学校を出ると、僕は疲れた体を引きずって、いつもの公園に向かった。もう遅いのでわずかな時間しか会えないが、どうしても六花に入部の報告をしたかったのだ。
 歩きながら彼女にメッセージを送ると、すぐに既読がついて「待ってるね」と返信があった。

 公園に着くと、六花が気づいて駆け寄ってきた。薄暗い公園の中、彼女の姿が街灯の淡い光に照らされて、少し寒そうに見える。
 二人並んでベンチに腰かけると、六花は小さな水筒を取り出して、コップの(ふた)に紅茶を注いでくれた。温かな湯気が立ち上る飲み物を一気に飲み干して、ホーッと長いため息が漏れる。

「ありがとう。ちょうど喉も乾いていたし、体も温まったよ」
「えへへ、喜んでもらえてよかった」
 そう言うと、六花は(から)になったコップに再び紅茶を注ぎ、今度は自分が口をつけた。

「ちょっと。それ、今僕が飲んだコップだよ?」
「うん。だって水筒の蓋なんだから、一つしかないもの。私は気にしないよ」
 六花はこともなげにそう言って、紅茶を美味しそうに飲み干すと、再び注いで僕に手渡した。

「ちなみに、私が口をつけたのはこの辺りね」
「そんなこと、教えてくれなくていいって!」
 僕はコップをくるりと回転させて、反対側から紅茶をすする。六花はそれを見てくすくすと笑っていた。

 コップをもう一つ持ってこなかったのは、きっとわざとだ。六花はよくこんなイタズラをする。僕が六花と釣り合わないと引け目を感じていることを知っていて、積極的に好意を示してくれているのかもしれない。
 同じように人をからかっても、僕を(おとしい)れた連中とは心の在り方が全く違う。

 いや、受け取る僕の方も、多少は心の持ちようが違っているのか? 今日はバスケ部に入部したいと言って成瀬に驚かれても、キャプテンに入部理由を聞かれて笑われても、馬鹿にされたとは感じなかった。
 僕にとって今大事なことはバスケで六花に勝つことで、それだけが心の中心にあって、それ以外のことは自然と二の次になっているからだろうか。

「そっか。空くん、バスケ部に入ったんだね。おめでとう」
「ありがとう。平日は週に一日、土日はどちらか片方が練習の休養日になるらしい。だからその日には会えると思う。大きな大会の前は別だけど」
「うん、わかった。でも運動部で週に二日も休みがあるなんて意外だね」
「ちょうど昨年から増えたそうだよ。文科省のガイドラインがきっかけだって、キャプテンが言ってた」

 文部科学省が発行した、運動部活動の指導ガイドライン。そこには『適切な休養日を設けるように』と記されている。
 正直なところ、これはありがたかった。もし土日休みなしと言われたら、六花とデートする時間も作れなくなってしまう。

「それでどうだった? うちの高校の男子バスケ部は有名だからね。みんな上手いし、練習も厳しかったでしょ?」
「ああ。ランニングやダッシュが特にハードで、何度か吐いちゃったな。でも、あれくらい厳しい方がありがたい」
「ちょっと、無理しすぎだよ」

 六花がそう言って僕の背中をさすってくれたので、思わず苦笑する。嬉しいけれど、今さすってもらっても少し遅い……。
 話が一段落したところで、気になっていたことを尋ねてみた。

「なあ、なんでバスケを辞めたのか聞いていいか? 今日部活に参加してみて、六花の凄さがあらためてわかった。中学の頃は相当な選手だったんだろ?」
「えへへ。空くんにそう言ってもらえるのは嬉しいけど……いつの間にか、バスケが楽しいと思えなくなっちゃったの」
「何かあったのか?」
「ううん。嫌なことがあったとか、嫌なことを言われたとか、そんなんじゃないの。原因は自分にあって、それはどうにもできなくて……」

 そこまで話して、六花はごまかすように微笑んだ。
 そういえば、最初のデートで本屋に行った時、六花は本に面白さを感じないと言っていた。それも、もしかしたら同じ理由なんだろうか。

「でも、僕とバスケをしている時の六花は楽しそうだったけど?」
「それはバスケが楽しいんじゃなくて、空くんと一緒に何かをするのが楽しいの。一人の時は、ボールに触ってすらいないよ」

 六花がさっきより弱々しく微笑む。
 何だかこの話をしていると、少しずつ六花の元気がなくなっていくように感じる。僕は話を切り上げ、ベンチから立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ帰るよ。練習のある日は難しいけど、当面は木曜と日曜が休みだから、もし時間が合えば……」
「うん、またデートしようね」

 六花は嬉しそうに頷いた。ほんの一瞬で、もうすっかり元の明るさを取り戻している。
 それだけで十分だ。これ以上は考えないことにする。とにかくもっと強くなって、六花に勝って、僕の願いを伝えるんだ。

 六花と別れ、すっかり暗くなった道を走り始めた。疲労もいくらか回復したので、今日はこのまま家までランニングで帰ることにする。

 キャプテンに宣言した通り、僕がバスケ部に入ったのは、もちろん六花に勝つためだ。六花よりも上手な選手から指導を受けなければ、六花には勝てないと思ったからだ。だから、一度は辞めようと思った高校にも戻るしかなかった。

