学校の近くのファミレスを覗くと、成瀬が僕に気づいて大きく手を振った。ここに来るのは、二か月前に成瀬にコーチをお願いした時以来だ。

「悪い、成瀬。待たせたな」
「構わないさ。落ち込んでる時に呼び出してすなまかったな」
「いや、こちらこそ昨日は悪かった」
 そう言うと、成瀬が身を乗り出した。

「それでお前、部活を辞めるって本気か?」
「ああ、もうバスケを続ける理由がなくなったんだ」
 そう前置きしてから、僕はお詫びと感謝の両方の気持ちを込めて、テーブルに額をこすりつけるように深く頭を下げた。

「成瀬には二か月間、本当に色々なことを教えてもらって感謝してるし、申し訳ないと思ってる。ありがとう。勝負に勝てたのは、お前のおかげだ」
「おいおい、頭を上げろよ」
 成瀬が慌てた様子で僕の肩を掴み、力ずくで持ち上げる。そして真剣な表情で僕の顔を覗き込んだ。

「顧問の先生もキャプテンも、みんなお前に期待してるんだぞ。早ければ次の大会のスタメンだって狙える。それどころか、俺とツートップでフォワードを務めることだって……」
「悪いけど、そういうのには興味がないんだ。それどころか、もう学校に行く気もなくなった。もともと辞めるつもりだったのを、バスケ部に入りたくて戻ったんだからな」
「全て、冬上六花(ふゆがみりっか)のためだったのか?」
「そうだ」
 僕が頷くと、成瀬は呆れたように首を左右に振って、大きくため息をついた。

「一体、彼女と何があったんだ? 彼女と何かを賭けて勝負したんだったよな? 少しでも俺に悪いと思ってるなら、洗いざらい話してくれ」
 確かに成瀬は、これまで詳しい事情を何も聞かず、二か月間の空き時間を全て費やして僕を鍛えてくれた。こうなった以上、ことの経緯をきちんと話すべきだろう。
 僕は少し考えてから、六花と出会った日に僕が橋に行った理由と、橋の上でのやり取りの一部を伏せて、これまでの出来事を順に話すことにした。

「……というわけだ。僕はまんまとハニートラップに引っかかり、ピエロを演じたってことさ」
「ハニートラップを仕掛けたのは俺だろうが。怒る気持ちはわかるが、冬上さんを俺なんかと一緒にするな。彼女はお前から何も奪ってないだろ」
「それは、そうだな……」

 自分が(みじ)めで、僕がわざと辛辣(しんらつ)な言い方をすると、成瀬は冷静にたしなめてくれた。
 彼女の呼び方も、「冬上六花」から「冬上さん」に変わっている。それだけ成瀬は僕の話を真剣に聞いてくれたんだろう。
 僕が成瀬の言葉に頷くと、彼は考え込むような顔をしながら、すっかり冷めたコーヒーを一口飲んだ。

「それで、冬上さんと連絡はつかないのか?」
「昨夜遅くにメッセージを送ったけど、まだ既読がついてない。あえて見てないのかもしれないな」
「自宅は知らないのか?」
「知っているのは家の近くの公園までだ。珍しい苗字だから、探すのは難しくないだろうが……」

 当人から教えてもらって訪ねるならともかく、苗字を頼りに女の子の家を探し当てて押しかけるなんて、人として一線を越えている気がする。それをやってしまったら、ストーカーと何も変わらないだろう。

「だったら明日、学校に来い。昼休みに会いに行けばいい」
「……どういうことだ?」
「忘れたのか? 冬上さんは俺たちと同じ高校の三年だぞ?」

 そう言われてハッとした。これまで六花とはいつでも連絡が取れたから、そもそも学校で会おうなんて考えたこともなかったのだ。

「明日の昼までに、彼女のクラスがどこか調べておいてやるよ」
「すまん、助かる」
「気にするな。その代わり、冬上さんとちゃんと話をするまでは、退部届を出したりするなよ」
「……わかった」
 こうして僕は、明日から学校に行くことにした。



 翌朝学校に行くと、朝練から戻った成瀬が早々と、六花のクラスは三年二組だと教えてくれた。
 長い長い午前中の授業をじりじりとやり過ごし、昼休みになると同時に教室を飛び出して、三年生のクラスに向かう。

 三年二組の教室は、幸い、後ろのドアが開いていた。廊下からさりげなく中を覗いたが、六花の姿は見当たらない。
 仕方なく、ドアの近くの席に座っている女子の先輩に声をかけた。

「すみません。冬上先輩はいらっしゃいますか?」
「冬上六花さん? 彼女なら、今日は来てないわよ」
「えっ? そうなんですか。体調が悪い……とかでしょうか」
「冬上さん、学校を休みがちなのよ。それでも二年の時は三日に一日くらいは来てたんだけど、三年になってからは、ほとんど学校に来てないわ」

