六花のお母さんが病室から出てくると、僕は再び車に乗せてもらって帰ることになった。
助手席に座ると、お母さんは車を出す前に、まず僕の方を向いた。
「江夏君は、どこまで聞いたの?」
「治る見込みのない、命が助からない病気だって聞きました」
お母さんの体がピクリと震える。そう、とつぶいた声も震えていた。
何かを言おうとして口を開きかけ、そのまま閉じるという動作を何度か繰り返してから、お母さんは声を絞り出すようにして、僕にこう問いかけた。
「それで、江夏君はどうするの?」
「どうする、とは?」
質問の意味がわからずにそう問い返すと、お母さんは悲しそうな顔で微笑んだ。
「六花とお付き合いしてくれているんでしょう? そこまで話したってことは、あの子も覚悟を決めているはず。今すぐ別れて、あの子のことは忘れてもいいのよ。でも、もし最期の時まで一緒にいてくれるのなら……」
「それは、どのくらい先なんですか?」
「お医者様からは、あと三か月持つかどうかって言われてるわ」
お母さんが涙声になり、僕も返事ができずに黙り込んだ。背筋にさーっと冷たいものが流れ、心臓が痛いほどに高鳴る。
あと三か月――想像していたよりずっと短かった。高校は卒業できない、という言い方だったから、まだ一年近く、短くても半年以上はあると思っていたのだ。
「別れるつもりはありません。六花は僕の生きがいの全てです。もちろん、ずっと一緒にいさせてください」
「そう、ありがとう」
一語一語、力を込めてそう答えると、お母さんは涙声のまま、心底から安心したような顔で微笑んだ。
僕は大きく息を吸う。今度は僕が質問する番だ。
「あの、教えていただきたいことがあります」
「何かしら?」
運転席の方に向き直り、お母さんの目をじっと見つめてそう切り出した。
六花によく似た丸い大きな目が、パチパチと二回瞬いて、僕を見つめる。
「六花の病気についてです。本当に、治療法は何一つないんですか?」
「どういうこと?」
「まだ付き合って半年ほどですが、僕は、六花が嘘が苦手だと知っています。都合の悪いことは、すぐに内緒だと言って隠すことも」
僕の言葉に、お母さんは小さく頷いた。その仕草に力をもらって、僕はさらに言い募る。
「さっき六花に同じ質問をした時、彼女は僕の目を見ようとしませんでした。そして『私が救われる方法はない』って言いました。治療法はないのか? って聞いたのに、あえて違う言い回しをしたんです」
それだけなら、些細なニュアンスの違いに過ぎないかもしれない。でも真相を知った今ならよくわかる。あれは六花の、何かを誤魔化している口調だった。
声のトーンや、答えるまでのわずかな間、一瞬だけ宙を睨むあの表情、その全てに覚えがある。それらは僕に疑念を抱かせたのと同時に、わずかな希望も感じさせてくれた。
「直接問い詰めれば、六花を傷つけてしまうかもしれません。だからお母さんに伺いたいんです。本当に、治療法はないんですか?」
「それは……答えられないわ」
お母さんの目が泳ぐ。
なるほど、六花の嘘が下手なのは、お母さん譲りなんだな。
「だったら主治医の先生に会わせてください。直に教えてもらいます」
「守秘義務といってね、お医者様はそういうことを、家族以外の人には話さないのよ」
「つまり、僕に話していない、何らかの情報があるんですね?」
お母さんと僕の視線がぶつかり合い、車内に沈黙の時が流れる。
どれくらいの間、そうしていただろう。
「あなたには負けたわ」
やがてお母さんが表情を緩め、深いため息をついた。
「実は、命が助かる方法なら一つだけあるの。世界一の腕を持つと称される日本人の脳外科医が、アメリカのノースカロライナ州に居てね。その先生なら、六花の病巣を取り除けるかもしれないの」
