二日後の夕方。いつもの公園に駆け込むと同時に、六花(りっか)が僕に気づいてベンチから立ち上がった。暗くなりかけた空をバックに、六花は不満そうに頬を膨らませている。

「空くん、遅い!」
「ごめん、待ったか? 約束の時間にはギリギリ間に合ったと思ったんだけど……」
「そうじゃなくて、なんでこんな遅い時間に待ち合わせなの? 今日は部活、休みじゃなかったっけ。もう門限まで三十分しかないよ」

 六花の言う通り、今日は部活の休養日だ。だから成瀬に指導してもらって、夕方までみっちり特訓していた。
 これまでは、部活のない日はデートをするか一緒に練習するか、どっちにしても二人で過ごしていたから、六花が不思議に思うのも無理はない。
 今日の六花はロングスカートを履いて厚手のジャケットを羽織っている。いつもここで会う時は大抵ジャージ姿だが、今日はもう練習する時間がないからだろう。

「遅くなってすまない。今日は話があって来たんだ」
「なあに? 話って」
 並んでベンチに座ってそう切り出すと、六花が僕の顔を覗き込んできた。さっきまでの不満そうな表情が嘘のように、明るく嬉しそうな笑顔。そんな顔を見たら話すのが辛くなるが、どうしても今日言っておかなければならない。

「勝負の期限まで、あと二か月を切った。それまでの間、六花に会いに来るのをやめようと思う」
「えっ?」
「少しでも長く、練習時間を取りたいんだ」
 僕の言葉に、六花が目を丸くする。そのまましばらく黙って僕の顔を見つめてから、今度は(せき)を切ったように早口で喋り出した。

「じゃ、じゃあさ、会うのは一週間に一度にして、日曜日だけデートするっていうのはどう?」
「それもできない。バスケ部の友達にコーチを頼んだんだ。だから日曜は、丸一日特訓だ」
「バスケのコーチなら、私にだってできるよ!」
「ああ。でも六花に教わると、僕の上達度合いもわかっちゃうだろ? 手の内を明かしたら勝てないと思う」
「そっか……。じゃあ今日みたいに、三十分だけでも会えないかな? 毎日じゃなくていいから」

 六花はグイグイと僕に詰め寄って、何とか会う時間が作れないかと次々に提案してくる。それだけ僕と会えないのが寂しいということなのか? 僕の方が一方的に六花のことを好きなんだろうと思っていたのに……。
 驚きと一緒に、嬉しさが胸一杯に湧き上がってくる。
 六花と過ごす時間が楽しい。毎日でも会いたい。でもだからこそ、勝つために一分一秒でも長く練習するという決意を、揺るがすわけにはいかない。

「悪いけど、それも無理だ。これから二か月は、食事と睡眠と学校の授業以外の全ての時間を練習に()てるつもりなんだ。今までと同じ生活をしていたら、絶対に勝てない。それは六花にもわかるだろ?」

 僕の意志が固いとわかったのだろう。やがて六花は、残念そうに目を伏せた。
「そっか、仕方ないよね。私から言い出したことだもんね……」
「そんなわけで、明日からは本格的な特訓に入るつもりだ。スマホでの連絡はこれまで通り続けさせてくれ」
「うん。時々、電話もしていいかな?」
「ああ、もちろんだ。これまでだって会えない日は毎日、電話かメッセージで話していたもんな」
 僕の答えを聞いて、六花は安心したように長く息を吐くと、今度は上目遣いで僕の顔を見た。

「空くんはマメだよね」
「相手が六花だからな」
「えへへ、私は特別なんだ。嬉しいな」
「……そうか?」

 六花は笑顔で頷いた。
 最初は同情から始まった関係だと思っていたが、今はそれだけではないのかもしれない。そんな期待が少しずつ膨らんでくるのを感じる。
 この状況では言いにくいけど、もう一つ、どうしても言っておかなくてはならないことがあった。

「それで、実は勝負についても一つお願いがあるんだ」
「なあに?」
「来月の勝負をキャンセルさせてほしい。一か月後では、まだ六花には(かな)わないと思うからな。だから五月末の一回勝負にさせてくれ。その代わり、というのも変だけど、五点先取ではなくて十点先取にルールを変更させてほしいんだ」

 この変更は、実は成瀬の提案だった。
 単純な技量なら、僕がこの二か月どんなに頑張っても六花には届かない。付け入る隙があるとすれば、彼女がバスケを辞めて二年近く経っていることだ。それだけのブランクがあれば、勝負勘や持久力は確実に落ちているはずだ、と成瀬は言った。単純に対戦時間が長くなるだけで、勝機は何倍にも跳ね上がるのだと。

