「ごちそう様!」
「おいしかった!」
「食った~」
 女子学生の一団の大きな声。皆、同じ赤い色のトレーニングウエアを着ている。
「どういたしまして」
 カウンターの向こうから年配の女性が笑顔で答える。
「元気出た!」
「やっぱ、『白山』の料理が最高だよね!」
「ね!」
 テーブルから立ち上がりながら女子学生たちが口々に言う。
「ありがとね!」
 カウンターの向こうにいた女性、北本豊恵(きたもととよえ)が入り口の横のレジに向かう。
「また来てね」
 釣銭を渡しながら豊恵が言う。
「もちろん! ここが甲州大学女子野球部の強さの秘密だからね!」
 釣銭を受け取った女子学生が大きな声で答える。女子にしては体格がいい。
「みんな! 明日も来るよ!」
「はい! キャプテン!」
 振り向いて声を掛けた女子学生に他の学生たちが答える。
 大学のすぐ近くにある大衆食堂、「白山」。
 学生たち、特に運動部に所属する学生たちにとってここは、練習後の空腹を満たすだけでなく、仲間たちとの親交を深める場所、第二の部室といってもよい場所だった。

 豊恵がテーブルの上の食器を片付けてカウンターに乗せる。カウンターの向こうで食器を受け取ったのは白い調理服を着た年配の男性だ。白髪混じりの角刈りの頭に手ぬぐいの鉢巻き。北本武道(きたもとぶどう)。豊恵の夫だ。
「一段落したら、サトばあさんのとこに夕飯届けて来る」
 トレーから食器を下げながら武道が言う。
「お願いね。サトさん一人暮らしで、持って行ってやらないとろくに食事もしないみたいだから」
 武道はうなずいて、シンクで食器を洗い始めた。

「じゃ、行って来る」
 武道は店の前で原動機付自転車にまたがった。
「……あら、雨?」
 見送りに出て来た豊恵が夜空を見上げる。
「本降りになる前に行って来る」
「気を付けてね」
「わかってる」
 片手を上げて、武道は原動機付自転車を走らせた。間もなく、空から大粒の雨が落ち始めた。

 気が付くと、武道は真っ暗な中を一人で歩いていた。
 何も見えない。そこがどこなのかもわからない。なぜそんなところにいるのか、わからない。思い出せない。
 頭を振って、思い出そうとした。
 サトばあさんのところに夕飯を持っていこうとして……原付に乗って……走り出してすぐ、雨が降り出して……
 そうだ……雨粒が目に入って……前が見えなくなったからあわててブレーキをかけて……
「原付はどこだ? サトばあさんの夕飯は?」
 声に出した。自分の声は聞こえた。両手を持ち上げて、自分の手のひらを見ようとした。見えない。真っ暗で、何も見えない。
 その時。前の方に、小さな灯りが見えた。
「外灯か? あそこが道路か?」
 そう言う間に、灯りが段々と大きくなる。灯りが、灯りの方が自分に近づいてきているのだ。
 灯りの中に人影が見えた。ピンクのジャージを着ている。店によく来る女子学生たちのトレーニングウエアに似ている。あの子たちのうちの誰かだろうか……
 いつの間にか、その子が目の前に立っていた。
「ここはどこだ?」
 武道の方から声をかけた。
「黄泉比良坂」
 女の子が言った。
「なんだと?」
「だから、ヨモツヒラサカ」
 聞いたことのない地名だ。
「店はどっちだ。帰らないと。いや、その前にサトばあさんだ」
「残念だけど……サトさんのところへは行けない。お店にも帰れない」
「何だと?」
 武道の声が大きくなる。
「そもそもなんで真っ暗なんだ! 灯りを点けろ!」
「灯りは、ないの。私が光るだけ」
「何を言ってる! とにかく帰る!」
 そう言って武道は後ろを振り向いた。暗闇の中、道があるのかどうかもわからない。しかしその子が来た方向と逆の方へ行けば帰れる、そう思った。
「だめ! そっちへは行けない。行かせられない」
 後ろから声がした。
「うるさい!」
 武道は振り返らずに歩き出そうとした。
「待って!」
 大きな声がした。と、同時に。
 左右から伸びてきた手が、武道の進路を塞いだ。大きな、手。十本の長い指。どの指にも鋭い爪が生えていた。
 武道は後ろを振り向いた。そこに立っていたのは、先ほどの女の子ではなかった。
 鬼。真っ赤な肌をした、鬼だった。
 大きい。身長は、武道の二倍、いや、三倍はあった。隆々とした筋肉を付けている。その身体から左右に伸びた腕が、武道を包むようにして背後の進路を塞いでいた。
 見上げると……金色に光る大きな目。鋭い牙を剥きだした大きな口。そして額に生えた二本の太い角。
「う……うわあ!」
 武道は叫び声をあげて座り込んだ。
 鬼が大きく口を開けた。
 食われる! 武道は目を閉じた。
「だから、そっちへ行っちゃだめだって!」
 声がした。女の子の声。武道は目を開けた。そこには……先ほどの、ピンクのジャージを着たの女の子が立っていた。
「……い、今のは……」
 かろうじて声が出た。
「そっちへ戻ろうとしたからだよ。それを止めるのも私の仕事なんだから」
 女の子が言った。
「あ……あんたは、鬼か……」
「失礼ね。私は、塞の神」
 その女の子が言った。腰を抜かした武道はまだ座ったままだ。
「ここは死んだ人が通る道。きちんとここを通してあげるのが、私の仕事。ここから戻るのは、禁止」
「死んだ人が通る道? 俺は、俺はまだ……」
 腰を抜かして座りこんだままではあったが、相手が女の子の姿に戻ったことで武道はまた強気を取り戻していた。
「死んじゃいない! 死んでたまるか!」
 言いながら、立ち上がった。
「帰る! 帰らなきゃなんないんだ!」
 武道がまた後ろを向いた。
「だめ!」
 声がして、武道の前をまた大きな手が塞いだ。一瞬、ためらった。しかし武道はそのまま十本の鋭い爪の間をすり抜けようとした。
 強い衝撃を受けた。武道はまた、意識なくした。

