*
翌日の昼過ぎ、六花からメッセージが届いた。駅前で待ち合わせて電車とバスを乗り継ぎ、到着したのは水族館だった。
あれから六花が喜びそうな場所をずっと考えていたのだが、どうしても思いつかなかった。そして結局、映画館と同じように見て楽しめる場所なら、話題に困らないだろうと考えたのだ。
一夜漬けだが、館内にいる生き物については調べておいた。六花には行き先が水族館だと教えてなかったから、予備知識で一歩リードできる。と、思ったのだが……。
「あの魚、カラフルで可愛い! なんて名前だろう……。ねえ空くん、見て」
「あ、ああ……えっと、どれだっけ?」
せっかく予習してきたのに、それがちっとも活かせない。自分が魚にも水族館にもまるで興味がないことに今さらながら気づいた、ということもあるが、原因はそれだけではなかった。
水族館の照明は何だかほの青く、この前の映画館と同じように薄暗い。それでも六花とすれ違うと、とっさに振り返る男の人や、「今の子、可愛くない?」とひそひそ話す女の人が、一人や二人ではない。
それくらい、今日の六花は可愛かった。初デートの時にも着ていたショートコートの下は、少し大人っぽいワンピース姿。膝丈から伸びた足がすらりとしていて美しい。
可愛すぎて直視できずに水槽に目をやると、何とそこにも六花の姿がある。
どの水槽を覗いても、そのガラスには必ず六花の姿が映っていた。そっちにばかり目が行って、とても魚なんか見ている余裕はない。
おまけに館内に入ってから、六花はずっと僕にぴったりと寄り添っている。その距離の近さも、僕が平常心を保てない大きな理由だった。
昨日、匂いについて話したのがまた良くなかった。おかげでついつい意識してしまう。六花から微かに花のような甘い匂いがずっと漂っていて、心臓がちっとも落ち着かない。
「あ、魚の名前、ここに書いてある。やっぱりカラフルなのは南国の魚が多いんだね」
「そうだな。さ、次に行こうか」
半ば機械的に水槽から水槽へ、ぐるぐると館内を歩き回る。こうしてしばらく歩いたところで、六花が不意に立ち止まった。
「ねえ、空くん。子供の泣き声がしない?」
「えっ?」
そう言われて耳を澄ましてみれば、微かに泣き声のようなものが聞こえる。
「行ってみよう」
六花が先に立って小走りで進み、僕は慌ててついて行く。
数メートル進んだところで、部屋の隅に座り込んで泣きじゃくっている、小さな男の子を発見した。子供の歳なんてよくわからないけど、3~4歳くらいだろうか。
「どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」
六花がしゃがみ込んで尋ねるが、男の子は泣くばかりで答えようとしない。
「とりあえず、スタッフのところに連れて行こう。館内放送してくれるだろう」
「そうだね。歩けるかな?」
六花が手を取って立ち上がらせようとするが、男の子は首を横に振って動かない。
「しょうがないなぁ。じゃあ、お姉ちゃんが抱っこしてあげよう」
六花はバッグを僕に預けると、よいしょ、と男の子を抱き上げた。
「重くないか? 僕が代わろうか?」
「へーきへーき。私ってけっこう力強いんだよ。それに、こんな時は女性の方が落ち着くと思うから」
服が汚れると思うんだけどな……という言葉をグッと飲み込んだ。六花のおしゃれなワンピースの襟元は、すでにその子の涙や鼻水でべとべとになっているが、彼女は一向に気にしていない様子だ。
僕だって迷子を見つけたら放ってはおかないし、六花の行動をとやかく言うつもりはない。でも、両手を六花の首筋に回し、彼女の胸元に顔をうずめている男の子を見ていると、どうしてもモヤモヤしてしまう。