「本当ですか!」
僕は車の中に居るのを忘れて、思わず立ち上がりそうになってしまった。希望は、本当にあったんだ。
「それで、それを六花は?」
「もちろん知っているわ。私も一緒にアメリカに行って、診察を受けたんだもの。二週間滞在して色々な検査をして、先生の話を聞いてじっくり考えてから、六花自身が受けないと決めたのよ」
「どうして! わずかでも助かる見込みがあるなら……」
「手術を受ければ、高確率で命は助かるそうよ。でも大きな後遺症が残るらしいの。良くて半身不随か全身麻痺。悪ければ植物状態になるかもしれないって言われてね」
喜びも束の間、一瞬にして絶望の淵に突き落とされる。
いや、僕がそんなことを言ってはいけないのかもしれない。わずかな希望を抱いてアメリカに渡り、厳しい現実を突きつけられた六花は、いったいどんな気持ちだったことか。
お母さんが僕から目を離し、駐車したままの車のハンドルを、両手でギュッときつく握りしめる。
「私だって、六花には何としても生きてほしい。六花が生きてさえいてくれるのなら、どんなことだってするわ。でも、私たちは六花より先に寿命を迎える。あの子が一人残されると考えると……」
そこでお母さんの言葉は、苦し気な嗚咽に変わった。
いっそ植物状態になる方が、まだマシなのかもしれない。もしも意識がはっきりしたまま全身麻痺になったら……その苦痛は、想像を絶することだろう。六花を何十年も続く拷問にかけるようなものだ。
だからご両親は、六花に選択させたんだろう。そして彼女は悩み抜いた末に、手術を受けないと決めたんだろう。
もしかしたら、六花があの橋の上から飛び降りようとしたのは、手術を拒む意図もあったのかもしれない。全身麻痺や植物状態になってしまえば、死を選ぶこともできなくなるのだから。
「お願い。そこまで六花のことを思ってくれているのなら、どうか最期まで六花のそばにいてあげて。あの子、さっき久しぶりに笑顔を見せたの。あなたのことを話す時だけ、嬉しそうな顔をするのよ」
「それは、もちろんです」
お母さんの懇願に、僕は一言そう返すのが精一杯だった。
*
帰宅してから、自転車であの橋まで行ってみた。
すでに陽は沈みかけている。黄昏時、空に夕焼けの色が微かに残る、昼と夜とのわずかな境目だ。
僕は半年前のちょうどこの時間に、ここから飛び降りようとした。
なぜ僕は死のうとまで思い詰めたのか。そして、なぜもう一度生きようと思ったのか。
六花と出会ったこの場所で、今一度振り返ろうと思ったのだ。
六花は自分の命が長くないことを知ってから、物語の中の希望に共感できなくなったと言っていた。
僕も同じだったのかもしれない。憧れていた女の子から声をかけられ、それが僕を笑い者にするためのイタズラだと知った時、僕の中で最後の糸が切れたのだろう。
人を信じることができず、誰とも心開くことなく、たった一人で生きてきた。でも、こんな僕の人生にも、いつかきっと良いことがあるはずだ――今思えばあの頃の僕は、心のどこかでそんなことを考えていた。
そんな微かな希望が、あの時、打ち砕かれてしまった。だから物語の中の希望にすら共感できなくなり、唯一の生き甲斐だった漫画やアニメ、ゲームといった趣味すら楽しめなくなったんだ。
そんな僕の前に、六花は突然現れた。一筋の光すら失ったと思っていたのに、突然、太陽が現れたかのようだった。
それくらい、六花の笑顔は眩しかった。真っ暗な中で生きるしかないと思っていた、僕の人生観や世界の見え方そのものを、六花は真逆の色に塗り替えてしまったんだ。
その太陽が今、沈もうとしている。まさに今みたいな黄昏時だ。そして現実の空と違って、もう二度と昇ることはない。
