにがあったの?」

 矢継ぎ早に質問が交差する。

 多恵は、しばらく焦点の合わない瞳で放心していたが、意識が現世に戻ったころやっと、ささやくように言った。

「……死んだおばあちゃんに会って、話ができた……」

「おばあちゃん……?」

「死ぬ間際に、一度会っただけの、おばあちゃん。
 川が流れてて、そこを越えたら、『みんな』いた。
 施設で死んだ子とも会えた」 

「ええっ、それって、死後の世界ってやつじゃないの?
 三途の川とか、そういうやつ」

 未だぼんやりとしたまま、緩慢に多恵が首を振る。

「多分……そういうやつだと思う……」

「大丈夫、気分悪い?」

 遥が心配そうに多恵の顔を覗き込む。

 多恵は、口元に微笑を浮かべ、幾分か焦点の合った視線で、みんなを見回した。

「気分悪いどころか……。
 最高の気分だよ。
 幸せだった。
 嫌なこと、全部忘れられた。
 ふわふわして、雲の上にいるような……。
 みんなも怖がらずに、やった方がいいよ」

 珍しく饒舌に、頬を紅潮させながら多恵が目を輝かせる。

 はい、と『死神の弾丸』を渡され、遥は半信半疑の様子を隠しもせずに、手の中の黒光りする拳銃へと視線を落とす。

 すっかり多恵の身体に空いた穴が塞がっていることを何度も確認してから、それでもまだ迷った風に、手の中で拳銃をもてあそぶ遥。

「忘れたいこと、いっぱいあるでしょ」

 わたしの言葉に決意を固めたのか、遥は拳銃を心臓の位置にぴたりと当てる。

「死なない、よね」

 小声で呟いた遥に、多恵が大きくうなずいて見せる。

「それに、私たちは、元々死にたかったでしょ」

 多恵の言葉を受けて、遥も決心したように引き金を引いた。

 轟音。

 遥が倒れる、どさっという音。

 残された英梨と怜奈が、堪え切れないように悲鳴を上げる。

 遥の胸に空いた風穴からは、煙がほのかに上がっている。

 固く目を閉じ、動かない遥。

 壁に背をつけて、座っていた多恵が、安心させるように英梨と怜奈の手を握っている。

 一時的に身体の機能が失われる仮死体験は、回復にエネルギーが使われるのか、身体への負担が大きく、体験後は疲労が強く残るのだ。

 今度は20分の時間を要して、遥が覚醒めた。

 むくりと起き上がった遥は、室内を見回して現実を確認すると、眉をハの字にした。

「……なんだ、もう帰ってきちゃったのか」

 その言葉で、どれだけ幸せな体験をしたのかが、よくわかった。

「天国に行ってきたよ。
 大好きな、もふもふの動物に囲まれて、ご飯あげたり毛づくろいしてあげたり、お世話して、もふもふの上でお昼寝したり、追いかけっこしたり……。
 嫌なことなんて存在しなくて、幸せで……。
 すぐに戻りたいくらい」 

 とろけるような笑顔を浮かべ、夢のような時間を思い返しながら、語り続ける遥を見て、怯えた表情を崩さなかった英梨と怜奈が、勇気づけられたように、うなずき合う。

 まずは英梨が、拳銃を受け取り、胸に銃口を当てた。

 引き金にかけられた指が、恐怖に震えている。

 しばらくためらったあと、ぐ、と息を止めて、きつく目を瞑って、「えいっ」と小さく掛け声をかけてから、引き金を引く。

 耳が痛くなるような破裂音がまたも地下室を反響して、英梨が倒れる、どさっという音と重なる。

 残された怜奈は涙目だ。

 英梨が意識を失ってから、20分ほど。

 わたしたちは、英梨の帰還を待ちながら、無言の時を過ごしていた。

 永遠のような、刹那のような静寂だけが満ちている。


 時間の流れが停滞している地下室で、誰かの吐息が秒針のように規則的に聞こえ、時が進んでいることを教えてくれる。

 ちら、と光臣くんが腕時計に目を落とす。

 英梨の帰還まで、まもなくのようだ。

 すると、一見死体のように横たわっていた英梨が、死の淵から蘇った。

 むくり、と起き上がった英梨は、意識を失うと同時に、自分が手放した『死神の弾丸』を拾い上げると、それを笑顔で怜奈に差し出した。

「すっごいよ、怜奈。
 これは体験した方がいい」

 拳銃を受け取りつつ、怜奈が訊いた。

「英梨は、なにを見たの?」

「ん?
 あたしね、大好きな映画の中に入れたの。
 憧れの俳優さんとかと、直接話ができて、あたし、女優さんになってね、演技とかしちゃったりして……。
 夢のような世界だったなあ」