抱っこ作戦が成功したというべきか、それとも裏目に出たというべきか。水族館の入り口まで戻ってスタッフに事情を説明したまでは良かったが、その子は六花にすっかり懐いて、彼女にしがみついて離れなくなってしまった。
それで結局、ご両親が館内放送を聞いて迎えにくるまで、僕らはスタッフルームの一角でずっとその子と一緒にいる羽目になった。
ようやくスタッフルームから解放された時には、もう夕方近くになっていた。さっき迷子に気づいたところまで戻って続きを見るには、もうあまり時間がない。
六花の提案で、僕たちは館内一の大水槽のところまで戻ると、その前に置かれたベンチに二人並んで腰掛けた。
座っている人はちらほらと居るものの、閉館時間が近いせいか、ここはそれほど混んではいなかった。
さっきこの水槽を眺めた時はガラスに映った六花ばかりを見ていたけど、今になってようやく魚の姿が目に入ってきた。この近くの海の中を再現したという大水槽には、大小様々な魚が泳いでいて、その一角には凄い数の小魚の群れが作った巨大なトルネードがある。
一糸乱れぬその動きを何となく眺めていると、突然、心臓がドキリと跳ねた。不意に感じる温もりと、より強く香る花のような匂い。そしてこちらに体を寄せて、僕の顔を覗き込んでいる六花の顔が間近にあった。
「ごめんね、空くん。怒ってる?」
「どうして?」
「せっかく誘ってくれたのに、私の都合でお昼からになって、もう夕方になっちゃって……」
「いや、六花が悪いわけじゃないだろ。怒ってるように見えたか?」
本当は、怒っているというより機嫌が悪かった。みっともないことだけど、僕はあの迷子の男の子に嫉妬していたんだ。六花の優しさが、僕以外の誰かに向けられるのが面白くなかった。自分の心の狭さが、つくづく嫌になる。
そんな僕の気持ちなど知る由もなく、六花は可愛らしく小首をかしげた。
「う~ん。怒ってるというか……空くん、水族館に来た時から、何だかぼんやりしてなかった? 練習のし過ぎで疲れてるのかなぁ、とも思ったんだけど」
「ソンナコトナイヨ……」
「あれ? 話し方が片言の外国人みたいになってるよ? あ、もしかして、お魚よりも水槽に映る私を見てたとか?」
「えっ、何でわかるんだ?」
慌てて口を塞いだが、もうあとの祭り。やられた……これは誘導尋問か? 六花は一瞬だけ目を見開いてから、口に手を当ててくすくすと笑い出した。
「もう。だったら水槽じゃなくて、ちゃんとこっちを見てよ。空くんに褒められたくて、頑張っておしゃれしたんだから」
「ごめん。でも、あんまりじろじろ見られるのも嫌だろ?」
言いながら、ズルい言い訳だなと思った。まるで六花のためみたいに言ってるけど、そうしないのは自分のためなのに。
今日の六花をこんな間近で正面から見つめたりしたら、そのまま目が釘づけになりそうで怖い。そんなことをして六花に嫌われるのが、今の僕には一番怖い。
あの男の子の涙と鼻水で汚れたワンピースの襟元は、あの子と別れてから六花が洗面所で水拭きしていた。まだ少し湿ったその襟元に手をやりながら、六花が少し視線を落とす。
「うーん、そうだね。男の人の視線は苦手だったかな。だから空くんと出会う前は、男の人と一対一でまともに話したことすらなかったの」
ということは、六花はこれまで誰とも付き合ったことはないのか。そのことに自分でも驚くほどホッとして、それを顔に出さないように慌てて表情を引きしめる。
「デブで陰キャな僕はともかく、六花が誰とも付き合ったことがないなんて意外だな。それなのに、どうして僕なんかと……」
「また“僕なんか”って言った! でも……ごめんね、それは秘密。バスケで私に勝ったら教えてあげる」
六花は急におどけた口調でそう言いながら、人差し指を口元に当てた。
何かにつけて人差し指を立てるのは、どうやら彼女の癖みたいだ。もしかしたら、バスケをしていた時の名残なのかもしれない。