 気が付くと、武道は仰向けに横たわっていた。すぐ横に、さきほどの女の子がいた。揃えた両膝を抱えて座っていた。
 暗い。やはり周囲は真っ暗闇だ。その女の子だけが白く光っている。
「ごめんね、帰してあげられなくて」
 女の子が言った。
 あらためて周囲を見回す。暗闇。女の子の他には何も見えない。
 死んだ……自分は本当に死んだのか……
「そう。あの時、原付が転倒しちゃってね……」
 女の子が言った。
「……だめだ!」
 そう言って武道は身体を起こそうとしたしかし……動かない。動けない。
「帰らなければ!」
「……わかるよ。豊恵さんのことだよね」
 そう。豊恵。長年連れ添った、妻の豊恵。
「でも、もうどうしようもないんだよ。今は、できることをしよう。私も手伝うから」
「できること?」
「おじさん、子供がいなかったんだよね」
 そう、武道と豊恵の間には、子供がいなかった。
「……それがどうした」
「おじさん。自分の財産は全部豊恵さんが受け取れると思ってるでしょ」
「財産? そんなもの……」
「お金はあまりなかったみたいだね。でも、あのお店と家」
 そうだ。武道と豊恵がやっていた食堂、白山は三十年前に武道が土地ごと買った物だ。そしてその二階が二人の住まいだった。
「おじさんの法定相続人、豊恵さんだけじゃないんだよ」
「法定相続人?」
「日本の法律で決められた、財産を受け取る権利のある人」
「権利? 店と家は俺と豊恵二人の物だ。俺がいなかったら、当然豊恵が……」
「それがね、そうは行かないんだよ」
「いや、とにかく、俺は死ぬわけには行かないんだ。俺がいなかったら、豊恵は一人だ。豊恵を、豊恵を一人にする訳には行かないんだ!」
「……気持ちはわかるよ。でも、仕方ないんだよ。そこは、どうしよもない」
「どうしようもない? 実際、俺はこうしてピンピンしてるじゃねえか!」
「それがね、ピンピンじゃないんだよ。身体はもう、無くなっちゃってる。火葬されて……」
「火葬? じゃ、今の俺は……」
「魂、だけ」
「そ、そんな……」
「ね、せめて、私にできることをさせて」
 そう言って塞の神は立ち上がった。
「せめて、あのお店と家だけは、何とかしてあげないと」
 横たわったまま動けなかった武道の身体が起き上がった。武道が自分で起き上がったのではない。身体が勝手に起き上がったのだ。
「見て」
 塞の神が前方を指さした。そこには……川が流れていた。
 川の底が光り始めた。
「豊恵さんの、今の様子が見えるよ」
 武道は光る川底を覗き込んだ。

「たいへんだったね、おばちゃん」
「おじちゃんがあんなことになっちゃうなんて……」
 食堂白山。豊恵に声をかけているのは甲州大女子野球部の一団だ。
「でも、こんなに早く店を開けてくれるなんて……助かったよ」
「いや、そうじゃなくて。本当に大丈夫なの? 無理しないでね」
「大丈夫。働いてた方が気が紛れるしね」
大盛の定食を乗せたトレーを運びながら豊恵が答える。
「でも……おじちゃんがいなくなっちゃって、おばちゃん一人じゃ……」
「大丈夫だよ」
 豊恵が笑顔で答える。その笑顔に無理があるのは学生たちにもわかった。
「私たち、手伝うからね」
「……ありがとね」
 定食が目の前に置かれると、体格のいい女子学生が立ち上がって別の一団に向かって大きな声をかけた。
「そこの一年! 食べ終わった食器は自分で片づけること! いいね!」
「は……はい」
 声をかけられた一団が答える。
「なんなら、洗い物もやって帰るよ」
 豊恵の方に向き直った女子学生が言う。
「ありがとうね……でも、本当に大丈夫だから」
 豊恵は淋しそうな笑顔を返した。
「こうやってまた、あなたたちが来てくれて、私の作った物を食べて、おいしそうな笑顔を見せてくれれば……それが、私の生きがいだから」
「うん、これからも毎日来るよ……でも、おばちゃん、ほんと、無理しないでね」
「……ありがとう」
 豊恵はまた、女子学生たちに笑顔を返した。

「そうだ……料理があれば……料理さえしていられれば……あいつが作った物を食べて喜んでくれる人がいれば……あいつは何とか……」
 川底の光景を見ながら、武道がつぶやいた。
「そうだね……でも、それもピンチなんだ……」
 塞の神が言った。
「ピンチ?」
「うん、見てて」
 そう言って塞の神がまた川底を指さした。

