金色に染まる空が、ゆっくりと深い青に飲み込まれていく。黄昏時と呼ばれる、昼と夜の境目。
 僕は大きな橋の欄干(らんかん)に肘をついて、この時が訪れるのを待っていた。

 念のために辺りを見回したが、人里離れたこんな場所を通りかかる人影はない。
 僕は欄干の上によじ登り、遥か下を流れる川を見下ろした。下流なので川幅は広く、水量も多いはずだが、今は一本の黒い帯のようにしか見えない。

 心臓が別の生き物みたいに暴れ回り、胃袋が口から飛び出しそうだ。視界がぐるぐると回って気持ちが悪い。
 足場となる欄干の幅は、わずか拳一つ分しかない。バランスを取るのが難しく、少しの風でも転落しそうだ。もっとも、それならそれで構わない。

「そうだ、遺書を書いてなかったな。まあ、いいか……」
 そもそも僕には、思いを伝えたい相手なんていない。もしもそんな人がいるのなら、こんな状況にはなっていないだろう。

 最後に大きく息を吸い込んだ。吐き出した息が、冬の冷たい外気に触れて白く輝く。
 直後に一際(ひときわ)強い風が吹いたが、人並み外れて重たい僕の体は揺らぎもしなかった。
 仕方なく、ほんの少しだけ体を前に倒す。それで落下するはずだった。

「だめーっ!」
 突然、薄闇の中から甲高い声が響き渡り、ダウンジャケットの背中の部分を誰かに掴まれた。川めがけてうつ伏せに落ちるはずだった僕の体は、逆方向に引っ張られ、仰向けに引き倒される。
 ドサッという音とともに、何か柔らかいものの上に落ちた。僕の下敷きになったのは小柄な人物。声のトーンから察するに、女性のようだ。

「ちょっと、重い。苦しい。どいて!」
 その人はじたばたと手足を振り回し、僕を押しのけようともがいている。だが体重120㎏を超える僕の体は、女性の力ではびくともしない。
 仕方なく立ち上がって、何が起きたのかを確認する。僕はまだ橋の上にいて、自殺は失敗に終わったのだ――。
 圧倒的な絶望感が押し寄せ、目の前がクラクラした。混乱した頭で、まだ倒れている女性を睨みつける。

「あんた、なんで止めた?」
「だって、あなたが死のうとしてたから」
「ああ、そうだよ! それがわかってて、なんで僕の邪魔をした? どうしてそんな酷いことができるんだ!」
 今日までずっと悩んで苦しんで、やっと決意が固まったのに。それを、あと一歩のところで……。

 もしもこのまま、ずっと死ねなかったら? 
 停学が解けても、もうあの高校には戻りたくない。だが高校を中退すれば、きっとまともな仕事には()けないだろう。他人はおろか、ただ一人の家族である母親とすら、上手くやっていけるとは思えない。
 これまでだってろくなことはなかったが、この先はさらにみじめで意味のない毎日が待っているだろう。そんな人生にこの先何十年も耐えるなんて、考えたくもない。

「くそっ!」
 もう一度欄干に手をかけて、体をぐっと引き上げようとする。その背後から、またもジャケットを掴まれた。
「だめだって!」
「どけっ!」
 しがみついてくる女性を突き飛ばし、欄干を掴んで上半身を持ち上げる。そこから足をかけようとして、真っ黒い川が目に入った瞬間、体からガクンと力が抜けてしまった。

 今度は欄干に登ることすらできず、尻から落ちて仰向けに倒れ込んだ。その途端、酸っぱいものが喉にせり上がってくる。
「うごっ、おえええぇ……」
 ビシャ、ビシャっと、口から吐瀉物(としゃぶつ)を撒き散らす。今日は朝から何も食べていないから、胃液だけで量も大して出なかったけれど。

「大丈夫? これ、使って」
 さっきの女性が駆け寄ってきて、僕の背中をさすりながらハンカチを差し出した。僕はその手を乱暴に払いのける。
 駄目だ――もうここから飛び降りることはできない。だから一回で決めたかったんだ。死の恐怖が、体の芯に刻み込まれてしまう前に。

「余計なことをして……あんたのせいだぞ」
 かすれた声に精一杯の恨みを込めたのに、返ってきたのは優しげな声だった。彼女は立ち上がると、僕に手を差し伸べながら言った。
「ねえ、教えて。どうして死のうと思ったの? 私でも、何か力になれるかもしれないよ?」

 僕の影に隠れてシルエットしか見えなかった彼女の姿が、まだわずかに残る夕陽を浴びてぼんやりと浮かび上がる。
 その瞬間、まるで劫火(ごうか)のようだった僕の怒りは、水をかけられたかのように消えてしまった。

 年齢は僕と同じくらいだろうか。辺りが暗いせいもあって、白い肌が雪のようにぼうっと浮かび上がって見える。(つや)やかな黒髪は胸元まで伸び、風に吹かれてゆったりと揺れている。
 学校の制服の上からジャンパーを羽織った格好だから、スタイルまではわからない。だが、すらりとした体型であることは、スカートの(すそ)から伸びる脚線美が教えてくれた。
 整った顔だちの中で何より目立っているのは、まるで吸い込まれそうな大きな目だ。その瞳には優しさと強い意思とが同居しているように見える。
 鼻は小さく整っており、ふっくらとした形の良い唇は、まるでピンク色の宝石のようだ。

 いや、こんなつぶさに観察するまでもなく、一目見ただけでわかる。彼女は僕がこれまで見たこともないくらいに、可憐で美しい女の子だった。

 その子が僕の目を見て微笑んだんだ。柔らかく、優しく、そして少し寂しげに。生まれて初めて自分に向けられた女の子の微笑みは、言葉にできないほどに魅力的だった。そして――。

「あ、ああ。わかったよ」
 彼女に問われるままに、僕は自殺を思い立った経緯を語り始めたのだった。