翌朝、僕はベッドの上でぼんやりと天井を眺めながら、昨夜のことを思い出していた。

――私があなたの彼女になってあげる。うんと幸せになって、みんなを見返してやろうよ。

 六花(りっか)と名乗った少女はそう言った。うん、確かに言った……よな? いや、待て。そもそもあれは本当に現実なのか?

『自殺しようとしたら、可愛い女の子に止められました。その場で交際を申し込まれて、僕にも彼女ができました』
 こんな話を他人にしようものなら、きっと聞いた全員が口を揃えて「病院に行け」と言うだろうな。

「ははは……」
 乾いた笑いが口から溢れる。この部屋に山と積まれたラブコメを(あさ)ったって、ここまで都合のいい展開はそうそうない。

 ましてや六花は実在する女の子だ。読者を楽しませるために生まれたキャラクターじゃない。
 ちゃんと自分の人生があって、将来があって、自分の幸せのために生きているはずだ。そんな子が、他人への同情や憐れみのために、交際を申し出るなんてことがあるのか?

 いっそ、あの時のようにからかわれているのならまだわかる。だけど、六花は危険を冒してあの橋の欄干(らんかん)の上に立ったんだ。あれを見てしまった以上、僕も信じるしかない。
 とはいえ、やっぱり現実離れしていることは否めない……。

 堂々巡りにしかならない考えを、あれやこれやと巡らせていると、不意にスマホが鳴った。

――おはよう、空くん。よく眠れた? もしよかったら、明日デートしない? 一緒に映画なんてどうかな。

 何度もメッセージを読み返して、本当に六花から連絡が来たんだと実感する。

 なるほど、明日は日曜日だ。もっとも停学中の僕には土日なんて関係ない。平日であっても学校には行けないし、土日だろうが外出は禁止だ。そして昨日もそうだったが、僕はそんな決まりを守るつもりはさらさらない。

 明日の朝十時に、ここから二つ先の駅前のオブジェの前で待ち合わせしよう、とメッセージは続いていた。
 映画館なら家の最寄り駅のそばにもあるのに、わざわざ遠い場所を選んだのは、僕が学校関係者に見つからないように、六花が気を利かせてくれたのかもしれない。そう思いながら、僕は布団を跳ね()けてベッドから飛び出した。

 デートなんて生まれて初めてだし、どう準備していいのかわからない。何を着て行ったらいいんだろう。それとも新しい服を買った方がいいだろうか。財布の中身もちゃんと確認して、現金を多めに入れて――そんなことを考えているうちに、ふと我に返った。

 このソワソワした感じには覚えがある。ラブレターをもらって、授業なんて上の空で放課後を待っていた、あの時と同じだ。

「危ない危ない。もう二度とあんな思いはしたくないからな」
 張りきって準備をしていけば、相手にその気がなかった時にまた痛い目を見る。六花はあのドッキリを仕掛けた連中とは違うけど、彼女の狙いがわからない以上、始めから何も期待しない方がいい。

「……服は普段通りでいいか」
 せめて清潔にはしておこうと、くたびれた普段着を洗濯機に放り込み、古いスニーカーを綺麗に洗って履いていくことにした。

 いつも通り平静でいること。天国から地獄に突き落とされるのは、もうごめんだ。いつ終わりを告げられても、「あっそう」と興味なさそうに答えられる心の備えをしておくんだ。

 こうして最低限の準備が済んでしまうと、時間はいつものようにのろのろと過ぎ、そしてデート当日の朝が来た。



 駅のロータリーの中央に設置された、メビウスの輪を二つ組み合わせたようなヘンテコな形のオブジェ。『永遠の愛』と名づけられたこの造形物は、若者のデートの待ち合わせ場所として名物スポットになっている……らしい。事実、今日も多くの男女で(にぎ)わっている。

 もっとも僕は、六花が指定してきたその待ち合わせ場所に、まだ足を踏み入れていなかった。
 改札を出てすぐの建物の陰から、オブジェの周りに六花がいないか探す。幸いにも僕は視力だけはいい。こうした目立つ場所では、見つけられる側より見つける側でいたい。

「まだ少し早いか……」
 約束の時間までまだ二十分もある。ところが驚いたことに、六花はすでにオブジェの前に立っていた。この距離で、この人混みの中から探すのは骨が折れるかと思ったが、その姿はすぐに目に飛び込んできた。それだけ彼女は、明らかに人目を引いていたのだ。

 六花が可愛いのはもちろんわかっていたが、正直ここまでとは思わなかった。何しろ一昨日初めて会った時は、陽が沈みかけの薄暗い中での対面だったから。服装だって、学生服の上からジャンパーを羽織っただけだったし。
 だが今日の彼女は、まるでファッション雑誌から抜け出してきたかのように着飾っている。いや服装だけでなく、容姿やスタイルだってモデル並みなんじゃないだろうか。

 身長は女の子の平均より少し高いくらいだと思うが、顔が小さくて頭身が高い。細身だが体幹がまっすぐ通って姿勢が良く、ひ弱な感じはしない。何かスポーツをやっているのか、あるいは小さな頃からバレエやダンスでも習っているのかもしれない。

