二人並んでベンチに腰かける。六花(りっか)とは手を繋いだままだ。
 僕の手の中に六花の華奢(きゃしゃ)な手があって、その手にキュッと力が入っているのが、何とも嬉しい。

 僕はまだ少し呆然としながら、公園をぐるりと見回した。
 いつものベンチ。いつもの植え込み。そしてずっと目指してきた、いつものゴールポスト。
 本当に……勝ったんだよな?
 この半年間、六花への願いを、それを伝える言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返してきた。それを今、本当に口に出していいんだよな……?

 ゴールポストから六花に目を移して、じっと見つめる。この場面をあんなに何度も思い描いてきたのに、いざとなると思い出ばかりが溢れて、言葉が口から出てこない。

「そんな風にじっと見られたら恥ずかしいよ。汗だくで髪も乱れちゃって、私、酷い顔してない?」
「いや、そんなことない。六花はいつだって可愛いよ。この世界の誰よりも」
「えっ?」
「あ、いや、今のは、その……」

 六花の驚いた顔で我に返って、思わず目が泳ぐ。勝利の興奮からか、つい本心が出てしまった。恥ずかしいセリフを言ってしまったと慌てていると、不意に左の肩と腕に、微かな重みと熱を感じた。
 六花が僕の方にもたれかかってきたのだ。ホカホカの熱い体と、しっとりとした肌の感触に、心臓がドキンと跳ねる。

「お、おい、六花。大丈夫か?」
「うん……ちょっと疲れたかな。空くんに甘えちゃって、ごめんね」

 悪戯っぽくそんなことを言ってから、六花が座り直そうとする。僕は彼女の肩を抱くようにして、その動きを止めた。
「えっ、空くん?」
「そのままでいいから、僕の話を……僕の願いを、聞いてくれ」

 僕の肩に頭を預けたままで、六花が頷く。ふわり、と花のような微かな香りがして、彼女の熱と柔らかさが戻ってくる。ドキドキとうるさく音を立てる心臓をなだめながら、懸命に呼吸を整える。ここで上擦(うわず)った声なんて出したら格好がつかない。

「空くん、いつになく強引だね。ドキドキしてきちゃった」
「茶化すなよ」
「ごめんごめん。でも空くん、本当に頑張ったね」
「ああ。僕にはどうしても六花に叶えてもらいたい願いがあって、そのために今日まで頑張ってきたんだ。どうか聞いてほしい」

 そう言いながら六花の目をまっすぐに見つめると、六花も真面目な顔つきになった。僕の目をまっすぐに見返して、しっかりと頷く。
「わかった……約束だもんね。それが私に叶えられる願いなら、どんなことでもするよ」

 僕も頷いて、口を開こうとする。でもいざとなると頭が真っ白になって、上手く言葉が出てこない。僕の思いを何て伝えるか、今日までさんざん考えてきたというのに……。

「その……僕の目の前から、決して居なくならないと約束してくれ。例えばご両親の仕事の都合で引っ越しすることになったとしても、六花だけはこの街に残ってほしいんだ」
「そんな予定、ないけど?」
「えっ?」
「だから、引っ越しする予定なんてないよ」
「そう……なのか?」
「うん。私はこの街で生まれ育ったし、お母さんは市役所に勤めてるから、この街を離れることはないよ。お父さんは転勤もあるかもしれないけど、そうなったら単身赴任すると思う」
「そうか……なんだ、そうなのか」

 安心して、思わず笑みが(こぼ)れた。六花が海外に引っ越してしまうかもしれないと、それを一番に心配していたのだから。
 だが六花の方は、表情を緩めたりしなかった。さっきみたいに冗談を言ったり茶化したりすることもなく、真剣な面持ちで僕の顔をまっすぐに見つめている。その目を見つめ返して、僕の大切な願いを、もう一度はっきりと口にする。

「あらためて、六花にお願いするよ。どうか僕と……ずっと一緒に居てほしい。それが叶うなら、他には何も要らない」
「それって……いつまで?」

 六花にそう問い返されて、僕は思わず目を見開いた。質問の内容もそうだが、六花の唇が震えているのが見えたからだ。
 彼女のこんなにも思い詰めた表情を見るのは初めてだ。答えを聞くのが怖くなって、思わず目を逸らしてしまいそうになる。