 思い出し笑いをしながら、英梨が恍惚の表情で遠くに目を遣る。

「あたしが初めて見た映画、外にはこんな世界が広がってるってこと、教えてくれた大切な映画だったから、嬉しかったなあ」

 薄暗い室内でもわかるほどに、英梨の顔色は赤い。

 興奮しているのだ。

 反動から動けずにいる英梨から拳銃を渡された怜奈の顔が強張る。

「大丈夫だって、みんな、無事に戻ってきたでしょ?」

 遥が怜奈の背中を押す。

 疲労の度合いがひどく、みんな壁にもたれているから、言葉での激励だったが、怜奈には効いたようだ。

 意を決すると、『死神の弾丸』を心臓の上に当てる。

 目を閉じ、悲壮な決意を宿した表情で、眉間にしわを寄せると、唇を引き結んで、勢いのまま引き金を引く。

 かちっ。

 不発。

 かちっ。

 不発。

 目を開けて、緊張の糸が途切れたように、怜奈が光臣くんを見る。

「そういうこともあるよ。
 弾は一発しか入ってないんだから。
 それが、この拳銃の醍醐味でもあるから」

 光臣くんの言葉にうなずくと、怜奈は改めて銃口を胸に押し付ける。

 三発、四発、五発と、空振りの音が続く。

 残りは一発。

 再び緊張に表情を染めた怜奈が、最後の引き金を引く。

 ぱあん、と雷鳴にも似た轟が地下室に響き渡った。

 怜奈が拳銃を落とし、倒れていく。

 みんな、どこか安堵したような表情で動かなくなった怜奈を見つめる。

 あとは怜奈が夢のような体験をして、満面の笑みで意識を取り戻すのを待つだけだ。

 そう思っていたのだが、沈黙の末に覚醒めた怜奈は、浮かない顔をしていた。

「怜奈、どうしたの?」

 多恵が訊くと、怜奈は未だ覚醒途中のように遠くを見つめたまま左右に首を振った。

「全然良い体験なんかじゃないよ。
 私、殺人鬼になって、警察に追われてた。
 逃げても逃げても追いかけられて、私と警察しかいない世界をひたすら走り回ってた。
 ……疲れるだけだよ、なにが面白いの……?」