目の前の大水槽の中では、大きなエイが白い腹を見せながら、悠々と泳いでいる。せわしない小魚たちの動きになんか、我関せずとでも言うように。それを見ていたら、今ここで聞き出さなくてもいいか、という気がしてきた。
バスケで勝てば教えてもらえるのなら、勝てばいいだけの話だ。そう思って、別の質問をしてみる。
「六花はなぜバスケ勝負にこだわる? どうして僕にバスケをさせようと思ったんだ?」
幸いにも、今度は秘密とは言われなかった。六花は少し考えてから、真剣な表情で話し出す。
「私は空くんに幸せになってほしい。だけど、私と付き合ったくらいでそれが叶うと思うほど、自惚れてはいないの。それじゃ答えにならないかな?」
「いや、まるでわからないんだけど……」
正直にそう答えると、六花は少し迷ったあと、躊躇いがちに言葉を続けた。
「もしも私がそばにいられなくなっても、空くんが幸せでいられるって確信がほしいの。私が自信を持てるものなんて、バスケだけだから。空くんが私に勝てるほど上手になれば、みんなの空くんを見る目も変わるんじゃないかな、って」
「そうか……」
今度は僕が考え込む番だった。正直に言うと、六花の最初の一言だけが頭の中に響いていて、そのあとの言葉はちっとも耳に入ってこなかった。でも、それだけで十分だ。
少しの間考えて、僕はチラリと六花の顔を見てから、水槽の方に視線を移した。魚たちの姿は、もう全く目に入ってはこなかったけど。
「つまり……そういうことか。僕はもう大丈夫だって六花が安心したら、僕たちの付き合いは終わるってことなんだな?」
「違う! そうじゃないよ」
六花が激しく被りを振るのが、目の端にチラリと見えた。でもその言葉に縋るつもりはない。
「いいんだ、そんなことだろうとは思ってた。でも勝負に勝ったら、どんな願いでも叶えてくれるんだよな?」
「……うん。その時は、私にできることなら何でもするよ」
「そうか。ならいいんだ」
その会話を最後に、僕らは水族館をあとにした。
*
いつもの公園まで六花を送って、一人になった帰り道。僕は、今日一日の彼女との時間を思い返していた。
六花は心の優しい子だ。さっきの迷子の男の子への対応を見ても、それがよくわかる。
だから六花が僕に交際を申し出たのは、迷子の男の子を助けたのと同じ。僕に対する同情からか、もしくは彼女の生来の優しさからだろう。わかってはいたけれど、今日の一件であらためてそれを痛感した。
そして夜になって、意外なところから六花の言葉の意味がわかった。きっかけは、母親が観ている恋愛ドラマの台詞が、僕の部屋まで聞こえてきたことだ。
『ごめんなさい、今日はお別れを言いにきたの』
『どうして? 僕のことが嫌いになったの?』
『違うのよ。私の父が外交官なのは知ってるでしょ? 今度フランスに駐在大使として赴任することになったの。だから家族で引っ越すことになって……』
ベッドに寝転んでいた僕は、それを聞いて思わず起き上がった。
今日の六花との会話が、一言一句鮮やかによみがえってくる。
――もしも私がそばにいられなくなっても、空くんが幸せでいられるって確信がほしいの。
――つまり……そういうことか。僕はもう大丈夫だって六花が安心したら、僕たちの付き合いは終わるってことなんだな?
――違う! そうじゃないの。
六花は話せないことは秘密だと答える。だから「そうじゃない」と彼女が答えたなら、「そばにいられなくなるかもしれない」という言葉は真実なんだろう。
そして、六花の父親は外交官だと言っていた。ドラマのように駐在大使にならなくても、海外転勤による家族ぐるみの引っ越しは十分にあり得る話だ。
失うのか? 今さら、六花を?
自殺未遂を起こす前とは状況が違う。楽しいことが何もなかった頃の僕じゃないんだ。あまりに未練が大きすぎて、死んだって死にきれるか!
