駅のロータリーの中央に設置された、メビウスの輪を二つ組み合わせたようなヘンテコな形のオブジェ。『永遠の愛』と名づけられたこのオブジェの前で六花(りっか)を待つ。約束の十時まで、まだ二十分ある。

 ここは待ち合わせによく使われるスポットで、すでに若者を中心に多くの人が集まっていた。
 ただ立っているだけで、チラチラと見られているのを感じる。自意識過剰……ではないらしいと、最近になって気づいた。

 太っていたから気づかなかったが、もともと僕の顔立ちは整っているらしい。
 六花は僕が()せ始めた頃から「カッコ良くなった」と言ってくれていたが、すっかり筋肉質の体型になった今は、十分に美形に入ると成瀬までもが太鼓判を押してくれるようになった。
 その成瀬は、今日六花とデートだと言うと、よそ行きの服を一式貸してくれた。おまけに髪型もきちんとしろとしつこく言うので、生まれて初めて美容室に行って髪をセットしてもらった。

 もっとも僕は、他人からどう見られるかなんて興味がない。六花だって、僕の服装や髪型なんて気にしないだろう。でも、六花のおかげで前向きに変わった僕を、今日は見てもらいたかった。

 思った通り、きっかり十時に六花がやって来た。以前の彼女は早めに来て待ってくれていたが、今の彼女には時間の余裕がないのだろう。
 それでも今日は、一日に一度しか使えない薬を飲んで来てくれたのだ。その貴重な時間を、一分たりとも無駄にはできない。

「待たせちゃってごめんね、空くん」
「いや、時間ぴったりだよ。行こうか」

 そう言って、僕の方から腕を差し出す。彼女は嬉しそうに駆け寄って、甘えるように腕を絡めた。
 その瞬間、周囲がざわめいたのがわかった。ああ、そうだな。きっと僕たちはお似合いだ。もう引け目を感じることはない。

 映画館のあるビルの一階にある、大型書店に入る。僕が好きな本を何冊か紹介すると、六花はその中の数冊を選んでレジに持って行った。
「本に興味が持てなくなったんじゃないのか?」
「入院中は退屈だからね。それに本に興味がなくても、この本を読んで空くんが何を感じたのか、想像するのはきっと楽しいと思うから」
 そう言って、六花が悪戯っぽく笑う。その笑顔を嬉しく思いながら、僕は重量感のある紙袋を六花の代わりに受け取った。



 映画館は、今日もかなり混んでいた。前回と違ってチケットはネットで購入済みだ。

「観る映画、勝手に決めてごめんな」
「ううん、前に来た時は私が選んだんだから、気にしないで」
「ありがとう。この映画を、六花と一緒に観たかったんだ」

 組んでいた腕を外し、六花の手を引いて暗い階段をゆっくりと降りる。そして手を繋いだまま席につく。
 やがて館内が暗くなり、映画が始まった。

 映画のタイトルは『君が居ない世界』。漫画が原作の実写映画だが、僕もあらすじを読んだだけで、よく知っている作品ではない。

――主人公はタイムリープの力を持った少年。彼は暴力団の抗争に巻き込まれて頭に流れ弾を受け、死の淵を彷徨(さまよ)った際、死神と契約して過去をやり直す異能を得る。だがその代わり、その先の人生で大切なものを失うという呪いを背負った。
 やがて少年は一人の少女と恋に落ちるが、彼女は事故で命を落としてしまう。主人公は何度も過去をやり直して彼女を救おうとするが、叶わない。そして彼は遂に、自分の脳を破壊して異能を封じることが、彼女を救う唯一の方法だと知る。再び流れ弾を頭に受けて眠りにつく主人公。彼と出会う前の少女が、これから幸せに生きることを願いながら。
 しかし主人公が銃弾に倒れた瞬間、少女に別の世界線の記憶が(よみがえ)る。やがて昏睡状態から目覚めた主人公は、異能と同時に記憶までも失っていた。そして、枕元で心配そうに彼を見守る少女に一目()れする。彼が「初めまして」と挨拶すると、少女は「お帰りなさい」と微笑んだ――。

 僕の手の中で、六花の手が震えたり、その手にギュッと力が入ったりする。半年前と同じように、彼女の心の動きが手を通して伝わってくる。
 そして映画が終盤に差し掛かった頃、ついに六花が泣き出した。
 僕の肩にもたれかかって、六花は声を殺して泣く。僕は彼女の肩に手を回して、その体をそっと抱き寄せた。