 地下室が静まり返る。

 みんな、怜奈の予想外の反応に、戸惑いを感じているようだ。

「警察に追われてるって、それって……」

 遥の呟きを、「やめなよ」と多恵が鋭く遮る。

「拳銃が見せるのは幻想でしょ。
 現実は関係ない」

 きっぱりと断言した多恵に、「そうだよね」とどこかほっとしたように遥が返す。

 『死神の弾丸』が見せる世界は、必ずしも幸せに溢れたものとは限らない。

 気分が悪くなるような体験を、わたしも何度も経験している。

 しかし、それを差し引いても、『弾丸』が体験させてくれる幸福度は、補って余りある。

 もうやめよう、とは中々ならない。

 次を求め、わたしは性懲りもなく銃口を心臓に当てる。

 わたしもやりたい、と言おうとしたとき、怜奈が床に転がった『死神の弾丸』を掴んだ。

「怜奈?」

「納得できない。
 みんなは幸せな世界に行けたのに、私だけこんなんで、気が済まない。
 だから、もう一回やる」

 怜奈はためらいもなく銃口を心臓の上に当て、あっという間に引き金を引いた。

 みんながあ然とする中、耳をつんざく爆音が、何度も壁に当たり反響し余韻が脳を揺らす。

 ぱたりと倒れた怜奈の胸を弾丸が貫通し、空いた穴から地面が覗いて見える。

 尾を引く弾丸の反響音が壁や空間に染み込んで消え、完全な静寂がわたしたちの間に満ちた。

 連続で『弾丸』を使った怜奈を、みんなが心配そうに見つめている。

 倒れた人の帰還を待つこの時間は、体感的に永遠にも感じるほど長い。

 覚醒めなかったらどうしよう、と、平気なことはわかっているのに一抹の不安が拭い切れない。

 死にたい、は死んでも構わない、ではない。

 『死んでみたい』。

 ただ経験を、体験を、逃避をしたいだけ。

 だって、死ぬことは怖い。

 棄てきれない希望だってある。

 生きたい、とは思わないけれど死にたくもない。

 適度に欲望を満たして、安全性が保障された『死神の弾丸』は、まさしく夢のような存在だった。

 だから、わたしも自分に巣くう空洞を埋めるように、やりきれなさを心の底に押し込むように、光りが差し込まない未来から目を逸らすように、絶望に押し潰されてしまわないように、自分の人生に意味を見い出すように、何度も何度も『死神』の銃口を自分の心臓に突き付ける。

 夢の世界に囚われ、抜け出せなくなる。

 身体の芯がうずく。

 早く、早くあの世界を体験したい。

 じわじわと欲望が顔を出す。

 横の光臣くんに目を遣る。

 わたしと同じ中毒の彼は、禁断症状に陥っていないのだろうか。

 光臣くんが真っ直ぐ見つめる先に、わたしも視線を定める。

 視線の先で、怜奈が身動ぎした。

 覚醒の兆候に、みんなが顔を上げる。

 ゆっくりと怜奈のまぶたが開いていく。

「……疲れた」

 開口一番、怜奈は心底疲弊した様子で呟いた。

 けれどその口元は、笑みの形に吊り上げられている。

 それを確認して、みんながため息混じりに疲れた笑いを浮かべた。

「怜奈、どうだった?」

 わたしが訊くと、怜奈は幼い顔立ちをさらに幼く見せる混じり気のない笑顔を見せた。

「神様のお家に招待されたよ。
 ヨーロッパとかにあるような、豪華なお城で、真っ白で、綺麗で……。
 お姫様みたいなドレス着て、メイクして、晩餐会に出席して、なに料理かわからないけど、すっごく美味しくてね、あんな美味しい料理は食べたことないな。
 神様が、死後はここにおいでって言ってくれて、それで、ああ、ここは天国なんだ、この人たちは神様なんだってことがわかって、死んだら会おうって約束してくれて、終わり。
 帰ってきたの」

