*
僕は要らない子なんだ――そう思うようになったのは、まだ小学校に入ったばかりの頃だった。
母子家庭の一人っ子で、母は僕が小さい頃から、昼間は弁当屋で働き、夜はスナックで酔っ払いの相手をしてきた。僕はいつも一人で、食事は家にあるインスタント食品や冷凍食品ばかり食べていた。
仕事柄、母は酔って帰ってきてはよく愚痴をこぼした。
「子供なんか産まなきゃよかった」
「あんたさえいなければ、私はもっといい生活ができたのよ」
そんな台詞を、物心ついた頃から聞かされたものだ。僕は不運にもできてしまった子で、そのせいで母は恋人に、つまり僕の父にあたる人物に捨てられたらしい。
別に虐待されていたわけじゃない。酔っていない時の母は、それなりに優しかった。おかげで母を嫌うことも憎むこともできずに、ただ不信感だけが募った。
母の二面性を目の当たりにして育ったせいだろうか。あるいは近所の人たちから、親子ともども白い目で見られていたせいなのか。
僕は中学に上がる頃には、すっかり他人を信じられなくなっていた。そのため学校では誰とも馴染めず、クラスでも孤立していた。
高校に入ってからは、さらに状況が悪化した。いわゆるスクールカースト一軍と呼ばれる連中と衝突してしまったのだ。それ以降、周囲との関係は孤立から敵対に変わった。
無視は元からだが、そこに嫌悪の感情が混じり、頻繁に悪口が聞こえてくるようになった。それでも露骨な虐めに発展しなかったのは、きっと僕の体が大きかったせいだろう。
そんな日々に決定的な変化が起きたのは、今から二週間前のことだった。
人間不信とは言っても、体は健康だから人並みに女の子に興味はある。僕なんかに彼女ができるとは思わないが、それでも可愛い子がいたら目で追ってしまうこともある。それを誰かに見られて、陰で噂になったらしい。
「これは、まさかラブレター?」
その日、登校すると靴箱の中にピンク色の封筒があって、中には一枚の手紙が入っていた。
――あなたが好きです。付き合ってください。
そんな文面が目に飛び込んできて、一瞬で顔が熱くなった。しかも差出人は、僕がクラス一可愛いと思っていた女の子だった。
懸命に無表情を装いながら手紙の続きに目を通すと、もしオーケーなら放課後に学校の裏庭で待っているから来てほしい、と書かれていた。
僕は動揺を隠しつつ放課後まで待って、なるべく人目につかないコースを通って裏庭に向かった。そして、そこに彼女が立っているのを見た瞬間、すっかり舞い上がって、上擦った大声で叫んでしまった。
「僕なんかでよかったら!」
今思い出しただけでも、顔から火が出そうなほど恥ずかしいセリフだが、それを聞いた時の彼女の気まずそうな表情が、僕をさらなる奈落の底に突き落とした。
「ご、ごめんね……」
彼女はそう言ったんだ。口元を引きつらせ、笑っているような、でもとても困っているような表情で。
「実はこれ、ドッキリなの。まさか、こんなの本気にするなんて思わなかったから」
混乱する僕の耳に、今度は複数人の笑い声が聞こえてきた。校舎の陰から、クラスメイト数人が次々と姿を現す。スクールカースト一軍の面々だった。
「いや、普通に考えたらあり得ないって気づくだろ?」
最後に姿を現した男が、ゲラゲラ笑いながら僕の肩に手を置いた。どうやらこいつが僕をハメた首謀者らしい。その男はイケメンのバスケ部員で、一軍のリーダー的な存在だ。しかし、それを認識するよりも早く、僕の体は反応していた。
「何が……面白い?」
ゴンッという鈍い音が響き、拳に激しい痛みが走った。肩に置かれた手を払い、振り返りざまに彼をぶん殴ったんだ。
人間の頭部があんなに固いなんて、喧嘩なんかしたことのなかった僕は、その時に初めて知った。
仰向けに倒れたイケメンが、鼻を押さえて転げ回る。僕は止めに入ろうとした二人の男子生徒を振り払い、彼に馬乗りになって、怒りに任せてその顔を殴り続けた。
