ひゅるる~……と不気味な風の音がして、真っ白な布切れが行く手を遮る。
足を止めた瞬間、暗がりから人間サイズの幽霊の人形が飛び出してきた。
「きゃーっ!」
六花が甲高い悲鳴を上げて、僕の腕にしがみついてくる。
「ちょっと……」
当たってる。当たってる。“何が”とは言わないが、わざと押し当ててるんじゃないだろうな。
今日は春休みの最終日で、部活の休養日。それで、せっかくだからと遊園地デートに繰り出した。
もともとスキンシップが多めの彼女だが、今日はいつもより大胆な気がする。遊園地に入ってから、いや、遊園地の最寄り駅に着いた時からずっと、僕にぴったりとくっついて離れない。
おかげで僕は、少しもアトラクションを楽しむ余裕がない。特にこのお化け屋敷に入ってからは、六花はずっと僕の腕に腕を絡めていて、何か出て来るたびに大袈裟に悲鳴を上げて、体ごと僕にしがみついてくるのだ。
怖いのなら早く出られるようにさっさと歩けばいいと思うのだが、六花がこんな調子だから一向に前に進まない。
決してお化けのせいなんかじゃない鼓動の高鳴りを抑えながら、ジグザグと何度も角を曲がって、ようやく出口に到達した。
「はぁ、やっと出られた~。怖かったね」
「いや、多少は驚いたけど、怖くはなかったぞ。ひと目で作り物だってわかったし」
「ムードがないなあ、空くんは」
そう言いながら、六花はケラケラと笑っている。本当に怖かったら、すぐには笑えないだろうに……女の子の考えることはよくわからない。
「でも、幽霊って本当にいるのかな。ねえ、空くんは死んでから誰かを恨んで祟りたいなんて思わないよね?」
「そうだな。僕には祟るほどの恨みはないし」
「うんうん。私もね、死ぬ時は感謝の気持ちを持って逝きたいな。楽しかったことや嬉しかったことだけを胸に、ありがとうって言い残して」
「そりゃあ六花は……いや、何でもない」
恵まれているしな、と言いかけてやめた。以前にそう言った時に、彼女が酷く傷ついた顔をしたのを思い出したのだ。
裕福な家庭に生まれ、容姿端麗で運動神経も抜群で、性格も明るくて優しい。僕から見たら天に愛されているように見える彼女にも、悩みの一つや二つはあるんだろう。
僕が口ごもると、六花はそんな僕の顔を覗き込んで、ニコリと笑った。
「うん、自分が恵まれてるってわかってるよ。だから私は……」
「ごめん、余計なことを言った」
「ううん。じゃあ次は……これ! ジェットコースター、行ってみよう」
六花は笑顔のままで首を横に振ると、僕の腕を引っ張って、隣のアトラクションめがけて走り出す。
オープンと同時に入園した僕たちは、午後三時を回る頃には、アトラクションのほとんどを制覇していた。おかげで僕の財布は空っぽだ。
「今日は奢るつもりだったのに、六花にずいぶん払わせちゃったな。ごめん」
「いいの、いいの。空くんの初得点のお祝いなんだから。ねえ、最後にあそこのカフェでお茶しようよ」
指差す六花に頷いて、僕たちは出入り口に近い巨大なカフェに向かった。
「うわぁ、ドリンクが800円もするのか……ボリすぎだろ」
「もう、そんなこと言わないの。こういうところは賃貸料とか色々かかるんだから。私が払うから、何でも注文してね」
そう言われても、奢りとなれば遠慮はする。僕は一番安いホットコーヒーを、六花はオレンジジュースを注文した。
「美味しい?」
「普通だね」
「もう!」
「六花のジュースは美味しいのか?」
「飲んでみる?」
六花がいたずらっぽく笑いながら、ストローをこちらに向けた。
「また、そういうことを言う……」
「あはは、ごめん。普通、かな?」
六花の笑顔につられて、僕も頬を緩めながらコーヒーを一口飲む。
