頬に当たる風の冷たさが(やわ)らいできた。もう三月も下旬。春休みが終わったら、僕は高校二年生になる。

 あれから一か月の仮入部期間を経て、僕はめでたく正式にバスケ部員になった。とはいえ仮入部の頃と、やることは何も変わらない。基礎練習を少しずつレベルアップして、毎日ひたすらバスケに取り組む毎日を過ごしている。

 春休みにも部活はあるが、今日は休養日だ。だが、僕は待ち合わせの時間より少し前にいつもの公園にきて、ドリブルとシュートの練習をして体を温めていた。
 あの橋で六花(りっか)と出会ってから、今日でちょうど四か月。その記念すべき日に、僕は六花との四度目の勝負に挑む。

 これまで三度対戦して、全て完敗だった。それでも一戦ごとに、バスケらしい攻防ができるようになってきている。
 六花が設定した期限は、彼女がこの勝負を提案したあの日から半年後の、五月末までだ。そして対戦は月に一度だけ。したがって、勝負に挑めるのは今日を含めてあと三回。できればこの辺りで決着をつけたい。

 勝利への願いを込めてシュートを放つと、ボールは綺麗な弧を描いてゴールリングに吸い込まれた。
 よし、と小さくガッツポーズを決める。それと同時に、六花がいつものピンク色のジャージ姿で、小走りでやってきた。

「空くん、お待たせ~! せっかくの春休みなのに、夕方しか時間が取れなくてごめんね」
「気にしなくていいよ。僕だって部活があるし、六花にも用事があるのは当然だ。今日はよろしくな」
「うん、こちらこそ」
 そう言いながら、六花が笑顔でスマホを構える。
「その前に、今月の写真撮影ね」

 六花に(うなが)されて、僕はジャージの上着を脱ぐ。そして、照れ臭いけど六花に指定されたポーズを取って、何枚かの写真を撮ってもらった。
 月に一度の対戦のたびに、六花はこうやって僕の写真を撮る。六花(いわ)く、闇雲に体を絞るだけじゃなく、自分の変化を目で見て実感した方が、より肉体改造の成果が上がるんだそうだ。

「うんうん、よく撮れてる。空くんのアカウントにも送っておくね」
「ありがとう。うわっ、結構絞ったつもりだけど、まだまだ腹が出てるな……」
「え~、もう十分カッコいいって!」
「見た目より、六花のスピードについていけないと意味がないからな」

 僕の体重は順調に……とはいかないまでも、かなり落ちていた。現在の体重は85㎏で、標準体重まであと10㎏に迫っている。元が120㎏あったことを考えれば、劇的な変化と言ってもいいだろう。
 ただ、ここからがなかなか落ちなくて、この二週間は体重が増えたり減ったりを繰り返していた。

「全ては勝負に勝つためか~。空くんはやっぱりエッチだね。私にどんなことをしたいのかな?」
「そうやって(あお)るなら、イタズラくらいで済むと思うなよ」
「きゃ~、怖い!」

 六花が両手で自分の体を抱くようにして、芝居っ気たっぷりの悲鳴を上げる。だが、すぐに不敵な笑みを浮かべて僕を見上げた。

「じゃ、やろうか」
「ああ、望むところだ」

 ジャンケンで勝ったので、僕のオフェンスでゲームが始まる。
 まずは利き腕の右サイドでゆっくりと大きくドリブルを刻む。次に姿勢を低くしてドリブルのリズムを速め、ボールを前方に投げ出すようにドライブを開始する。

 次の瞬間には六花が飛び出してきた。僕の進路を予測して、大きく両手を広げて壁のように立ちはだかる。

 僕はレッグスルーでボールを右手から左手に渡す。自分の足の間にボールを通すドリブル技だが、その時、わざと少しだけ速度を落とした。六花の警戒心を緩めるためだ。
 そして左手にボールが渡った瞬間、全力で加速して彼女の脇を駆け抜けた。

「えっ?」
 六花の声が背後に消える。追いかけてくる足音もバタついていて、彼女の驚きと動揺がよくわかる。
 よし、これなら行ける!

 六花を後方に置きざりにして、僕は力強くステップを踏む。我ながらお手本のようなレイアップシュートが決まった。

「空くん、今のって……」
「ああ、ディレイレッグ。こっそり練習してたんだ」

 それは、足の間にボールを通した瞬間に加速するレッグスルーに見せかけて、ボールを持ち替えてから一気に加速する遅延型のレッグスルー。優れたディフェンスほどたやすく翻弄(ほんろう)され、初見ではまず止められないという技だ。

「独学で、これを……?」
「いや、キャプテンの得意技の物真似だよ」
「何言ってるの。こんな短期間にマスターするなんて凄いよ」
 六花は何度も頷きながらそう言って、ニコリと笑った。

「初得点だね。おめでとう」
「ありがとう。でも、ここからが本当の勝負だ!」

 得点したので、引き続き僕のオフェンスでリスタートだ。
 腰を低く落とした姿勢で、振り子のように腕を大きく振ってボールチェンジ。何度かそれを繰り返してからリズムを崩し、左手に渡ったボールを瞬時に持ち替えて右へフェイントをかける。
 しかし、今度は六花も遅れなかった。僕の意図を的確に見抜き、右側に回り込んでくる。

 これにも反応するのか。だったら――僕はさらにドリブルを切り替える。
 ボールを反時計回りに半周させて、左足に体重を移す。六花が左に動くと見るや、右に進路を急変。そのままスピード全開で右にドライブを決める。

「抜いたぞ!」
 今度は六花もすぐに体勢を立て直した。乱れのない靴音がすぐ後ろに迫っている。
 まだ成功率は低いが、やはりここでやるしかない。
 六花から逃げるようにゴール下まで全力疾走する。そのまま足を踏ん張って真上にジャンプし、ボールを空中に置いてくるようにシュートを放つ。
 ボールはリングの中で多少暴れたものの、すぐにネットを通り抜けた。

「よしっ! 二点目ゲット!」

 六花が足元に転がってきたボールを拾う。そして呆然とゴールを見上げてから僕の方を向いて、まるで花が開いたかのような笑みを浮かべた。

「凄いね、空くん。今のインアウトのフェイント! いや、あれはキャンセルだね。私が引っかからなかったら、そのままチェンジしてたんでしょ?」
「ああ……まあな」

 六花が興奮気味にバスケ用語を並べたてた。それが何だか嬉しくて、ついニヤケそうになって慌てて表情を引きしめる。
 六花はそんな僕の顔を覗き込んで、もう一度嬉しそうに笑った。

「ねえ。いつの間にこんなに上手くなったの?」
「秘密特訓の成果ってところかな」

 ちょっと気取った言い方をしてしまったが、今日に備えて猛特訓をしたのは本当だ。
 雑用とボール拾いの名目で、本来ならレギュラーだけが参加できる春休みの強化合宿に連れて行ってもらったんだ。
 期待通り、合宿中はずっと一緒に練習させてもらえた。それに加えて、自主参加の朝練も一日も休むことなくこなしてきた。
 この調子なら勝てる――おかげで初めて、そんな自信が湧いてきていた。

「よし。あと三点取って、今日こそは勝たせてもらうぞ!」
「じゃあ、ちょっと本気を出してもいいかな?」

 ビシッと言いきった僕に、六花がニコリと微笑む。いつも通りの笑顔なのに、その瞬間、背筋がゾクッと震えた。