特に格闘技の経験があるわけでもなく、運動が得意なわけでもない。それでも187㎝の身長と120㎏の体重にのし掛かられて殴られるのは、よほど痛くて怖かったんだろう。イケメンは涙声でやめてくれと叫び、女子は悲鳴を上げて大人を呼びに走った。
駆けつけた数名の教師によって力ずくで引き離されるまで、僕は殴るのをやめなかった。
そのあと、そこにいた生徒全員が生活指導室に順番に呼ばれ、事情聴取を受けた。
首謀者を含む僕をハメた奴らの行為は、悪ふざけとして厳重注意だけで済んだらしい。その一方で、暴力を振るったことと、一言も謝らなかったことにより、僕だけが停学処分を受けることになった。
学校側は事件を大ごとにしたくなかったようで、反省文を書けば訓告に留めると言われたが、僕は渡された用紙をすぐさま教師の目の前で破り捨てた。
そのあと、母が学校に呼び出され、僕の代わりに平謝りで謝罪した。それでようやく僕は生活指導室から解放されたが、僕は母を含め誰にも謝らなかった。おかげで停学三週間という、極めて重い処分が下された。
母がペコペコと何度もお辞儀をしながら生活指導室のドアを閉め、僕の方を振り返った瞬間、廊下に響き渡るような大きな音がして、頬に強烈な痛みが走った。母が僕の頬を思いきり叩いたのだ。
「人様に怪我をさせておいて、謝りもしないなんて。やっぱりあんたなんか……!」
母はそこで言葉を切ると、怒りに満ちた目で睨みつけてから、僕をその場に残して急ぎ足で帰っていった。
「――今思うと、恥ずかしかったんだろうな。僕は他人を信じないと言いつつも、ラブコメみたいな出会いを心のどこかで期待していたのかもしれない。それを暴かれた気がして、許せなくなったんだ」
もう何もかもが嫌になって、いっそ全てを終わらせてやろうと思ってここに来たんだ。そう僕は話を締めくくった。
*
彼女は僕と並んで橋の上に座り込み、僕の顔を見上げながら話を聞いていた。
「酷い……。許せないよ、そんなこと」
話し終えると彼女はそう言って、さっき突き返したハンカチを僕の頬に押し当てた。どうやら僕は、話しながら泣いていたらしい。
急に距離が縮まったことにドキッとして、思わず身をよじってしまう。
彼女は僕のそんな反応に小さな笑みを浮かべると、不意に両手でギュッと拳を握って、何度も頷きながら、驚くべき提案をした。
「うん。うん。うん。だったらいい方法を思いついたよ。私があなたの彼女になってあげる。うーんと幸せになって、みんなを見返してやろうよ!」
彼女はそう明るく言い放ち、僕の正面に立ってニッコリと笑った。
少し前の僕なら、この提案に心躍らせていただろう。きっと喜んで応じたことだろう。彼女の声はとても優しく、思いやりに満ちていて、真実味があったから。
しかし、僕の心は急速に冷めていく。それと同時に、彼女にかけられた魅了の魔法も解けていった。
冷静になってみれば、本当にどうかしていると思った。僕は赤の他人に、誰にも知られたくなかった心の奥底をさらけ出してしまったのだ。
「ははは……僕の彼女になってくれるだって? これもドッキリか? それとも僕を憐れんでくれたのか? そうやって、からかわれるのはウンザリなんだよ! これで話は終わりだ。満足したなら、さっさと帰ってくれ!」
もう騙されないぞ、二度と他人なんかと関わるものか。話を強引に打ち切って、僕は彼女に背を向けて歩き出す。
彼女は何やら責任を感じているようだが、そんな必要はこれっぽっちもない。自殺を止めるのは人として当然の行いだ。僕がそれを怒ったのは、ただの八つ当たりだ。要は見つかった僕が間抜けだったんだから仕方ない。
だが、そんな僕を震える声が引き止めた。
「ねえ、こっちを見て! これで本気だって信じてくれる? あなたをからかっていないって、証明になる?」
振り向いた瞬間、ゾクリと冷たいものが背筋を走った。彼女は、さっき僕が立っていたのと同じ場所に――橋の欄干の上に立っていたのだ。そして僕と違って川ではなく、足元でもなく、じっとこちらを見つめている。
「馬鹿っ、何やってんだ! 落ちたら死ぬんだぞ? 早く降りろ!」
