日曜日の朝六時。僕と成瀬は、高校の近くにある総合公園の多目的広場で、向かい合ってストレッチをしていた。

 この公園の敷地は広大で、無料で利用できる上に、野球やサッカーなどの球技も許可されている。ただしバスケットボールのゴールは設置されていないので、残念ながらシュート練習はできない。

「今日はここで練習するのか?」
「今日から、だな。まさか冬上六花(ふゆがみりっか)の家の近くの公園は使えないだろ? タダで使えるところで、ここ以上の場所はない。その分、朝練ではシュート練習を増やすから安心しろ」
「わかった。ドリブルとディフェンスを集中してやりたかったし、ちょうどいい」
 成瀬が言う朝練とは部活動の朝練ではなくて、その前に二人だけで行う自主練習のことだ。

 ウォーミングアップを終えると、成瀬による特訓がスタートした。

「まずは作戦のおさらいからだ。いくら練習したところで、短期間で空が冬上六花の技術を超えるのは不可能だ。いや、技術だけなら今の俺でも勝てるかどうかわからん。もちろん実際に対戦したら、フィジカルの差で圧勝するだろうけどな」
「それを聞いて安心したよ。六花より弱い奴に教わっても、六花に勝てるわけがないからな」

 成瀬は僕と同じ二年生だが、レギュラーの中でもキャプテンに次ぐ実力を持っている。六花と同じく、中学の頃から注目されていたスター選手なのだ。

「だからお前が勝つための作戦は、冬上六花のブランクを突くことだ。前半は得点のことは考えず、徹底的に彼女の体力を()げ」
「わかった。確かに手段を選べる立場じゃないからな」
「じゃあ、今日はそのための秘策を教えてやる。だがその前に、先に宿題を出しておこう」

 そう言うと、成瀬はおもむろにドリブルを始めた。僕の目の前で足を止めたままボールを突きつつ、高速で左右に持ち手を変える。
 部活でいつも見ている彼のドリブルだ。六花と同じくらい美しいフォームで、しかも彼女にはない力強さを感じる。

「次はお前がやってみろ」
 成瀬にボールをパスされて、僕もドリブルを始めた。
 顔を上げ、重心を低く保ち、ボールをまっすぐに強く突く――これまで教わってきたコツを思い起こし、今の成瀬の美しいフォームをイメージする。

「どうだ?」
「70点ってところだ。まあ二年の中では上手い方かもな」
「それって()められてるのか(けな)されてるのか、どっちなんだよ」
「戦う相手が冬上六花でなければ、褒めてもいいレベルなんだけどな。もう一度やるから、よく見ておけ」

 成瀬が再び僕の目の前でドリブルを始める。それをじっくりと観察していると、僕のドリブルとの違いに気づいた。

「僕よりもボールが手に触れている時間が長いな。と言うか成瀬のドリブルは、手からボールが離れている時間がほとんどない」
「そうだ。手から離れたボールは無防備になる。離れた状態ではボールは決まった動きしかできないからな。触れている状態なら、いつでも力を加えて動きを変えることができる。これが甘いから、お前はこの前の勝負で簡単にスティールされたんだ。だから、それを意識してドリブルを練習しておけ」

 理屈はわかる。ボールの動きと同じ速度で手を動かせば、地面に接触する一瞬以外は常にボールに触れていられる。口で言うのは簡単だが、実際にはこれが難しい。
 そういえば六花のドリブルも、彼女の手からほとんど離れていなかった。成瀬とどっちが上かわからないほどに。

「ボールを強く突くのも大事だが、もっとも重要なのはボールを常にコントロール下に置くことだ。とにかく暇があればボールに触っておけ」
 そう解説しながら、成瀬が少しずつ後ずさり、僕から距離を取る。

「じゃ、今日の特訓だ。今から五分間、俺はここから一歩も動かず、ドリブルだけでボールをキープする。その間に、俺からボールを奪ってみろ」
「舐めているのか? いくらお前が相手でも、じっとしていたら簡単に奪えるぞ!」

 そう叫ぶや否や、僕は成瀬めがけて突進した。
 奪うなら今だ――そう思った瞬間、成瀬は腰を落として、広めのスタンスでしっかりと踏ん張った。左腕をぐっと伸ばして、近づこうとする僕を邪魔する。ボールは僕から遠い右手でコントロールされ、小気味の良いリズムで地面を叩いている。

 僕はさらにプレッシャーをかけに行くが、成瀬は一段と姿勢を低くし、体全部を使ってボールを守り続ける。
 今度は一度距離を取って、フェイントで揺さぶりをかけることにした。だが、成瀬は僕の動きを先読みしたかのように、体をひねって軽やかにボールの位置を変える。

 オフハンド、すなわちドリブルをしていない方の手でディフェンスを制するのは、僕も入部してすぐに成瀬に教わった基本技術だ。それが、極めればここまで鉄壁な守りになるとは。
 常にボールが僕から一番遠いところにある。そして僕がどんな動きをしても、成瀬はまるで背中にも目があるかのように、終始落ち着いて僕を牽制(けんせい)し、ボールの位置をコントロールしている。