「いや……違う。わずかに残っているんだ、もう一度太陽が昇る可能性が。六花の病気を治せる方法が……」
だが、それを彼女自身が拒んだという。
脳の手術は、高いリスクを伴うという。ちょっとネットで調べただけで、そういう話がごろごろ出てきた。比較的簡単な手術ですら、手足に麻痺が残ったり、言葉を話せなくなったりすることもあるらしい。
ましてや、その道の専門家でさえうかつに手を出せない場所ともなれば……。
最悪の想像がとめどもなく膨らんで、胸がむかむかしてくる。ついには橋の上から川に向かって、胃の中の物を吐き出してしまった。
「六花に言えるのか? 手術を受けてくれって。僕が動けなくなるのとは意味が違うんだぞ。六花はプロのバスケ選手を夢見て、そのために人生の大半を費やしてきたんだ。それなのに、この先何十年も寝たきりになるかもしれないなんて、そんなの……」
そんなの、「今すぐ死ね」と言われるよりも残酷だろう。
だから六花のお母さんだって、僕以上に彼女に生きていてほしいと願っていても、それを娘に言えずにいたんだろう。そして六花が決めた以上、その治療法については考えないようにしていたんだろう。
だけど……。
汚れた口元を乱暴に服の袖で拭って、すっかり陽が沈んだ空を見上げる。
「だけど、僕にはあるんだ。六花に死すらも要求するだけの資格が――」
*
翌日も、放課後に六花の病室を訪れた。バスケ部には休部届を出したので、時間はたっぷりある。
ノックをして病室のドアを開けると、六花がパッと顔を輝かせてベッドから起き上がった。
「空くん! 今日も来てくれたんだ。ありがとう」
「具合はどうだ?」
「うん。昨日空くんと話して、心のつかえが取れたからかな。とても調子がいいんだ」
実際、六花の顔色は昨日と比べて良いように見える。おかげで話を切り出しやすくなった。
「それなら今度の日曜日、僕とデートしないか? 病院から外出許可を取れないかな?」
「ホントっ? 許可取れるといいなぁ。私も行きたいから、明日先生にお願いしてみる」
「ああ、短時間でもいいんだ。六花のお母さんには、僕からお願いしておくよ」
毎週土曜日は、診察と検査があるのだという。昨日そう聞いていたので、日曜日を指定したのだ。
お母さんの名前を出すと、六花は上目遣いに僕を見てニヤリと笑った。
「へぇ、空くんとうちのお母さん、ずいぶん仲がいいじゃない」
「何言ってるんだ。会ったのは、一昨日と昨日の二回だけだぞ? まあ、スマホの電話番号は交換したけどな」
「あ~、何なの? その得意げな顔。空くんは年上が好みなわけ?」
「一つとはいえ、六花だって年上だぞ?」
「あはは、そうだったね」
電話番号を交換したのは、もちろん六花の容態をすぐに知らせてもらうためだ。でも六花がとても楽しそうだったので、わざと自慢げに言った。
六花は気づいているのかいないのか、機嫌良さそうに笑っている。
「初めてのデート、覚えてるか? もう一度あのコースを回りたいんだ」
「いいね。じゃあ、待ち合わせはあのモニュメントでどう?」
「僕は構わないけど、大丈夫なのか?」
「うん、タクシーで行くから平気。許可がもらえたらね」
許可は多分もらえると思う、と六花は言った。おそらく本当に容態は安定しているんだろう。
面会は一時間以内と決められているので、あとは時間ギリギリまで他愛もない雑談をして過ごした。どんなに些細な話題でも、六花の笑顔が見られるだけで幸せだった。
「それじゃ、また日曜日に」
「うん、楽しみにしてるね」
土曜日に、デートコースの下見に行こうと決めた。半年前はほとんど六花がお膳立てをしてくれたけど、今度は僕が六花に目一杯楽しんでもらうんだ。