「あなたが私と付き合うって、言ってくれたら降りる。それまで私、ここにいるから!」
そう叫んだ直後に、彼女の長い髪が風にたなびく。それを見た瞬間、今度は心臓がドキリと跳ねて、続いて体の芯が震えた。
「わかった、信じるから! 付き合うから! とにかく降りてくれ!」
皮肉な話だった。さっきまでは彼女に自殺を止められて腸が煮え繰り返っていたのに、今は僕が彼女を止めようと必死になっているんだから。
「よかった……」
思わず駆け寄った僕に、彼女が微笑む。だがその途端、この季節特有の強風に煽られて、彼女の足下がぐらりと揺らいだ。
「えっ?」
驚きに大きく目を見開いた表情のまま、彼女の体がゆっくりと傾いて川の方へと落ちていく。それを見るや否や、僕は無我夢中で彼女の手首を掴んだ。
「動くなよ。大丈夫だ、すぐに引き上げるから」
何しろ自他ともに認めるオタクだ。体なんて鍛えてないし、腕力に自信があるわけでもない。それでも、この手だけは死んでも離すものかと思いながら、腕に渾身の力を込める。すると彼女の体が少しずつ持ち上がってきた。
彼女が騒いだり暴れたりしないで、大人しくしていてくれたから、最低限の力で引き上げることができたんだろう。
それにしても、女の子ってこんなに軽いものなのか? 内心驚きながらも、死に物狂いで引き上げる。
恐怖で腰が抜けたのかもしれない。彼女が橋の上に倒れ込んだところで、僕も安堵で力が抜けて、その隣で寝転んだ。
途端に息が苦しくなって、ガハッと大きく息を吐いた。仰向けになったまま、情けないほどに荒い呼吸を繰り返す。そこで初めて、今まで呼吸を止めていたことに気づいた。
やがて、彼女の方が僕より先に起き上がった。その場に座り込んだまま、何度も細い息を吐き出して呼吸を整えている。
「ありがとう。怖かった~。まだ心臓がバクバク言ってる」
「なんで……なんであんな無茶をしたんだっ!」
仰向けのままで文句を言ってから、僕もどうにか体を起こす。彼女はシュンとした様子で言った。
「だって、他に信じてもらう方法、思いつかなかったんだもの。言葉で説得できるとは思えなかったし……」
「だから、なんで信じてもらう必要があるんだよ」
「あるよ」
即答した彼女の声が、心なしか震えている。
「……私には、あるんだ」
そう続けた彼女の目から、すぅっと一筋の涙が零れ落ちた。
「ごめんね。安心したら、なんか泣けてきちゃった」
橋の上にうずくまったまま、彼女はしばらくの間、静かに涙を流し続けた。
泣いている女の子を、そのまま置き去りにしては帰れない。僕は声をかけることもできず、彼女が泣き止むのを、ただじっと待つしかなかった。
死ぬつもりでここに来たのに、いつの間にかすっかり彼女のペースに乗せられている。でも、今はそれを腹立たしいとは思わなかった。
何だか憑き物が落ちたように、僕はこちらに背を向けて泣いている彼女の姿を、穏やかな気持ちで見つめていた。
やがて彼女は手の甲で涙を拭うと、立ち上がってスカートの埃をパンパンとはたいた。僕も続いて立ち上がると、彼女は先ほどまで泣いていたとは思えないほど、明るい声で話しかけてきた。
「そうだ! 連絡先を交換しなきゃね。私たち、付き合うことになったんだから」
「いや、さっきのはその場の勢いで……」
「だーめ。“付き合う”ってはっきり聞いたからね」
彼女はそう言いながらスマホを取り出した。小さな画面の明かりに照らされたのは、さっき“彼女になる”という衝撃的な発言をした時よりも、さらに幸せそうな彼女の笑顔だった。
僕も抵抗を諦めてスマホを取り出すと、彼女のSNSのアドレスを登録した。
「ハンドルネームは“雪だるま”で、本名は冬上六花です。よろしくね」
「ハンドルネームは“すかい”で、本名は江夏空だ。よろしく」
「へぇ~、夏と冬、空と雪ね。苗字も名前もペアになってるなんてすごーい」
無邪気にはしゃぐ彼女の反応を、呆然と見つめる。
僕の名前と関連性があることを、喜んでいるのか? 気持ち悪いとは思わないのか?