「ごちそう様」
「おばちゃん、ほんと、身体、気をつけてよね」
 そう言いながら、女子学生たちは店を後にした。
 入れ違いにスーツ姿の男性が店に入って来た。
「いらっしゃい……」
「お仕事中、失礼いたします」
 入り口で姿勢を正した男性が頭を下げた。
「私、こういう者です」
 男性が名刺を差し出す。豊恵はそれを片手で受け取った。
『ビックリッチ法律事務所 弁護士 大久保富雄』
「本日は、亡くなられた北本武道様の相続人の代理人として参りました」
 丁寧な口調でその男性、大久保という弁護士が言った。
「……は、はい」
 名刺を見ながら豊恵が答える。
「まずは、お悔やみを申し上げます。この度は、誠にご愁傷様でした」
「……は、はい……あ、どうぞ、お掛けになって……」
 豊恵がテーブル席の椅子を引く。そこに大久保が腰を下ろす。豊恵もその向かいに座った。
「で……ご用件は……」
「では、さっそくですが、お話しというのは」
 大久保が姿勢を正した。
「亡くなられた武道様の相続についてです」
「……は、はい」
「失礼ですが、武道様にはお子様はいらっしゃいませんでしたね」
「……は、はい」
「ご両親もすでに亡くなっていらっしゃる。そうしますと、武道様の法定相続人は、配偶者である豊恵様と、武道様のご兄弟、ということになります」
「……は、はい」
 豊恵には、はいとしか答えられない。
「武道様には、お兄様がいらっしゃいました。北本(まさる)という方です」
「……は、はい。でもその方は確か……」
「はい。五年前に亡くなっております。しかし勝様にはご子息がおりました。武道様からみれば甥御さんになります。北本義喜(よしき)様という方です」
「は、はい……主人の葬儀には来ていただきました」
「甥である義喜様は父親の勝様の代襲相続人です。つまり勝様の相続権を引き継いでおられます」
「……は……はあ」
「私はその義喜様から相談を受け、このたび義喜様と委任契約を結ばせていただきました」
「……は、はい」
 やはり、はいとしか答えられない。
「そこで今日は、義喜様の代理人として、武道様の相続についてご相談させていただきたいのです」
「……」
 はい、の声も出ない。
「ぶしつけですが、武道様は遺言書を遺していらっしゃいましたでしょうか?」
「い……いえ、そんなものは……」
「遺言書がなければ、遺産の分割は法定相続人である豊恵様と義喜様の協議で決めることになります」
「……」
「民法による法定相続割合は、配偶者である豊恵様が四分の三、兄の勝様が四分の一、つまりそれを引き継いでいる義喜様が四分の一ということになります。必ずしも法定相続分どおりに遺産を分割しなければならないということではありません。しかしながら……」
「……」
「義喜様としては、やはり法定相続分程度はいただきたいというご意向です」
「……」
 豊恵は何も言えない。
「武道様の主な財産はここ、白山食堂の土地建物です。二階はご自宅として使用されている、とういことでよろしいですね?」
「は……はい」
 ようやく返事ができた。
「ここの相続税評価額は、おおよそ二千二百万円になります」
「二千万……そんなに」
 店の値段など考えたこともなかった。
「武道様のお持ちになっていた預貯金についても調べさせていただきました。全部で二百万円ほどでした。ローンなどの借り入れはないようでした」
「は……はい」
 それは知っていた。
「全部で二千四百万円です。すると豊恵様の法定相続分は、その四分の三ですから、千八百万円、義喜様の法定相続分は四分の一の六百万円です」
「は……はい」
「ところが、白山食堂の土地建物の相続税評価額は、先ほど申しましたように、二千二百万円です」
「……」
「わかりますか? つまり、もし豊恵様がここの土地建物をすべて相続すると、預金の二百万円では義喜様の相続分の六百万円に足りないということです」
「……」
 はい、とは言えない。
「不足分を銀行からの借り入れで支払っていただくという方法もありますが、現在のご年齢とお店の売り上げを考えますと、それも難しいかと思います」
「……」
 何も答えられない。
「そこでご提案ですが、ここの土地建物を売却されてはいかがでしょうか。先ほどここの相続税評価額が二千二百万円だというお話をしましたが、実際に売却すればもっと高く売れると思います。大学の近隣という好立地でもありますし。義喜様に六百万円を支払った後でも、相応の金額が残ると思います」
「……」
 何も……答えられない。
「よろしければ、仲介する不動産会社も私の方で手配いたします。買い手についても心あたりがあります。けして不利な条件にはいたしません」
 豊恵は……うつむいてまま顔を上げることができない。
「もちろんすぐにお答えをいただこうとは思いません。時間をかけて、ご検討いただければと思います」
「……」
「それでは、今日のところはこれで失礼いたします。またご連絡いたします」
 そう言って、大久保は席を立った。豊恵は……立ち上がることさえ、できずにいた。