 語りを終えると、怜奈は晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。

 みんなが、それぞれ望んだような、夢のような幸福な時間を過ごせたのだとわかり、わたしは光臣くんと視線を合わせた。
 
 彼も、満足そうな笑みを浮かべている。

「ねえ、わたしも……」

 わたしが手を伸ばそうとすると、ひと足早く拳銃に届いた手が、拾い上げてしまう。

「あっ」

 多恵だった。

 わたしの呟きにも構わず、多恵は再び『死神の弾丸』を 手にした。

 多恵を見た遥も、あっと声を上げる。

 英梨も、鋭い視線で多恵を睨みつける。

 みんなの刺さるような視線を受けても意に介さずに、多恵は『弾丸』を自分の胸に当てる。

 ばあん、と鼓膜を突き破らんばかりの轟音。

 倒れる多恵。

 びりびりと震える壁と空気。

 固く目を閉じ倒れた多恵が手放した『死神の弾丸』を、遥と英梨が奪い合う。

「次は私!」

「ずるい、あたしだって……」

 もつれながら拳銃を奪い合っていたふたりの指が引き金を引いてしまい、目に見えない弾が壁に当たりコンクリートの無機質な壁に、引っ掻いたような穴を空ける。

 響き渡る、死に誘う轟音。 

 みんなが、ひっと首をすくめる。

「落ち着いて、『弾丸』は逃げないよ」

 子どもがおもちゃを取り合いするように、拳銃を奪い合うふたりに、わたしが苦笑して仲裁に入る。

 ひょい、と光臣くんが拳銃を取り上げ、「順番な」とふたりをなだめた。

 そうこうする間に、多恵が目を覚ました。

「……ああ、幸せ……」

多恵は眼鏡を外して、涙を拭う。

 もはや誰も、多恵にどんな体験をしたか訊く余裕のあるものはいない。

 一度味わってしまうと離れられない、『死神の弾丸』の恐ろしさ。

 もたらされる中毒。

 みんなの目の色が変わっていた。

 早く次の体験をしたい。

 早く、早く。

 焦るみんなが光臣くんへと殺到し、『弾丸』を奪おうと手を伸ばす。

「落ち着けって、弾切れの可能性はないんだから、順番な、順番」

 子どもに言い聞かせるように、『弾丸』をみんなが届かないように高く掲げて光臣くんがゆらゆらと振ってみせる。

 必死なみんなの反応を、愉しむように光臣くんは意地悪な笑い顔になる。

─もう、光臣くんったら、仕方ないんだから。

 わたしは光臣くんの、ちょっと意地悪なところも好きだ。

 わたしがたしなめようとすると、遥たちが一列に並んでいた。

 ぷっと、光臣くんが噴き出す。

「お前ら、小学生かよ」 

「うるさい、あんたが順番にって言ったんでしょ、素直に順番を待ってあげてるの、いいから、『弾丸』を渡して」

 遥にきっと睨まれ、苦笑しながら光臣くんが先頭に並んでいた遥に『弾丸』を手渡す。

 待ち切れないとばかりに期待に胸を膨らませた遥が、受け取った拳銃の引き金を引く。

 もはや、死の体験だとか、恐怖だとかは、遥たちの頭にはないようだった。

 『死神の弾丸』が見せる幸福感溢れる世界へ行きたい。

 現実を忘れさせてくれる逃避の世界にどっぷりと浸かって戻りたくない。

 もう、止めることなんて、できない。

 何回かの空振りを経て、遥が銃弾に倒れる。

 床に転がった『弾丸』を拾い上げ、英梨がすかさず引き金を引く。

 爆音。

 どさっと倒れる音。

 爆音。

 怜奈が倒れる音。

 あっという間に、わたしと光臣くん以外のみんながほこりっぽいじめじめした地面に倒れ込み、ぴくりとも動かなくなった。

「……みんな、すぐに虜になっちゃったね。
 わかってはいたけど、何だか、わたしたちだけの秘密を知られちゃって、残念な気分」

 わたしの言葉に、光臣くんも軽くうなずく。

 わたしがそっと手を握ろうとすると、光臣くんは気づかない素振りで、腕時計を見る仕草をしながらわたしから手を遠ざけた。

──それからどれだけの時間が経過したか。 