「つまり、体力勝負に持ち込みたいってこと? でも、いつも勝負のあとに疲れてるのは空くんの方だよね」
「今はそうだ。技量の差が大きすぎて、六花に振り回されっぱなしだからな。この二か月でその差を埋められれば、ひょっとしたら体力では優位に立てるかもしれない。だめかな?」

 うつむいて考え込む六花を見て、段々と不安になってくる。
 無理を承知のお願いだった。僕にとって有利ってことは、その分だけ六花にとっては不利ってことだから。

「無理なら、これまで通りでも……」
「いいよ」
「……いいのか?」
「二回のチャンスを一回に減らすわけだから、必ずしも空くんに有利とは限らないでしょ? だから、いいよ」
「助かる!」
 ホッとして弾んだ声で答えると、六花はそんな僕の顔を見て、ちょっと悪戯っぽく笑った。

「その代わり、私からもお願いがあるの」
「何だ?」
「今から、私をデートに連れてって」
「……へっ?」
 今度は僕が驚く番だった。



 小さな公園を出て駅に向かい、そこから通りをさらに進む。十五分ほど歩いて到着したのは海岸だった。
 夏には大勢の海水浴客で賑う人気スポットだが、時期外れのこの時間帯となると、さすがに人っ子一人見当たらない。

「夜の海って、こんなに綺麗だったんだ。もっと真っ暗かと思ってた」
「今日は空がよく晴れていて、月の光が海を照らしているからな。ただ、こんな遅い時間に人がいない海辺に来るのは、本当は危険だよ」

 僕の言葉が聞こえているのかいないのか、六花は砂浜の上で両手を大きく広げ、海を見たり夜空を見上げたりしながら、くるくると楽しそうに回っている。

「靴を履いてると、何だか雰囲気が出ないね。脱いじゃおうかな」
「だめだって。ガラスの破片が落ちているかもしれないし、貝殻で足を切るかもしれないだろ?」
「大丈夫! 怪我したら空くんにおんぶしてもらうから」
「それじゃあ、怪我することに変わりないじゃないか」
 相変わらず、どこまでが冗談なのかわからない六花をたしなめながら、二人で夜の砂浜を歩く。

「帰ったら叱られるんじゃないのか?」
「うん。でも連絡はしておいたし、そんなに怒らないよ、きっと」
「少しは叱られるんじゃないか」
「大丈夫だって。それに、こんなに楽しい時間と引き換えなら……何を失ってもいいかな」
「えっ、どういう意味だ?」

 六花の声が急に小さく弱々しくなったので、不安になって聞き返す。六花はそれには答えず、僕の顔を覗き込んで嬉しそうに笑った。

「空くん、連れてきてくれてありがとう」
「いや。もっといい場所があったのかもしれないけど、とっさに思いつかなくて」
「ううん。空くんと海に来られて嬉しい」
 そう言って、六花が砂の上にぺたんと座り込む。僕も並んで腰を下ろすと、六花は陸の方に目を向けて「あっ」と小さく声を上げた。

「ねえ、あそこ。私たちが出会った橋が見えるよ」
「……今思えば、とんでもない出会い方だったよな」
「あはは、本当だよね」

 波の音が、ゆったりと規則正しいリズムを刻む。まるで僕と六花の二人だけがこの世界に居るかのような、夜の静寂が辺りを包んでいる。
 月明かりが水面(みなも)を照らし、波に洗われた砂粒がキラキラと輝く。空を見上げれば、そこにも小さな星々の煌めきがあった。

「綺麗だね」
「そうだな」
「ふふ、やっと同じ景色を見ることができた」
「いつも見てるだろ?」
「だって、どこに行っても空くんって上の空で、私の方ばっかり覗き見してるでしょ?」
「いや、そんなことは……」
「否定するの?」
「……見てました。ごめんなさい」
「よろしい」

 六花は満足そうに頷くと、僕の手に自分の手を重ねた。彼女の手は相変わらず小さく、柔らかくて、すべすべしている。

「空くんの手、ゴツくなったね。脂肪が落ちて筋肉質になって、まさにスポーツマンの手って感じ」
「六花のせいだからな?」
「うん、私のために頑張ってくれてるんだよね。ありがとう」
「いや、お礼を言うのは僕の方だからな」
「私だってお礼を言いたいよ。空くんと出会ってから、真っ暗だった私の心に、この空みたいにキラキラした星が輝き出したんだから」