「“リッカ”って……雪のこと?」
「うん、“六つの花”って書くの。雪の結晶の形だよ。だから雪の別名なんだって。ねぇ、空と雪、なんだか運命的じゃない?」
「……偶然だろ?」
彼女が――六花が至近距離から僕の顔を覗き込んできたので、僕はスマホをポケットにしまいつつ、あえて興味がなさそうに答えた。
「素っ気ないなぁ、空くんは。じゃ、また連絡するね!」
近くまで送ろうと思ったのだが、その言葉を口にする間もなく、六花は僕の前から走り去っていった。
薄暗がりの中で次第に遠ざかっていく彼女の背中を見つめていると、何だかこのろくでもない日常とは違う世界に迷い込んでしまったような、そんな気持ちになる。
不思議な女の子だった。彼女のことは、まだどう受け止めたらいいのかわからない。だけど、今この胸にあるザワザワとした感情が、ここに来た時の人生最悪の気持ちとは全く異なるものであることは、認めざるを得なかった。
僕は要らない子なんだ――そう思うようになったのは、まだ小学校に入ったばかりの頃だった。
母子家庭の一人っ子で、母は僕が小さい頃から、昼間は弁当屋で働き、夜はスナックで酔っ払いの相手をしてきた。僕はいつも一人で、食事は家にあるインスタント食品や冷凍食品ばかり食べていた。
仕事柄、母は酔って帰ってきてはよく愚痴をこぼした。
「子供なんか産まなきゃよかった」
「あんたさえいなければ、私はもっといい生活ができたのよ」
そんな台詞を、物心ついた頃から聞かされたものだ。僕は不運にもできてしまった子で、そのせいで母は恋人に、つまり僕の父にあたる人物に捨てられたらしい。
別に虐待されていたわけじゃない。酔っていない時の母は、それなりに優しかった。おかげで母を嫌うことも憎むこともできずに、ただ不信感だけが募った。
母の二面性を目の当たりにして育ったせいだろうか。あるいは近所の人たちから、親子ともども白い目で見られていたせいなのか。
僕は中学に上がる頃には、すっかり他人を信じられなくなっていた。そのため学校では誰とも馴染めず、クラスでも孤立していた。
高校に入ってからは、さらに状況が悪化した。いわゆるスクールカースト一軍と呼ばれる連中と衝突してしまったのだ。それ以降、周囲との関係は孤立から敵対に変わった。
無視は元からだが、そこに嫌悪の感情が混じり、頻繁に悪口が聞こえてくるようになった。それでも露骨な虐めに発展しなかったのは、きっと僕の体が大きかったせいだろう。
そんな日々に決定的な変化が起きたのは、今から二週間前のことだった。
人間不信とは言っても、体は健康だから人並みに女の子に興味はある。僕なんかに彼女ができるとは思わないが、それでも可愛い子がいたら目で追ってしまうこともある。それを誰かに見られて、陰で噂になったらしい。
「これは、まさかラブレター?」
その日、登校すると靴箱の中にピンク色の封筒があって、中には一枚の手紙が入っていた。
――あなたが好きです。付き合ってください。
そんな文面が目に飛び込んできて、一瞬で顔が熱くなった。しかも差出人は、僕がクラス一可愛いと思っていた女の子だった。
懸命に無表情を装いながら手紙の続きに目を通すと、もしオーケーなら放課後に学校の裏庭で待っているから来てほしい、と書かれていた。
僕は動揺を隠しつつ放課後まで待って、なるべく人目につかないコースを通って裏庭に向かった。そして、そこに彼女が立っているのを見た瞬間、すっかり舞い上がって、上擦った大声で叫んでしまった。
