次の日の放課後、六花のお母さんが学校の前まで迎えに来てくれた。車で十分ほど走って着いたところは、この辺りで一番大きな総合病院だった。
「それじゃ、六花と話をしてくるわ。江夏君はここで待っていてね」
「はい、よろしくお願いします」
先にお母さんが僕のことを話してくれて、六花が会うと言ったら呼びに来てくれることになった。
約束した以上、病室がわかっていても、六花から呼ばれない限り決して勝手に訪れたりはしない。
六花の病室がある階の端っこに、小さな談話スペースがあった。そこの椅子に座って、十五分くらいは待っただろうか。お母さんがやって来て、僕に優しく微笑んだ。
「私は席を外すから、六花と話をしてあげて。あの子もずいぶん後悔しているみたいよ。連絡できなかったのも、会わせる顔がなかったんですって。どうか許してあげて」
そう言って、お母さんは廊下の向こうに姿を消した。
コンコン、とノックをすると、すぐに「はい」と小さな声で返事があった。
たった二日会わなかっただけなのに、ひどく緊張していることに気づく。特訓のために二か月間会わなかった時よりも、ずっと――。
僕は大きく二回深呼吸をしてから、そろりと引き戸を開けた。
「空くん」
病室に入ると、六花が嬉しそうに僕を呼んだ。薄ピンク色の簡素な病院の寝間着も、彼女が着ると浴衣のように華やかに見える。その笑顔はいつも通り可愛くて、やつれた様子もない。
それを見ただけで、僕は何も言えなくなってしまった。
「来てくれてありがとう。……空くん?」
何か言わなきゃ――そう思えば思うほど、言葉がまるで出てこない。
やっと会えたという安堵感なのか、彼女の病状を聞くことへの不安なのか。とにかく胸がいっぱいになって、言葉の代わりに涙が溢れ出した。
病室のドアを背にして、立ち尽くしたまま泣いている僕を見かねて、六花がベッドから降りて僕のところまでやって来た。
短い距離を、時折ふらつきながらゆっくりと歩いてくる。そして、あと少しのところで転びそうになった彼女を、僕は慌てて受け止めた。
六花は僕の首に両手を回して抱きついた。
少し前の僕なら、きっとこれも六花のスキンシップだと誤解していただろう。でもおそらく今の六花は、僕に掴まって何とか立っている状態なんだ。
「ごめんね、空くん」
「六花は何も悪くないんだ。謝らないでくれ」
ようやくまともな返事をして、僕は六花を抱き上げた。いわゆる“お姫様抱っこ”でゆっくりとベッドまで運び、そっと寝かせる。そして僕自身は、ベッドの脇に置いてあった丸椅子に腰かけた。
六花はベッドの上で上半身を起こし、体を僕の方に向ける。
「今日は話を聞きに来たんだ」
そう前置きして、僕はなるべく穏やかな口調で言葉を続けた。
「なぜ六花は僕と付き合うと言ったんだ? どうしてバスケの勝負や約束を持ちかけたんだ?」
その問いかけに、六花の顔が悲しそうに歪んだ。
「それを聞いたら、きっと私に幻滅するよ。私は空くんに好かれるように、計算して振る舞っていたんだから。本当の私は身勝手で、どうしようもない人間なの」
「それでいい。六花の本心が知りたいんだ」
本当は笑顔でさらりと言いたかったけど、緊張で表情が少し引きつっていたかもしれない。でも六花は泣き笑いみたいな顔で、小さく微笑んでくれた。
「何から話したらいいのかな……」
そう言って少しの間、考え込むように宙を見つめる。それから六花はゆっくりと話し始めた。
「私の中学時代のことは、遊園地で聞いたから、ある程度は知ってるよね?」
「ああ。一年生でキャプテンになって、女子バスケ部の大改革を行なった。部員の半分はそれに反発して退部したけど、県大会にすら出られなかった弱小部を、たった二年で全国優勝に導いたんだよな」
すらすらとそう言ってのけると、六花は目を丸くした。
「ずいぶん詳しいなぁ。誰から聞いたの?」