 さらりと語られた言葉に、まるで頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
 二年の時から三日に一日しか登校していなかった? だとすると、僕と付き合っていたこの半年間、彼女はその大半を家で過ごしていたことになる。

「でも、そんなに休んでいたら三年に上がれるはずが……」
 確か、年間二百日くらいは登校しないと、進級に必要な単位が取れないはずだ。それは停学中に調べたので知っている。学校に戻るのが嫌だったから、登校せずに卒業証書だけもらえないかと考えたのだ。

 先輩は少し考えてから、こう教えてくれた。
「冬上さん、重い病気なんだって。だから特例措置で、課題を提出すれば出席日数が足りなくても進級できるそうよ。でもこれだけ休んでると、卒業は難しいかもね」

 今度こそ、僕はショックのあまり頭が真っ白になってしまった。
 なんて挨拶をして、どこをどう通って自分の教室まで戻ったのか、まるで覚えていない。さっき聞かされた先輩の言葉を何度も思い返しているのに、頭の中にはちっとも入ってこない。

 六花が重い病気だって? 学校にもほとんど来てないだって?
 でも六花は、僕と何度もデートしてくれたじゃないか。それどころか、あんなに見事な動きでバスケの勝負だってしていたというのに!

 放課後になると、今度は職員室に向かった。六花の担任の先生に事情を聞こうと思ったのだ。
 三年二組の担任は中年の女性の先生で、僕の質問を穏やかに頷きながら聞いてくれた。

「ええ、確かに冬上六花さんはこのところずっと休んでいますね。今日も、保護者の方から体調が良くないと連絡がありました。近いうちにお見舞いに行こうと思っていましたが……」
「二年の時から休みがちだったと聞きました。どんな病気なんですか?」
「それは、答えられないルールなのよ。重要な個人情報になりますから」

 そう言われると、引き下がるしかない。

「では、見舞いに行きたいのですが、冬上先輩の住所を教えていただけますか?」
「ごめんなさい。それも個人情報だから、教えられないわ」

 残念だが、先生の言うことはもっともだった。これ以上、校内で調べられることは何もない。
 僕は学校を飛び出すと、六花と一番多く時間を過ごした、あのバスケットゴールのある公園へと急いだ。



 当然ながら、公園に六花の姿はなかった。園内をぐるりと見回してからスマホを確認してみたが、やはりメッセージには既読が付いていない。
 居ても立ってもいられなくなって、気づけば公園の近くの通りを歩きながら、一軒一軒の表札を確認して六花の自宅を探していた。

 こんな方法は非効率極まりない。せめて近所の住民に尋ねてみるべきだろう。だが、もしかしたらこの隣が六花の家かもしれない、という考えが捨てきれない。
 結局、幾つもの通りを舐めるように行き過ぎて、『冬上』という表札の掛かった一軒家を見つけたのは、辺りがすっかり暗くなってからのことだった。
 こんなやり方で女の子の家を訪問するなんて、ストーカーのすることだ――そう思った昨日の今日だが、こうなってしまっては引き返すわけにもいかない。

 意を決してインターホンを押す。だが、どれだけ待っても返事はなかった。
 ご両親は、仕事で帰りが遅いこともあり得るだろう。でも、六花は学校を休んでいるのだから、家に居るはずだ。
 もう一度インターホンを鳴らすが、やはり応答はない。もしかしたら寝ているんだろうか、と思った時、六花の家のどの部屋にも灯りがついていないことに気づいた。

「ここまで来て、手ぶらで帰れるか!」
 もう完全に腹を(くく)った。仮に出直したところで、明日会えるなんて保証はない。
 六花の手がかりはこの家しかないのだから、誰かが帰ってくるまでここで待つのが一番だ。それが深夜になろうが、朝になろうが構うものか。

 あからさまに家の前でうろうろしていたら、近所の人から不審者として通報されるかもしれない。そこで、六花の家が辛うじて見える距離まで遠ざかって、(へい)の陰に座り込んだ。

 長い長い時間が経ち、やがて時計の針が午後九時を指した頃、ようやく六花の家の前に一台の車が停まった。僕はすぐに飛び出して車に駆け寄ると、その場に(ひざ)をついて深く頭を下げた。まるで土下座をしているような格好だ。
 車から降りてきたのは、六花によく似た大人の女性だった。夜目にも驚いた顔をしているのがわかる。おそらくこの人が、市役所に勤めているという六花のお母さんだろう。

「こんな遅い時間に申し訳ありません。六花……さんの友達で、江夏空(えなつそら)といいます。六花さんにどうしても会わせていただきたくて、ご家族のお帰りをお待ちしていました」
 そう言って、僕はもう一度深く頭を下げた。六花のお母さんは、最初こそとても驚いていたが、すぐに僕の手を引いて立たせてくれた。