 『弾丸』の性質上、夢の世界からは、30分以内に帰還する。

 だから、そんなに長い時間は経っていないのだろう。

 もう何の音もしなくなった地下室で、衣擦れの音が聞こえ始める。

 覚醒したみんなが、億劫そうに起き上がる音だった。

 身体は疲弊しているのに、快感に満たされた心は快哉を叫んでいる。

 それからは、止めようがなかった。

 弾丸に貫かれては、意識をなくして倒れ、幻想の世界の旅人となり、後ろ髪を引かれるように目を醒ます。

 そしてすぐ次の冒険に出るため、自らを撃ち抜く……。

 かつて経験したことのない興奮と幸福感と達成感。  

 それらの熱気に包まれて、快楽の渦に身を投じる。

 精も根も尽き果てて、みんなの動きが緩慢になってきた。

 彼女たちが何度も何度も天国や地獄へ行くのを見守り、わたしは一度も体験できないまま、みんなを見送り、迎えた。

 みんなの欲望には、底がなかった。

 『弾丸』の中毒だと自負するわたしですら、驚くような渇望をみんな抱えていて、乾きを満たすように、飢えを癒やすように、虚空を埋めるように、『弾丸』を奪い合う。

 疲れから、みんなの動きが止まったころ、床に転がっていた拳銃に、わたしが手を伸ばそうとすると、力なく横たわっていた遥が、「……なんの音?」と掠れた声で呟いた。

 遥の疑問を受けて、みんなが息を詰めて耳を澄ます。

 すると、ここではない、遠くの方から、銃声にも似た爆音が轟いていることに気づいた。

 もう地下室に銃声は反響していない、だとすると、この音は外から聞こえているのだろうことが窺えた。

「……誰もいないはずなんだけどな。
 ちょっと見てくる」

 疲労困憊のみんなを置いて、光臣くんは階段を上がっていく。

 わたしもそれについて行く。

 一段階段を上がるごとに、音が大きくなる。

 銃声に似た、空気を切り裂く音が耳に届いてくる。

 階段を登りきり、隠し扉を開けて地上に出ると、音の正体がすぐにわかった。

 外はバケツをひっくり返したような、滝のような土砂降りの雨が降っていた。

 かろうじて無事な姿で残っている屋根があるため、雨避けとなって、廃墟内に影響はないが、割れた窓や壊れたドアから、強風に押し流された雨が、廃墟内に吹き込んでいた。

 いつの間にか暗くなった空が光り、ばりばりと音を立てながら稲妻が地面に到達する。

 嵐だった。

 一体いつ、天気が急変したのだろう。

 昼間、ここに到着したときは、眩しいくらい太陽は元気で、晴れ渡っていたのに。

 そして、空の暗さにも軽い衝撃を覚えた。

 一体何時間ここで『弾丸』で仮死体験をしていたのだろう。

 わたしも同じ中毒といえるけれど、さすがにこれだけの長時間、地下室にこもっていた経験はない。

 さすがに、みんなに自由にやらせすぎてしまったのではないかと、不安になる。

 『弾丸』には中毒性がある。

 あまりに取り憑かれてしまうと、『弾丸』がもたらす依存性に、身体が侵食され、日常生活に戻れなくなるのではないか。

 しかし、一方で、わたしはこうも思う。

──別に、戻れなくたって、構わないか。

 みんなを心配していたわたしの心が、急速に冷えていく。

 わたしが今日ここに来たのは、『弾丸』を体験するためでも、みんなを心配するためでもない。

 逆恨みを、はらすため。

 降り止む気配を見せない豪雨を、わたしは空疎な気分で見つめていた。

「……止むのかな、これ」

 わたしが呟くと、スマホを取り出した光臣くんが、画面を素早く操作し、唸り声を上げた。

「天気予報なら、今朝確認してきたんだけどな。
 天気予報アプリでは、この辺りに大雨洪水警報が出てる。
 雨雲がなくなるのは夜遅くになってからだ」

 それを聞いて、わたしは不安になる。

「迎え、来られるの?」

 そう訊いて見上げると、光臣くんの口の端に小さく笑みが刻まれたことに気づいてしまい、見てはいけないものを見たような気分に陥った。