 実際、キャプテンやレギュラー選手たちの動きは素晴らしく、体格はもちろん技術の面でも、六花より明らかに上だった。悔しいことに、成瀬もその中の一人だ。
 彼らと一緒に練習して、その技術を身につけなければならない。もちろん、僕はレギュラーを目指しているわけではないし、公式戦に興味があるわけでもない。

 学校のことなんてどうでもいい。先生やクラスメイト、部活の連中がどう思おうが関係ない。
 僕の目的は、六花に勝てる実力を手に入れることだけだ。そして彼女がずっとそばにいてくれるのなら、もう他には何も要らない。

 体はへとへとに疲れているのに、心は不思議と踊っている。それだけ今日の練習には大きな手応えを感じたんだ。たった半年で六花に勝つという無謀な挑戦に、ほんの少しだが、光が見えた気がした。



「あーあ、あのまま学校も辞めてくれたらよかったのに。私、今日から江夏君と日直だよ。もう最悪」
「まだ来てないみたいだね。今日は休みなんじゃないの?」
「あいつ、気持ち悪いよね。何考えてんだか全然わからないし」
「いつも怒った顔してるよね。何が不満なんだか……」
「私、聞いたことあるよ。前に一度、成瀬君が遊びに誘ったんだって。そしたら何て言ったと思う?『僕は他人に興味がないから話しかけないでくれ』だって」
「それでいて、女子の顔はチラチラ見てるんだよね。ウケる」
「だからからかわれるんだよ。それで逆ギレして暴力振るうなんて、サイテー」

 次の日、ギリギリまで朝練をして教室に戻ると、クラスの女子たちの話し声が聞こえてきた。
 開きっぱなしになっていた後ろのドアを勢いよく閉めると、その音に驚いて、僕の悪口を言っていた女子たちは慌ててそれぞれの席に戻った。

 関係ない。クラスの連中が僕のことをどう思おうと、知ったことではない。でも今の会話を聞いていて、ふと思い出したことがある。

 この高校に入って、唯一話しかけてきたのが成瀬だった。いつも男女の取り巻きを引き連れて、一人でいる僕を憐れむように、上から目線で声をかけてきたのだ。

 カラオケに誘われたこともあった。遊びだけでなく、学校のグループワークやディスカッション、科学の実験でも、彼だけが僕に構ってきた。
 圧倒的に優位な立場の人間が、弱者に(ほどこ)しを与えるかのように。それが気に入らなくて、「僕に構うな」と突き放したことがあった。

 それを見ていた誰かが噂を広めたのか、成瀬が誰かに言いふらしたのかはわからない。でもそれ以降、クラスのみんなの僕に対する態度が明らかに冷たくなった。

 でも、それもどうでもいい。今では成瀬はバスケの指導者として、僕の挑戦に欠かせない存在になっている。今はそれで十分だ。

 授業はこれまでになく真剣に聞いた。停学中の三週間の遅れを取り戻さなくてはならない。
 これもまた、六花との勝負に勝つためだった。学校の成績も、バスケ部の正式な入部可否を決める重要な検討材料の一つだと、あとから顧問に告げられたのだ。
 だから、小テストの一枚すらもおろそかにできない。その結果、気づけば学校にいる時間は、部活以外は全て勉強にあてていた。

 放課後は部室に急行して、慌ただしくジャージに着替える。
 初日の昨日は途中参加だったので免除されたが、一年生は機材の準備をしなくてはならないのだ。そして準備運動をしたあと、決められた練習メニューに取り組む。入ったばかりの僕はもちろん、他の一年生とは異なる特別メニューだ。

 成瀬は、自分が指導するという条件で、僕の入部を顧問に掛け合ってくれたらしい。彼もレギュラーなので、ずっとつきっきりで指導することはできないが、それでも自分の練習に入る前に、最初の三十分くらいは指導の時間を取ってくれている。

「いいか? バスケの基本は三つ、ドリブル、シュート、パスだ。まずはこれを徹底的にやるぞ」
「それならドリブルとシュートだけでいい。1on1のゲームに勝てればそれでいいんだ。パスなんて出す相手がいないからな」
「ああ、1on1で勝ちたい相手がいるって言ってたな。部活なんだから、そうもいかないんだが……。まあパスは後回しでいいか。まずはドリブルからだな、やってみろ」

 成瀬の指示に従い、ドリブルを始める。姿勢と重心は低く保ち、ボールの突き方は速くリズミカルに。しかし、成瀬は首を横に振る。
「だめだ、全然なってない。とにかく江夏は焦りすぎだ。もしかして独学で練習したのか? 変な癖がついてる。今のうちに矯正しよう」

 立ち方、構え方、ボールの持ち方も一から見直し、指の使い方に至るまで細かくチェックし、指摘してくれる。
 ドリブルも、最初はゆっくり行うよう注意された。正しいドリブルをマスターしてから、そのフォームを保ちつつスピードを上げていくという方法だ。

「そう、その感じだ。指にボールが吸いつくような感覚を体に覚え込ませろ。ドリブルは、ボールハンドリングとステップワークが基本だ。まずは、両手でボールを自在に(あやつ)れるようになることだ」

 成瀬が自分の練習を始め、僕は指示された通りに基礎練習を繰り返す。途中でふと成瀬を見ると、彼は真剣な表情で汗を流していた。
 あいつ……本当は、いい奴だったのか?