 映画が終わると、近くのファミリーレストランに入った。半年前にも訪れた、イタリアンが手頃な値段で食べられる店だ。今回は二人とも軽いものを注文した。

「映画、すごく良かったね」
「六花が気に入ってくれて嬉しいよ」
「それに、前に来た時に観た映画と、なんだか対になってるみたい」
「『The last month』だね?」
「そう! ストーリーや設定が似てるわけじゃないんだけど、テーマとか、込められたメッセージとかが、かな」
「ああ、それも考えて選んだんだ」

 六花が興奮気味に感想を語るのを聞いて、時々自分の感想も伝える。
 最初のデートの時は、ただドキドキして六花を見つめているだけだった。あれに比べたら、今はずっと落ち着いて話せていると思う。ああ、そういえばあの時から、僕は彼女を“六花”って呼ぶようになったんだっけ。

 あの時は、映画のストーリーを六花が丸々僕に語ってくれたけど、今日は早々に昼食を終えてレストランを出た。
 今日は初デートのコースをそのまま回ることにしているけれど、六花の体の負担も考えなければいけないからだ。



 レストランから少し歩いたところに、大きなゲームセンターがある。ここが今日の最後の目的地だった。
 入り口の近くには、一際(ひときわ)大きなゲーム機が置かれている。二人同時にプレイ可能なダンスゲームだ。

 四つのスピーカーと一つのウーファーからは迫力のある音楽が流れており、タップすると床に敷き詰められたLEDランプが七色に光る。
 前回、六花に誘われたが、僕はにべもなく断った。一緒に踊ったら酷いことになっていたと思うから、その判断は正解だったと思う。そして結局、彼女は一人で踊って周囲の視線を釘づけにした。

「ねえ、空くん。これ、一緒にやらない?」
「いいけど、一曲だけだぞ? 六花が疲れるといけないからな」

 実は誘われるだろうと思って、昨日コースの下見に来た時に一人で練習しておいたんだ。
 僕が二人分のコインを入れると、すぐにマシンは動き出した。
 記憶に残る六花のダンスを再現して踊る。もちろん全部覚えているわけじゃないから半分はオリジナルだけど、横目で六花の動きを見てリズムを合わせる。

 曲が終わってポーズを決めると、途端に盛大な拍手が鳴り響いた。全く気づかなかったけど、この前と同じように数名の人だかりができていたのだ。
 僕は軽く頭を下げてから、六花の手を取ってマシンから降り、店の奥へと逃げるように進んだ。

「お疲れさま。大丈夫か?」
「うん。空くん、カッコよかったよ」
「六花の真似をしただけだよ」

 途中のゲームやぬいぐるみキャッチャーなどは、全て素通りした。時間もあまりなかったし、財布の中身も心許(こころもと)なかったからだ。
 ひたすら奥へ奥へと進んで、やがて僕たちはプリ機の前にやって来た。

「ねえ、空くん。最後にプリ機やろうよ」
「ああ、いいな」

 僕も新しい六花の写真がほしい。スマホでいつでも撮れるけど、気恥ずかしくて頼んだことはない。前回ここに来た時のプリ機のシールだけが、僕が持っている唯一の六花の写真だった。
 素のままのもの、可愛くデコレートしたもの、腕を組んで肩を寄せたもの、六花がふざけて僕のほっぺにキスしたもの。たくさんの写真を撮って、僕らはゲームセンターを出た。

「そろそろ辛くなってきたんじゃないか?」
「うん、少しね。駅前でタクシーに乗るから、空くんも一緒に乗っていかない?」
「助かるけど、僕はもうあまりお金を持ってないんだ」
「それは大丈夫。帰りもタクシーにしなさいって、お母さんにお小遣いもらったから」
「じゃあ、お言葉に甘えて一緒に乗せてもらおうかな」

 六花の病院で一緒に降ろしてもらえれば、それだけでかなりの近道になる。それに、まだ大事な話が残っていた。



 六花の家の近くに差し掛かった時、六花が突然、運転席の方に身を乗り出した。

「ここで、ちょっと停めてください」
「おい、六花。停めてって……」
「待機料金を払うから、大丈夫」

 そう言って、六花は僕の手を引いて車から降りた。二分ごとに百円の待機料金を払うことで、タクシーに待っていてもらうことができるらしい。

 向かった先は、何度も足を運んだあの公園だった。
 大した遊具もない小さな公園だが、なぜかバスケットボールのゴールが一つだけポツンと立っている。僕たちの大切な思い出の場所だ。

 僕はすぐに六花をベンチに座らせて、その隣に腰を下ろした。六花が甘えるようにこちらに体を寄せてくる。

「寄り道させちゃってごめんね。もう一度、空くんと一緒にここに来たかったんだ」
「前に来た時は、喧嘩別れみたいになっちゃったもんな。本当にごめんな」
「もう! 謝ってほしくて来たわけじゃないから」
「ああ、わかってるよ」