「僕なんかでよかったら!」
今思い出しただけでも、顔から火が出そうなほど恥ずかしいセリフだが、それを聞いた時の彼女の気まずそうな表情が、僕をさらなる奈落の底に突き落とした。
「ご、ごめんね……」
彼女はそう言ったんだ。口元を引きつらせ、笑っているような、でもとても困っているような表情で。
「実はこれ、ドッキリなの。まさか、こんなの本気にするなんて思わなかったから」
混乱する僕の耳に、今度は複数人の笑い声が聞こえてきた。校舎の陰から、クラスメイト数人が次々と姿を現す。スクールカースト一軍の面々だった。
「いや、普通に考えたらあり得ないって気づくだろ?」
最後に姿を現した男が、ゲラゲラ笑いながら僕の肩に手を置いた。どうやらこいつが僕をハメた首謀者らしい。その男はイケメンのバスケ部員で、一軍のリーダー的な存在だ。しかし、それを認識するよりも早く、僕の体は反応していた。
「何が……面白い?」
ゴンッという鈍い音が響き、拳に激しい痛みが走った。肩に置かれた手を払い、振り返りざまに彼をぶん殴ったんだ。
人間の頭部があんなに固いなんて、喧嘩なんかしたことのなかった僕は、その時に初めて知った。
仰向けに倒れたイケメンが、鼻を押さえて転げ回る。僕は止めに入ろうとした二人の男子生徒を振り払い、彼に馬乗りになって、怒りに任せてその顔を殴り続けた。
特に格闘技の経験があるわけでもなく、運動が得意なわけでもない。それでも187㎝の身長と120㎏の体重にのし掛かられて殴られるのは、よほど痛くて怖かったんだろう。イケメンは涙声でやめてくれと叫び、女子は悲鳴を上げて大人を呼びに走った。
駆けつけた数名の教師によって力ずくで引き離されるまで、僕は殴るのをやめなかった。
そのあと、そこにいた生徒全員が生活指導室に順番に呼ばれ、事情聴取を受けた。
首謀者を含む僕をハメた奴らの行為は、悪ふざけとして厳重注意だけで済んだらしい。その一方で、暴力を振るったことと、一言も謝らなかったことにより、僕だけが停学処分を受けることになった。
学校側は事件を大ごとにしたくなかったようで、反省文を書けば訓告に留めると言われたが、僕は渡された用紙をすぐさま教師の目の前で破り捨てた。
そのあと、母が学校に呼び出され、僕の代わりに平謝りで謝罪した。それでようやく僕は生活指導室から解放されたが、僕は母を含め誰にも謝らなかった。おかげで停学三週間という、極めて重い処分が下された。
母がペコペコと何度もお辞儀をしながら生活指導室のドアを閉め、僕の方を振り返った瞬間、廊下に響き渡るような大きな音がして、頬に強烈な痛みが走った。母が僕の頬を思いきり叩いたのだ。
「人様に怪我をさせておいて、謝りもしないなんて。やっぱりあんたなんか……!」
母はそこで言葉を切ると、怒りに満ちた目で睨みつけてから、僕をその場に残して急ぎ足で帰っていった。
「――今思うと、恥ずかしかったんだろうな。僕は他人を信じないと言いつつも、ラブコメみたいな出会いを心のどこかで期待していたのかもしれない。それを暴かれた気がして、許せなくなったんだ」
もう何もかもが嫌になって、いっそ全てを終わらせてやろうと思ってここに来たんだ。そう僕は話を締めくくった。
*
彼女は僕と並んで橋の上に座り込み、僕の顔を見上げながら話を聞いていた。
「酷い……。許せないよ、そんなこと」
話し終えると彼女はそう言って、さっき突き返したハンカチを僕の頬に押し当てた。どうやら僕は、話しながら泣いていたらしい。