実際、特別美味しいコーヒーじゃない。豆の香りはほとんどしないし、何だか味も薄い気がする。
それでも六花が隣にいるだけで、どんなに美味しいコーヒーを出す喫茶店よりも、ここで過ごす時間がかけがえのないものになる。
「そろそろ出ようか」
六花のドリンクが空になったのを見て、僕がそう提案した時だった。
「あれ? もしかして、冬上さん?」
「本当だ! しかも、彼氏とデート中?」
「あはは、久しぶり。中学卒業以来かな」
「邪魔しちゃって、ごめんね~」
突然、同年代の二人の女の子が近づいてきて、六花に声をかけたのだ。六花は驚いた様子で二人の顔を交互に見てから、すぐに曖昧な笑みを浮かべた。
僕も何となく気まずかったが、六花の知り合いに会うのはこれが初めてだ。挨拶だけはきちんとしておこうと、慌てて背筋を伸ばす。
「江夏空です。りっ……冬上さんのお友達ですか?」
「わー、今、六花って言おうとしたよ。本当に彼氏なんだ。いいな~、こんなカッコいい彼氏なら私もほしい」
「ウチらには無理だよ。冬上さんの彼氏ならこのくらいのレベルが当たり前だろうけど」
こちらが名乗って挨拶してるのに、二人は名乗ることも返事をすることもなく、二人だけでキャアキャアとはしゃいでいる。
礼儀を知らない態度に、少しイラッとして口を挟んだ。丁寧語も、もうやめた。
「カッコいい彼氏って、誰のことだ?」
「トボけちゃって、ウケる」
「あなたのことだけど? イケメンのお兄さん」
その一言で怒りが霧散した。意外な答えに呆然として、とっさに言葉を返せない。カッコいいなんて言われたのは、これが生まれて初めてだ。
何が面白いのか、二人はケラケラと笑っている。すると、今度は六花が不機嫌そうに口を開いた。
「空くんは、お兄さんじゃなくて年下だからね」
「えー、そのガタイで高一?」
「いや、明日から高二だよ」
「じゃあ、やっぱり年下なんだぁ」
そう言って、二人がまた顔を見合わせて笑う。六花は今まで見たことがないほど険しい顔をしていたが、二人は一向に気にする様子もなく、僕たちに質問を浴びせてきた。
「ねえ、いつから付き合ってんの?」
「それ聞きたい! 冬上さん、中学の頃は全然男っ気がなかったもんね」
「四か月ほど前からだ。あんたたちは、六花の元クラスメイトなのか?」
友達、というほど親しそうには見えなかったので、クラスメイトと予想したのだ。
「違う違う、元バスケ部員だよ」
「そうそう、冬上さんに辞めさせられたの」
「私が辞めさせたわけじゃないから!」
不穏な単語が飛び出した。六花の表情はさらに険しくなったが、二人はそんな六花を見てニヤニヤと笑っている。思った通り、あまり良好な関係ではなさそうだ。
「冬上さんが一年生でキャプテンになってから、練習がめちゃくちゃ厳しくなってさ」
「何人かの先輩が生意気だって言い出して、さんざん揉めて、先輩の半数と同級生の一部がごそっと辞めちゃったんだよね。ウチらはその同級生ってわけ」
あっけらかんと語られる六花の過去に、僕は目を白黒させる。だが、驚くのはまだ早かった。
「六花は、中学で一年生からキャプテンだったのか?」
「そうだよ。付き合ってるのに知らないの? 冬上さん、天才少女って騒がれてて、テレビに出たこともあるんだよ」
「ルックスもいいから、他の学校の子たちからも人気あってさ。バスケ雑誌の表紙を飾ったこともあったよね」
「そうそう、学校に取材の申し込みとかあってね。冬上さんもノリノリでプロを目指してるって答えてたし、名門高校のスカウトらしき人も来てたよね」
僕は唖然としながら二人の話を反芻する。
六花が、中学一年の時からキャプテンを任されていたって? バスケの天才少女だったって? プロ選手を目指していたって?
