病室まで六花を送り届けると、僕は再びタクシーに乗って家に帰った。病院では六花のお母さんが待っていて、僕の自宅までの料金を払ってくれたのだ。
物のない殺風景な自室に戻ると、僕はベッドにゴロンと寝転がり、今日一日の出来事を一つ一つ思い返した。
本当に、これで良かったのだろうか。六花は、一度は手術をはっきりと拒否したんだ。ベッドの上で望まない人生を送るくらいなら、死を選びたかったんじゃないか?
だけど同じく死を望んだ僕に、六花は生きろと言ってくれた。ならば、僕も彼女と同じことができたんだろうか。
六花が僕に生きる力を与えてくれたように、僕は彼女に生きる力を与えられたんだろうか……。
やれることは全てやったはず。でも、何か大切なことを忘れているような気がする……。
おもむろに起き上がって、部屋をぐるりと見回す。その時、床に転がったバスケットボールが目に入った。
そういえばここ数日、ボールに触れてもいなかった。最後の勝負の日までは、毎日寝るまでこのボールでハンドリングの練習をしていたのに。
それは、六花からもらったバスケットボールだった。もらった時からぼろぼろで、今はもういつ破れてもおかしくない状態だ。
夢を追い求めていた彼女は、きっとこのボールを片時も離さずに、一心に練習に打ち込んできたんだろう。
――言ってみれば遺産相続……かな。私の夢も、私の体も、残された時間も、ぜんぶ空くんにあげようと思ったの。
六花の言葉がよみがえる。そう――彼女は確かに「相続」と言った。
僕は六花の夢を相続したんだ。たとえ彼女の手術が完璧に成功したとしても、彼女がコートでプレイすることは、もうないだろうから。
「そうだな。僕が六花にできることは、まだ残っている」
僕はそうつぶやいて、ぼろぼろのバスケットボールを握りしめた。
*
翌朝、僕はいつもより早く起きて登校した。朝練の前に職員室に行き、顧問の先生に話して休部届を取り下げてもらう。
その足で部室に行き、部員のみんなにも謝って、今日から練習に復帰することにした。
午前中の授業が終わり、昼休みに入った時のことだった。
僕の学校では、昼休みの間だけスマホの使用が許されている。だからみんな一斉にスマホをチェックするのだが、今日は珍しく僕のスマホに着信が入っていた。六花からのメッセージだ。
――おはよう、空くん。急な話だけど、今日の午後の便でアメリカに行くことになったの。お父さんとお母さんに話したら、それなら一日でも早い方がいいって、大急ぎで飛行機のチケットを取ってくれたんだ。もう一度会いたかったけど、我慢するね。怖いけど、手術を受けてくる。きっと無事に帰ってくるから、信じて待っていてね。
「何だって!」
思わず立ち上がって大声を上げてしまった。
「おい、空。どうしたんだ?」
声に驚いて、成瀬がすぐにやって来る。
「六花が……手術のために今日、アメリカに行くって」
「今日? それは急だな。何時の便だ?」
「午後二時半の便と書いてある」
成瀬には、六花の病気のことは話してある。出発時間と目的地を言うと、成瀬はスマホで素早く飛行機の便を調べてくれた。
「出発は羽田空港だな。今からタクシーを飛ばせばギリギリ間に合うかもしれないぞ」
「無理だ。学校は早退するとしても、タクシー代が……」
皆まで聞かず、成瀬は急いで席に戻って鞄をひっくり返すと、見覚えのある封筒を持って戻ってきた。
「これを使え。羽田までなら何とかなる。余っても釣りは要らないからな」
「これ……僕が渡したコーチ代じゃないか!」
封筒には、僕が封をするのに使ったテープがそのまま貼ってあった。手に持った感じからしても、おそらく中身は一枚も減っていないんだろう。
「いいから使え! 俺がもらった俺の金だ。何に使おうが誰にやろうが、俺の勝手だ!」
「……恩に着る」