 どちらからともなく、手と手を重ねていた。二人並んでバスケットゴールを見ながら、一緒に汗を流した日々を思い出す。
 今日を逃したら、もう二度とここには来られないかもしれないって、六花はそんな風に考えたのかもしれない。
 ならば、ここで話を切り出すしかない。

「六花、あの約束のことだけど……」
「うん。空くんが勝った、ご褒美だよね?」
「ああ。僕はまだ、それを叶えてもらってない」

 そう言うと、六花の体が小刻みに震えた。
 残酷なことを言っているのはわかってる。だけど、今日のデートの一番の目的はこれなんだ。

「どうすればいいのかな……。私に叶えられる願いなら、本当に何でも聞くよ。だけど、ずっと一緒に居るのは無理だよ」
「ああ、わかってる」
 そう答えると、六花の手にギュッと力がこもった。

「いっそ、私を抱いてよ……。残された時間が尽きるまで、何度だって構わないから。それで私のことは忘れて、新しい出会いを探して」
「僕がそんなことを望んでないことくらい、わかってるだろ?」
「でも……もう、どうしたらいいのかわからないよ。ごめんね、空くん。私は空くんに酷いことをした。私は人を好きになってはいけなかったし、好きになってもらってはいけなかったのに……」

 六花の手にますます力が入る。その手の強張りをなだめるように、僕はポンポン、と反対側の手で二回軽く叩いた。

「まだあるんだ。六花にしかできない、どうしても叶えてもらいたい願いが。聞いてくれるか?」
「ほんと? 私にできることなら、どんなことだってするよ」

 六花が期待に満ちた眼差しで、僕の顔を覗き込む。僕はまっすぐにその目を見つめ返し、意を決して口を開いた。

「アメリカに行って、手術を受けてくれ。それが僕の願いだ。できないとは言わせない」

 六花の体が、ビクンと震えた。

「……お母さんに聞いたの?」
「ああ。手術のリスクも聞いたよ。六花が悩み抜いた末に、手術を断ったことも知ってる。六花のご両親が手術を受けてほしいと願っていることも、でも無理強(むりじ)いできずにいることも知ってる。知った上で、僕は手術を受けることを君に求める」

 声が震えそうになるのを(こら)えて、何とか言いきった。
 六花は大きな目をさらに大きく見開いて、そんな僕を見つめている。

「それで……空くんにどんなメリットがあるの? 手術を受けたら、指一本動かせなくなるかもしれない。それどころか、空くんが誰かすらわからなくなるかもしれない。それでも……それでも私のそばに居たいって、本気でそう思うの?」
「ああ。たとえ僕を忘れても、指一本動かせなくなっても、僕は六花のそばに居たい」

 僕を見つめる六花の目に、見る見るうちに涙が盛り上がる。涙はまるで真珠の粒みたいに、午後の陽を受けて輝きながら、ポロポロと六花の(ひざ)の上に落ちた。
 あとからあとから涙を(こぼ)しながら、六花は激しい口調で言い(つの)る。

「話せなくなるんだよ? 手を繋ぐことも、一緒に笑うことも、全部……全部できなくなるんだよ? そんなの、空くんだって辛いだけじゃない!」
「話せなくなったら、僕が六花に話しかける。動けなくなったら、僕が六花の手足になる。本だって読んで聞かせるし、一緒に映画だって観る。まあ、タイトルは僕が選ぶことになっちゃうけどな」

 涙で濡れた六花の目を見つめながら、僕は噛んで含めるように、でも(よど)みなく答える。
 それは、あの橋の上で最悪の想像をしてから今日まで、様々な可能性を考えて、様々な状況をシミュレーションして、僕なりに出した答えだった。

「できないよ。そんな、空くんを苦しめるようなことなんて……」
「それは違うぞ。六花のいない世界で生きることなんて、僕には考えられない。言っただろ? 僕は六花とずっと一緒に居たい。だから、六花に手術を受けることを要求する。たとえご両親が君に無理強いできなくても、僕にはその資格がある。そうだろ?」

「……わかった」

 小さな声で一言そうつぶやいて、六花はワーッと声を上げて泣き出した。
 その細い肩に手を回して、僕は彼女をギュッと抱きしめる。六花は僕の胸に顔をうずめて、しばらく泣きじゃくっていた。

 それがどんな涙なのか、六花に尋ねる勇気は僕にはない。
 ただ彼女に酷いことを言ったことを、辛い決断をさせたことを、僕はずっと覚えておかなくてはならない。
 この先何があっても、僕は生涯をかけて六花を支えるんだ。腕の中で震える六花の温もりに、そう誓った。