「それで、話ってなんだ?」
 コップの水を一口飲むなり、成瀬が待ちきれない様子で尋ねてきた。
 部活が終わってから二人で近くのファミレスに入り、揃ってホットコーヒーを注文したところだ。

「その前に」
 僕も水を一口飲んで、差し向かいに座った成瀬の目をまっすぐに見る。
「これから話すことは、絶対に秘密にすると約束してほしい」
「おう、任せろ。こう見えても口は固いんだ」
「……本当か?」
「いや、まあ……でも今回は、絶対に秘密にする」
「その言葉、信じるからな」
 そう前置きして、僕は一呼吸置いてから話し始めた。

「お前、中学の頃からかなりの選手だったんだよな? だったら、冬上六花(ふゆがみりっか)って選手を知っているか?」
 その途端、成瀬が口に含んでいた水を勢いよく吹き出した。

「汚いな!」
「わ、悪い。だって、お前……」
「知ってるのか?」
「知ってるも何も、俺が二回告白して、二回ともこっぴどく振られた相手だ」
 今度は僕が水を吹き出す番だった。

「お前、仕返しかよ」
「違うわ! 振られた、って何だよ。ってか、二回も告白ってどういうことだ?」
 ちょうどその時、女性店員がコーヒーを運んできた。水浸しのテーブルに唖然(あぜん)としてから、手早く布巾(ふきん)で拭いてコーヒーを置いてくれる。
「すみません……」
「すみません……」
 成瀬と僕の声がハモった。

 店員が去ってから、僕は声をひそめて、あらためて成瀬に尋ねた。
「で、二回も振られたってどういうことだよ」
「文字通りだよ。一回目は大会でたまたま一緒になって、その場のノリで告白したんだけど、冷たくあしらわれてな。みんなの前で恥ずかしかったのかと思って、二回目は学校の前で待ち伏せして、人目のないところで真剣に告白したんだが……」
 成瀬が僕と同じく小さな声で告白し、そこで言葉を濁す。しばらく躊躇(ちゅうちょ)したあと、ヤツは表情を引きつらせながら、妙に裏返った高い声で言った。

『いい加減にしてくれる? 私はあなたに興味がないの。これ以上、付きまとわないで!』
「……ひょっとしてそれ、彼女の物真似か?」
「ああ。声はともかく、台詞と口調はそのまんまだ」
「いや、普通そこまで言われないだろ。お前、何やったんだよ」
 呆れてそう問いただすと、成瀬は不服そうに口を尖らせた。
「何もしてねーよ! これでも俺はモテたんだぞ? 振られたのも生まれて初めてで、本当にショックだったんだ」

 今度は泣き真似してみせる成瀬を放っておいて、僕はコーヒーを一口(すす)る。
 六花が成瀬の告白を断ったと知って、彼には悪いが少しホッとした。だがその一方で、さっきの厳しい言葉が心に引っかかっていた。僕の知っている六花が、そんな言葉を使うとは思えない。

「別にお前の失恋話を聞きたかったわけじゃないんだ。その人は、冬上六花で間違いないんだな?」
「ああ、俺たちより一年先輩でな。バスケの天才プレイヤーで、“雪の女王”と呼ばれたクールビューティだよ」
「雪の女王? クールビューティだって?」

 今の六花とイメージが違いすぎて、僕は目をパチパチさせる。
 成瀬が言うには、“雪の女王”って二つ名は、バスケ雑誌で特集が組まれた時に、記者が付けたキャッチフレーズらしい。
 圧倒的な技術でゲームを支配する女王。そして六花という雪を連想させる名前。そこから名付けられて、それが広まったのだという。

「性格も、真面目で気が強くて融通(ゆうずう)が利かないところがあったみたいだな。部員ともよく()めてたって話だ」
「真面目で気が強くて融通が利かない? クールビューティ? 一体誰のことだよ……」

 どうしても自分が知っている六花と、成瀬の語る彼女のイメージが重ならない。しかし、六花が部員と揉めていたという点は、遊園地で聞いた話と一致する。

「雑誌のインタビューに書いてあったけど、彼女は本気でプロを目指していたらしい。だから遊び半分でやってる連中が許せなかったんだろうな。彼女が練習メニューの大改革をやったせいで、それに反発した部員の半数が辞める騒ぎになったらしい。でもその改革のおかげで、それまで無名だった彼女の学校は一躍(いちやく)強豪校として知られるようになった。そして彼女が中三の時の最後の大会で、チームは全国優勝を果たしたんだ」
「まるで映画みたいな話だな……」
 僕のつぶやきに、成瀬も頷いた。

「それで、その後はどうなったんだ?」
「俺が知ってるのはそのくらいだよ。最後の大会で優勝して以降、彼女は一度も公式戦に姿を見せていない。噂ではバスケを辞めたらしいって聞いたけど、その理由はわからない。さすがに二回も振られてるから、俺も自分から調べたりはしてないしな」
「そうか……」

 これ以上の情報は、成瀬から得られそうにない。いや、むしろ他校の選手で学年も違った成瀬が、ここまで詳しいことの方が異常だろう。それだけ中学時代の六花は有名人だったってことだ。
 話し終えた成瀬が、今度はお前の番だぞ、という目で僕を見ている。僕はもう一口コーヒーを飲んでから、口を開いた。