「ねえ、どうかしたの?」

 かんかん、と足音を鳴らしながら、階段を上がってきた多恵が不機嫌そうに訊いてきた。

 多恵の後ろから、みんなが階段を上がってくるのが見えた。

「うわ、すごい雨。
 うちら、こんな音に気づかなかったんだね、びっくり」

 すると、突然昏い空が昼間のように光り、照らし出されて瞬間雷鳴が地響きとともに豪快な音を鳴らす。 

 近くに落雷があったようだ。

「きゃっ」

 英梨が首をすくめて小さく悲鳴を上げる。

 空がひっきりなしに光り、連続して雷鳴が空気を震わせる。

 雷が苦手なわたしも、稲妻が空を駆けるたびに、恐怖にぎゅっと目を閉じて光臣くんにしがみついてしまう。

 目の前が真っ白に煙るほどに強い雨が廃墟の屋根に当たっては次々と滝のように流れている。

 それは、純粋な恐怖を覚えるほどの自然の脅威だった。

 ここは山の上だ。

 土砂崩れなどの災害が発生する可能性があるかもしれない。

 もくもくと胸に不安が広がり始めたわたしが、すがるように光臣くんを見上げると、彼はスマホの画面を睨みつけていた。

「ちょっと……」

 そう断って、光臣くんは、わたしたちから少し離れた廃墟の中央付近まで移動していく。

 電話をかけるようだ。

 その程度の移動距離では、豪雨による影響は変わらないだろうと思うが、わたしは静かに彼の姿を見つめていた。

「……え?
 いや、よく聞こえないんだよ、悪い。
 ……えっ?
 マジか。
 ……どうしても無理か?
 そうか……仕方ないな、わかった。
 また、明日頼むよ」

 途切れ途切れにしか聞こえなかったけれど、あまり良い内容の話でないことは、光臣くんの声音からわかった。

「光臣?」

 多恵が雨の粒子に当たって水滴がついた眼鏡を外し、服の袖でレンズを拭いながら光臣くんに近づいていく。

 光臣くんは、諦めたように首を振った。

「運転手に連絡した。
 でも、迎えに来られないって言われた」

 それを聞いた怜奈が「そんな!」と恐怖をあらわにした表情で光臣くんに詰め寄る。

「じゃあ、私たちどうするの?
 帰れないの?」

「山道に繋がる国道で、土砂崩れがあったらしい。
 撤去作業に一晩はかかるから、迎えに行けないってさ。
 明日には、行けるだろうとも言われた」

「と、泊まるの、ここに!?」

 英梨が素っ頓狂な悲鳴を上げた。

「仕方ないだろ、俺たちには、どうしようもないんだから」

 外の土砂降りに負けないように、光臣くんが声を張り上げる。

 雨のせいで、ぎすぎすした空気になり、会話はほとんど怒鳴り合いだ。

「嫌だ!
 こんなところに泊まるなんて!
 どこか他にないの?」

 怜奈が怯えた顔つきで光臣くんに迫るが、光臣くんは取り合わずに軽く腕まで広げて、おどけてみせる。

「確かに無人の家はあるけどさ……。
 お前、あんなことがあった家に泊まれるの?
 4年前、ここであったこと、知らないわけじゃないだろ」

 光臣くんの言葉に、みんなの表情が一変する。

 空気がぴりりと耳に痛いくらい張り詰める。

 雨の音だけが支配する廃墟の沈黙を、答えだと受け取った光臣くんが、割れたガラスや、原型を留めていない家具の残骸を、ブーツのつま先で蹴りながら部屋の隅へと寄せていく。

 広い一続きとなってしまったかつて、みんなが暮らしていた施設の、休憩所だったその場所の真ん中に、光臣くんが全員が座れるくらいの空間を作った。

「……ここに、座れって?」

 多恵が好戦的な瞳で、光臣くんを睨む。

 光臣くんは、正面から取り合おうとはせず、また手を広げてみせる。

「別に、座りたくないなら、明日まで立って過ごせばいいだろ。
 そもそも、ここに来たいって言ったのは、お前らだからな。
 俺を責めるのはお門違いだよ。
 台風が来てるの、確認しなかったのは、確かに俺が悪いけど、調べてこなかったお前らだって、責任あるんだからな」