 六花に声をかけようとする者はいなかったが、周囲の多くの人が彼女に注目しており、高嶺の花と思われているのは明らかだった。

 一体どんなヤツと待ち合わせているんだろう、なんてみんなが思ってたりしないか? これって……。

 普段着の中でも特にくたびれた服を選んで着てきたことを、早くも後悔する。まあ仮にいい服を着ていたとしても、彼女の前に立てば中身が釣り合わなさ過ぎて、大した違いはないだろう。とてもじゃないが、僕みたいな根暗のデブと一緒に歩いていいようなレベルの子ではない。

 出て行って注目を浴びる勇気が出せず、迷っているうちに約束の時間を過ぎてしまった。六花はさっきからキョロキョロと辺りを見回している。
 さらに十分を過ぎた頃、スマホを取り出して文字を打ち始めた。僕に確認の連絡を入れようとしている……それに気づいて、ようやくオブジェへと走り出す決心がついた。

「ごめん、遅くなった」
「空くん! ううん、大丈夫だよ。来てくれないんじゃないかって、ちょっと心配になったけど」
 わざと少し離れたところから声をかけたのに、六花は嬉しそうに僕の元へと駆けてくる。思った通り「こんなヤツが?」という周りからの怪訝(けげん)な視線が僕に突き刺さった。

「少し離れて歩こう。みんなが見てる」
「えー? いいじゃない、見せつけようよ。空くんの反撃のターンなんだから」
 六花はそう言って、距離を取ろうとする僕の腕をしっかりと掴み、自らの腕を絡ませて体を密着させてきた。

 これが漫画なんかでよく見る、カップルの腕組みか。薄着の季節だったら、彼女の体温や肌の柔らかさを直接感じられたのかもしれない。
 今は冬で重ね着しているからそれはないが、ふわっと花のような甘い香りが漂って、鼻をくすぐる。これは……平常心を保つのに苦労しそうだ。何より、こんなに多くの人にじろじろ見られていたら心臓に悪い。
「とにかく、早く移動しよう」
「うん。今日はいっぱい楽しもうね」
 


 映画館のあるビルは、暖房が効いていて温かかった。
 六花は着ていたショートコートを脱ぐと、薄いセーター一枚になった腕を、あらためて僕の腕に絡めた。より彼女との距離が近くなった気がして、心臓がうるさく音を立てる。
 僕は動揺を気取られないように、素知らぬ振りをして足を進めた。

 相変わらず周囲からの視線を感じるが、六花はそれを気にする様子を全く見せず、楽しそうにはしゃいでいる。そんな彼女を見ていると、何だか少しばかり優越感が湧いてきて、僕は慌ててそれを打ち消した。
 僕は自分の魅力で六花の心を掴んだわけじゃない。彼女の気まぐれで、一時的に隣に居させてもらっているだけだ。

「空くん、どうしたの? なんだか考え込んでるみたいだけど。腕を組むの、嫌だった?」
「いや、これでも楽しんでるんだ。僕の人生にこんな時間があるなんて、まるで夢のようだよ。貴重な体験をさせてもらってる」
「もう、大袈裟だな。これが最後みたいな言い方しないでよ」

 六花が口を尖らせてそんなことを言う。それを聞いて、僕は驚いて彼女の顔を見つめた。だが、こんな至近距離で女の子の顔を見るのは初めての経験で、少々刺激が強すぎたらしい。

「え……次があるのか?」
 そう言いつつ、顔を見ているのが恥ずかしくなって視線を落とすと、セーターの上からでもわかる形の良い膨らみが目に入った。そのせいで誤解されたのかもしれない。

「当たり前でしょ?」
 彼女はあっさりとそう答えると、少し(とが)めるような眼差しで僕の顔を見た。
「でも先に言っておくけど、エッチなことはだめだからね。少なくとも、今はまだ早いから」
「そんなつもりは全くないから、安心してくれ」
 即座にそう答えると、六花は悪戯っぽい笑顔になった。びっくりするくらい、くるくると表情が変わる子だ。

「え、そこ言いきっちゃうの? キスくらいなら考えてもよかったのにな」
「……本当に?」
「冗談。私のファーストキスなんだから、そんな簡単にはあげられないよ」
「ファーストキスって……ま、まあ、期待してないよ」
「え~。期待はしてほしいかな、女の子としては」
「どっちなんだよ」

 漫才みたいなやり取りで、少し緊張がほぐれてきた。僕が女の子との付き合いに不慣れだと見て、彼女なりに気を利かせてくれたのかもしれない。

「映画まで、まだ少しあるな。どこかで時間を潰そうか」
「うん、どこでもいいよ。空くんは、いつもはどんなお店に行くの?」

 そう聞かれてとっさに言葉に詰まる。僕が普段行く店なんて、本屋かゲームショップか、あとはコンビニくらいのものだ。そもそも女の子の「どこでもいい」とか「何でもいい」って言葉は、真に受けちゃいけないって聞くしな……。

