それから僕らはすぐに遊園地をあとにしたのだが、六花の顔色は戻らなかった。最初は怒っているのかと思ったが、どうやら体調が悪くなったようだった。
 帰りのバスで空いている席が一つだけあったので、すかさず確保して六花を座らせる。

「大丈夫か?」
「うん、ちょっと頭が痛いだけ」
「目をつぶってていいぞ」
「……ありがとう」

 六花は頷き、素直にその通りにする。僕は少し躊躇(ためら)ってから彼女の額に手を当てたが、熱はないようだった。中学時代の友達に会ったのが、よほどショックだったんだろうか。

 バスを降りたあとも、まだ六花は具合が悪そうだった。バス停からいつもの公園までわずか数百メートルだが、心配でゆっくり歩いたので、かなり時間がかかってしまった。ようやくたどり着いて、二人並んでベンチに座る。

「やっぱり病院で診てもらった方がいいんじゃないか?」
「大したことないから大丈夫。それより、ごめんね」
「何が?」
「私が中学の時のこと、聞いちゃったでしょ?」
 六花が上目遣いで僕を見つめる。

「ああ。でも、六花が部員を追い出したなんて話、信じてないから安心してくれ」
「それもだけど、一年生からキャプテンをやってたこととか、雑誌の取材を受けたこととか……隠してたみたいで、ごめん」
「そりゃ驚いたけど、素直に凄いと思ったよ。僕がなかなか勝てないのも道理だな」
 思ったままをそう口にすると、六花は一度目を伏せてから、今度はまっすぐに僕を見つめた。

「でもね。私、空くんに勝ち目がないなんて思ってないから!」
 その一言で、僕は六花が何を心配しているのか、ようやく理解した。

 中学時代に特別な経歴を持っていたこと、そしてそれを隠していたことが発覚して、守る気のない約束をしたと思われるのが嫌だったんだろう。
 実際、僕だって最初はそれを不安に感じた。でも今なら確信をもって言える。六花はそんな性格じゃない。

「もともと、こっちには何のリスクもない一方的な賭けなんだから、()が悪くても怒ることはないよ。それにあんな話を聞いても、僕に諦める気はないんだ」
「よかった」
 六花は心底ホッとした顔で微笑んだ。

 中学の頃に何があったのか、もっと知りたいとは思ったが、これ以上は触れないことにした。
 当時の知り合いと少し話しただけで、体調を崩してしまったのだ。それが彼女がバスケを辞めた理由であり、心の傷であるのは間違いない。
 六花が、自分は恵まれてなんかいないと言っていたことを思い出す。これで全てが繋がった。

 本当は、六花は今でもバスケが好きなんじゃないのか? それが未練になっているから、たとえば読書なんかも楽しめなくなっているんじゃないのか?
 これ以上、彼女を傷つけたくないから、今は仮説に留めておく。
 だけど、一つだけ確認したいことがあった。

「六花は、僕がバスケで強くなると嬉しいのか?」
「うん、すごく嬉しい」
 僕は大きく頷いた。今はそれで十分だと思えた。結局のところ、僕がやるべきことは変わらない。何が何でも勝負に勝って、六花の隣に立てる資格を得ることだ。

 家まで送ろうかと申し出たのだが、大丈夫、と六花は笑って立ち上がった。
「じゃ、またな。ゆっくり休んでくれよ」
「うん。ありがとう、空くん」

 いつもよりゆっくりと去って行く六花の後ろ姿を見送って、僕ものろのろと歩き出す。夢のように楽しいデートだったのに、帰り道の足取りは重かった。
 六花の前では強がってみせたものの、彼女がマスコミに囲まれるほどの選手だったとは、なかなかにショッキングな情報だった。

「本当に勝てるのか……あと二か月だぞ?」
 これまで必死に練習してきたが、いまだ実力差は大きくて、正直なところまだ彼女の背中も見えない。

 勝負はあと二回だけ。今月末にはとても間に合わないだろう。チャンスが少しでもあるとしたら、来月末の最後の勝負だ。それまでに、今とは次元の違う実力を身につけなければならない。

「どうすればいい……」
 そうつぶやいて、すぐに馬鹿なことを言ったと苦笑する。
 練習するしかない。練習時間を限界まで増やして、練習効率を最大化させるしかない。

「やるか。とっくに覚悟は決まってるんだ」

 帰り道にスーパーに寄って、買い物のついでに大きめのダンボールをもらう。
 家に帰ると、自分の部屋にある漫画やラノベやゲーム機やゲームソフト、カードやフィギュアなんかを、そのダンボールに丁寧に詰めていった。

 小さい頃から友達が一人も居なかった僕には、これらの品物だけが心の拠り所だった。とても大切にしていたから、古い物でもすこぶる綺麗だし、中には入手困難なレア物もある。

 箱いっぱいになったらまたダンボールをもらってきて、手当たり次第に梱包すると、部屋は引越したあとみたいに、ガランとした広い空間になった。残っているのは教科書と数冊の参考書と、六花からもらったバスケットボールだけだ。

「今から二か月間、やるのはバスケだけでいい。一分、一秒でも長くボールを触り続けるんだ」
 自分に言い聞かせるようにつぶやくと、僕はずっしりと重いダンボールを中古ショップに運んだ。

「本当にいいのかい?」
 自宅から何度も往復して持ち込んだ大量のグッズを見て、中古ショップの店長が心配そうに僕に尋ねた。
 この店は家の近くで、何度も通っているから店長とは顔馴染(なじ)みだ。ダンボールの中には、この店で購入した商品だって数多く含まれている。僕がどれだけ熱心にこれらの品を集めてきたのか、彼もよく知っていた。

「はい。よろしくお願いします」
 きっぱりとそう言いきって、店長に頭を下げる。
 僕は六花と出会ってしまった。彼女から笑顔を向けられる喜びを知ってしまった。そして――彼女の苦しそうな顔を、辛い過去を知ってしまった。
 六花がどれほどの選手だったのか、彼女に何が起きてバスケを辞めることになったのか、僕はまだその全てを知らない。

――君の目的がわからない。最初は、恵まれた人の余裕からくる(ほどこ)しかと思ったけど……。

 思い出しただけで、胸が(えぐ)られるように痛む。僕は彼女に、きっと酷いことを言ってしまったんだろう。
 プロバスケットボール選手を目指していた彼女が、部員たちと一悶着(ひともんちゃく)起こしてまで弱小部を強くしようとした彼女が、その大切なバスケを自ら辞めたのだ。そこには想像もできない苦悩と葛藤(かっとう)があったはずだ。

 六花の過去に何があったのか? たとえ本人から聞き出せたところで、ずっと部屋にこもってダラけた生活を送ってきた僕に、彼女の気持ちなんて理解できるはずもない。

 だからせめて、僕も大事なものを手放そうと思った。その上で、彼女に勝つ。そうでなければ、彼女の心の傷に触れる資格もないような気がする。

 後悔なんて絶対にしない。六花がそばにいてくれればそれでいい。僕にとってはそれが全てで、他にはもう何もいらない。
 バスケ勝負は僕の中で、もはや単なる約束というだけではなくなっていた。