「甥っ子の義喜が……今頃……何年も、いや、もう何十年も連絡もしてなかったのに……」
 武道は立ったまま、絞り出すように声を出した。
「兄貴なら……勝兄貴ならそんなことは言わなかっただろうに……」
「勝さんはもうだいぶ前にあっちへ行っちゃったからね。今さらどうしようもない」
 隣に立っていた塞の神が言った。
「豊恵は……白山は……どうなるんだ……」
「方法はあるよ」
「方法?」
「うん」
「どうやって……?」
「遺言書」
「遺言書?」
「そう。奥さんの豊恵さんに全財産を相続させる、ていう遺言を書くの。遺言書があれば、相続人は遺言書どおりにしなければならないから」
「そう……なのか?」
「そう。で、兄弟には遺留分はないから、豊恵さんに全部、ていう遺言があれば勝喜さんはもう法定相続分を主張できないの」
「遺留……分」
「うん。遺言書で指定されていても、最低限これくらいはもらえる、ていう権利。奥さんにはそれがあるけど、兄弟にはそれがない」
「それで、弁護士は遺言書のことを訊いていたのか……しかし、どうやって?」
「書かせてあげる。私が書かせてあげる」
「……本当か?」
「うん。でも、おじさんはもう死んじゃってる。一時的になら、私の力で向こうに帰してあげることもできるんだけど、おじさんの場合はちょっと……」
「ちょっと、何だ?」
「向こうに行ったら、そのまま逃亡しちゃいそうな気がする。そこまでしなくても、豊恵さんに会いに行こうとする」
「それはもちろん、できることなら……」
「そういうことされると、困るんだよね」
「しかし……」
「だから、約束して」
「約束?」
「そう。時間になったら私といっしょにこっちへ帰ってくること、向こうでは誰にも会わないこと」
「……もし、その約束を破ったら?」
「二度とここを通れなくなる。おじさんは、別の場所に行くことになる」
「別の……場所」
 ここは……天国ではない。真っ暗闇の中だ。天国とは思えない。それでも、この先にあるのはたぶん……それなら、別の場所というのは……
「それに、豊恵さんが不幸になる。間違いなく」
「豊恵が……」
「豊恵さんだけじゃないかもしれない。おじさんや豊恵さんのことを慕っていた、大学生たちも」
「あの子たちも……」
 嘘とは思えなかった。 
「わかった、約束する」
 武道はうなずいた。
「うん、約束だよ」
 塞の神が笑顔になった。
「じゃ、目をつぶって」
 塞の神が続けた。言われるまま、武道は目を閉じた。
「行くよ!」
 塞の神の声がした。
「着いたよ」
 しばらくしてまた、塞の神の声がした。
「目、開けていいよ」
 武道は目を開けた。しかしそこは……先ほどと同じ、暗闇の中。
 いや、違う。すぐにわかった。馴染んだ感覚。暗闇の中でも、どこに何があるかすぐにわかる。目の前にあるのは調理台。脇にはガスコンロ。棚に並ぶ調味料。そこは、食堂白山の調理場だった。
「ちょっと暗いけど、書けるかな」
 塞の神の声がした。すぐ横に、塞の神が立っていた。
「電気は……」
 武道は灯りのスイッチのある壁の方へ歩きかけた。
「だめ!」
 塞の神が行く手を遮った。
「明るくしたら、豊恵さんに気付かれちゃうから」
「そ……そうか」
 武道は天井を見上げた。二階に豊恵がいるはずだ。もう寝ているだろうか……
「約束、忘れないでね」
 塞の神が言った。
「わ……わかってる」
 武道は下を向いた。
「何か、書く物ある?」
「注文用の伝票ならあるが……」
 気を取り直して答えた。
「それでいいや。ボールペンとかもあるよね」
 武道はカウンターの隅にあるはずの小引き出しに向かった。手探りで小引き出しの中から伝票とボールペンを取り出す。
「その伝票の裏でいいから。書いて」
 塞の神が言う。
 武道はカウンターの上に伝票を置いた。
「し……しかし、こう暗くては……」
「仕方ないわね」
 塞の神がそう言ってカウンターの上に右手をかざした。電気スタンドのように光が当たった。塞の神の手のひらが光っているのだ。
 武道は照らされた伝票の上にボールペンの先を置いた。しかしそこで手が止まる。
「いったい、何て書けば……」
「だから、全財産を妻の豊恵さんに相続させる、それだけでしょ」
「わ……わかった」
 武道は伝票の裏側にその文言を書いた。
「これでいいのか?」
「そうそう、あと、遺言執行者ね。やっぱり……豊恵さんかな?」
「遺言……執行者?」
「そう、それが必要なの」
「誰がこの遺言の手続きをするか、ていうことか……」
「そうなんだけど……」
「豊恵が自分で、そんなことができるだろうか……」
「やっぱり無理かな? 後から家庭裁判所で弁護士や福祉団体の人を指名してもらうこともできるけど……そういう人と相談しなきゃいけないし……」
「家庭裁判所……そんなこと、豊恵にはわからないだろう……」
「検認の手続きもあるしな……」
「検認?」
「うん、家庭裁判所へ行って、確かに遺言書があったっていうこと認めてもらう手続き」
「やっぱり豊恵には、そんなことはできない……」
「そうだ! あの子たちだ!」
「え?」
「あの、お店によく来る大学生たち」
「……あの子たちが?」
「具体的な手続きの進め方については、いつも来る大学生に相談するように、て、そう書いておこうよ。あの子たち、豊恵さんのためならきっと力になってくれるだろうから」
「しかし、あんなに若くて、遺言のことなどわかるだろうか」
「自分たちでわからなくても、きっと調べたりして何とかしてくれるよ」
「そうだな……」
 武道は伝票の遺言にその文言を書き加えた。
「遺言執行者のことは書かないでおこうか。かえって豊恵さんを混乱させちゃいそうだし。あの子たちに考えてもらおう」
「それがいいと思う」
「あとは……おじさんの名前と日付だね。日付は……そうね、今年の正月か、おじさんの去年の誕生日あたりにしておいて。その方が不自然じゃないから」
 武道は自分の名前と昨年の誕生日の日付を書き込んだ。
「あと、印鑑ね」
「印鑑も確かここに……」
 武道はまた引き出しを開けた。塞の神が手のひらの光を移動させてくれた。中から印鑑と朱肉を取り出す。
「名前の後に印を押して」
 言われた通り、武道は自分の名前の後に印鑑を押した。
「これで出来上がり。そしたら、遺言を書いたとこを剥がして。さすがに伝票と一緒じゃね」
「そ……そうだな」
 武道は遺言を書いた伝票を引き剝がした。
「封筒とか、ある?」
「ああ、領収書を渡す時のために、たしか……」
 武道は引き出しの下の段から小さな封筒を取り出した。今度も塞の神が光をあててくれた。
 遺言を書いた伝票を封筒の中に入れる。
「封筒に『遺言書』て書いておこうか。豊恵さんにわかるように」
 言われた通り「遺言書」と書く。
「この引き出しに入れておけば、豊恵さん、すぐに見つけてくれるかな?」
「そうだな……この引き出しはいつも使っているから、大丈夫だろう……」
 武道は封筒を引き出しに入れた。
「これでよし。さ、帰るよ」
 塞の神が言った。武道はまた天井を見上げた。
 天井のその上、二階には……豊恵がいる。一人ぼっちで……
「帰るよ!」
 塞の神が大きな声で言った。
「……少しだけ、豊恵に……」
「だめ! 約束だよ!」
「……わかった……」
 武道は目を閉じて、下を向いた。しかし……
「やっぱり、一目だけでも」
 武道が顔を上げた。
 そこには……川が流れていた。そこはもう、食堂白山の調理場ではなかった。
「ごめんね。約束だからね」
 すぐ横で、塞の神が言った。
 そうか……やっぱり……
 武道はうなだれた。
 塞の神はまた武道に向き直って、慰めるように微笑んだ。
「じゃ、もう一回見てみようか」
 川底がまた、青白く光り始めていた。