六花が僕に与えてくれたものが、どれほど大きいかを知ってもらうために。
助手席に座ると、お母さんは車を出す前に、まず僕の方を向いた。
「江夏君は、どこまで聞いたの?」
「治る見込みのない、命が助からない病気だって聞きました」
お母さんの体がピクリと震える。そう、とつぶいた声も震えていた。
何かを言おうとして口を開きかけ、そのまま閉じるという動作を何度か繰り返してから、お母さんは声を絞り出すようにして、僕にこう問いかけた。
「それで、江夏君はどうするの?」
「どうする、とは?」
質問の意味がわからずにそう問い返すと、お母さんは悲しそうな顔で微笑んだ。
「六花とお付き合いしてくれているんでしょう? そこまで話したってことは、あの子も覚悟を決めているはず。今すぐ別れて、あの子のことは忘れてもいいのよ。でも、もし最期の時まで一緒にいてくれるのなら……」
「それは、どのくらい先なんですか?」
「お医者様からは、あと三か月持つかどうかって言われてるわ」
お母さんが涙声になり、僕も返事ができずに黙り込んだ。背筋にさーっと冷たいものが流れ、心臓が痛いほどに高鳴る。
あと三か月――想像していたよりずっと短かった。高校は卒業できない、という言い方だったから、まだ一年近く、短くても半年以上はあると思っていたのだ。
「別れるつもりはありません。六花は僕の生きがいの全てです。もちろん、ずっと一緒にいさせてください」
「そう、ありがとう」
一語一語、力を込めてそう答えると、お母さんは涙声のまま、心底から安心したような顔で微笑んだ。
僕は大きく息を吸う。今度は僕が質問する番だ。
「あの、教えていただきたいことがあります」
「何かしら?」
運転席の方に向き直り、お母さんの目をじっと見つめてそう切り出した。
六花によく似た丸い大きな目が、パチパチと二回瞬いて、僕を見つめる。
「六花の病気についてです。本当に、治療法は何一つないんですか?」
「どういうこと?」
「まだ付き合って半年ほどですが、僕は、六花が嘘が苦手だと知っています。都合の悪いことは、すぐに内緒だと言って隠すことも」
僕の言葉に、お母さんは小さく頷いた。その仕草に力をもらって、僕はさらに言い募る。
「さっき六花に同じ質問をした時、彼女は僕の目を見ようとしませんでした。そして『私が救われる方法はない』って言いました。治療法はないのか? って聞いたのに、あえて違う言い回しをしたんです」
それだけなら、些細なニュアンスの違いに過ぎないかもしれない。でも真相を知った今ならよくわかる。あれは六花の、何かを誤魔化している口調だった。
声のトーンや、答えるまでのわずかな間、一瞬だけ宙を睨むあの表情、その全てに覚えがある。それらは僕に疑念を抱かせたのと同時に、わずかな希望も感じさせてくれた。
「直接問い詰めれば、六花を傷つけてしまうかもしれません。だからお母さんに伺いたいんです。本当に、治療法はないんですか?」
「それは……答えられないわ」
お母さんの目が泳ぐ。
なるほど、六花の嘘が下手なのは、お母さん譲りなんだな。
「だったら主治医の先生に会わせてください。直に教えてもらいます」
「守秘義務といってね、お医者様はそういうことを、家族以外の人には話さないのよ」
「つまり、僕に話していない、何らかの情報があるんですね?」
お母さんと僕の視線がぶつかり合い、車内に沈黙の時が流れる。
どれくらいの間、そうしていただろう。
「あなたには負けたわ」
やがてお母さんが表情を緩め、深いため息をついた。
「実は、命が助かる方法なら一つだけあるの。世界一の腕を持つと称される日本人の脳外科医が、アメリカのノースカロライナ州に居てね。その先生なら、六花の病巣を取り除けるかもしれないの」
「本当ですか!」