僕は成瀬から受け取った封筒と鞄を持って、教室を飛び出した。走りながらタクシーの手配を頼み、職員室に駆け込んで「早退します!」と叫ぶ。
タクシーに乗り込むと、急いでほしいと運転手にひっきりなしにお願いしながら、羽田空港までの道をひた走った。
*
どうにか空港に着いたものの、広すぎて、どこに行けば六花に会えるのかわからない。運よくインフォメーションを見つけたので、アメリカ行きの便のゲートを教えてもらった。
国際線なら出発ロビーにいるはずだと言われたが、辺りを駆け回って探しても見つからない。まだ出発していないはずなのに、どこにも六花の姿がない。
そこでようやく気づいた。スマホを持っているんだから、本人に直接聞けばいいんだ。
すっかり気が動転して、こんな簡単なことも思いつかなかった。
六花にメッセージを送ると、すぐに返事が来た。出発ロビーではなく、ラウンジという待合室にいるのだという。そこには僕は入れないから、六花の方から会いに行くと言ってくれた。
ホッとしたら情けないことに力が抜けて、出発ロビーの椅子にへなへなと座り込む。
そして待つこと十分。両親に連れられて、六花が姿を現した。
「空くん! 来てくれてありがとう。まさか会えるなんて思わなかった」
出発まで、もうあまり時間がないらしい。でも僕の思いを伝えるには、十分な時間だ。
「六花、聞いてくれ。六花が僕に生きる力を与えてくれたように、僕も六花の生きる力になりたい。だから六花の夢は僕が引き継ぐ。またやるよ、バスケ。インターハイに出て、優勝トロフィーをもぎ取って、六花のもとに届けると約束する。だから、必ず帰ってきてくれ」
「うん……うん……うん……。空くんの活躍を見られるなら、何が何でも生き抜かなくちゃ。必ず帰ってくるから、待っててね」
満面の笑みを浮かべてそう言うと、六花は僕の胸に飛び込んだ。
そして出発ロビーの真ん中で、さらには彼女の両親の目の前で、僕にキスをした。
「ありがとう、空くん――大好き」
「お、おい。みんなが見てるぞ?」
「いいじゃない、見せつけようよ。空くんの反撃のターンなんだから」
懐かしい台詞と、久しぶりに見た六花の得意げな表情。それが嬉しくて、僕も照れ臭さを忘れて笑顔になる。
「そうだったな。だけど、まだまだ始まったばかりだ」
「うん。楽しみにしてる」
六花が大きく頷くのと同時に、搭乗案内のアナウンスが流れた。
高く青い空を、飛行機が轟音を立てて飛んでいく。六花を乗せたジェット機は、見る見るうちに空の彼方へと消えていった。
彼女から見えるはずもないのに、僕は大きく手を振ってそれを見送った。
帰りはバスと電車を乗り継いで学校に戻った。もう授業には間に合わないけれど、部活には参加したかったからだ。
*
「チーム編成が終わりました、キャプテン。……江夏キャプテン?」
「あ、ああ、ご苦労さま。じゃあ、練習試合を始めようか」
羽田空港で六花を見送ったあの日から、一年が過ぎた。
僕は三年生になり、バスケ部のキャプテンという大役を任されている。僕も一度は断ったし、成瀬を推す声もあったのだが、「一番上手いやつがキャプテンをやるべきだ」という成瀬本人の一声で、あっさりと決まってしまった。
人望と経験で勝る成瀬は、副キャプテンとして僕を支えてくれている。
うちの高校の男子バスケ部は、昨年度はインターハイに出場し、五回戦で惜しくも敗退した。全国ベスト十六に入ったのは立派な成果だが、六花に優勝トロフィーを届けると大見得を切ってしまった以上、ここで満足するわけにはいかない。
六花の手術は、ひとまず成功を収めた。いや、手術の難しさを考えれば、まさに奇跡と言えるほどの大成功だったらしい。
しかし、手放しで喜べる状況ではないことを、僕は六花のお母さんからの手紙で知った。
手術を終えて目を覚ました六花は、ろくに声も出せず、自力で身体を起こすことすらできなかったという。
