「こんにちは、空くん」
「ああ。今日は……ジャージなんだな」
「昨日は特別。着替えに戻って、空くんを待たせるわけにもいかなかったでしょ?」

 今日の六花はピンク色の可愛らしいジャージを着ていた。靴もスニーカーではなく、真っ白なスポーツシューズを履いている。

 こんな格好をすると、あらためて六花のスタイルの良さが際立つ。
 足はすらりと長く、顔が小さくて頭身が高い。姿勢が良くて、体つきはほっそりしているけど、胸は意外と……。
「どうしたの? 私のことじろじろ見て」
 六花に不意に声をかけられ、慌ててさりげなく目を逸らす。

「あ、ああ、ごめん。やっぱり六花はスタイルがいいなと思って」
「そうかな? えへへ、ありがとう」
 口にした瞬間、気持ち悪がられるかもしれないと思ったが、六花は嬉しそうに笑っただけだった。

「さ、私に見とれてないで始めようか。早く体を動かさないと風邪をひくよ」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
「きゃっ」

 僕がおもむろにジャケットとジーンズを脱ぎ始めると、六花は慌てて顔を背けた。
「いきなり何するの?」
「何って、シャージ姿になるだけだぞ? 下に着てきたからな」
 公園には更衣室なんてないんだから、当然だろう。

「あ~、びっくりした。空くんのエッチ」
「いや、言うタイミングそこかよ!」

 むしろ、六花をじろじろと見てしまったさっきだろ、と心の中でツッコミを入れる。
 六花は楽しそうに笑っていた。ひょっとして今のも冗談だったのか、相変わらずよくわからないけれど。

「それで、今日はどうしよっか」
「基本の基本を教えてくれ。正直、何から手をつけていいのかわからないんだ」
「うん、わかった」

 六花がボールを手にして、ドリブルのコツやピボットのやり方を教えてくれた。ピボットとは、片足を軸足として固定し、もう片方の足を自在に動かすステップのことだ。

「なるほど。これは(じか)に教わらないと、ネットだけで身につけるのは難しそうだな」
「へえ、空くんはネットで勉強してるんだ。えらいえらい」

 六花がお姉さん風を吹かせて僕の頭を撫でる。その行為自体に悪い気はしないが、子供扱いは気に入らない。いや……正直ちょっと嬉しい。でも、僕は勝たなきゃならないんだから、()めてもらえたと喜んでいる場合じゃない。

「余裕でいられるのも今だけだ。すぐに()(づら)をかかせてやる」
「その意気、その意気。それで、今はどんな練習をしてるの?」
 そう聞かれて、僕は今日の練習メニューをそのまま伝えてから、こうつけ足した。

「でも、今日は午前中に色々とやることがあったから、時間配分が上手くいかなかったんだ。明日からはもっと練習時間を増やすよ」
「ちょっとちょっと、待ってよ。そりゃ頑張ってくれるのは嬉しいけど、それ以上増やすなんてオーバーワークだから。そんなペースで続けてたら体を壊しちゃうよ?」

「そうか……なら少しだけ減らすことにする。空いた時間は、テクニック動画を観て勉強するかな」
 頭の中でスケジュールを組み立てながら答えると、六花はポカンと口を開けてまじまじと僕を見つめた。

「空くんって……やっぱりエッチなんだね」
「だから、どうしてそうなる!」
「だって、そんなに一生懸命になって、私の……」
 六花はそこで言葉を切ると、おもむろに自分の胸を両手で隠した。

「ちょっと、人聞きの悪いことを言うなよ。いつ僕が六花の、その……体を要求するなんて言った?」
「えっ、しないの?」
「いや……するかもしれないけど」
「怖い~。私、何されるんだろ?」

 六花は両手で胸を抱いたまま、さらに屈んで全身を隠した。
 (かな)わないな、とため息をつく。からかわれたのだと気づいて仕返ししたのに、あっさりとやり返されてしまった。
 一体どこまでが冗談で、どこまでが本気なんだ?