僕は車の中に居るのを忘れて、思わず立ち上がりそうになってしまった。希望は、本当にあったんだ。
「それで、それを六花は?」
「もちろん知っているわ。私も一緒にアメリカに行って、診察を受けたんだもの。二週間滞在して色々な検査をして、先生の話を聞いてじっくり考えてから、六花自身が受けないと決めたのよ」
「どうして! わずかでも助かる見込みがあるなら……」
「手術を受ければ、高確率で命は助かるそうよ。でも大きな後遺症が残るらしいの。良くて半身不随か全身麻痺。悪ければ植物状態になるかもしれないって言われてね」
喜びも束の間、一瞬にして絶望の淵に突き落とされる。
いや、僕がそんなことを言ってはいけないのかもしれない。わずかな希望を抱いてアメリカに渡り、厳しい現実を突きつけられた六花は、いったいどんな気持ちだったことか。
お母さんが僕から目を離し、駐車したままの車のハンドルを、両手でギュッときつく握りしめる。
「私だって、六花には何としても生きてほしい。六花が生きてさえいてくれるのなら、どんなことだってするわ。でも、私たちは六花より先に寿命を迎える。あの子が一人残されると考えると……」
そこでお母さんの言葉は、苦し気な嗚咽に変わった。
いっそ植物状態になる方が、まだマシなのかもしれない。もしも意識がはっきりしたまま全身麻痺になったら……その苦痛は、想像を絶することだろう。六花を何十年も続く拷問にかけるようなものだ。
だからご両親は、六花に選択させたんだろう。そして彼女は悩み抜いた末に、手術を受けないと決めたんだろう。
もしかしたら、六花があの橋の上から飛び降りようとしたのは、手術を拒む意図もあったのかもしれない。全身麻痺や植物状態になってしまえば、死を選ぶこともできなくなるのだから。
「お願い。そこまで六花のことを思ってくれているのなら、どうか最期まで六花のそばにいてあげて。あの子、さっき久しぶりに笑顔を見せたの。あなたのことを話す時だけ、嬉しそうな顔をするのよ」
「それは、もちろんです」
お母さんの懇願に、僕は一言そう返すのが精一杯だった。
*
帰宅してから、自転車であの橋まで行ってみた。
すでに陽は沈みかけている。黄昏時、空に夕焼けの色が微かに残る、昼と夜とのわずかな境目だ。
僕は半年前のちょうどこの時間に、ここから飛び降りようとした。
なぜ僕は死のうとまで思い詰めたのか。そして、なぜもう一度生きようと思ったのか。
六花と出会ったこの場所で、今一度振り返ろうと思ったのだ。
六花は自分の命が長くないことを知ってから、物語の中の希望に共感できなくなったと言っていた。
僕も同じだったのかもしれない。憧れていた女の子から声をかけられ、それが僕を笑い者にするためのイタズラだと知った時、僕の中で最後の糸が切れたのだろう。
人を信じることができず、誰とも心開くことなく、たった一人で生きてきた。でも、こんな僕の人生にも、いつかきっと良いことがあるはずだ――今思えばあの頃の僕は、心のどこかでそんなことを考えていた。
そんな微かな希望が、あの時、打ち砕かれてしまった。だから物語の中の希望にすら共感できなくなり、唯一の生き甲斐だった漫画やアニメ、ゲームといった趣味すら楽しめなくなったんだ。
そんな僕の前に、六花は突然現れた。一筋の光すら失ったと思っていたのに、突然、太陽が現れたかのようだった。
それくらい、六花の笑顔は眩しかった。真っ暗な中で生きるしかないと思っていた、僕の人生観や世界の見え方そのものを、六花は真逆の色に塗り替えてしまったんだ。
その太陽が今、沈もうとしている。まさに今みたいな黄昏時だ。そして現実の空と違って、もう二度と昇ることはない。
