「家まで送るよ」
 改札を出たところでそう申し出ると、六花(りっか)は嬉しそうに頷いて、僕の先に立って歩き出した。
 しばらく歩くと、小さな公園の前に出た。六花はそこで足を止め、僕の方に向き直った。

「ありがとう、空くん。私の家はこの近くだから、ここまででいいよ。その代わり、ちょっとそこの公園に寄っていかない?」
 なるほど。気を利かせたつもりだったが、迂闊(うかつ)だったと反省する。女の子としては、知り合ったばかりの異性に自宅の正確な位置は教えられないだろう。

 そこは、彼女が幼い頃からよく遊んだ公園だという。常緑樹(じょうりょくじゅ)らしい植え込みにぐるりと取り囲まれた、冬でも緑豊かな場所だった。
 入り口を入るとすぐにベンチが二つ並んでいて、その隣に小さな砂場と、鉄棒と滑り台がある。そして一際(ひときわ)目立っているのが、それらの遊具から離れたところにポツンと一つだけ立っている、バスケットボールのゴールだった。

「そのゴール、やっぱり気になるよね。ここね、昔はもっと広い公園だったの。高校のバスケ部の人たちが練習に使ってて、小さかった私はその姿に憧れたんだ」
「もしかして、六花もバスケをやっているのか?」
 そうであれば、彼女の引きしまった体つきや、ダンスマシンで見せた素晴らしい身体能力にも納得がいく。しかし、同時に一つの疑問が浮かんだ。

「やってた、というか中学で辞めちゃったの。今は帰宅部だよ」
「そうか、だから手が……」
「私の手が、どうかした?」
 たちまち疑問が解消されたため、思わず声に出てしまった。六花の怪訝(けげん)な顔を見て、しまった、と思ったがもう遅い。

「いや、すべすべしてて柔らかくて、バスケをしてる人の手とは思えなかったから」
「そうなんだ。もう辞めてから結構経つもんね」
 言いながら、六花の女の子らしい手の感触を生々しく語り過ぎたと後悔する。気持ち悪がられるかと思ったが、六花はただ自分の両手を、少し寂し気に見つめただけだった。

「結構って、中学まではやってたんだろ? まだ一年も経ってないじゃないか」
「えっ? 私、高校二年生だよ。もう17歳」
「え、そうなのか? 僕は高校一年で、16歳だ」
「年下だったんだね……」
「年上だったのか……」

 同時にお互いを指差しながら、二人の声が重なって、思わず笑いが(こぼ)れた。
 聞けば、六花は僕と同じ高校らしい。学年が違うから、これまで学校では会ったことがなかったんだろう。

「そういえば私たち、お互いのことあまり話してなかったね」
「そうだな。家族のこととか将来の夢とか、そういう基本的な話題をすっかり飛ばしてた」
 六花は僕の心の傷に触れるのを避けていたんだろうけど、僕の方から彼女のことをもっと聞いてみるべきだった。
 少し話そうか、ということになり、二人並んでベンチに座る。

「私のお父さんは外交官で、お母さんは市役所で働いてるから、二人とも公務員なの。私も一人っ子で、ちょっと過保護気味なんだ」
「そうか。前に少しだけ話したと思うけど、僕は母さんと二人で暮らしてる。父親は最初からいなかった。いわゆる非嫡出児(ひちゃくしゅつし)だな」
「お父さんの名前が戸籍にないってこと?」
「うん。だから父親だとは思ってなくて、会いたいと思ったこともないんだ」
 そう言うと、六花の表情が少し暗くなった。彼女が普通の家庭で育ったから、僕の境遇を不幸に思ったのだろう。

「寂しくないの?」
「全然。寂しいと感じるのは、信頼できる相手がいるからだろ? 母さんですら僕を避けてるんだ。誰とも信頼関係を結んだことのない僕には、寂しいって感覚はよくわからないよ」

 そう言ってから、六花が震えているのに気づいた。僕は普段思っていることをそのまま口にしただけだが、六花にはショックだったのかもしれない。
 やがて、六花は僕の顔を睨むように見つめて、低い声で尋ねた。

「だったら、どうして私と会ってくれたの? 私のことも信じられないんでしょ?」
「そうだな、六花のことも信じていなかった。君が、あの橋の欄干の上に立つまでは」

 実際、六花のあの行動がなければ、今こうして彼女と会ってはいないだろう。クラスメイトからの嘘の告白を真に受けたあげく、笑いものになったばかりだ。初対面の女の子から交際を申し込まれるなんて、あの時以上にあり得ないことなんだから。
 六花が体を張って自分の言葉を証明しようとしたからこそ、そして橋から落ちる恐怖を二人で共有したからこそ、生まれた信頼だった。とてもではないが、あれは打算でやれることじゃない。

 僕の答えを聞いて、六花は黙り込んでしまった。気まずい沈黙の時間が、それからおよそ十分ほど続いただろうか。
 六花が何かを考え込んでいるように見えたので、僕は帰ることはもちろん、彼女に話しかけることもできなかった。