神の手の異名を持つ執刀医は、六花のリハビリにも専門チームを組んでくれた。時間はかかるが、運動療法、言語療法、神経刺激療法を通じて、ある程度の回復は見込めるとの説明を受けたと、お母さんの手紙には書かれてあった。
「おい、そろそろ時間だろ? あとは俺が仕切るから、お前はもう行ってこい」
「しかし……」
一年間のアメリカでの治療を終えて、今日の便で六花は帰国する。
彼女がどこまで動けるようになったのか、それももうすぐわかる。
「大会前だってのに、上の空でプレイして、怪我でもされたらこっちが迷惑なんだよ。こんな時のための副キャプテンだろ? 任せておけ」
「わかったよ、成瀬。あとは頼んだ」
成瀬に送り出され、僕は部活を抜け出して、一年ぶりに空港へと向かった。
*
期待半分、不安半分。いや、その天秤は絶え間なく揺れ動いていて、時間が経つにつれて不安ばかりが膨らんでくる。
インターハイ本選すら比べものにならないほどの緊張の中、僕は到着ロビーで再会の時を待った。
そしてついに、六花を乗せた便が到着した。人々が次々とゲートから出てくるが、彼女の姿はなかなか見えない。
ひょっとして何かあったのだろうか。出発前に体調が悪くなって、帰国できなかったのか? それとも六花は寝たきりで、ゲートとは別の出口から搬送されるのだろうか……。
心の中が不安と焦燥に塗り潰されていく。その時突然、心臓が激しく跳ねた。
ゆっくりとこちらに向かってくる一台の車椅子。そこに座っているのは、光輝くほど美しい少女だった。
彼女が僕に気づき、嬉しそうに右手を上げる。その手を大きく左右に振ってから、彼女は両手を使って車椅子を動かし、最後の数メートルを勢いよく駆け抜けた。
「空くん、ただいま! 待たせちゃって、ごめんね」
「六花……おかえり」
六花だ――別れる前と変わらない六花だ!
なんだ、ちゃんと話せるじゃないか。それに、ちゃんと動けるじゃないか。車椅子とはいえ、自力で走れるじゃないか!
安堵と喜びで胸がいっぱいになって、何も言葉が出てこない。その代わりのように、涙が両目から噴き出して、ボロボロと零れ落ちる。
こんなはずじゃなかった。颯爽と現れて、カッコよく再会を決めるつもりだったのに。
現実の僕はロビーの床に膝をついて泣きじゃくり、車椅子の六花に頭を撫でてもらっている。
その後ろには六花の両親も並んで、笑顔で僕たちを見つめていた。まったく、カッコ悪いにもほどがある。
「心配かけちゃったね。もう大丈夫だから」
六花はニコニコと笑みを浮かべながら、優しげな口調で言った。
ここまで回復するのに、どれだけの苦しい日々を乗り越えてきたんだろう。
何が不安だ、何が焦燥だ、何が安堵だ。そんな言葉は彼女にこそ使う資格があるのに。
「ごめん、取り乱して。もう退院できるのか?」
「うん。自宅から地元の病院に通って、リハビリすることになるけど」
僕がようやく立ち上がってロビーの椅子に座ると、六花はそのすぐ隣に車椅子を停めてストッパーをかけた。二人の目線の高さが、ちょうど揃う。
「まだ続けるんだな。辛くはないか?」
「全然。今のままでも日常生活は一通りできるし、車椅子バスケならできそうなんだけどね。でも……ふふふ。空くん、私の足に触ってみて」
「……こうか?」
六花の意味深な笑顔に首をかしげながら、その細い足に恐る恐る手を伸ばす。
「ふくらはぎじゃなくて、もっと付け根の方」
「こうか?」
「逆だよ、そこは足首でしょ? ちゃんと直接触ってね」
どうやら太ももを触れと言っているようだ。
相変わらず六花のスキンシップは心臓に悪い。こんな公衆の面前で、そんなことをして大丈夫なのか? それに、ご両親だって見ているのに……。
仕方なくスカートの中に手を入れて、太ももに手を伸ばす。六花の肌はとても柔らかくてすべすべしていて……って、そういうことじゃない!