相当な実力の選手だったとは予想していたが、そこまで突き抜けた存在だったとは思わなかった。もっと知りたくなって、前のめりで二人の会話に耳を傾ける。その時、六花が怖い顔をして僕の腕を掴んだ。
「空くん、もう行こう」
「あ……ああ。じゃあ、これで」
「ばいばーい」
「邪魔してごめんねー」
手を振る二人に、六花はぞんざいに頭を下げ、僕の腕を掴んだまま歩き出す。
二人の最後の挨拶を聞いて、少なくとも今は敵対的な関係ではないのだと判断し、僕はホッと胸を撫で下ろした。
足を止めた瞬間、暗がりから人間サイズの幽霊の人形が飛び出してきた。
「きゃーっ!」
六花が甲高い悲鳴を上げて、僕の腕にしがみついてくる。
「ちょっと……」
当たってる。当たってる。“何が”とは言わないが、わざと押し当ててるんじゃないだろうな。
今日は春休みの最終日で、部活の休養日。それで、せっかくだからと遊園地デートに繰り出した。
もともとスキンシップが多めの彼女だが、今日はいつもより大胆な気がする。遊園地に入ってから、いや、遊園地の最寄り駅に着いた時からずっと、僕にぴったりとくっついて離れない。
おかげで僕は、少しもアトラクションを楽しむ余裕がない。特にこのお化け屋敷に入ってからは、六花はずっと僕の腕に腕を絡めていて、何か出て来るたびに大袈裟に悲鳴を上げて、体ごと僕にしがみついてくるのだ。
怖いのなら早く出られるようにさっさと歩けばいいと思うのだが、六花がこんな調子だから一向に前に進まない。
決してお化けのせいなんかじゃない鼓動の高鳴りを抑えながら、ジグザグと何度も角を曲がって、ようやく出口に到達した。
「はぁ、やっと出られた~。怖かったね」
「いや、多少は驚いたけど、怖くはなかったぞ。ひと目で作り物だってわかったし」
「ムードがないなあ、空くんは」
そう言いながら、六花はケラケラと笑っている。本当に怖かったら、すぐには笑えないだろうに……女の子の考えることはよくわからない。
「でも、幽霊って本当にいるのかな。ねえ、空くんは死んでから誰かを恨んで祟りたいなんて思わないよね?」
「そうだな。僕には祟るほどの恨みはないし」
「うんうん。私もね、死ぬ時は感謝の気持ちを持って逝きたいな。楽しかったことや嬉しかったことだけを胸に、ありがとうって言い残して」
「そりゃあ六花は……いや、何でもない」
恵まれているしな、と言いかけてやめた。以前にそう言った時に、彼女が酷く傷ついた顔をしたのを思い出したのだ。
裕福な家庭に生まれ、容姿端麗で運動神経も抜群で、性格も明るくて優しい。僕から見たら天に愛されているように見える彼女にも、悩みの一つや二つはあるんだろう。
僕が口ごもると、六花はそんな僕の顔を覗き込んで、ニコリと笑った。
「うん、自分が恵まれてるってわかってるよ。だから私は……」
「ごめん、余計なことを言った」
「ううん。じゃあ次は……これ! ジェットコースター、行ってみよう」
六花は笑顔のままで首を横に振ると、僕の腕を引っ張って、隣のアトラクションめがけて走り出す。
オープンと同時に入園した僕たちは、午後三時を回る頃には、アトラクションのほとんどを制覇していた。おかげで僕の財布は空っぽだ。
「今日は奢るつもりだったのに、六花にずいぶん払わせちゃったな。ごめん」
「いいの、いいの。空くんの初得点のお祝いなんだから。ねえ、最後にあそこのカフェでお茶しようよ」
指差す六花に頷いて、僕たちは出入り口に近い巨大なカフェに向かった。
「うわぁ、ドリンクが800円もするのか……ボリすぎだろ」
「もう、そんなこと言わないの。こういうところは賃貸料とか色々かかるんだから。私が払うから、何でも注文してね」
そう言われても、奢りとなれば遠慮はする。僕は一番安いホットコーヒーを、六花はオレンジジュースを注文した。
「美味しい?」
「普通だね」
「もう!」
「六花のジュースは美味しいのか?」
「飲んでみる?」
六花がいたずらっぽく笑いながら、ストローをこちらに向けた。
「また、そういうことを言う……」
「あはは、ごめん。普通、かな?」
六花の笑顔につられて、僕も頬を緩めながらコーヒーを一口飲む。
実際、特別美味しいコーヒーじゃない。豆の香りはほとんどしないし、何だか味も薄い気がする。