「成瀬だよ。僕と同級生の、成瀬天馬。中学の時、六花に二度も振られたと言ってた」
「ああ、あの子か。そっか、もちろん覚えてるよ」
バスケ部の同級生から1on1の指導を受けていることは、これまでにも話したことがあった。彼が、僕の自殺未遂のきっかけとなった出来事に関わっていたことも。でもそれが成瀬だということは、まだ話したことがなかった。
六花は、僕と成瀬との関係が改善したことを喜んでくれた。
「私の病気が見つかったのは、全国大会で優勝した直後のことだったの。試合後に激しい頭痛に襲われて、救急車で運ばれて……表彰式にも出られなかったんだ」
あれは悔しかったなぁ、と彼女は少し遠い目をして言った。
「お医者さんが言うにはね。私の頭の中には時限爆弾があって、それが破裂した時に私は死ぬんだって。あっ、時限爆弾っていうのはもちろん、比喩だけどね」
六花から正確な病名を聞いて、忘れないようにメモを取る。六花が言うには、それはかなり珍しい脳の病気らしい。
「それで、治す方法はないのか?」
「うん。脳の一番深いところに病巣があって、手術で取り除くのは難しいって」
恐る恐る質問すると、六花は淡々とした調子で言った。
深さも問題だけど、場所も悪かったらしい。できることは、病気の進行を遅らせる薬物治療だけ。
何度も何度も検査を受けた末に、そんな絶望的な診断と余命宣告を受け、六花の心境は一変したそうだ。
「目の前が真っ暗になっただけじゃなくて、心の中まで真っ黒な闇に塗り潰されてね。そしたら何もかもが色あせちゃったの。ご飯の味もわからなくなったし、何をしても楽しいと思えなくなった。一日中布団をかぶって、毎日泣いてばかりいたっけ」
また言葉が出なくなって、布団の上に置かれた六花の左手の上に、そっと自分の手を重ねる。六花はその上に右手を重ねて、ポツポツとさらに話を続けた。
「学校は休んでばかりだったけど、本当はもっと行けたんだ。痛み止めを飲んでおけば、半日は動けるから。激しい運動をしなければ、外出も制限されてなかったしね。だけど行きたいと思えなくて……」
「ちょっと待て! 激しい運動をしなければって、バスケの勝負は十分に激しいじゃないか!」
ゾッとして、思わず大きな声を出してしまう。知らなかったとはいえ、僕はそんな彼女を相手に、対戦時間を引き伸ばして体力を削る作戦に出ていたのか……。
六花は僕の剣幕に、イタズラがばれた子供みたいなバツが悪そうな顔をした。
「だから、勝負は月に一度にしていたでしょ? 練習ではちゃんとペース配分してたし、最初の頃は本気を出す必要もなかったから、いけるかな~って……ごめんなさい」
「なら、最後の勝負のあとに六花が倒れたのは、間違いなく僕のせいだ。すまなかった……」
「空くんのせいじゃないよ。悪いのは私なんだから」
二人で競うように頭を下げ合って、思わず苦笑する。今はこんなことを話している場合ではない。
六花の病気は進行性だが、極端に心拍数が上がるような行動を取らない限り、短時間なら日常生活に支障は出ないらしい。
短時間とは、痛み止めの効果が持続する時間のことで、六時間を過ぎると徐々に効果が弱まり、十時間が経つと痛みで自由に動けなくなるそうだ。
「じゃあ、僕と会っている時も?」
「うん。いつも空くんと会う前に飲んでたし、今も、さっき飲んだばかりだよ」
だから長いデートはできなかったのだ、と六花は言った。
言われてみれば、確かに六花とのデートは毎回五時間くらいで、いつも彼女の方から切り上げていた。
土曜日の午前中は、予定があると言って決して会ってはくれなかった。あれはきっと通院の日だったんだろう。そうでなくても、一日中遊ぶわけにはいかなかったのだ。
いや、一度だけ遊園地で六時間近く遊んだことがあった。その時、六花が体調を崩したのを覚えている。中学の時の知り合いに会ったからだと思っていたが、薬の効果が切れたからだったのか。