僕が変な緊張感を覚えた矢先、六花の表情が不意に強張った。一瞬、触り方が変だと怒られるのかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。
六花の太ももの手触りが、わずかだが固くなっている。つまり六花が立とうとして、筋肉が動いたということだ。まだ立ち上がるには力が足りないが、確かに足は本来の機能を取り戻そうとしている。
「はぁ、はぁ、はぁ……。今はこれが精一杯だけど、ちゃんと足の感覚があるの。空くんにエッチな触り方をされた時も、くすぐったかったからね?」
「こんなところで、人聞きの悪いこと言うなよ……」
困ったようにそうささやくと、六花は楽しそうに笑い出した。
変わっていない。六花は何も変わっていない。僕が大好きになった彼女のままで、僕の元に帰ってきてくれたんだ。
「私、頑張るから。いつかまた、自分の足で立ってバスケができるようになる。そしたら空くん、また勝負してくれる?」
「もちろんだ。練習相手なら任せてくれ」
「練習? 私は空くんに勝つつもりだよ」
六花が悪戯っぽく笑う。そうか、またできるんだな。二人で1on1の勝負が……。
「じゃあ、お返しだ。僕に勝てたら何でも一つ、六花のお願いを聞くよ」
「ホント? でも要らないかな。空くんが一緒にいてくれるだけで、十分だもの」
「ああ。それは僕も同じだ」
車椅子の六花と並んで歩いて、空港の出口へと向かう。
外にはお父さんの車が待っているらしい。僕も学校まで一緒に乗せていってもらえることになった。
「空くん、あれ!」
六花が笑顔で空を指差す。
二人で一緒に見上げた空は、明るく青く晴れ渡り、その高みには真っ白な飛行機雲が、まるで橋のように架かっていた。
~fin~
物のない殺風景な自室に戻ると、僕はベッドにゴロンと寝転がり、今日一日の出来事を一つ一つ思い返した。
本当に、これで良かったのだろうか。六花は、一度は手術をはっきりと拒否したんだ。ベッドの上で望まない人生を送るくらいなら、死を選びたかったんじゃないか?
だけど同じく死を望んだ僕に、六花は生きろと言ってくれた。ならば、僕も彼女と同じことができたんだろうか。
六花が僕に生きる力を与えてくれたように、僕は彼女に生きる力を与えられたんだろうか……。
やれることは全てやったはず。でも、何か大切なことを忘れているような気がする……。
おもむろに起き上がって、部屋をぐるりと見回す。その時、床に転がったバスケットボールが目に入った。
そういえばここ数日、ボールに触れてもいなかった。最後の勝負の日までは、毎日寝るまでこのボールでハンドリングの練習をしていたのに。
それは、六花からもらったバスケットボールだった。もらった時からぼろぼろで、今はもういつ破れてもおかしくない状態だ。
夢を追い求めていた彼女は、きっとこのボールを片時も離さずに、一心に練習に打ち込んできたんだろう。
――言ってみれば遺産相続……かな。私の夢も、私の体も、残された時間も、ぜんぶ空くんにあげようと思ったの。
六花の言葉がよみがえる。そう――彼女は確かに「相続」と言った。
僕は六花の夢を相続したんだ。たとえ彼女の手術が完璧に成功したとしても、彼女がコートでプレイすることは、もうないだろうから。
「そうだな。僕が六花にできることは、まだ残っている」
僕はそうつぶやいて、ぼろぼろのバスケットボールを握りしめた。
*
翌朝、僕はいつもより早く起きて登校した。朝練の前に職員室に行き、顧問の先生に話して休部届を取り下げてもらう。
その足で部室に行き、部員のみんなにも謝って、今日から練習に復帰することにした。
午前中の授業が終わり、昼休みに入った時のことだった。