「冗談じゃないぞ……。何がなんでも勝負に勝って、六花を引き止めるんだ」
あえて声に出して、自分自身に誓いを立てる。
もう自分の気持ちに、はっきりと気づいていた。
僕は六花と出会い、一目で恋という沼に落ちた。そしてわずか数日で、戻れない深さにまで沈み込んだ。
彼女の虜になんて、とっくになっているんだ。
「さんざん煽った責任は――取ってもらうからな!」
居ても立ってもいられなくなって、僕はバスケットボールを抱えると、すっかり暗くなった外に飛び出した。
もうなりふりなんて、構ってはいられないと思った。
翌日の昼過ぎ、六花からメッセージが届いた。駅前で待ち合わせて電車とバスを乗り継ぎ、到着したのは水族館だった。
あれから六花が喜びそうな場所をずっと考えていたのだが、どうしても思いつかなかった。そして結局、映画館と同じように見て楽しめる場所なら、話題に困らないだろうと考えたのだ。
一夜漬けだが、館内にいる生き物については調べておいた。六花には行き先が水族館だと教えてなかったから、予備知識で一歩リードできる。と、思ったのだが……。
「あの魚、カラフルで可愛い! なんて名前だろう……。ねえ空くん、見て」
「あ、ああ……えっと、どれだっけ?」
せっかく予習してきたのに、それがちっとも活かせない。自分が魚にも水族館にもまるで興味がないことに今さらながら気づいた、ということもあるが、原因はそれだけではなかった。
水族館の照明は何だかほの青く、この前の映画館と同じように薄暗い。それでも六花とすれ違うと、とっさに振り返る男の人や、「今の子、可愛くない?」とひそひそ話す女の人が、一人や二人ではない。
それくらい、今日の六花は可愛かった。初デートの時にも着ていたショートコートの下は、少し大人っぽいワンピース姿。膝丈から伸びた足がすらりとしていて美しい。
可愛すぎて直視できずに水槽に目をやると、何とそこにも六花の姿がある。
どの水槽を覗いても、そのガラスには必ず六花の姿が映っていた。そっちにばかり目が行って、とても魚なんか見ている余裕はない。
おまけに館内に入ってから、六花はずっと僕にぴったりと寄り添っている。その距離の近さも、僕が平常心を保てない大きな理由だった。
昨日、匂いについて話したのがまた良くなかった。おかげでついつい意識してしまう。六花から微かに花のような甘い匂いがずっと漂っていて、心臓がちっとも落ち着かない。
「あ、魚の名前、ここに書いてある。やっぱりカラフルなのは南国の魚が多いんだね」
「そうだな。さ、次に行こうか」
半ば機械的に水槽から水槽へ、ぐるぐると館内を歩き回る。こうしてしばらく歩いたところで、六花が不意に立ち止まった。
「ねえ、空くん。子供の泣き声がしない?」
「えっ?」
そう言われて耳を澄ましてみれば、微かに泣き声のようなものが聞こえる。
「行ってみよう」
六花が先に立って小走りで進み、僕は慌ててついて行く。
数メートル進んだところで、部屋の隅に座り込んで泣きじゃくっている、小さな男の子を発見した。子供の歳なんてよくわからないけど、3~4歳くらいだろうか。
「どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」
六花がしゃがみ込んで尋ねるが、男の子は泣くばかりで答えようとしない。
「とりあえず、スタッフのところに連れて行こう。館内放送してくれるだろう」
「そうだね。歩けるかな?」
六花が手を取って立ち上がらせようとするが、男の子は首を横に振って動かない。
「しょうがないなぁ。じゃあ、お姉ちゃんが抱っこしてあげよう」
六花はバッグを僕に預けると、よいしょ、と男の子を抱き上げた。
「重くないか? 僕が代わろうか?」
「へーきへーき。私ってけっこう力強いんだよ。それに、こんな時は女性の方が落ち着くと思うから」
服が汚れると思うんだけどな……という言葉をグッと飲み込んだ。六花のおしゃれなワンピースの襟元は、すでにその子の涙や鼻水でべとべとになっているが、彼女は一向に気にしていない様子だ。
僕だって迷子を見つけたら放ってはおかないし、六花の行動をとやかく言うつもりはない。でも、両手を六花の首筋に回し、彼女の胸元に顔をうずめている男の子を見ていると、どうしてもモヤモヤしてしまう。