それでも六花が隣にいるだけで、どんなに美味しいコーヒーを出す喫茶店よりも、ここで過ごす時間がかけがえのないものになる。
「そろそろ出ようか」
六花のドリンクが空になったのを見て、僕がそう提案した時だった。
「あれ? もしかして、冬上さん?」
「本当だ! しかも、彼氏とデート中?」
「あはは、久しぶり。中学卒業以来かな」
「邪魔しちゃって、ごめんね~」
突然、同年代の二人の女の子が近づいてきて、六花に声をかけたのだ。六花は驚いた様子で二人の顔を交互に見てから、すぐに曖昧な笑みを浮かべた。
僕も何となく気まずかったが、六花の知り合いに会うのはこれが初めてだ。挨拶だけはきちんとしておこうと、慌てて背筋を伸ばす。
「江夏空です。りっ……冬上さんのお友達ですか?」
「わー、今、六花って言おうとしたよ。本当に彼氏なんだ。いいな~、こんなカッコいい彼氏なら私もほしい」
「ウチらには無理だよ。冬上さんの彼氏ならこのくらいのレベルが当たり前だろうけど」
こちらが名乗って挨拶してるのに、二人は名乗ることも返事をすることもなく、二人だけでキャアキャアとはしゃいでいる。
礼儀を知らない態度に、少しイラッとして口を挟んだ。丁寧語も、もうやめた。
「カッコいい彼氏って、誰のことだ?」
「トボけちゃって、ウケる」
「あなたのことだけど? イケメンのお兄さん」
その一言で怒りが霧散した。意外な答えに呆然として、とっさに言葉を返せない。カッコいいなんて言われたのは、これが生まれて初めてだ。
何が面白いのか、二人はケラケラと笑っている。すると、今度は六花が不機嫌そうに口を開いた。
「空くんは、お兄さんじゃなくて年下だからね」
「えー、そのガタイで高一?」
「いや、明日から高二だよ」
「じゃあ、やっぱり年下なんだぁ」
そう言って、二人がまた顔を見合わせて笑う。六花は今まで見たことがないほど険しい顔をしていたが、二人は一向に気にする様子もなく、僕たちに質問を浴びせてきた。
「ねえ、いつから付き合ってんの?」
「それ聞きたい! 冬上さん、中学の頃は全然男っ気がなかったもんね」
「四か月ほど前からだ。あんたたちは、六花の元クラスメイトなのか?」
友達、というほど親しそうには見えなかったので、クラスメイトと予想したのだ。
「違う違う、元バスケ部員だよ」
「そうそう、冬上さんに辞めさせられたの」
「私が辞めさせたわけじゃないから!」
不穏な単語が飛び出した。六花の表情はさらに険しくなったが、二人はそんな六花を見てニヤニヤと笑っている。思った通り、あまり良好な関係ではなさそうだ。
「冬上さんが一年生でキャプテンになってから、練習がめちゃくちゃ厳しくなってさ」
「何人かの先輩が生意気だって言い出して、さんざん揉めて、先輩の半数と同級生の一部がごそっと辞めちゃったんだよね。ウチらはその同級生ってわけ」
あっけらかんと語られる六花の過去に、僕は目を白黒させる。だが、驚くのはまだ早かった。
「六花は、中学で一年生からキャプテンだったのか?」
「そうだよ。付き合ってるのに知らないの? 冬上さん、天才少女って騒がれてて、テレビに出たこともあるんだよ」
「ルックスもいいから、他の学校の子たちからも人気あってさ。バスケ雑誌の表紙を飾ったこともあったよね」
「そうそう、学校に取材の申し込みとかあってね。冬上さんもノリノリでプロを目指してるって答えてたし、名門高校のスカウトらしき人も来てたよね」
僕は唖然としながら二人の話を反芻する。
六花が、中学一年の時からキャプテンを任されていたって? バスケの天才少女だったって? プロ選手を目指していたって?
相当な実力の選手だったとは予想していたが、そこまで突き抜けた存在だったとは思わなかった。もっと知りたくなって、前のめりで二人の会話に耳を傾ける。その時、六花が怖い顔をして僕の腕を掴んだ。
「空くん、もう行こう」
「あ……ああ。じゃあ、これで」
「ばいばーい」
「邪魔してごめんねー」
手を振る二人に、六花はぞんざいに頭を下げ、僕の腕を掴んだまま歩き出す。
二人の最後の挨拶を聞いて、少なくとも今は敵対的な関係ではないのだと判断し、僕はホッと胸を撫で下ろした。