「高校は多分、卒業できないって言われた。それでもすぐに死ぬわけじゃないから、残された時間を有意義に使うべきだった。ほら、よくあるじゃない? やりたいことリストを消化するとか、私ならバスケ部のマネージャーになってインターハイを目指すとか。でもね……」
「何をしても楽しいと思えなくなった、って言ってたよな?」
「うん。もうあと少ししか生きられないと知ったら、びっくりするくらい、何もかもに興味がなくなっちゃったの」
たとえインターハイに出られても、あるいは優勝できたとしても、自分のバスケはそこで終わりだと考えると、急に熱が冷めてしまったのだという。
それだけではない。本を読んでも映画を観ても、心が動かなくなった。どうせ死ぬんだと思うと、物語の中の希望に共感できなくなってしまったのだと、六花は言った。
「そうか。それで初デートの時に、本に興味が持てないなんて言ったのか」
「情けないよね。私と同じような境遇の人はきっとたくさんいるし、みんな精一杯残りの時間を生きている。それなのに、私は空っぽの心で死を待つばかり。そんな自分が心底嫌になってね。それで……」
六花はそこで言葉を切ったが、何を言わんとしているのか、僕にはわかった。
鮮やかによみがえる、僕を止めてくれた甲高い声と、夕闇に浮かび上がった六花の姿。
「もしかして、あの時……」
「そう。タイミングが良すぎると思わなかった? 実は、私も死ぬつもりであの橋に行ったの。そしたら驚いたことに先客が居て、私はその様子を物陰からじっと見てたんだ。酷いでしょ? 私は空くんが本当に飛び降りるつもりなのか確かめたくて、ギリギリまで止めに行かなかったの」
酷いとは思わなかった。それよりも、六花が何を思って僕を止めようとしたのかが気になった。
そう言うと、六花はちょっとの間押し黙ってから、少しだけ早口になった。
「私ね、一人で家の中で泣いてばかりいたの。部活でバスケをしても、学校で勉強をしても、私にはそれを生かせる未来がない。せめて誰かの役に立ってから死のうと思ったけど、私より幸せな人のために残りの時間を使うのは悔しかった。だって不公平でしょ?」
六花は僕の顔を見つめ、そこまで一気に語ってから、目を伏せる。
「空くんはね、私が見つけた絶望だったの。もう必死だったよ。絶対に逃がすわけにはいかないと思った。ようやく見つけた、私の残り時間の使い道だもの。私の人生に意味を与えてくれる人だもの。もしも私が空くんを救えたら……だけどね」
そこまで話して、六花はサイドテーブルの上のペットボトルの水を一口飲んだ。
「それでバスケの勝負、そして約束か」
「そう。私は空くんにできるだけ好かれるように振る舞った。その上で、私に勝ったら何でも言うことを聞くって約束までして、空くんにバスケをやらせたの。言ってみれば遺産相続……かな。私の夢も、私の体も、残された時間も、ぜんぶ空くんにあげようと思ったの」
半年の期限を設けたのは、それくらいまでしかまともに動けないと聞かされていたからだった。痛み止めの効果時間も、わずかずつだが短くなってきているらしい。
そう聞くと、バスケの特訓のために二か月間会えないと言った時、六花が珍しく反対して、何とか会う時間を作ろうと色々提案してきたことにも合点がいく。きっとそれが、六花が自由に活動できる最後の二か月間だったんだろう。
「でも、空くんは私の体を求めなかった。私にとっては、あれが精一杯の色仕掛けだったんだよ? それなのに、空くんは私にずっとそばにいてほしいって言ってくれた。ちゃんと別れだって仄めかしたのに。今なら新しい彼女だって作れるはずなのに。私はこんな風に……空くんを傷つけるつもりはなかったのに」
そこでついに六花は声を上げて泣き出した。僕の手をギュッと掴んだまま、細い肩を激しく震わせて。
僕はどう声をかけていいのかわからず、ただ黙って彼女の気持ちが落ち着くのを待った。