僕の学校では、昼休みの間だけスマホの使用が許されている。だからみんな一斉にスマホをチェックするのだが、今日は珍しく僕のスマホに着信が入っていた。六花からのメッセージだ。
――おはよう、空くん。急な話だけど、今日の午後の便でアメリカに行くことになったの。お父さんとお母さんに話したら、それなら一日でも早い方がいいって、大急ぎで飛行機のチケットを取ってくれたんだ。もう一度会いたかったけど、我慢するね。怖いけど、手術を受けてくる。きっと無事に帰ってくるから、信じて待っていてね。
「何だって!」
思わず立ち上がって大声を上げてしまった。
「おい、空。どうしたんだ?」
声に驚いて、成瀬がすぐにやって来る。
「六花が……手術のために今日、アメリカに行くって」
「今日? それは急だな。何時の便だ?」
「午後二時半の便と書いてある」
成瀬には、六花の病気のことは話してある。出発時間と目的地を言うと、成瀬はスマホで素早く飛行機の便を調べてくれた。
「出発は羽田空港だな。今からタクシーを飛ばせばギリギリ間に合うかもしれないぞ」
「無理だ。学校は早退するとしても、タクシー代が……」
皆まで聞かず、成瀬は急いで席に戻って鞄をひっくり返すと、見覚えのある封筒を持って戻ってきた。
「これを使え。羽田までなら何とかなる。余っても釣りは要らないからな」
「これ……僕が渡したコーチ代じゃないか!」
封筒には、僕が封をするのに使ったテープがそのまま貼ってあった。手に持った感じからしても、おそらく中身は一枚も減っていないんだろう。
「いいから使え! 俺がもらった俺の金だ。何に使おうが誰にやろうが、俺の勝手だ!」
「……恩に着る」
僕は成瀬から受け取った封筒と鞄を持って、教室を飛び出した。走りながらタクシーの手配を頼み、職員室に駆け込んで「早退します!」と叫ぶ。
タクシーに乗り込むと、急いでほしいと運転手にひっきりなしにお願いしながら、羽田空港までの道をひた走った。
*
どうにか空港に着いたものの、広すぎて、どこに行けば六花に会えるのかわからない。運よくインフォメーションを見つけたので、アメリカ行きの便のゲートを教えてもらった。
国際線なら出発ロビーにいるはずだと言われたが、辺りを駆け回って探しても見つからない。まだ出発していないはずなのに、どこにも六花の姿がない。
そこでようやく気づいた。スマホを持っているんだから、本人に直接聞けばいいんだ。
すっかり気が動転して、こんな簡単なことも思いつかなかった。
六花にメッセージを送ると、すぐに返事が来た。出発ロビーではなく、ラウンジという待合室にいるのだという。そこには僕は入れないから、六花の方から会いに行くと言ってくれた。
ホッとしたら情けないことに力が抜けて、出発ロビーの椅子にへなへなと座り込む。
そして待つこと十分。両親に連れられて、六花が姿を現した。
「空くん! 来てくれてありがとう。まさか会えるなんて思わなかった」
出発まで、もうあまり時間がないらしい。でも僕の思いを伝えるには、十分な時間だ。
「六花、聞いてくれ。六花が僕に生きる力を与えてくれたように、僕も六花の生きる力になりたい。だから六花の夢は僕が引き継ぐ。またやるよ、バスケ。インターハイに出て、優勝トロフィーをもぎ取って、六花のもとに届けると約束する。だから、必ず帰ってきてくれ」
「うん……うん……うん……。空くんの活躍を見られるなら、何が何でも生き抜かなくちゃ。必ず帰ってくるから、待っててね」
満面の笑みを浮かべてそう言うと、六花は僕の胸に飛び込んだ。
そして出発ロビーの真ん中で、さらには彼女の両親の目の前で、僕にキスをした。
「ありがとう、空くん――大好き」
「お、おい。みんなが見てるぞ?」