抱っこ作戦が成功したというべきか、それとも裏目に出たというべきか。水族館の入り口まで戻ってスタッフに事情を説明したまでは良かったが、その子は六花にすっかり懐いて、彼女にしがみついて離れなくなってしまった。
それで結局、ご両親が館内放送を聞いて迎えにくるまで、僕らはスタッフルームの一角でずっとその子と一緒にいる羽目になった。
ようやくスタッフルームから解放された時には、もう夕方近くになっていた。さっき迷子に気づいたところまで戻って続きを見るには、もうあまり時間がない。
六花の提案で、僕たちは館内一の大水槽のところまで戻ると、その前に置かれたベンチに二人並んで腰掛けた。
座っている人はちらほらと居るものの、閉館時間が近いせいか、ここはそれほど混んではいなかった。
さっきこの水槽を眺めた時はガラスに映った六花ばかりを見ていたけど、今になってようやく魚の姿が目に入ってきた。この近くの海の中を再現したという大水槽には、大小様々な魚が泳いでいて、その一角には凄い数の小魚の群れが作った巨大なトルネードがある。
一糸乱れぬその動きを何となく眺めていると、突然、心臓がドキリと跳ねた。不意に感じる温もりと、より強く香る花のような匂い。そしてこちらに体を寄せて、僕の顔を覗き込んでいる六花の顔が間近にあった。
「ごめんね、空くん。怒ってる?」
「どうして?」
「せっかく誘ってくれたのに、私の都合でお昼からになって、もう夕方になっちゃって……」
「いや、六花が悪いわけじゃないだろ。怒ってるように見えたか?」
本当は、怒っているというより機嫌が悪かった。みっともないことだけど、僕はあの迷子の男の子に嫉妬していたんだ。六花の優しさが、僕以外の誰かに向けられるのが面白くなかった。自分の心の狭さが、つくづく嫌になる。
そんな僕の気持ちなど知る由もなく、六花は可愛らしく小首をかしげた。
「う~ん。怒ってるというか……空くん、水族館に来た時から、何だかぼんやりしてなかった? 練習のし過ぎで疲れてるのかなぁ、とも思ったんだけど」
「ソンナコトナイヨ……」
「あれ? 話し方が片言の外国人みたいになってるよ? あ、もしかして、お魚よりも水槽に映る私を見てたとか?」
「えっ、何でわかるんだ?」
慌てて口を塞いだが、もうあとの祭り。やられた……これは誘導尋問か? 六花は一瞬だけ目を見開いてから、口に手を当ててくすくすと笑い出した。
「もう。だったら水槽じゃなくて、ちゃんとこっちを見てよ。空くんに褒められたくて、頑張っておしゃれしたんだから」
「ごめん。でも、あんまりじろじろ見られるのも嫌だろ?」
言いながら、ズルい言い訳だなと思った。まるで六花のためみたいに言ってるけど、そうしないのは自分のためなのに。
今日の六花をこんな間近で正面から見つめたりしたら、そのまま目が釘づけになりそうで怖い。そんなことをして六花に嫌われるのが、今の僕には一番怖い。
あの男の子の涙と鼻水で汚れたワンピースの襟元は、あの子と別れてから六花が洗面所で水拭きしていた。まだ少し湿ったその襟元に手をやりながら、六花が少し視線を落とす。
「うーん、そうだね。男の人の視線は苦手だったかな。だから空くんと出会う前は、男の人と一対一でまともに話したことすらなかったの」
ということは、六花はこれまで誰とも付き合ったことはないのか。そのことに自分でも驚くほどホッとして、それを顔に出さないように慌てて表情を引きしめる。
「デブで陰キャな僕はともかく、六花が誰とも付き合ったことがないなんて意外だな。それなのに、どうして僕なんかと……」
「また“僕なんか”って言った! でも……ごめんね、それは秘密。バスケで私に勝ったら教えてあげる」
六花は急におどけた口調でそう言いながら、人差し指を口元に当てた。
何かにつけて人差し指を立てるのは、どうやら彼女の癖みたいだ。もしかしたら、バスケをしていた時の名残なのかもしれない。
目の前の大水槽の中では、大きなエイが白い腹を見せながら、悠々と泳いでいる。せわしない小魚たちの動きになんか、我関せずとでも言うように。それを見ていたら、今ここで聞き出さなくてもいいか、という気がしてきた。