しばらくして、六花はようやく顔を上げた。泣き腫らした目で照れ臭そうに僕を見て、ごめんね、とかすれた声でつぶやく。
僕は返事の代わりに彼女の手をギュッと握り返してから、まっすぐに彼女の目を見つめた。
「最後に一つだけ、どうしても確認したいことがあるんだ」
「なあに? もう何でも話すよ」
「六花の病気についてだ。本当に、治療法は一つもないのか?」
「あ、うん……。私が救われる方法はないよ」
僕は六花の目をじっと見つめたままだったが、六花はその時、僕の目を見ようとはしなかった。
「話してくれてありがとう。疲れたんじゃないか?」
「ううん、大丈夫」
「そうか。じゃあ、また来てもいいか?」
「また、来てくれるの?」
「当たり前だろ?」
六花の手をもう一度握ってから、丸椅子から立ち上がる。あまり長時間の見舞いは、六花の負担になるだろう。
でもこれだけは、言っておかないといけない。
「全てを聞いた今でも、僕は六花に幻滅なんかしていない。僕の気持ちは変わらないからな」
そう言って、六花の返事を待たずに病室を出る。さっき僕が待っていた談話スペースに、六花のお母さんの姿があった。
「江夏君、六花とちゃんと話せた?」
「はい、おかげさまで。僕はまたここでお待ちしています」
僕は深く頭を下げて、再び病室に戻るお母さんを見送った。
談話スペースの椅子に腰かけて、さっきまでの六花との会話を思い出す。
六花は重い病気なんだという現実感が、ようやく僕にも湧いてきていた。
悲しむよりも先に腹が立った。腹が立って腹が立って、腸が煮えくり返りそうだ。
僕から六花を奪おうというのか? そんな酷いことが許されると思っているのか?
それが死神の仕業なら、ぶん殴ってでも六花を守り抜く。それが運命の仕業なら、死後の世界に殴り込んででも取り戻す。そのために、僕が今やるべきことは……。
僕の気持ちは変わらない――六花にはああ言ったが、本当はそうじゃない。
僕の彼女への思いは、ますます揺るぎないものになっていた。
「それじゃ、六花と話をしてくるわ。江夏君はここで待っていてね」
「はい、よろしくお願いします」
先にお母さんが僕のことを話してくれて、六花が会うと言ったら呼びに来てくれることになった。
約束した以上、病室がわかっていても、六花から呼ばれない限り決して勝手に訪れたりはしない。
六花の病室がある階の端っこに、小さな談話スペースがあった。そこの椅子に座って、十五分くらいは待っただろうか。お母さんがやって来て、僕に優しく微笑んだ。
「私は席を外すから、六花と話をしてあげて。あの子もずいぶん後悔しているみたいよ。連絡できなかったのも、会わせる顔がなかったんですって。どうか許してあげて」
そう言って、お母さんは廊下の向こうに姿を消した。
コンコン、とノックをすると、すぐに「はい」と小さな声で返事があった。
たった二日会わなかっただけなのに、ひどく緊張していることに気づく。特訓のために二か月間会わなかった時よりも、ずっと――。
僕は大きく二回深呼吸をしてから、そろりと引き戸を開けた。
「空くん」
病室に入ると、六花が嬉しそうに僕を呼んだ。薄ピンク色の簡素な病院の寝間着も、彼女が着ると浴衣のように華やかに見える。その笑顔はいつも通り可愛くて、やつれた様子もない。
それを見ただけで、僕は何も言えなくなってしまった。
「来てくれてありがとう。……空くん?」
何か言わなきゃ――そう思えば思うほど、言葉がまるで出てこない。
やっと会えたという安堵感なのか、彼女の病状を聞くことへの不安なのか。とにかく胸がいっぱいになって、言葉の代わりに涙が溢れ出した。
病室のドアを背にして、立ち尽くしたまま泣いている僕を見かねて、六花がベッドから降りて僕のところまでやって来た。
短い距離を、時折ふらつきながらゆっくりと歩いてくる。そして、あと少しのところで転びそうになった彼女を、僕は慌てて受け止めた。