急に距離が縮まったことにドキッとして、思わず身をよじってしまう。
彼女は僕のそんな反応に小さな笑みを浮かべると、不意に両手でギュッと拳を握って、何度も頷きながら、驚くべき提案をした。
「うん。うん。うん。だったらいい方法を思いついたよ。私があなたの彼女になってあげる。うーんと幸せになって、みんなを見返してやろうよ!」
彼女はそう明るく言い放ち、僕の正面に立ってニッコリと笑った。
少し前の僕なら、この提案に心躍らせていただろう。きっと喜んで応じたことだろう。彼女の声はとても優しく、思いやりに満ちていて、真実味があったから。
しかし、僕の心は急速に冷めていく。それと同時に、彼女にかけられた魅了の魔法も解けていった。
冷静になってみれば、本当にどうかしていると思った。僕は赤の他人に、誰にも知られたくなかった心の奥底をさらけ出してしまったのだ。
「ははは……僕の彼女になってくれるだって? これもドッキリか? それとも僕を憐れんでくれたのか? そうやって、からかわれるのはウンザリなんだよ! これで話は終わりだ。満足したなら、さっさと帰ってくれ!」
もう騙されないぞ、二度と他人なんかと関わるものか。話を強引に打ち切って、僕は彼女に背を向けて歩き出す。
彼女は何やら責任を感じているようだが、そんな必要はこれっぽっちもない。自殺を止めるのは人として当然の行いだ。僕がそれを怒ったのは、ただの八つ当たりだ。要は見つかった僕が間抜けだったんだから仕方ない。
だが、そんな僕を震える声が引き止めた。
「ねえ、こっちを見て! これで本気だって信じてくれる? あなたをからかっていないって、証明になる?」
振り向いた瞬間、ゾクリと冷たいものが背筋を走った。彼女は、さっき僕が立っていたのと同じ場所に――橋の欄干の上に立っていたのだ。そして僕と違って川ではなく、足元でもなく、じっとこちらを見つめている。
「馬鹿っ、何やってんだ! 落ちたら死ぬんだぞ? 早く降りろ!」
「あなたが私と付き合うって、言ってくれたら降りる。それまで私、ここにいるから!」
そう叫んだ直後に、彼女の長い髪が風にたなびく。それを見た瞬間、今度は心臓がドキリと跳ねて、続いて体の芯が震えた。
「わかった、信じるから! 付き合うから! とにかく降りてくれ!」
皮肉な話だった。さっきまでは彼女に自殺を止められて腸が煮え繰り返っていたのに、今は僕が彼女を止めようと必死になっているんだから。
「よかった……」
思わず駆け寄った僕に、彼女が微笑む。だがその途端、この季節特有の強風に煽られて、彼女の足下がぐらりと揺らいだ。
「えっ?」
驚きに大きく目を見開いた表情のまま、彼女の体がゆっくりと傾いて川の方へと落ちていく。それを見るや否や、僕は無我夢中で彼女の手首を掴んだ。
「動くなよ。大丈夫だ、すぐに引き上げるから」
何しろ自他ともに認めるオタクだ。体なんて鍛えてないし、腕力に自信があるわけでもない。それでも、この手だけは死んでも離すものかと思いながら、腕に渾身の力を込める。すると彼女の体が少しずつ持ち上がってきた。
彼女が騒いだり暴れたりしないで、大人しくしていてくれたから、最低限の力で引き上げることができたんだろう。
それにしても、女の子ってこんなに軽いものなのか? 内心驚きながらも、死に物狂いで引き上げる。
恐怖で腰が抜けたのかもしれない。彼女が橋の上に倒れ込んだところで、僕も安堵で力が抜けて、その隣で寝転んだ。