「初めまして、六花の母です。空さんというお名前のお友達ができたことは、六花から聞いています。まあ立ち話も何ですから、上がってください」
 お母さんはそう言って、僕を家に上げてくれた。



「江夏君は、紅茶でいいかしら?」
「はっ、はい。ありがとうございます」
 緊張して声が上擦(うわず)ってしまった。他人の家に上がるのは初めてだったし、六花のお母さんは気品がある美しい人で、まるで自分とは違う世界の人間のように思えたのだ。
 どうぞ、と勧められるままに応接セットのソファに座ったものの、どうにも落ち着かなくてキョロキョロと辺りを見回してしまう。

「こんな時間だし、まずはお家に連絡を入れておいた方がいいわ」
「いえ、うちは母子家庭で、母はまだ仕事から帰っていないんです」
 そして、帰りが遅くなることはすでにメッセージで連絡してある、と付け足した。それを聞いて安心したように頷くと、お母さんは二人分の紅茶を運んできて、僕と差し向かいで座った。

「それで六花のことだけど、ご覧の通り、今は家には居ないの。病院に居ます」
「入院しているんですか? そんなに悪いんですか?」
 思わず身を乗り出してそう聞き返すと、お母さんは静かな声で言った。
「病気のことは、私からは何も言えないわ。あなたに話すかどうかは、六花が判断するべきだと思うから」
 それはつまり、六花の病気が軽いものではないということだろう。

「ただ、最近は容態が安定していて、入院するほどではなかったの。でも一昨日の昼頃、この近くの公園で倒れていた娘を、たまたま通りかかった人が見つけて救急車を呼んでくれて……」
 六花のお母さんはそこで言葉を切ると、ハッとしたように目を見開いて僕を見つめた。
「……何か、思い当たることがあるの?」

 僕は背筋が凍るほどのショックを受けていた。
 一昨日の昼頃といえば、バスケの勝負が終わった直後だ。言われてみれば、あの時、六花の様子はおかしくなかったか?

 勝負の後半、六花は優勢だったにも関わらず、足を取られて転倒した。そしてあのあとから、動きも精彩を欠いていたように思う。
 あの時は、六花を疲れさせる作戦が功を奏したんだと思っていたが、もしかしたら、あれが病気の発作だったのかもしれない。

 そして勝負が終わったあと、彼女はベンチで僕にもたれかかってきた。六花は普段からスキンシップが多い方だけど、あの時は何だか元気がなかった。もし彼女が僕に甘えていたわけではなく、自分で体を支えていられないほどに弱っていたのだとしたら?
 そして、僕が怒って彼女を突き放し、彼女の心まで折ってしまったんだとしたら? あのあと、六花は僕を追いかけることもできずに、その場に倒れてしまったのかもしれない。

 わなわなと唇が震えるのを、膝の上でギュッと拳を握って何とか(こら)える。意を決してお母さんの方に向き直り、口を開く。
「心当たりは――あります! きっと僕のせいです!」
 そう言うや否や椅子から飛び降りて、床に膝をついて頭を下げた。お母さんが慌てて駆け寄ってくる。

「ちょっと、やめてちょうだい。ごめんなさい、あなたを責めるつもりはなかったのよ」
「お願いがあります。どうか僕を六花さんに会わせてください。どうしても会いたいんです。まずは彼女に謝って、伝えたいことがあるんです」
 お母さんは僕を立たせようとしたが、僕は床に()いつくばったまま、そう言ってもう一度頭を下げた。
 ただ許しを得るだけでは足りない。六花にちゃんと謝って、僕の気持ちをもう一度きちんと伝えたい。
 お母さんはしばらく考えてから、さっきと同じ静かな声で言った。

「私は明日、六花のお見舞いに行くの。その時に、あなたのことを話して聞いてみます。でも、もし六花が会いたくないと答えたら、残念だけど……」
「待ちます!」
 思わずそう叫ぶように答えていた。たどたどしい言葉だけど、お母さんの顔を見つめて、ひたすらに思いの(たけ)をぶつける。

「お願いです。僕を病院に連れて行ってください。六花が会ってくれると言うまで、病院の外で待ちます。何時間でも、何日でも、何週間でも、何か月でも!」

 お母さんもまっすぐに僕の目を見つめる。
 しばしの沈黙が流れ――やがて、お母さんの方が折れた。

「わかったわ。無断で病室に押しかけたりしない、という約束を守ってくれるなら、明日、一緒に病院に行きましょう」
「ありがとうございます!」

 僕は学校を休んで行きたいと申し出たが、お母さんはそれを許してはくれなかった。結局、学校が終わってから、お母さんが車で病院まで連れて行ってくれることになった。