 やがて六花はおもむろに立ち上がり、ベンチの後ろに回ると、植え込みの中をゴソゴソと探り始めた。
「ちょっと、何やってるんだ? その高そうな服が破けちゃうぞ?」
「大丈夫、もう見つかったから」
 そう言いながら六花が植え込みの中から取り出したのは、いかにも使い古された感じのバスケットボールだった。

「昨日、ここに隠しておいたんだ。もしかしたら使うかもしれないと思って。ねっ、少しやってみない?」
 ボールを両手で持ち上げて、六花は微笑みながらそう提案した。

「1on1って言ってわかる? 私が空くんにパスをしたらゲームスタート。空くんは私のディフェンスを抜いてシュートを決めるの。スリーポイントは二点、エリア内からのシュートは一点。点が入れば攻撃を続けられる。ボールを奪われたり、シュートを阻止されたら攻撃権が移る。五点先取で勝ち、でどう?」
 一息(ひといき)にルールを説明されて、僕は目を白黒させる。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。全然覚えられない……。そもそも僕はバスケなんて体育の授業でやったくらいで、経験者の六花にはとても(かな)わないよ」
「やってみれば体が覚えるから。せっかくだし、少しだけ、ね?」
 天使の微笑みでそう押しきられ、結局六花とバスケ勝負をすることになってしまった。

 僕がパスを受けると同時に、六花は僕の敵となる。僕にフェイントなんて技術を使えるはずもなく、とにかく必死でドリブルを続けてゴールを目指すしかない。
 しかし、ドリブルなどする暇もなく一瞬でボールを奪われてしまった。

「攻守交代ね。今度は私を止めてみて」
 ディフェンスは、ドリブルをしなくていい分、少し気が楽だった。僕は六花の動きに合わせて、彼女の進路を(ふさ)ごうと試みる。
 だが、一瞬のフェイントで左右に振られ、あっさり抜かれてしまった。

 そして六花は美しいフォームで高々と舞い上がる。
 彼女の指先から放たれたボールは、小さな弧を描いてゴールに吸い込まれた。

「やっぱり無理だって。もう息切れしてきたし」
「何言ってるの。これから、これから」

 スカートがハンデになるかもしれない、と考えたのは甘かった。
 ド素人の僕でもわかる。六花は実力をほとんど出していないのだ。本気の二、三割の力で軽く流しているだけなのに、僕はボールに触れることもできない。
 こうしてあっという間に三十分が経過した。

「今日はここまでにしようか。お疲れさま」
「はぁ、はぁ、はぁ……。今日はって、これからも続けるつもりなのか? 悪いけど、僕はもうやりたくないよ」

 六花とまともに勝負ができたなら、こんなデートも楽しかったのかもしれない。しかし、彼女との力の差が大きすぎて、僕にできることなんて何もない。

「こんなの、勝負にもならない」
「うん。本気で鍛えないと、絶対に勝てないだろうね。そのためには毎日走り込みをして、うんと体を絞って……」
「だから、何のためにそんなことをしなくちゃならないんだ?」
「空くんを馬鹿にしたクラスメイトを見返すため、だけでは足りないよね。だから、頑張る理由を見つけなきゃ」

 そう言いながら六花は僕の正面に立って、ボールを差し出した。僕が仕方なくボールを受け取ると、両手を自分の胸に当て、真剣な眼差しで僕を見つめる。
 それはまるで、神聖な誓いの儀式のように見えた。

「もしも空くんが私に勝てたら、何でも一つだけ、空くんの言うことを聞く。私にできることなら、どんなことでもすると誓うよ」
「……正気なのか? 何でもするなんて、女の子が一番言っちゃいけない言葉だぞ?」

 僕のストレートな警告に対して、六花は首を縦に振った。
「言葉の意味と重さは、ちゃんとわかってる。一つだけ、本当に何でも言うことを聞くよ」
「だから、そんなことを言ったら……」

 六花の提案が突拍子もなさすぎで、真意がまるで掴めない。
 思い浮かぶのは、もちろんいけないシチュエーションの数々だ。さすがに言葉にできず言い(よど)んでいると、六花は変わらず真剣な表情で、とんでもないことを口にした。

「もしもエッチなことに興味があるなら、私の体を好きにしていい。お金が欲しいなら、貯金を下ろして全部あげる。死ねと言うなら、あの橋から飛び降りたっていい。私にできることなら何でもするよ。どう? これって頑張る理由にならない?」

「そりゃあ……理由にはなる。だけど、どうしてそこまでする?」
「それも、私に勝ったら教えてあげる」
 その言葉を最後に、しばらく二人とも黙ったまま、睨み合いにも似た状態が続いた。

 少なくとも六花が本気だってことは、彼女の声や表情からも伝わってくる。
 それに昨日からボールを隠していたってことは、六花は最初からこの提案をするつもりだったんだろう。一時の勢いで口走ったのではなく、よくよく考えた上での発言だったってことだ。

「そのボールは空くんにあげるから、家でも練習してきて。勝負は毎月一回。期限は今日から半年間にさせてもらうね。じゃ、バイバイ」
 そう言い残して六花は公園から去っていき、あとにはバスケットボールを抱えた僕一人が、ポツンと残された。
 こうして楽しかった初デートの幕切れは、大いなる波乱の幕開けとなったのだった。