 白山食堂の調理場。豊恵はカウンターの上に置いた伝票を見つめていた。武道の遺言だ。
「……いつの間にこんなもの」
 誰に話しかけるでもなく、言葉が漏れていた。
「まるで……逝っちゃうのがわかってたみたいじゃない……」
 豊恵は、カウンターの上にあったティッシュボックスからティッシュペーパーを一枚引っ張り出して鼻を咬んだ。
 入り口の引き戸をノックする音がした。まだ開店前、客ではない。
「は……はい」
 豊恵はティッシュペーパーで涙を拭くと、入り口に向かった。
「失礼します」
 入って来たのは武道の兄、勝喜の代理人、弁護士の大久保だ。
 豊恵と大久保は前回と同じテーブル席に向かい合って座った。
「さっそくですが……お考えはまとまりましたでしょうか?」
「……はい」
 うつむいたまま豊恵が答えた。
「で……どのように?」
「……この店は、武道とわたしの宝物です……」
「そのお気持ちはわかりますが……」
「ですから、手放したくはありません……」
「それでは……」
「……いえ」
 豊恵が大久保の言葉をさえぎる。
「でも……しかたありません……」
 豊恵は一旦言葉を飲み込んだ。大久保は黙って豊恵の言葉を待つ。
「……この店を、売ります……」
 つぶやくように、豊恵が言った。

「どういうことだ!」
 武道が声を上げた。
「全部豊恵の物になるんじゃなかったのか!」
「うん……そのはずだけど……」
「店を……店を売ってしまったら……もう……料理は作れない……そしたら、豊恵は……」
「うん、だからそのために、遺言書を書いてもらったんだけど……豊恵さん、わかってないのかな……早く学生さんたちが来てくれればいいんだけど……」
「あいつから……料理を奪ったら……」
「うん、知ってるよ。豊恵さん、料理が生きがいだってこと……だから」
「あいつを……あいつを不幸にするわけには行かないんだ……あいつには、ずっと、幸せでいてもらわなくちゃならないんだ……」
 武道にはもう塞の神の声が聞こえていない。
「俺は、俺の一生をかけて、あいつを幸せにするって、決めてたんだ。あの時、決めたんだ」
「……知ってるよ」
 武道が塞の神を振り向いた。
「聞いてくれ……俺と豊恵のこと……」
「知ってるけど……でも、話したいなら……話して。聞くよ」
 武道は、真っ暗な上空を見上げた。そして、話し始めた。
「高校を卒業して、建設会社に就職したんだ。だが……すぐに上司と喧嘩して、辞めちまった……若い頃の俺は、気が短くて」
「……うん」
 塞の神は、うなずきながら武道の話を聞いた。
「すぐに、食うにも困った。貧しかった親を頼るわけにも行かず、まして、兄貴を頼る気にもならず……」
「お兄さんとは、あまり仲良くなかったんだね」
「朝、職安に行って、日雇いの仕事を紹介してもらってた……どこかへ就職しても、どうせまた長続きしないと思って」
「うん」
「日当をもらうと、その夜は酒を飲んで、次の日にはパチンコや競馬に使っちまった……」
「うん」
「仕事にあぶれちまう日もあって、そんな日は、酒どころか飯も食えず……」
「そうだったね」
「あの日は、三日続きで仕事にあぶれちまってて……」
 そこまで言うと、武道は下を向いた。硬くつぶった目から、絞り出したように涙が落ちた。
「……いいよ。言わなくて」
 塞の神が言った。
「ここに映すよ。あの日のこと」
 武道は目を開けた。
「あの日のことを……映す?」
「うん」
 塞の神が微笑んだ。川底がまた、青白く光り始めた。

 二十歳の武道は、両手をポケットに入れたまま背中を丸めて歩いていた。駅前の繁華街。とっくに日は暮れていた。
 目の前には飲食店が並んでいる。腹は減っていた。しかし……飯を食う金はない。ただ、楽しそうに声を上げながら店に出入りする人たちを横目で見ながら、その前を歩いているだけだ。
 駅から遠ざかる。繁華街が住宅街に変わる。
 歩いていても仕方ない。かえって腹が減るだけだ。駅まで引き返すか……
 繁華街のはずれ。並んでいる飲食店の最後の一軒。その前で武道は立ち止まった。けしてきれいとは言えない、食堂。店がきれいかどうか、そんなことは武道にとってはどうでもいいことだった。
 武道はあることを考えていた。この店で、定食を食う。ついでにビールの一本も。小さな店だ。店員も多くはないだろう。きっと二人か三人。
 従業員のすきを見て、表に飛び出す。木製の枠にガラスをはめ込んだだけの引き戸は簡単に開きそうだ。それから人気のない住宅街へ向かって走る。いくつか角を曲がれば、もう追いつかれることはないだろう。
 大丈夫だ……生きるためだ……武道は、そう自分に言い聞かせようとしていた。
 その時。目の前の引き戸が開いた。中から、エプロン姿の若い女性が出て来た。
「あら、お客さんですか? どうぞ、お入りください」
 武道に気が付いた女性が言った。言われるまま、武道は店に入った。
 店の中にはテーブル席が四つ。武道は出入り口の一番近くの席に座った。
「とんかつ定食とビール」
 すぐにその女性に注文した。考えている余裕もなかった。
 改めて店内を見回す。武道の他に客はいない。
 ビールが運ばれてきた。ビールを飲みながら、店の奥の様子をうかがう。奥で調理をしている気配がある。おそらく一人だ。店員は女性と奥にいるもう一人、合わせて二人。追いかけてくるとしたら、まず女性の方だ。女性の足なら追いつかれることはないだろう。
 間もなく定食が運ばれてきた。武道はあっという間にそれを平らげた。ビールも飲み干した。あとは……逃げるタイミングを見計らうだけだ。
 店の奥を見た。女性は、トレーを抱えたまま店の奥に立ったままだ。目を合わせないように、何気なく視線を移す。
 奥で調理をしていたもう一人は、おそらく男だろう。その男に気づかれる前に……
 そう思うがなかなか足が動かない。食事が終わったのにいつまでもじっとしていては怪しまれるだろう。早く……早くしないと。
 その時、女性が武道の方に歩み寄ってきた。一瞬、息が止まる。
「あの……お客さん、こんなこと聞くと、たいへん失礼かもしれませんけど……」
 女性が話しかけて来る。思わずその顔を見る。
「お財布を忘れたとか、落とされたとか……さっきから、何か、もじもじしていらっしゃるので……」
「あ、いや……」
 そうだ、財布を落とした、その手が……
「落とされたのでしたら、早く警察に届けないと」
「そ、そうだな……」
「うちの勘定ならご心配なさらずに。お支払いはいつでもかまいませんから」
「いつでも?」
「お父さん、いいよね!」
 女性が奥に向かって声をかけた。奥で調理をしていたのは女性の父親のようだ。
「そ、そうか……すまない」
 そう言って武道は立ち上がった。
「明日、必ず」
 そう言ってそのまま店の外に出た。いったん住宅街の方へ行こうとして、思い直して駅に向かった。交番は駅前だ。
「気をつけて。お財布、見つかるといいですね」
 店の表まで出てきた女性が声をかけてくれた。武道は振り返りもせず、足を速めた。