 臆するな――胸を張れ――声を張り上げろ! と自分を(ふる)い立たせる。
 ここで引いたら、一体何のための半年間だったんだ。

「ずっと……いつまでもだ。六花が大学生になっても、大人になっても、お婆さんになっても、ずっとだ!」
「それって、つまり――プロポーズってこと?」

 六花の表情も声も、真剣そのものだった。
 正直、僕は結婚までは考えていなかった。そこまで発想が思い至らなかった。だけど――。
「そう受け取ってもらって、構わない」
 考えるよりも先に、口が勝手に動いた。彼女の質問からほとんど間を置かずに、力強くそう答える。

 六花の目がさらに大きく見開かれ、瞳がゆらゆらと揺れる。瞳が(うる)んでいるように見えるのは、涙なのか。それは喜びの涙? 本当に、そう思っていいのか?
 彼女が口を開くまでの数秒が、数十分にも数時間にも思えた。そしてようやく、彼女の声が耳に届く。

「ごめんなさい、空くん。その願いだけは叶えられない」

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。いや、心がそれを理解するのを拒んだ。
 僕は思わずガシッと六花の両肩を掴んで、正面から彼女に詰め寄った。

「何だよ、それは。六花に叶えられることなら、どんな願いでも聞いてくれるって約束だったじゃないか!」
「ごめんなさい。私に叶えられる願いなら、何でも聞く。でも……それだけは、どうしても叶えられない願いなの」

 六花の目からポロリと大粒の涙が零れ、あとからあとから溢れ出す。それを見て、カッと頭に血が上った。
 喜びの涙なのかなんて、一瞬でも考えた自分が恥ずかしかった。これは、あんな約束をしてしまった後悔の涙なのか。それともあんな約束を信じた僕を憐れんで泣いているのか?

「……あの約束は、嘘だったのか?」
「嘘じゃない! 空くんの気持ちは本当に嬉しい。でも……」
「でも、願いは叶えられないんだな? つまり僕を(だま)したんだな? もういい! 一緒に居てほしいってだけなのに、それの何が叶えられない願いなんだ!」
「待って、空くん!」

 荒々しい口調でそう言い放つと、追いすがろうとする六花を突き飛ばす。
 やっぱり人間なんて、信じたのが間違いだったんだ。
 そりゃ、ずっと一緒に居たいだなんて、高校生の彼女には重すぎる願いだって、よくわかってる。だけど、言ったじゃないか。一緒に死んでほしいって願いすらも聞くって。だったら、一緒に生きてくれてもいいじゃないか。たとえ口約束であったとしても、いつか気が変わることがあるとしても、今だけは、うん、と言ってくれてもいいじゃないか。

 あまりのショックで、すっかり冷静さを失っていた。目にも耳にも、今は何も入ってこない。
 僕はそのまま、公園から走り去った。



 逃げるように公園を飛び出して、ただひたすら走った。みっともなく涙を流し、言葉にならない叫び声を上げながら。

 がむしゃらに走りに走って、どれくらい経った頃だろう。急に誰かが目の前に飛び出してきて、僕は慌てて立ち止まった。
 バスケのディフェンスのように両手を広げて目の前に立ち(ふさ)がった人物。それは――。

「……何だ、成瀬か」
「何だとは酷いな。お前と冬上六花(ふゆがみりっか)との勝負の結果が気になって、ずっと学校で待ってたんだぞ?」

 言われて周りを見ると、いつのまにか高校の門の前に差し掛かっていた。息が上がってなかなか喋れない僕の顔を、成瀬が覗き込んでくる。

「その様子じゃあ、だめだったんだな?」
「いや、勝負には勝った」
「おおっ、やったか!」

 成瀬の弾んだ声を聞くと、余計に悔しさがこみ上げてきた。僕は成瀬の方を見ずに、ただ激しく首を横に振る。

「いや、だめだった」
「えっ?」
「僕の願いは叶わなかったんだ」
「……どういうことだ?」
「協力してくれた成瀬には悪いが、もうバスケは終わりだ。みんなには退部するって伝えてくれ。いや、学校も辞めるかもしれない」