 憮然とした光臣くんは、ここで一晩過ごす覚悟を決めたのか、自分で掃いた床に座ってあぐらをかく。

 時刻は夜7時。

 雨はおさまる気配を見せない。

 ごおごおと、風が唸り、崩壊寸前の壁に雨が吹き付ける。

 遥が、そろそろと光臣くんが作った空間に腰を下ろす。

 それを合図に、怜奈や英梨が渋々地面に座る。

 スカートやパンツが汚れることに抵抗を示しながら、腰を落ち着けたみんなに、鋭い視線を送りながら、小さく舌打ちして、多恵が輪に加わる。

 わたしもそろそろと、硬いコンクリート剥き出しの床に座る。

 地面は、温かくも冷たくもない。

 みんなが落ち着きを取り戻したころ、光臣くんがぼやくように呟いた。

「あーあ、腹減ったな。
 サービスエリア以来何も食べてないもんな。
 誰か食い物持ってないの?」

 その言葉に、みんなが一斉に、隠し扉の前に置きっぱなしだったかばんの中を探る。

 しかし、日帰りのつもりで訪れたため、当然のことながら空腹を満たせる食べ物を持っている人はいない。

「こんなのしかないけど……」

 英梨が取り出したのは、飴が入った袋だった。

 開封したてで、まだ中身はあまり減っていなかった。

「……仕方がないか」

 光臣くんがため息をつきつつ、英梨を見た。

 英梨はひとりひとりに飴をひとつずつ渡す。

「遭難ってわけじゃないから、一晩我慢するしかないな。
 ったく、ついてないな」

 包装紙を剥き、飴をぽいと口に放り込んだ光臣くんが「うん、甘い」とどこか満足そうに飴玉を舌の上で転がす。

 疲れているときには、甘いものが疲労回復に効果を発揮するようだ。

 しばし、もごもごと飴をなめて小さな幸福を味わっていたみんなが暗くなった室内を不安そうに見回す。

「今日は、寝られないね」

 遥が今にも横になりたそうなほど眠そうに瞬きを繰り返す。

「汚れるの気にしなければ寝られないこともないだろ」

「はあー?
 女の子にこんなところで雑魚寝しろって言うの?」

 英梨が光臣くんを、軽蔑を含んだ眼差しでじろりと見返す。

「残念ながら、俺は女の子じゃないからな、お前らの気持ちなんかわかんねえよ、悪かったな」

 光臣くんも、いじけたように口を尖らせ、英梨に対抗する。

「ねえ、やり合ってないで、なんか楽しい話でもしない?」

 怜奈が淀んだ空気を和ませようと殊更明るく声を上げる。

「でも、こんな暗くてお化けが出そうな廃墟で、楽しい話っていってもねえ……。
 思いつかないよ、中々」

 スマホの残量を確認して、節約のためか電源を切った遥がため息混じりにぼやく。

「スマホのライト、ずっと点けておくことはできないから、これからもっと暗くなるだろうし……。
 本当に私たち大丈夫かな」

 臆病を覗かせた怜奈に、多恵が励ますように告げる。

「ただの雨だよ、大丈夫。
 あと何時間かすれば雨は止む。
 ここにいれば濡れないし、安全だよ。
 朝になれば帰れる」

 多恵の言葉に、怜奈が疲れたように薄く笑った。

「お化け、といえば、ねえ、光臣」

 遥がなにかを思いついた表情になり、強張った顔で光臣くんに目を遣る。

「ん?お化け?」

 わけがわからないとばかりに光臣くんが戸惑ったように遥に聞き返す。

「さっき、ここが心霊スポットになってるって言ってたよね?」

「ん、ああ、酒盛りしたことか?
 誰にも言うなって言っただろ、若気の至りってやつだよ。
 一回やっただけだ」

「そうじゃなくて、酒盛りしたことなんかどうでもいいの。
 ……それより、ここが心霊スポットになったのって、やっぱりあの火事があったから?」

 遥の問いに、みんなの表情が固まる。

 触れてはいけない領域に、遥の問いは抵触している。

 多恵が身を乗り出したそのとき、光臣くんが遠い目をして、あごをさすりながら遥の質問に応えた。

「いや……どっちかというと、4年前にあったことの方がきっかけとしては大きいかな」

「4年前……」

「4年前、稲原村の村人全員が一夜にして姿を消したあの事件。
 稲原は廃村となり、誰も寄り付かなくなった。
 それを面白がって、肝試しに来るやつらが増えたんだよ」

 4年前、遥たちは、もう村を離れていた。

 あの事件のことは、対岸の火事としてメディアで見たり聞いたりした知識しか持っていないのだろう。

 ただ、わたしはそこにいた。

 そこで、事件の一部始終をこの目で見ていた。

 そして、わたしは消えた。

「4年前の事件って、一体村でなにがあったの?」

 英梨がおっかなびっくりといった調子で、それでも好奇心を抑えられないとばかりに光臣くんの答えを待つ。

 多恵が眉間にしわを寄せる。

「俺は、あの事件は『女神』の仕業だと思ってる」

「『女神』の……?」

「ああ。『女神』は、手にした人間を殺戮の道具にする。
『女神』の気が済むまで殺戮をさせられる。
 一夜にして、村人全員が死んだ。
 そんなことができるのは、『女神』しかないと、俺は踏んでる」

「一体、誰がそんなことを……」

 遥の呟きに、光臣くんが険しい表情で、首をゆるゆると左右に振る。

「わからない……。
 あの事件の犯人は、未だに捕まってないからな」

「でも、『弾丸』はふたつとも、あの隠し部屋に隠されてたんだよね?
 あそこに拳銃があること知ってた人って、限られない?
 あの隠し部屋の存在を知っているのは、他に誰がいるの?」