六花は僕の首に両手を回して抱きついた。
少し前の僕なら、きっとこれも六花のスキンシップだと誤解していただろう。でもおそらく今の六花は、僕に掴まって何とか立っている状態なんだ。
「ごめんね、空くん」
「六花は何も悪くないんだ。謝らないでくれ」
ようやくまともな返事をして、僕は六花を抱き上げた。いわゆる“お姫様抱っこ”でゆっくりとベッドまで運び、そっと寝かせる。そして僕自身は、ベッドの脇に置いてあった丸椅子に腰かけた。
六花はベッドの上で上半身を起こし、体を僕の方に向ける。
「今日は話を聞きに来たんだ」
そう前置きして、僕はなるべく穏やかな口調で言葉を続けた。
「なぜ六花は僕と付き合うと言ったんだ? どうしてバスケの勝負や約束を持ちかけたんだ?」
その問いかけに、六花の顔が悲しそうに歪んだ。
「それを聞いたら、きっと私に幻滅するよ。私は空くんに好かれるように、計算して振る舞っていたんだから。本当の私は身勝手で、どうしようもない人間なの」
「それでいい。六花の本心が知りたいんだ」
本当は笑顔でさらりと言いたかったけど、緊張で表情が少し引きつっていたかもしれない。でも六花は泣き笑いみたいな顔で、小さく微笑んでくれた。
「何から話したらいいのかな……」
そう言って少しの間、考え込むように宙を見つめる。それから六花はゆっくりと話し始めた。
「私の中学時代のことは、遊園地で聞いたから、ある程度は知ってるよね?」
「ああ。一年生でキャプテンになって、女子バスケ部の大改革を行なった。部員の半分はそれに反発して退部したけど、県大会にすら出られなかった弱小部を、たった二年で全国優勝に導いたんだよな」
すらすらとそう言ってのけると、六花は目を丸くした。
「ずいぶん詳しいなぁ。誰から聞いたの?」
「成瀬だよ。僕と同級生の、成瀬天馬。中学の時、六花に二度も振られたと言ってた」
「ああ、あの子か。そっか、もちろん覚えてるよ」
バスケ部の同級生から1on1の指導を受けていることは、これまでにも話したことがあった。彼が、僕の自殺未遂のきっかけとなった出来事に関わっていたことも。でもそれが成瀬だということは、まだ話したことがなかった。
六花は、僕と成瀬との関係が改善したことを喜んでくれた。
「私の病気が見つかったのは、全国大会で優勝した直後のことだったの。試合後に激しい頭痛に襲われて、救急車で運ばれて……表彰式にも出られなかったんだ」
あれは悔しかったなぁ、と彼女は少し遠い目をして言った。
「お医者さんが言うにはね。私の頭の中には時限爆弾があって、それが破裂した時に私は死ぬんだって。あっ、時限爆弾っていうのはもちろん、比喩だけどね」
六花から正確な病名を聞いて、忘れないようにメモを取る。六花が言うには、それはかなり珍しい脳の病気らしい。
「それで、治す方法はないのか?」
「うん。脳の一番深いところに病巣があって、手術で取り除くのは難しいって」
恐る恐る質問すると、六花は淡々とした調子で言った。
深さも問題だけど、場所も悪かったらしい。できることは、病気の進行を遅らせる薬物治療だけ。
何度も何度も検査を受けた末に、そんな絶望的な診断と余命宣告を受け、六花の心境は一変したそうだ。
「目の前が真っ暗になっただけじゃなくて、心の中まで真っ黒な闇に塗り潰されてね。そしたら何もかもが色あせちゃったの。ご飯の味もわからなくなったし、何をしても楽しいと思えなくなった。一日中布団をかぶって、毎日泣いてばかりいたっけ」
また言葉が出なくなって、布団の上に置かれた六花の左手の上に、そっと自分の手を重ねる。六花はその上に右手を重ねて、ポツポツとさらに話を続けた。
「学校は休んでばかりだったけど、本当はもっと行けたんだ。痛み止めを飲んでおけば、半日は動けるから。激しい運動をしなければ、外出も制限されてなかったしね。だけど行きたいと思えなくて……」