 気を取り直して本題に入ることにする。今日は、六花にどうしても話しておきたいことがあった。

「それで、昨日の約束の話だけど」
「うん」
「やっぱりなしにするっていうなら、今ここで取り消してほしい。さっきも言ったけど、僕は真剣に練習に取り組んでいる。だから、もしも気が変わったなら……」
「ううん、取り消さない」

 六花は即座に僕の言葉を遮った。
 きっぱりと首を横に振るその表情もまた、真剣そのものだ。

「私の決意は変わらない。空くんが一生懸命練習してくれてるとわかって、とても嬉しいよ」
 六花は力強く言いきり、正面からまっすぐに僕の目を見つめた。
 僕もその視線を真っ向から受け止めて、最後の確認を口にする。

「本当にいいんだな? 僕は六花に、一緒に死んでほしいと言うかもしれない。それでも?」
「うん、その時は一緒に死ぬよ。どんなお願いでも、覚悟はできてる。でも、きっとそうはならないと思うけどね」
「そうか」
 僕はその返事に満足し、六花にきちんと頭を下げた。

「試すようなことを言って悪かった。これで明日からも頑張れるよ。必ず勝って見せるから」
「うん、楽しみに待ってる」
 六花が右手を差し出し、僕はその小さな手をそっと握った。こうして、僕の無謀な挑戦は本格的に始まったのだった。



 六花は一時間ほどコーチをしてくれたあと、すぐに家に帰ってしまった。
 まあ、こんな寒い中で長時間練習してたら、六花の言葉ではないが風邪をひいてしまうだろう。できれば屋内の練習場所がほしいけど、こればかりはどうしようもない。

 結局のところ、六花が何を考えているのかは今日もまるでわからなかった。
 なぜ僕と付き合おうと思ったのか。なぜバスケで僕が勝ったら、何でも言うことを聞くなんて言ったのか……。

 ただ、出会ってからのできごとを思い返してみれば、ヒントは幾つかあるような気がする。例えば昨日のレストランでの六花の言葉だ。

――空くんは私が死なせないよ。だからまず、やりたいことを見つけないとね。

 六花の目的が、僕の自殺を止めることなのは間違いない。付き合うと言ったのもそのためだろう。僕の自殺の動機を潰しつつ、監視する目的もあるんだろう。

 そして「見つける」と言っていた僕の「やりたいこと」が、六花との約束を動機にした、バスケでの勝負なんだろう。
 昨日、僕が公園で他人を信用していないと言ったことが、六花が何でも言うことを聞くなんて無茶な約束を口にする、最後の一押しになったような気がする。

 そこまではわかる。だけど、なぜ彼女がそうまでして僕に構おうとするのかがわからない。
 六花とは、一昨日橋の上で会ったのが初対面で、面識なんてなかったはずだ。僕がどうなろうと、はっきり言って彼女には関係ない。

 バスケの勝負で僕が勝ったら、六花はその理由を話すと言っていた。ならばもう、あれこれ考えるのはやめようと思った。今日彼女に会ってコーチをしてもらって、僕の願いの輪郭(りんかく)が、おぼろげながら見えてきた気がするから。

 僕は六花に惹かれている。それはもう認めるしかない。
 この感情が恋なのか、それとも僕に初めて優しくしてくれた人が彼女だったというだけで、別に誰でもよかったのか。そこのところは、僕も自分の心に自信がなくて、よくわからないけれど。
 いずれにせよ、僕が六花を必要としているのは間違いないんだ。だからこの勝負には、必ず勝たなくちゃいけない。

 僕は他人を信じていない。僕を必要とする人がいるなんて信じていない。
 六花が本気なのはわかったけど、六花の好意がずっと続くと信じているわけではない。もう僕が自殺はしないと六花が確信したら、彼女は僕から離れてしまうかもしれない。
 だから僕は何としても勝負に勝って、彼女との関係を深めるような願い事をする。

 今日は簡単に夕食を済ませて、早めに寝ることにした。六花に休息も大事だと言われたからだ。
 不思議なことに、バスケが生活の中心になったことで、急に全てが規則正しく、そしてシンプルになった気がする。生活の全てがたった一つの目的のためにあるなんて、考えてみれば僕には初めての経験だ。
 どのみち無謀な挑戦なんだ。今から半年間、バスケに全てを懸けてやる。