「いや……違う。わずかに残っているんだ、もう一度太陽が昇る可能性が。六花の病気を治せる方法が……」
だが、それを彼女自身が拒んだという。
脳の手術は、高いリスクを伴うという。ちょっとネットで調べただけで、そういう話がごろごろ出てきた。比較的簡単な手術ですら、手足に麻痺が残ったり、言葉を話せなくなったりすることもあるらしい。
ましてや、その道の専門家でさえうかつに手を出せない場所ともなれば……。
最悪の想像がとめどもなく膨らんで、胸がむかむかしてくる。ついには橋の上から川に向かって、胃の中の物を吐き出してしまった。
「六花に言えるのか? 手術を受けてくれって。僕が動けなくなるのとは意味が違うんだぞ。六花はプロのバスケ選手を夢見て、そのために人生の大半を費やしてきたんだ。それなのに、この先何十年も寝たきりになるかもしれないなんて、そんなの……」
そんなの、「今すぐ死ね」と言われるよりも残酷だろう。
だから六花のお母さんだって、僕以上に彼女に生きていてほしいと願っていても、それを娘に言えずにいたんだろう。そして六花が決めた以上、その治療法については考えないようにしていたんだろう。
だけど……。
汚れた口元を乱暴に服の袖で拭って、すっかり陽が沈んだ空を見上げる。
「だけど、僕にはあるんだ。六花に死すらも要求するだけの資格が――」
*
翌日も、放課後に六花の病室を訪れた。バスケ部には休部届を出したので、時間はたっぷりある。
ノックをして病室のドアを開けると、六花がパッと顔を輝かせてベッドから起き上がった。
「空くん! 今日も来てくれたんだ。ありがとう」
「具合はどうだ?」
「うん。昨日空くんと話して、心のつかえが取れたからかな。とても調子がいいんだ」
実際、六花の顔色は昨日と比べて良いように見える。おかげで話を切り出しやすくなった。
「それなら今度の日曜日、僕とデートしないか? 病院から外出許可を取れないかな?」
「ホントっ? 許可取れるといいなぁ。私も行きたいから、明日先生にお願いしてみる」
「ああ、短時間でもいいんだ。六花のお母さんには、僕からお願いしておくよ」
毎週土曜日は、診察と検査があるのだという。昨日そう聞いていたので、日曜日を指定したのだ。
お母さんの名前を出すと、六花は上目遣いに僕を見てニヤリと笑った。
「へぇ、空くんとうちのお母さん、ずいぶん仲がいいじゃない」
「何言ってるんだ。会ったのは、一昨日と昨日の二回だけだぞ? まあ、スマホの電話番号は交換したけどな」
「あ~、何なの? その得意げな顔。空くんは年上が好みなわけ?」
「一つとはいえ、六花だって年上だぞ?」
「あはは、そうだったね」
電話番号を交換したのは、もちろん六花の容態をすぐに知らせてもらうためだ。でも六花がとても楽しそうだったので、わざと自慢げに言った。
六花は気づいているのかいないのか、機嫌良さそうに笑っている。
「初めてのデート、覚えてるか? もう一度あのコースを回りたいんだ」
「いいね。じゃあ、待ち合わせはあのモニュメントでどう?」
「僕は構わないけど、大丈夫なのか?」
「うん、タクシーで行くから平気。許可がもらえたらね」
許可は多分もらえると思う、と六花は言った。おそらく本当に容態は安定しているんだろう。
面会は一時間以内と決められているので、あとは時間ギリギリまで他愛もない雑談をして過ごした。どんなに些細な話題でも、六花の笑顔が見られるだけで幸せだった。
「それじゃ、また日曜日に」
「うん、楽しみにしてるね」
土曜日に、デートコースの下見に行こうと決めた。半年前はほとんど六花がお膳立てをしてくれたけど、今度は僕が六花に目一杯楽しんでもらうんだ。
六花が僕に与えてくれたものが、どれほど大きいかを知ってもらうために。