「ちょっと待て! 激しい運動をしなければって、バスケの勝負は十分に激しいじゃないか!」
ゾッとして、思わず大きな声を出してしまう。知らなかったとはいえ、僕はそんな彼女を相手に、対戦時間を引き伸ばして体力を削る作戦に出ていたのか……。
六花は僕の剣幕に、イタズラがばれた子供みたいなバツが悪そうな顔をした。
「だから、勝負は月に一度にしていたでしょ? 練習ではちゃんとペース配分してたし、最初の頃は本気を出す必要もなかったから、いけるかな~って……ごめんなさい」
「なら、最後の勝負のあとに六花が倒れたのは、間違いなく僕のせいだ。すまなかった……」
「空くんのせいじゃないよ。悪いのは私なんだから」
二人で競うように頭を下げ合って、思わず苦笑する。今はこんなことを話している場合ではない。
六花の病気は進行性だが、極端に心拍数が上がるような行動を取らない限り、短時間なら日常生活に支障は出ないらしい。
短時間とは、痛み止めの効果が持続する時間のことで、六時間を過ぎると徐々に効果が弱まり、十時間が経つと痛みで自由に動けなくなるそうだ。
「じゃあ、僕と会っている時も?」
「うん。いつも空くんと会う前に飲んでたし、今も、さっき飲んだばかりだよ」
だから長いデートはできなかったのだ、と六花は言った。
言われてみれば、確かに六花とのデートは毎回五時間くらいで、いつも彼女の方から切り上げていた。
土曜日の午前中は、予定があると言って決して会ってはくれなかった。あれはきっと通院の日だったんだろう。そうでなくても、一日中遊ぶわけにはいかなかったのだ。
いや、一度だけ遊園地で六時間近く遊んだことがあった。その時、六花が体調を崩したのを覚えている。中学の時の知り合いに会ったからだと思っていたが、薬の効果が切れたからだったのか。
「高校は多分、卒業できないって言われた。それでもすぐに死ぬわけじゃないから、残された時間を有意義に使うべきだった。ほら、よくあるじゃない? やりたいことリストを消化するとか、私ならバスケ部のマネージャーになってインターハイを目指すとか。でもね……」
「何をしても楽しいと思えなくなった、って言ってたよな?」
「うん。もうあと少ししか生きられないと知ったら、びっくりするくらい、何もかもに興味がなくなっちゃったの」
たとえインターハイに出られても、あるいは優勝できたとしても、自分のバスケはそこで終わりだと考えると、急に熱が冷めてしまったのだという。
それだけではない。本を読んでも映画を観ても、心が動かなくなった。どうせ死ぬんだと思うと、物語の中の希望に共感できなくなってしまったのだと、六花は言った。
「そうか。それで初デートの時に、本に興味が持てないなんて言ったのか」
「情けないよね。私と同じような境遇の人はきっとたくさんいるし、みんな精一杯残りの時間を生きている。それなのに、私は空っぽの心で死を待つばかり。そんな自分が心底嫌になってね。それで……」
六花はそこで言葉を切ったが、何を言わんとしているのか、僕にはわかった。
鮮やかによみがえる、僕を止めてくれた甲高い声と、夕闇に浮かび上がった六花の姿。
「もしかして、あの時……」
「そう。タイミングが良すぎると思わなかった? 実は、私も死ぬつもりであの橋に行ったの。そしたら驚いたことに先客が居て、私はその様子を物陰からじっと見てたんだ。酷いでしょ? 私は空くんが本当に飛び降りるつもりなのか確かめたくて、ギリギリまで止めに行かなかったの」
酷いとは思わなかった。それよりも、六花が何を思って僕を止めようとしたのかが気になった。
そう言うと、六花はちょっとの間押し黙ってから、少しだけ早口になった。
「私ね、一人で家の中で泣いてばかりいたの。部活でバスケをしても、学校で勉強をしても、私にはそれを生かせる未来がない。せめて誰かの役に立ってから死のうと思ったけど、私より幸せな人のために残りの時間を使うのは悔しかった。だって不公平でしょ?」