 そんなことを言う六花の声には、何だかとても寂しそうな響きがあって、僕は思わず彼女の方に向き直って、その顔を覗き込んだ。

「やっぱり中学の時、何かあったのか? それでバスケを辞めたんだろ? それって遊園地で会ったあの子たちと関係あるのか?」
「あの子たちのせいじゃないよ」
「じゃあ何のせいだ? 本当はバスケ辞めたくなかったんじゃないのか? 僕に勝負を持ちかけたのは、僕にバスケの楽しさを教えるためで、六花の夢を僕に継いでほしかったからじゃないのか?」
 六花は驚いたように目を見開いて、僕の顔を見つめる。その顔がグニャリと歪んだかと思うと、彼女は泣きそうな顔で首を横に振った。

「空くんに、バスケの楽しさを知ってもらいたいって、私の夢を継いでもらいたいって、思ったのは……認める。でも、辞めたくなかったってのは違う。私はもう長い間、バスケを楽しいと思えなくなってた。バスケだけじゃない。本にもおしゃれにも、海や星にも興味がなくなっていたの」
「それは、どういうことだ?」

 問い返した声がかすれた。さっきまで穏やかに感じていた波の音が、急に不穏(ふおん)な響きに聞こえてくる。
 六花は本当は、今でもバスケが好きなんじゃないのか――そんな僕の仮説は間違っていたのか? だったら六花は、中学時代の全てを懸けていたはずのバスケを嫌いになるほどの、とてつもなく辛く苦しい体験をしたということになる……。
 だが、それが六花の口から語られることはなかった。彼女はそこでくるりと表情を変え、いつもの悪戯っぽい笑顔を僕に向けたのだ。

「ハイ、今はここまで。続きは、話せる時が来たらね」
「それって……バスケ勝負で僕が勝ったら、ってことか?」
「うん、そうなるかな」

 六花はそれっきり押し黙った。僕も何も言えなくなって、ただ彼女の手をそっと握りしめる。
 僕らは手を繋いだまま、しばらくの間、黙って海を見つめていた。

「そろそろ帰ろうか。さすがにご両親も心配してるんじゃないか?」
「そうだね。今頃はカンカンかな」
「えーっ? だから言ったのに……」

 僕が六花の手を引っ張って立ち上がると、彼女は素直に従った。だがすぐに歩き出そうとはせず、至近距離からキラキラした目で僕を見つめる。そして、ゆっくりと目を閉じた。

 彼女の意図は明白だ。きっとデートしたいと言い出した時から、そのつもりだったんだろう。
 ドギマギしながら周りを見回すが、やっぱり人っ子一人いない。
「……いいのか?」
 思わず小声で問いかけると、六花は小さく頷いた。

 彼女の両肩にそっと手を置く。思った以上に華奢(きゃしゃ)で繊細で、ちょっとでも力を入れたら壊れてしまいそうだ。
 震える両手を何とかなだめ、呼吸を落ち着けようとするが、鼓動は僕の意思などお構いなしに、どんどんと高まってくる。

 意を決して息を止め、彼女の瑞々(みずみず)しい唇に、自分の唇をそっと重ねる。
 柔らかくて、温かかった。
 このままずっとこうしていたいと思ったけど、残念ながら息が続かない。かと言って息継ぎで六花の顔に僕の息をかけるのは、彼女を汚してしまうような気がしてできない。
 限界まで呼吸を我慢してから、ゆっくりと唇を離す。

「ゴボッ、ゲホッ、ガハッ……」
「空くん! 大丈夫?」
 六花が驚いて僕の背中をさすってくれた。大丈夫だと伝えたいのに、口からはゼエゼエという荒い息が漏れるばかりで、まるで言葉にならない。
 ちゃんとしたキスは初めてなのに、カッコ悪くて恥ずかしかった。でも、最高に幸せな時間でもあった。

「今日はありがとう、空くん。私ね、空くんと一緒だから、バスケがまた楽しいと思えるし、この景色だって美しいと思えるの。話せないこともあるけど、これだけは信じて」

 まっすぐに僕を見つめる六花の顔は、珍しく真っ赤になっていた。
 それはキスをした直後だからだろうか。それとも今の気持ちを伝えたからだろうか。
 どっちにしても、この時の彼女の美しさは、僕はこの景色とともに、一生忘れないだろうと思った。

「信じるよ。僕も同じ気持ちだ」
 ようやくすんなりと声が出て、力強く言いきることができた。六花は嬉しそうに頷くと、僕の胸に飛び込むようにして、自分の腕を僕の腕に絡める。

「さっ、帰ろう」
「ああ」

 今度は景色ではなく、彼女の顔を見ながら帰路につく。写真なんか見なくても、いつでも思い出せるように。
 次に会えるのは、二か月後の勝負の日なんだから。