 翌日も、武道は日雇いの仕事にあぶれた。
 駅に向かって歩きながら、前の夜のことを思い出していた。
「明日、必ず」
 店の女性にそう言ってしまった。どうしようか……武道は迷った。もちろん、このままあの店に近づかなければいいだけのことだ。そもそも飯代を払わずに逃げるつもりで入った店だ。しかし……
 前夜、食べ物が腹に入ったせいか、この日は少し、まともな人間らしいことを考えられるようになっていた。
 もう一日、支払いを待ってもらおう。明日になればきっと仕事にありつける。日当がもらえる。一度、あの店に顔だけ出して、きちんと話をして……そう考えた。
 昼過ぎ。武道はあの店の前に立っていた。前の夜に比べて客の数が多い。昼間の方が流行っているのだろう。
 迷惑になってはいけないと思い、客足が途絶えるのを待った。と、いうのは自分への言い訳で、なかなか店に入る勇気が湧いてこなかった。
 実は、金を持っていない……そう告白するのが恥ずかしかった。
 その時。引き戸が開いた。
「ありがとうございました」
 客を見送りながら店から出て来たのは、昨夜の、あの女性だ。
「あら、昨日の……」
 女性が武道に気づいた。
「お財布、見つかりましたか?」
「あ……ああ」
 思わずうなずいてしまった。
「ここでは何ですから、とりあえず中へ」
 言われるがまま、店内へ入る。
 前夜と同じテーブル席に腰を下ろす。
「何か召し上がりますか?」
「そ……そうだな」
 そう言いながらテーブルに置かれたメニューを手に取る。
 しまった……言いそびれてしまった。
 腹は……腹は減っていた。昨夜以来何も食べていない。しかし、食べても払う金がない。昨夜の借りを返すどころか、また借りを重ねることになる。さすがに二度続けて財布を落としたとも言えない。どうしよう……
 その時、テーブルに水の入ったコップを置きながら、女性が言った。
「お客さん、ラーメンはお嫌いですか?」
「い……いや」
 ラーメン? もちろん嫌いではないが……
「実は、父が、新作のラーメンのスープを作ってて、お客さんに是非、味見をしてほしいって言うんです」
「……味見?」
「はい。もちろん試作品ですから、お代は頂戴しません。むしろ、毒見、じゃない、味見をしていただくんですから、こちらからお支払いしなくちゃいけないくらいで……」
「い、いや、そんな……」
「そうだ! 昨晩のお代を帳消しで、ていうのでどうですか?」
 帳消し……願ってもない……しかし……
「お願いします! 食べてやってください!」
 女性がトレーを抱えたまま頭を下げた。
「そ、そこまで言うなら……」
 そう答えてしまった。
「ありがとうございます!」
 女性は小走りに店の奥に向かった。
 間もなく、女性がトレーに乗せたラーメンを運んできた。
「お待たせしました。お口に合うかどうか……」
 ラーメンが目の前に置かれた。芳ばしい香りがした。
 お口に合うか……そんなことはなかった。美味かった。ほんとうに、美味かった。試作品とは思えなかった。いや、おそらく……試作品ではないのだろう。
 あっという間にスープまで飲み干していた。すぐに女性が歩み寄ってきた。
「いかがでした?」
「……美味かった」
「本当ですか? よかった!」
 女性が笑った。その笑顔が、まぶしかった。
「あの……重ねてのお願いなんですけど……今晩も、来ていただけませんか?」
「今晩も?」
「はい。実は、父が、今度は、新作のみそ汁と肉じゃがの味見をしてほしいと言ってまして……もし、ご迷惑でなければ……」
「そ、そういうことなら……」
「ありがとうございます!」
 トレーを抱えた女性がまた、まぶしい笑顔を作って、頭を下げた。

 その晩。武道はまたその店にいた。閉店が近い時刻、店内に他の客はいない。
 武道は新作だと言うみそ汁と肉じゃが、それに大盛の飯をご馳走になった。おまけにビールまで。あの女性が、武道の横に来て、瓶のビールをコップに注いでくれた。
 ビールの瓶を持ったまま女性が言った。
「もしよろしければ、これからも時々、うちに来て、父の新作を試食していただけませんか? 父はすぐに新しい物を作りたがって……困ってるんですよ」
 武道はビールを注がれたコップをテーブルに置いた。
 もう、わかっていた。
 自分が金を持っていないということを、この父娘は気付いている。気付いたうえで、食べさせてくれている。自分は、この父娘に施されている。それなのに、自分は……
 武道は立ち上がった。女性は驚いて目を丸くした。
 女性に向き直った武道は、そのままコンクリートの床の上にひざまずいて、頭を下げた。土下座だ。
「や、やめてください!」
 女性がしゃがみ込んで武道の肩を掴んだ。
「申し訳ない!」
 武道は大きな声を上げた。
「お嬢さん! それに奥のご主人! 本当に申し訳ない!」
 その声に、店の主人、女性の父親も奥から出て来た。
「俺は、一文無しです。ここで食べさせてもらった食事代を払う金を、持ち合わせていません!」
「まあ、顔を上げてくださいまし……」
 そう言いながら主人も武道に近づいて来た。武道は続けた。
「払えないどころか、食い逃げもしようとしてました! 申し訳ない! 本当に申し訳ない!」
「もう、いいですから……」
 主人が優しい声で言う。
「お詫びに、ここで働かせてください! 何でもします! お願いします!」
 一度顔を上げた武道は、そう言ってまた、床に額を擦り付けた。