 急所を攻撃されたかのように、光臣くんが、ぐにゃりと綺麗な顔を思い切りしかめる。

「……それは、所長にしかわからないよ。
 この施設を管理していたのは所長、仙道昭嗣だ。
 あの男が誰に『弾丸』の存在を教えていたのかは、俺にもわからない」

「……何人が『女神』の存在を知ってるかもわからないわけね。
 それじゃ、なんのヒントにもならないか。
 仙道昭嗣……あまり聞きたくない名前だね」

 期待外れといった表情を浮かべていた多恵がため息混じりに外へと目を向ける。

「それにしても、寒いね。
 薄着してきたから、羽織るものがほしい」

 日焼け防止のために、多恵は薄いカーディガンを羽織っているものの、それでは防寒にはならず、しきりに腕をさすっている。

 雨が降り始めてから、ただでさえ涼しかった気温が、さらに低くなっていた。

 それはみんな同じようで、無意識に、暖を取るように、みんなの距離が狭くなっていた。

「ねえ、本当に、『出る』の?」

 怜奈が身を乗り出すようにして光臣に尋ねる。

 怖がりの怜奈は、自分がいる場所が心霊スポットだなんて、耐えられないのかもしれない。

「『出る』よ。
 この施設で死んだ、俺たちの仲間、子どもたちが、悪霊となって、ここにいる。
 あの火事で助かってしまった俺たちを恨んで、今も、ほら、そこに」

「きゃあっ」

 怜奈の後ろを指で差して言った光臣くんの言葉に、怜奈が耳を塞いで悲鳴を上げ、うずくまる。

「嘘、冗談だよ」

 光臣くんにからかわれたと気づいて、怯えた怜奈が顔を上げる。

 しかし、それも束の間、軽薄な笑い声で怜奈をからかった光臣くんが、表情を真面目なものに一変させると言った。


「……と、言いたいところなんだけど、正直、ここは『出る』。
 お前ら、気をつけた方がいいよ」

 再び、ひっと怜奈が息を呑む。

 他のみんなにも、どことなく怯えの色が滲み出す。

 怜奈たちを天国から地獄に突き落とした光臣くんが、不意に立ち上がる。

「どこへ行くの?」

 遥が光臣くんの行動に不安を覚えたように声をかける。

「そのへんの家を見て、寒さをしのげるものがないか、家探ししてくる。
 俺も、ちょっとこの寒さには耐えられない。
 ちょっと行ってくる」

「ちょ、ちょっと待って、すごい雨だよ?
 濡れちゃうよ、余計に寒くなって風邪ひいちゃうよ。
 もう暗いし、無闇に動かない方がいいよ。
 それに……あたしたちだけじゃ不安だし……」

 英梨が光臣くんを引き留めようと立ち上がって、懇願するように光臣くんの腕を両手で掴む。

 恋人に馴れ馴れしく触れられ、わたしは少し心穏やかではない。

 光臣くんは、英梨の手をやんわりと払うと、頼もしい笑顔を浮かべた。

「心配すんなって、すぐ戻るよ。
 毛布とか、火を起こす道具とか、探したらすぐ帰ってくる。
 探せる場所なんて、限られてるからな、そう時間はかからない」

 断言すると、光臣くんは土砂降りの中、廃墟を出て行ってしまう。

 走り去る光臣くんの後ろ姿を、みんなが無言で見守る。

 止める暇もなかった。

 猛威を振るう雨は、おさまる様子をみせない。

 誰もなにも言わない。

 ただ心細さを共有して、呼吸をして、不安に押し潰されてそうになって、恐怖から逃れられなくて、余計なことを考えないようにして、悪い想像に気づかないようにして、時間が進んでいることを信じて、ひたすら光臣くんの帰りを待つ。

 吉報を待つ。

 救いと希望を待つ。  

 待つことしか、わたしたちにはできない。

 すると、多恵がぽつりと言った。

「……まさか、またここに戻ってくるなんてね……。
 もう永遠に来ない場所だと思ってた」

「あたしも」

 英梨がやはりぽつりと呟き、同意する。

「二度と来たくなかったよ、私は」

 遥が頭痛を堪えるように、こめかみを押さえながら呻くように言う。

「ここには、つらい思い出しかないね。
 私たちが犯した罪を、突き付けられてる気になるよ」

 怜奈がそう言うと、多恵が顔を上げ、きつい口調で怜奈に突っかかる。

「罪?
 私たちがやったことは罪なの?
 だって、ああするしかなかったじゃない。
 悪いのは、私たちを苦しめた大人でしょう?
 私たちはただの被害者。
 ……そりゃ、死んじゃった子たちに対する罪悪感はあるけどさ。
 でも、その上で、私たちには自由に生きる権利だってあるはず。
 私には、幸せになる覚悟と資格があると信じてるよ」

 多恵の言葉に、わたしの胸はずきずきと疼くような痛みに満たされる。

 どんな顔をしていいのか、わからなかった。

 なんの落ち度もないみんなの人生を、狂わせてしまったのは、わたしの父、仙道昭嗣なのだ。

「……ごめんね」

 わたしは呟く。

 それに応える人は、誰もいなかった。

 豪雨に支配された昏い外を眺めながら、わたしは目を閉じる。

 瞼の裏に、生真面目そうに口を引き結び、しわの多い初老の男性の顔が浮かぶ。

 わたしの前では、ただの優しいお父さんだった、稀代の犯罪者であり、研究に取り憑かれた科学者だった、仙道昭嗣の顔が。