「いいじゃない、見せつけようよ。空くんの反撃のターンなんだから」
懐かしい台詞と、久しぶりに見た六花の得意げな表情。それが嬉しくて、僕も照れ臭さを忘れて笑顔になる。
「そうだったな。だけど、まだまだ始まったばかりだ」
「うん。楽しみにしてる」
六花が大きく頷くのと同時に、搭乗案内のアナウンスが流れた。
高く青い空を、飛行機が轟音を立てて飛んでいく。六花を乗せたジェット機は、見る見るうちに空の彼方へと消えていった。
彼女から見えるはずもないのに、僕は大きく手を振ってそれを見送った。
帰りはバスと電車を乗り継いで学校に戻った。もう授業には間に合わないけれど、部活には参加したかったからだ。
*
「チーム編成が終わりました、キャプテン。……江夏キャプテン?」
「あ、ああ、ご苦労さま。じゃあ、練習試合を始めようか」
羽田空港で六花を見送ったあの日から、一年が過ぎた。
僕は三年生になり、バスケ部のキャプテンという大役を任されている。僕も一度は断ったし、成瀬を推す声もあったのだが、「一番上手いやつがキャプテンをやるべきだ」という成瀬本人の一声で、あっさりと決まってしまった。
人望と経験で勝る成瀬は、副キャプテンとして僕を支えてくれている。
うちの高校の男子バスケ部は、昨年度はインターハイに出場し、五回戦で惜しくも敗退した。全国ベスト十六に入ったのは立派な成果だが、六花に優勝トロフィーを届けると大見得を切ってしまった以上、ここで満足するわけにはいかない。
六花の手術は、ひとまず成功を収めた。いや、手術の難しさを考えれば、まさに奇跡と言えるほどの大成功だったらしい。
しかし、手放しで喜べる状況ではないことを、僕は六花のお母さんからの手紙で知った。
手術を終えて目を覚ました六花は、ろくに声も出せず、自力で身体を起こすことすらできなかったという。
神の手の異名を持つ執刀医は、六花のリハビリにも専門チームを組んでくれた。時間はかかるが、運動療法、言語療法、神経刺激療法を通じて、ある程度の回復は見込めるとの説明を受けたと、お母さんの手紙には書かれてあった。
「おい、そろそろ時間だろ? あとは俺が仕切るから、お前はもう行ってこい」
「しかし……」
一年間のアメリカでの治療を終えて、今日の便で六花は帰国する。
彼女がどこまで動けるようになったのか、それももうすぐわかる。
「大会前だってのに、上の空でプレイして、怪我でもされたらこっちが迷惑なんだよ。こんな時のための副キャプテンだろ? 任せておけ」
「わかったよ、成瀬。あとは頼んだ」
成瀬に送り出され、僕は部活を抜け出して、一年ぶりに空港へと向かった。
*
期待半分、不安半分。いや、その天秤は絶え間なく揺れ動いていて、時間が経つにつれて不安ばかりが膨らんでくる。
インターハイ本選すら比べものにならないほどの緊張の中、僕は到着ロビーで再会の時を待った。
そしてついに、六花を乗せた便が到着した。人々が次々とゲートから出てくるが、彼女の姿はなかなか見えない。
ひょっとして何かあったのだろうか。出発前に体調が悪くなって、帰国できなかったのか? それとも六花は寝たきりで、ゲートとは別の出口から搬送されるのだろうか……。
心の中が不安と焦燥に塗り潰されていく。その時突然、心臓が激しく跳ねた。
ゆっくりとこちらに向かってくる一台の車椅子。そこに座っているのは、光輝くほど美しい少女だった。
彼女が僕に気づき、嬉しそうに右手を上げる。その手を大きく左右に振ってから、彼女は両手を使って車椅子を動かし、最後の数メートルを勢いよく駆け抜けた。
「空くん、ただいま! 待たせちゃって、ごめんね」
「六花……おかえり」
六花だ――別れる前と変わらない六花だ!