「僕がバスケを始めたのは、どうしても勝ちたい相手がいるからだ、って話はしたよな?」
「ああ……って、もしかして、その相手が冬上六花なのかっ?」
「ちょっと、声が大きいって。秘密だって言ってるだろ」
「あ、悪い……」
 成瀬は慌てて声のトーンを抑えたが、その目は食い入るように僕を見つめている。僕はチラチラと周りに視線を走らせてから、小さく頷いてみせた。

「その通りだ。僕は彼女にどうしても勝たなきゃならない」
「なあ、どこで、どうやって彼女と知り合ったんだ? 聞かせろよ」
 成瀬が興味津々でこっちに身を乗り出してくる。
 いや、いくら成瀬でも、僕がどうして六花と出会ったのかは教えられない。それは僕だけの大切な記憶だ。他人の感想を挟んで、その思い出を汚すような真似はできない。

「聞きたいか? 死ぬほど落ち込んでた僕に、通りすがりの彼女が声をかけてくれたって話を聞きたいか? 僕がどんな状態だったかを詳しく聞きたいか?」
「あ、いや……悪い。やっぱりやめとく」
 たちまちシュンとなった成瀬を見て、ちょっと(いじ)めすぎたかな、と苦笑する。

「僕は彼女と知り合って、そして賭けをしたんだ。何を賭けたのかは、彼女の許可がないから言えない。とにかくそういう理由で、僕は彼女に勝たなきゃならない」
「そうだったのか……それで合点(がてん)がいった。ど素人だったお前が、ここまで必死になって練習に打ち込むほどの何か、なんだな?」
「まあ、そういうことだ」

 揃って冷めたコーヒーを飲み干して、一息つく。それから僕はいよいよ本題を切り出そうと、カバンの中から一通の封筒を取り出した。

「まずは、これを受け取ってくれ」
「おいおい、俺にそっちの趣味はないぞ?」
「よくそのネタで僕をいじれるな……。いいから開けてみてくれ」
 成瀬は澄ました顔で茶化すと、軽いノリで封筒を開けた。その直後、彼の表情から余裕が消える。

「おい……これ、万札じゃないか。しかも、こんなにたくさん」
「持っていたゲームや漫画やラノべや、その他のグッズを全部処分して作った金だ。もっといくかと思ってたんだけどな」

 おかげですっかり部屋は空っぽになってしまった。
 自殺を決意した時ですら身辺整理なんてしなかったのに、生きる決意をしてからすることになるなんて、不思議なものだ。

「そんな大事な金を、俺に渡してどうするんだ。俺に何をさせる気だ?」
「気を悪くしないでくれ。無茶な頼みなのはわかってるから、それはせめてもの僕の気持ちなんだ」
 そう言って、僕はテーブルにつくほど深々と頭を下げた。

「部活が終わったあとや休日に、僕を鍛えてほしい。僕は冬上六花に勝ちたい。いや、勝たなきゃならないんだ。だから――頼む!」

 そのまましばらく待ったが、成瀬は何も言わない。そっと顔を上げて様子をうかがうと、手の中の封筒を見つめて何やら考え込んでいる。
 やがて成瀬は、ゆっくりと僕の方に目を向けて言った。

「いつまでだ?」
「五月の末まで。それが勝負の期限だ」
「あと二か月か……」
「ああ、二か月だ。やれると思うか?」
「無理だと言ったら、諦めるのか?」
 僕は即座に首を横に振る。それを見て、成瀬は再び考え込んだ。彼女の力量と僕の上達速度を天秤にかけているんだろう。

 しばらくして、成瀬はおもむろにカバンを開けると、中からペンとノートを取り出した。ノートの白いページを開き、ペンを構えてこちらを向く。部活で試合の行方を見守っている時と同じ目をしていた。

「普通に考えたら、とても無理だ。中学バスケで日本一だった選手だぞ? ここはブランクに付け入るしかないな。勝負のルールを教えろ」
「1on1だ。スリーポイントライン外からのシュートは二点、エリア内からなら一点。得点すれば攻撃権を保持し、五点先取した方の勝ちだ」

 成瀬はさらに細かい条件や、過去四回の勝負について尋ねた。試合の頻度(ひんど)や対戦時間、それぞれの対戦内容について根掘り葉掘り聞き出して、ノートにメモを取っていく。

「なるほどな……。手が荒れてないってことは、彼女は本当にバスケを辞めたんだろうな。体力勝負に持ち込めば、万に一つの勝機があるかもしれない」
「万に一つかよ……」
「当たり前だろ。相手は“雪の女王”なんだぞ? だから少しでも確率を上げるには、戦略が要るな」
 成瀬の言葉に、僕は思わず身を乗り出す。

「じゃあ……受けてくれるのか?」
「ああ、この金はもらっておく。この二か月間、俺の空き時間を全てくれてやるから、死ぬ気でついてこい」
「恩に着る」
 そう言うと、成瀬は楽しそうにニヤリと笑った。

「なあに、俺も彼女には酷い目に遭わされたからな。こんな形で意趣返しできるとは面白い」
 そう言いながら差し出した成瀬の手を、僕はしっかりと握り返す。
 たとえ万に一つでも、勝ち目はある。ゼロではない。その事実が、彼の表情と手の力から伝わってきた。