「いや、僕の方が合わせるよ。六花の行きたい店にしよう」
「ふーん、じゃあお洋服とかアクセサリーとかコスメとか、選ぶのを手伝ってくれる?」
「……映画の時間までなら、な」
 しぶしぶ頷いた僕の顔がよほどおかしかったのか、あはは……と六花は楽しそうに笑った。

「男の子って、そういうのに興味ないもんね。だからどこでもいいって言ったのに」
「いや、興味がない店に行くのは別に構わない。でも僕なんかがそんなおしゃれな店に居たら、笑われるだろう?」
「誰に?」
「そりゃ、他の客とか店員とか」
 すると六花は、またくすくすと笑い出した。

「まさか、笑わないよ~」
「現に六花だって今、笑ってるじゃないか」
「それは、空くんがおかしなこと言うからだよ。お店に行ったからって笑われるわけないでしょ?」
 思わずムッとして言い返すと、六花は相変わらず笑顔のまま、今度は右手もひらひらと振って見せる。それを見て、僕はますますムキになった。

「いや、笑われなかったとしても、不審者として通報されるかもしれないぞ」
「まさか。でもそんなに心配なら、やっぱり空くんの行きたいお店にしようよ」
「じゃあ……とりあえず本屋でいいか?」
「もちろん、いいよ」

 一階の面積の大半を占める大型書店に入った。ここならそれぞれが好きな本を見て時間を潰せる。そう思ったのだが、六花は僕のそばから一歩も離れようとしない。

「いや、自由に見てきていいんだぞ? 時間になったら入り口で合流して映画館に向かえばいい」
「それじゃあ、デートの意味がないでしょ?」
 六花の返事に、僕はどう答えていいか一瞬迷った。

「なら僕が付き合うよ。六花は好きな本を見ればいい」
 そう言いながら、僕はめくっていた雑誌を書棚に戻した。ところが六花はすぐにその雑誌を手に取ると、もう一度僕に差し出してきた。

「私は……特に読みたい本ってないんだよね」
「別に読書に興味がなくたって、ファッション雑誌とか雑貨のカタログとか、色々とあるだろ?」
「なんでかな、一人で読んでも面白いと思えないの。迷惑じゃないなら、空くんの本を一緒に読ませて」

 そもそも本は一人で読むものなんだけどな、と言いかけて、僕は不毛な会話を打ち切った。別に今日は本を読みに来たわけではないのだ。彼女がいいと言うならそれでいい。
 僕が雑誌を開くと、六花はすぐ隣からページを覗き込んで、ニコニコと楽しそうにしている。おかげで僕は雑誌の内容が全く頭に入らなかったが……それはそれで楽しい時間だった。

 日曜日だけあって、映画館はかなり混雑していた。でもここはショッピングモールに比べて照明のトーンが落ち着いているせいか、人目はそれほど気にならない。

「観る映画、勝手に決めちゃってごめんね」
 上目遣いで、六花が申し訳なさそうに言った。
「いや、映画に誘ってくれたのは六花の方だし、本屋で付き合わせちゃったしな」
「ありがとう。この映画、どうしても空くんと観たかったんだ」

 映画のタイトルは『The last month』。有名な小説が原作の洋画で、僕が知っているくらいだから、そこそこ話題になっている作品だ。

 チケットを買って館内に入ると、六花はようやく組んでいた腕を外した。わずかな開放感と大きな物足りなさを感じながら、暗い階段をゆっくりと降りる。
 だが席に座った途端、ドキンと心臓が跳ね上がった。
「なっ、ちょっと」
「このくらい普通でしょ? 怖い映画なんだから」
 隣に座った六花が、突然手を繋いできたのだ。

 服の上から腕を組むよりも、直に手を握る方が僕としてはずっと緊張する。
 小さくて薄い掌が重ねられたかと思うと、細くて長い指が僕の太い指の間を(くぐ)り抜ける。指と指とが絡み合って掌が重なるこの繋ぎ方は、俗にいう「恋人繋ぎ」というものだ。
 驚くほど柔らかなその手の感触に、心臓がせわしなく音を立て、繋がれた手にどこまで力を入れていいのか、まるでわからない。僕の手は、汗ばんだりしていないだろうか。

 なるべく平静を装ってスクリーンを見つめる。館内が暗くて助かった。そうでなければこの動揺を、六花はおろか周りの人にも気づかれてしまいそうだ。
 そして、映画が始まった。

――主人公は、人の死期がわかってしまう女の子。彼女はある男の子と恋に落ちるが、彼の死は一年後に迫っていた。恋人の死期を遅らせるために主人公はあらゆる手を尽くすが、運命は変えられない。無情にも時間は流れ、運命の日まであと一か月。その時、二人が取った選択とは……。

 物語が進むにつれ、場面が変わるにつれて、六花の手が震えたり、僕の手が強く握られたりする。まるで彼女の感じていることが手を通して伝わってくるようで、その感受性の強さに感心してしまった。