 まるで八つ当たりのように、一気にまくし立てる。
 絶望が、心を塗り潰していく。
 ようやく掴み取ったと思った勝利は、まるで手から砂が零れ落ちるみたいに、あっけなく消えてしまった。今日という日のために全てを()してきたというのに、結局この半年間は無駄だったんだ。

「おい、落ち着けよ!」
「いいから、もうほっといてくれ!」
 成瀬の腕を強引に振り払い、再びふらふらと走り出す。
 後ろから何かを叫んでいる声が聞こえたが、何を言っているのか、その言葉は僕の耳には届かなかった。



 家に帰ると、今日も母は仕事でいなかった。自室のベッドに、死んだように体を投げ出す。
 もう何をする気力も残っていなかった。息をするのも面倒で、このまま寝ている間に死ねたらな、なんて考えてしまう。
 だが体は疲れているはずなのに、眠気は一向にやってこなかった。六花の言葉が次から次へと浮かび、頭の中をぐるぐると回り続ける。

――もしもエッチなことに興味があるなら、私の体を好きにしていい。お金が欲しいなら、貯金を下ろして全部あげる。死ねと言うなら、あの橋から飛び降りたっていい。私にできることなら何でも聞くよ。どう? これって頑張る理由にならない?
――そりゃあ……なる。だけど、どうしてそこまでする?
――それは、私に勝った時に教えてあげる。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。スマホで時間を確認すると、もう夜の十時を回っていた。
 特に暑いわけでもないのに、びっしょりと汗をかいていた。風呂に入っていなかったことを思い出し、シャワーを浴びにバスルームに向かう。   

 一日の汗を洗い流すと、少し気持ちが落ち着いた。ショックのあまりカッとなって公園を飛び出したことを少しだけ後悔しながら、さっき夢で見た六花との会話を思い出す。

『何でも願いを聞いてあげる』
 その六花の言葉が嘘だったとしても、「どうしてそこまでする?」という僕の質問に答えてもらえばよかった。

 あんな約束を持ちかけた理由はなんだ? いやそもそも、僕と付き合うと言い出した本当の理由はなんだ? こんな形で裏切るくらいなら、最初から僕なんて相手にしなければよかったじゃないか。

 自殺しようとして失敗した哀れな男に同情して、いい気分になりたかったのだろうか? いや、あり得ない。六花がそんなことをする子かどうか以前に、そんなの労力に見合わないだろう。
 だったら、何故?
 そこまで考えて、あらためて気づく。僕は六花のことを何もわかっていなかったんだ。

 部屋に戻り、電気もつけずにスマホを手にする。何度も書いては消してを繰り返し、ようやく短いメッセージを六花のSNSアカウントに送った。

――今日はカッとなって悪かった。もう一度話したい。会ってもらえないか?

 もっと丁寧に謝りたかったけど、やっぱり裏切られたという悔しさが邪魔してしまって、これが精一杯だった。とにかく返事を待つことにして、もう一度ベッドに体を横たえる。

 翌日は月曜日だったが、とてもじゃないけど学校に行く気にはなれなくて、病欠の連絡を入れた。
 スマホを見ると、六花に送ったメッセージにはまだ既読がついていない。夜遅かったとはいえ、いつもなら一時間もしないうちに読んでくれるし、返信もしてくれるのに。

「怒らせてしまったかな? だけど約束を破ったのは六花の方だ。僕から謝るのはおかしいだろう……」
 そんなことをブツブツとつぶやきながら、ベッドの上で何をするともなく時間を潰す。
 だが、いつまで経っても六花からの連絡はなく、既読もつかなかった。
 とうとう夕方になって日も暮れかかった頃、ようやく着信音が鳴って、僕は慌ててスマホを見る。

――話がしたい。この前のファミレスで待っている。

「何だ、成瀬か……」
 六花からではないことにがっかりしたが、すぐに昨日の成瀬とのやり取りを思い出した。いくら落ち込んでいたとはいえ、あの態度はなかったと反省する。
 そもそも成瀬にコーチを頼んだのは僕の方だ。本来ならば、こちらから報告に行くのが礼儀だろう。それを、あんな八つ当たりのような態度を取ってしまった。

「ちょうどいい。早く謝らないとな」
 すぐに行く、と返信して、僕は一日中寝ていたベッドからようやく体を起こした。