「あれが、豊恵だ。俺の女房だ」
 光る川底を見ながら武道が言った。
「うん、知ってるよ」
 塞の神が答えた。
「あれから俺は、あの店で働いた。必死に働いた。豊恵と親父さんに料理も教えてもらった」
「うん」
 塞の神がうなずく。
「ところが……あれから何年か後、親父さんが……亡くなっちまった。同じころ、駅前の再開発であの店も無くなっちまうことになった。元々親父さんが賃貸で借りていた店だったんだが……」
「うんうん」
「それを機会に、一念発起して今の店を買ったんだ。銀行から金を借りて」
「そうだったね」
 塞の神が答える。子供をあやすように。
「二階を住宅にして、豊恵といっしょに暮らし始めた。その方がいっしょに店をやるのも便利だと思って……」
「うん」
「そしたら、自然にそういう仲になって……籍を入れた。式を挙げることもできなかったが……」
「……でも、幸せだったよね。おじさんも、豊恵さんも」
「そうだった……子宝には恵まれなかったが……もっとも、そんな余裕もなかったが……店が、なかなかうまく行かなくて……駅からも遠かったし」
「うん」
「ところが、じきに、近くに大学が移転してきて……学生さんが来てくれるようになって……」
「よかったよね」
「親父さんがあの世で取り計らってくれたんじゃないかと思った……」
「あ、それは私じゃないからね。言っとくけど」
「あれから、長い年月をかけて、ようやく銀行のローンも返し終わった……そんな矢先だったのに……」
「うん……そうだよね。こんなことになっちゃって……そこは、私にはどうしようもなくて……」
「あいつは本当に料理が好きなやつだった。自分が作った料理を食べたお客が、笑顔で、おいしいって言ってくれるのが、なによりの幸せだって……だから、せめてそれだけでも続けさせてやらないと……」
「……だよね」
「それなのにどうして、店を売ってもいいなんて答えちまうんだ……」
 武道は顔を上げた。上の方、ずっと遠くに目を遣る。そこには暗闇しかない。
「あ、ちょっと、見てみて」
 塞の神がまた川の方を指さした。川底がまた青白く光っている。そこにまた食堂白山が見えた。

 テーブル席に豊恵が一人で座っている。豊恵の前には武道の遺言が書かれた伝票が置かれている。大久保弁護士が帰った直後のようだ。
「ばかだね……あんた」
 豊恵がつぶやいた。
「こんなもの書くために、あの世から戻って来たのかい?」
 豊恵が伝票を手に取る。
「あたし一人でどうしろっていうのよ……あんたが一緒だったから……あんたと二人だったから、やってこれたんじゃない」
 豊恵が、ぼんやりと伝票を見ながら続ける。
「こんなもの書くくらいなら、一目でも、顔を見せてくれればよかったのに……あんたの、元気な顔を……調理してる時の、あの、生き生きとした顔を……」

「豊恵……豊恵……」
 武道は泣き崩れていた。
「豊恵さん……武道さんといっしょだったからこそ、料理作るの、楽しかったんだね」
「俺と……いっしょだったから……」
「どうしておじさんと結婚したのか、豊恵さんに聞いたことある?」
「いや……いつの間にか……そうなってて……」
「豊恵さん、一目ぼれだったんだよ」
「一目ぼれ?」
「そう。おじさんが最初に豊恵さんのお店に行った、あの時から。あの時豊恵さん、おじさんのことずっと見てたでしょ」
「そ……そういえば」
「豊恵さん、言ってたよ。初めて見た時から、いい男だと思ったって。タイプだったって。だから、お父さんに言って、次もまた来てもらえるようにして……」
「……そうだったのか」
「おじさん、愛されてたんだよ」
「そうか……しかし、だとしたら今……あいつは……」
「うん……だから、もう料理、続けなくてもいいって思ってるかも……」
「だが、あいつから料理を取ったら……ひょっとしたら、あいつ、こっちへ来るつもりじゃ……」
「……そうかもしれない」
「そうしたら……また、あいつに会えるのか?」
「……それがね、そうは行かないと思う。もし、自殺とかしちゃったら、行き先はたぶん、ここじゃなくて……そんなことはないと思うけど」
「じゃ、どうすればいいんだ!」
 武道の声が大きくなった。
「……なんとかするから」
「なんとか?」
「うん。豊恵さんが、自分が作った料理を食べた人が笑顔で、おいしいって言ってくれるのがなによりの幸せだって言ってたのは、本心だと思う。だから、周りの人たちの力で」
「……できるのか?」
「うん。やってみる。ちょっと待ってて」
 そう言って塞の神は上空を、どこまで続いているのかわからない真っ暗な上空を見上げた。
「うん」
 塞の神はうなずいて、武道に向き直った。
「ここにもう一度、遺言を書いてくれる?」
 そう言って、塞の神が武道に向かって両手を突き出した。塞の神の両手には、一枚の白い和紙と筆が乗っていた。
「遺言なら、さっき書いたはずだが……」
「残念だけど、あの遺言は無駄にねっちゃいそうだから……別の遺言」
「別の?」
「そう。おじさんは、豊恵さんに、どうなってほしいの?」
「そりゃ……幸せに……ずっと料理を作り続けて……」
「じゃ、そう書いて」
 武道は和紙と筆を手に取った。
『豊恵が、幸せでいられるように。ずっと料理を作っていられるように』
そう書いた。
「あとは、遺言執行者ね」
「それは……豊恵にはできないと……」
「私。豊恵さんじゃなくて、私」
「……どういうことだ?」
「『遺言執行者に塞の神を指定する』て書いて」
「塞の神……あんたが……」
「そう。だから、書いて」
 武道はその通りの言葉を和紙に書いた。書き終わった武道が顔を上げると、そこに立っていたのは……ジャージ姿の少女ではなく、真っ白な装束の女性だった。
「え? さっきの、女の子は……」
 驚く武道に向かって、女性が言った。
「私です。私が、塞の神です」
 凛とした口調。さっきまでいた少女と全然違う。しかしよく見ると、その顔は少女と同じ人、いや同じ神様に見えた。
 戸惑っている武道にかまわず、塞の神が続けた。
「では、始めます」
 塞の神が武道の目の前に木の台を突き出した。高い足の上に乗った真四角な台。
「これは三宝といいます。その遺言書をここに乗せてください」
 言われるまま、武道は遺言を書いた和紙をその台の上に乗せた。
 塞の神は左手で三宝を下から支えながら、右手をその上に持って行った。右手はしっかりと握られて拳を作っていた。
 その拳からパラパラと白い粒がこぼれ落ちた。
 米。米粒だった。
 塞の神は和紙と米粒の乗った三宝を高く持ち上げた。そして、歌った。祈るように、歌った。