なんだ、ちゃんと話せるじゃないか。それに、ちゃんと動けるじゃないか。車椅子とはいえ、自力で走れるじゃないか!
安堵と喜びで胸がいっぱいになって、何も言葉が出てこない。その代わりのように、涙が両目から噴き出して、ボロボロと零れ落ちる。
こんなはずじゃなかった。颯爽と現れて、カッコよく再会を決めるつもりだったのに。
現実の僕はロビーの床に膝をついて泣きじゃくり、車椅子の六花に頭を撫でてもらっている。
その後ろには六花の両親も並んで、笑顔で僕たちを見つめていた。まったく、カッコ悪いにもほどがある。
「心配かけちゃったね。もう大丈夫だから」
六花はニコニコと笑みを浮かべながら、優しげな口調で言った。
ここまで回復するのに、どれだけの苦しい日々を乗り越えてきたんだろう。
何が不安だ、何が焦燥だ、何が安堵だ。そんな言葉は彼女にこそ使う資格があるのに。
「ごめん、取り乱して。もう退院できるのか?」
「うん。自宅から地元の病院に通って、リハビリすることになるけど」
僕がようやく立ち上がってロビーの椅子に座ると、六花はそのすぐ隣に車椅子を停めてストッパーをかけた。二人の目線の高さが、ちょうど揃う。
「まだ続けるんだな。辛くはないか?」
「全然。今のままでも日常生活は一通りできるし、車椅子バスケならできそうなんだけどね。でも……ふふふ。空くん、私の足に触ってみて」
「……こうか?」
六花の意味深な笑顔に首をかしげながら、その細い足に恐る恐る手を伸ばす。
「ふくらはぎじゃなくて、もっと付け根の方」
「こうか?」
「逆だよ、そこは足首でしょ? ちゃんと直接触ってね」
どうやら太ももを触れと言っているようだ。
相変わらず六花のスキンシップは心臓に悪い。こんな公衆の面前で、そんなことをして大丈夫なのか? それに、ご両親だって見ているのに……。
仕方なくスカートの中に手を入れて、太ももに手を伸ばす。六花の肌はとても柔らかくてすべすべしていて……って、そういうことじゃない!
僕が変な緊張感を覚えた矢先、六花の表情が不意に強張った。一瞬、触り方が変だと怒られるのかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。
六花の太ももの手触りが、わずかだが固くなっている。つまり六花が立とうとして、筋肉が動いたということだ。まだ立ち上がるには力が足りないが、確かに足は本来の機能を取り戻そうとしている。
「はぁ、はぁ、はぁ……。今はこれが精一杯だけど、ちゃんと足の感覚があるの。空くんにエッチな触り方をされた時も、くすぐったかったからね?」
「こんなところで、人聞きの悪いこと言うなよ……」
困ったようにそうささやくと、六花は楽しそうに笑い出した。
変わっていない。六花は何も変わっていない。僕が大好きになった彼女のままで、僕の元に帰ってきてくれたんだ。
「私、頑張るから。いつかまた、自分の足で立ってバスケができるようになる。そしたら空くん、また勝負してくれる?」
「もちろんだ。練習相手なら任せてくれ」
「練習? 私は空くんに勝つつもりだよ」
六花が悪戯っぽく笑う。そうか、またできるんだな。二人で1on1の勝負が……。
「じゃあ、お返しだ。僕に勝てたら何でも一つ、六花のお願いを聞くよ」
「ホント? でも要らないかな。空くんが一緒にいてくれるだけで、十分だもの」
「ああ。それは僕も同じだ」
車椅子の六花と並んで歩いて、空港の出口へと向かう。
外にはお父さんの車が待っているらしい。僕も学校まで一緒に乗せていってもらえることになった。
「空くん、あれ!」
六花が笑顔で空を指差す。
二人で一緒に見上げた空は、明るく青く晴れ渡り、その高みには真っ白な飛行機雲が、まるで橋のように架かっていた。
~fin~