途端に息が苦しくなって、ガハッと大きく息を吐いた。仰向けになったまま、情けないほどに荒い呼吸を繰り返す。そこで初めて、今まで呼吸を止めていたことに気づいた。
やがて、彼女の方が僕より先に起き上がった。その場に座り込んだまま、何度も細い息を吐き出して呼吸を整えている。
「ありがとう。怖かった~。まだ心臓がバクバク言ってる」
「なんで……なんであんな無茶をしたんだっ!」
仰向けのままで文句を言ってから、僕もどうにか体を起こす。彼女はシュンとした様子で言った。
「だって、他に信じてもらう方法、思いつかなかったんだもの。言葉で説得できるとは思えなかったし……」
「だから、なんで信じてもらう必要があるんだよ」
「あるよ」
即答した彼女の声が、心なしか震えている。
「……私には、あるんだ」
そう続けた彼女の目から、すぅっと一筋の涙が零れ落ちた。
「ごめんね。安心したら、なんか泣けてきちゃった」
橋の上にうずくまったまま、彼女はしばらくの間、静かに涙を流し続けた。
泣いている女の子を、そのまま置き去りにしては帰れない。僕は声をかけることもできず、彼女が泣き止むのを、ただじっと待つしかなかった。
死ぬつもりでここに来たのに、いつの間にかすっかり彼女のペースに乗せられている。でも、今はそれを腹立たしいとは思わなかった。
何だか憑き物が落ちたように、僕はこちらに背を向けて泣いている彼女の姿を、穏やかな気持ちで見つめていた。
やがて彼女は手の甲で涙を拭うと、立ち上がってスカートの埃をパンパンとはたいた。僕も続いて立ち上がると、彼女は先ほどまで泣いていたとは思えないほど、明るい声で話しかけてきた。
「そうだ! 連絡先を交換しなきゃね。私たち、付き合うことになったんだから」
「いや、さっきのはその場の勢いで……」
「だーめ。“付き合う”ってはっきり聞いたからね」
彼女はそう言いながらスマホを取り出した。小さな画面の明かりに照らされたのは、さっき“彼女になる”という衝撃的な発言をした時よりも、さらに幸せそうな彼女の笑顔だった。
僕も抵抗を諦めてスマホを取り出すと、彼女のSNSのアドレスを登録した。
「ハンドルネームは“雪だるま”で、本名は冬上六花です。よろしくね」
「ハンドルネームは“すかい”で、本名は江夏空だ。よろしく」
「へぇ~、夏と冬、空と雪ね。苗字も名前もペアになってるなんてすごーい」
無邪気にはしゃぐ彼女の反応を、呆然と見つめる。
僕の名前と関連性があることを、喜んでいるのか? 気持ち悪いとは思わないのか?
「“リッカ”って……雪のこと?」
「うん、“六つの花”って書くの。雪の結晶の形だよ。だから雪の別名なんだって。ねぇ、空と雪、なんだか運命的じゃない?」
「……偶然だろ?」
彼女が――六花が至近距離から僕の顔を覗き込んできたので、僕はスマホをポケットにしまいつつ、あえて興味がなさそうに答えた。
「素っ気ないなぁ、空くんは。じゃ、また連絡するね!」
近くまで送ろうと思ったのだが、その言葉を口にする間もなく、六花は僕の前から走り去っていった。
薄暗がりの中で次第に遠ざかっていく彼女の背中を見つめていると、何だかこのろくでもない日常とは違う世界に迷い込んでしまったような、そんな気持ちになる。
不思議な女の子だった。彼女のことは、まだどう受け止めたらいいのかわからない。だけど、今この胸にあるザワザワとした感情が、ここに来た時の人生最悪の気持ちとは全く異なるものであることは、認めざるを得なかった。