六花は僕の顔を見つめ、そこまで一気に語ってから、目を伏せる。
「空くんはね、私が見つけた絶望だったの。もう必死だったよ。絶対に逃がすわけにはいかないと思った。ようやく見つけた、私の残り時間の使い道だもの。私の人生に意味を与えてくれる人だもの。もしも私が空くんを救えたら……だけどね」
そこまで話して、六花はサイドテーブルの上のペットボトルの水を一口飲んだ。
「それでバスケの勝負、そして約束か」
「そう。私は空くんにできるだけ好かれるように振る舞った。その上で、私に勝ったら何でも言うことを聞くって約束までして、空くんにバスケをやらせたの。言ってみれば遺産相続……かな。私の夢も、私の体も、残された時間も、ぜんぶ空くんにあげようと思ったの」
半年の期限を設けたのは、それくらいまでしかまともに動けないと聞かされていたからだった。痛み止めの効果時間も、わずかずつだが短くなってきているらしい。
そう聞くと、バスケの特訓のために二か月間会えないと言った時、六花が珍しく反対して、何とか会う時間を作ろうと色々提案してきたことにも合点がいく。きっとそれが、六花が自由に活動できる最後の二か月間だったんだろう。
「でも、空くんは私の体を求めなかった。私にとっては、あれが精一杯の色仕掛けだったんだよ? それなのに、空くんは私にずっとそばにいてほしいって言ってくれた。ちゃんと別れだって仄めかしたのに。今なら新しい彼女だって作れるはずなのに。私はこんな風に……空くんを傷つけるつもりはなかったのに」
そこでついに六花は声を上げて泣き出した。僕の手をギュッと掴んだまま、細い肩を激しく震わせて。
僕はどう声をかけていいのかわからず、ただ黙って彼女の気持ちが落ち着くのを待った。
しばらくして、六花はようやく顔を上げた。泣き腫らした目で照れ臭そうに僕を見て、ごめんね、とかすれた声でつぶやく。
僕は返事の代わりに彼女の手をギュッと握り返してから、まっすぐに彼女の目を見つめた。
「最後に一つだけ、どうしても確認したいことがあるんだ」
「なあに? もう何でも話すよ」
「六花の病気についてだ。本当に、治療法は一つもないのか?」
「あ、うん……。私が救われる方法はないよ」
僕は六花の目をじっと見つめたままだったが、六花はその時、僕の目を見ようとはしなかった。
「話してくれてありがとう。疲れたんじゃないか?」
「ううん、大丈夫」
「そうか。じゃあ、また来てもいいか?」
「また、来てくれるの?」
「当たり前だろ?」
六花の手をもう一度握ってから、丸椅子から立ち上がる。あまり長時間の見舞いは、六花の負担になるだろう。
でもこれだけは、言っておかないといけない。
「全てを聞いた今でも、僕は六花に幻滅なんかしていない。僕の気持ちは変わらないからな」
そう言って、六花の返事を待たずに病室を出る。さっき僕が待っていた談話スペースに、六花のお母さんの姿があった。
「江夏君、六花とちゃんと話せた?」
「はい、おかげさまで。僕はまたここでお待ちしています」
僕は深く頭を下げて、再び病室に戻るお母さんを見送った。
談話スペースの椅子に腰かけて、さっきまでの六花との会話を思い出す。
六花は重い病気なんだという現実感が、ようやく僕にも湧いてきていた。
悲しむよりも先に腹が立った。腹が立って腹が立って、腸が煮えくり返りそうだ。
僕から六花を奪おうというのか? そんな酷いことが許されると思っているのか?
それが死神の仕業なら、ぶん殴ってでも六花を守り抜く。それが運命の仕業なら、死後の世界に殴り込んででも取り戻す。そのために、僕が今やるべきことは……。
僕の気持ちは変わらない――六花にはああ言ったが、本当はそうじゃない。
僕の彼女への思いは、ますます揺るぎないものになっていた。