「くそっ。身長は同じくらいなのに、まるでボールに手が届かない」
「これがシールドだ。オフハンドを盾にするのは基本だが、体を横に使えばさらに肩幅も腕の長さに加わるだろ? そしてこんな技もある」

 成瀬はニヤリと笑い、ボールを持ち替えると同時に体の向きを変えた。今度は背中が僕の視界を完全に(さえぎ)り、ボールを守る盾に……いや、壁になる。
 焦って側面に回ろうとすると、成瀬がすかさず右腕を伸ばした。まるで改札口の遮断扉のように、その腕が僕の行く手を遮る。

「くそっ、この腕……!」
 どうにか腕を避けて回り込もうとするが、成瀬は僕の動きに合わせて、体の角度を変え続ける。まるで(おり)の中に閉じ込められているかのように、僕の目の前には常に成瀬の背中がある。どれだけ動いても視界は開けず、ボールには全く手が届かない。

「どうして……抜けられないんだ!?」
「これがジェイルだ。ジェイルとは、牢屋って意味でな。背中からではボールは奪えないし、こちらは前方が空いてるからいつでも走り出せる。シールドもそうだが、コツは足の位置取りと、オフハンドの使い方、そして視野を広く持つことだ」

 五分を過ぎても、僕は一度もボールに触れることができないままだった。焦りと苛立(いらだ)ちが(つの)り、がむしゃらに回り込もうとした瞬間、足がもつれ、バランスを崩してたたらを踏んだ。その一瞬のミスを成瀬は見逃さなかった。
 まるで鋭いパスを出すかのように、成瀬がボールを前方に投げ出す。次の瞬間には、ボールは彼の掌に吸いついていた。成瀬はあっという間に僕の視界から消え、遥か向こうへ駆け抜けていく。その先にゴールがあれば、確実に決められていただろう。

「どうだった?」
「まるで取れる気がしない。立ち回り次第でボールってあんなに遠くなるのか……」
「そうだ。オフハンドを使うのも敵を背負うのもオフェンスの基本だし、お前だってやってるだろう。本来なら秘策になるような技術じゃない。でも、ここまで磨けばボールに触れることもできなくなる。特に……」
「ああ。六花には、その効果がさらに大きくなるな」
「その通りだ。冬上六花の身長は、女子選手の中でも高い方ではない。お前がシールドとジェイルをマスターすれば、彼女は回り込もうとして余計な体力を使うだろう。それが勝利への布石となる」
「よし、やってみる!」

 次は僕がボールをキープし、シールドとジェイルで成瀬のアタックをかわす。だが一分も経たないうちに、鮮やかにボールを奪われてしまう。
「だめだ、だめだ。常に相手から一番遠い位置でドリブルしろ。相手との角度と距離を考えて立ち回れ。ドリブルよりも、オフハンドの使い方を工夫しろ。それで相手の突進を(はば)み、カットを止めるんだ。足の位置にも注意しろ。全身を使って相手の動きを封じ込めるんだ」

 成瀬が手本を見せ、僕がそれを真似て成瀬を阻もうとする。成瀬がボールを奪い、さらに解説を加えて手本を見せる。延々と、それの繰り返しだ。
 この激しい練習は、日が暮れるまで続いた。



 その夜。物がなくなってやけに広くなった自分の部屋で、僕は入念にストレッチを行った。
 特に首の柔軟性は、シールドとジェイル、この二つの技を習得する上で最重要課題だと成瀬に言われた。場合によっては六花に背中を向けたまま、首の動きだけで広い視野を確保しなければならないからだ。

 次に、六花からもらったバスケットボールで、ハンドリングの練習をする。ボールを落とさないように、指先だけでコントロールする訓練だ。
 成瀬からドリブルの精度を上げろと宿題を出されたので、そのための基礎訓練だった。一人の時間だって一時も無駄にはできない。

 特訓の方は1on1の対戦を増やしていくそうだ。一流の選手の動きに慣れ、そのスピードに付いていけるようにするには、実戦形式の練習が最も効果的らしい。
 決戦の日までに、成瀬と何百回も対戦をする。その内容によって教えるべき技を選んで、その都度叩き込んでやる、と彼は付け加えた。

「体重も、今の目標よりもっと落とした方がいいかもしれないな……」
 現在の体重は78㎏で、目標は75㎏にしていたが、もっと落とすべきかもしれない。すでに腹筋は割れており、バスケットボール選手として十分な体つきだとは思うが、一グラムでも体重を落とせば、その分だけ動きは速くなる。
 それに加えて、持久力と瞬発力を最大限に高めなければならない。技術ではどうしても六花に敵わない以上、フィジカルで勝るしかないのだから。

 間に合うだろうか? 勝負までもう二か月を切っている。いや、まだ二か月近くある、と言うべきだ。その間に成瀬を止められるようになり、出し抜けるようになれば――勝機は必ずある!

 こうして特訓の日々は飛ぶように過ぎていき、ついに決戦の朝が訪れた。