バスケで勝てば教えてもらえるのなら、勝てばいいだけの話だ。そう思って、別の質問をしてみる。
「六花はなぜバスケ勝負にこだわる? どうして僕にバスケをさせようと思ったんだ?」
幸いにも、今度は秘密とは言われなかった。六花は少し考えてから、真剣な表情で話し出す。
「私は空くんに幸せになってほしい。だけど、私と付き合ったくらいでそれが叶うと思うほど、自惚れてはいないの。それじゃ答えにならないかな?」
「いや、まるでわからないんだけど……」
正直にそう答えると、六花は少し迷ったあと、躊躇いがちに言葉を続けた。
「もしも私がそばにいられなくなっても、空くんが幸せでいられるって確信がほしいの。私が自信を持てるものなんて、バスケだけだから。空くんが私に勝てるほど上手になれば、みんなの空くんを見る目も変わるんじゃないかな、って」
「そうか……」
今度は僕が考え込む番だった。正直に言うと、六花の最初の一言だけが頭の中に響いていて、そのあとの言葉はちっとも耳に入ってこなかった。でも、それだけで十分だ。
少しの間考えて、僕はチラリと六花の顔を見てから、水槽の方に視線を移した。魚たちの姿は、もう全く目に入ってはこなかったけど。
「つまり……そういうことか。僕はもう大丈夫だって六花が安心したら、僕たちの付き合いは終わるってことなんだな?」
「違う! そうじゃないよ」
六花が激しく被りを振るのが、目の端にチラリと見えた。でもその言葉に縋るつもりはない。
「いいんだ、そんなことだろうとは思ってた。でも勝負に勝ったら、どんな願いでも叶えてくれるんだよな?」
「……うん。その時は、私にできることなら何でもするよ」
「そうか。ならいいんだ」
その会話を最後に、僕らは水族館をあとにした。
*
いつもの公園まで六花を送って、一人になった帰り道。僕は、今日一日の彼女との時間を思い返していた。
六花は心の優しい子だ。さっきの迷子の男の子への対応を見ても、それがよくわかる。
だから六花が僕に交際を申し出たのは、迷子の男の子を助けたのと同じ。僕に対する同情からか、もしくは彼女の生来の優しさからだろう。わかってはいたけれど、今日の一件であらためてそれを痛感した。
そして夜になって、意外なところから六花の言葉の意味がわかった。きっかけは、母親が観ている恋愛ドラマの台詞が、僕の部屋まで聞こえてきたことだ。
『ごめんなさい、今日はお別れを言いにきたの』
『どうして? 僕のことが嫌いになったの?』
『違うのよ。私の父が外交官なのは知ってるでしょ? 今度フランスに駐在大使として赴任することになったの。だから家族で引っ越すことになって……』
ベッドに寝転んでいた僕は、それを聞いて思わず起き上がった。
今日の六花との会話が、一言一句鮮やかによみがえってくる。
――もしも私がそばにいられなくなっても、空くんが幸せでいられるって確信がほしいの。
――つまり……そういうことか。僕はもう大丈夫だって六花が安心したら、僕たちの付き合いは終わるってことなんだな?
――違う! そうじゃないの。
六花は話せないことは秘密だと答える。だから「そうじゃない」と彼女が答えたなら、「そばにいられなくなるかもしれない」という言葉は真実なんだろう。
そして、六花の父親は外交官だと言っていた。ドラマのように駐在大使にならなくても、海外転勤による家族ぐるみの引っ越しは十分にあり得る話だ。
失うのか? 今さら、六花を?
自殺未遂を起こす前とは状況が違う。楽しいことが何もなかった頃の僕じゃないんだ。あまりに未練が大きすぎて、死んだって死にきれるか!
「冗談じゃないぞ……。何がなんでも勝負に勝って、六花を引き止めるんだ」
あえて声に出して、自分自身に誓いを立てる。
もう自分の気持ちに、はっきりと気づいていた。
僕は六花と出会い、一目で恋という沼に落ちた。そしてわずか数日で、戻れない深さにまで沈み込んだ。
彼女の虜になんて、とっくになっているんだ。
「さんざん煽った責任は――取ってもらうからな!」
居ても立ってもいられなくなって、僕はバスケットボールを抱えると、すっかり暗くなった外に飛び出した。
もうなりふりなんて、構ってはいられないと思った。