「若人は 豊の恵みを思いつつ 
 物食すべし 朝な夕なに」

 見る間に、簸の川の川底がまた、青白く光り始めた。

 食堂白山。豊恵は客用の椅子に座ってぼんやりと考えていた。
 あと何日、この店にいられるのか……あと何日、ここで料理を作れるのか……あの子たちの笑顔を見ることができるのか……
 ガラガラ、と音がして、引き戸が開いた。
「開店前に、失礼いたします」
 スーツ姿の若い男性が入って来た。この前の弁護士……ではなかった。少し背が高い。メガネをかけている。
「私、甲州大学の事務部の篠崎と申します」
 名刺を差し出しながら男性が言った。
「今日は、北本様にご相談があって参りました」
「は……はい」
 豊恵は座っていたテーブル席の向かいの椅子を引いた。
 椅子に座った男性が話し始めた。
「私ども、甲州大学のことはご存知でしょうか」
「はい……すぐ近くですし、学生さんがよく来てくれますから……」
「ありがとうございます。実はこの度、大学の知名度アップのプロジェクトチームが発足いたしまして、わたしがその実行委員となりまして……」
 豊恵には、何のことかわからない。
「そのプロジェクトの一つとして、学内の運動部を強化することになりまして……」
「は…はい」
 とりあえず答える。
「特に、女子野球部を全国でもトップクラスの運動部にしようということで……」
「は…はい」
「そのために、学内に女子野球部専用の寮を作って、練習量を増やしてはどうかということになりまして……」
 豊恵にはまだ何のことかわからない。
「寮で生活するということになりますと、当然、寮内に食堂も設置する必要がありまして」
 食堂……その言葉に豊恵は顔を上げる。
「聞きますと、近々こちらを閉店して、売却なされるご予定とか……」
「はい……そのつもりでしたが……」
「そこでお願いですが……この機会に北本様に調理師として、その寮に来ていてだくことはできないかと……女子野球部の部員に直接意見を聴取したところ、是非そうして欲しいと……」
「あの子たちが、そんなことを……」
「できれば、寮に、学生たちと一緒に住み込みという形でお願いしたいのですが……学生たちの部屋と同様に篠崎様のお住まいとなる部屋も用意しますので」
「そ、そこまで……」
「ただしすぐにというわけには行きません。これから寮の建築に入るわけですから……そこで、こちらのお店を大学で買い取らせていただきたいと思いまして……寮が出来るまでの間はこちらで営業を続けていただいて、寮の完成に合わせて移転していただくということでは……いかかがでしょうか」
 豊恵は、下を向いた。その目から涙がこぼれた。
「いや、できないということであれば……無理には……」
 豊恵の様子に驚いた大学職員があわてて両手を振った。
「いえ……ただ、あまりにありがたいお話で……」
 豊恵が顔を上げた。笑顔だった。笑顔のまま、泣いていた。豊恵の涙は、喜びの涙だった。
「……では、お受けしていただけますか?」
「……はい、よろこんで」
「ありがとうございます!」
「こちらこそ……ありがとうございます」
 豊恵はテーブルの上にあったティッシュボックスからティッシュペーパーを引き抜いて、涙を拭いた。
「今後の具体的なスケジュールや事務手続きにつきましては改めてご説明させていただきますので……本日は、とりあえずお願いまでということで」
 そう言って、大学の職員は急ぎ足で白山を後にした。
 入れ違いに大学の女子野球部の一団が入って来た。
「今の、うちの大学の人でしょ!」
 あいさつの間もなく学生たちが話しかけてきた。
「おばちゃん、うちに来てくれるんでしょ!」
「え……ええ、今、そのお話をいただいて……」
「やった!」
「よかった!」
 学生たちが歓声を上げた。
「大丈夫だよ! 私たちもついてるから!」
「おばちゃん一人じゃ大変だろうから、当番制で毎日二、三人でおばちゃんの手伝いしようってことになったの!」
「おばちゃんだけに負担かけないから!」
「でも……授業や練習もあるだろうに……」
「それも練習のうちだって!」
「そういうことをきちんとやってこそ、運も味方してくれるって、有名な野球選手も言ってたよ!」
「そんな……」
 豊恵の目からまた涙がこぼれた。
「私たちが卒業しても、後輩たちにずっと引き継いで行くから!」
「私たちのことは、自分の娘だと思って!」
「おばちゃんは、私たちの母親だから!」
 学生たちに囲まれた豊恵は、両手で顔を覆った。
「おばちゃん、よろしくね!」
 学生たちが豊恵の肩や背中をたたく。
かろうじて、声が出た。
「……こちらこそ……よろしく……ね」

 それを見ていた武道もまた、涙を流していた。塞の神はそんな武道をただ見つめていた。いつの間にか塞の神は少女の姿に戻っていた。
 しばらくして、ようやく泣き止んだ武道に塞の神が話しかけた。
「そろそろ、いいかな?」
 その声に武道が塞の神を振り向いた。
「……行こっか」
「やっぱり……行かないといけないのか?」
「うん。まだ、名残惜しいかもしれないけど……お迎えも来てるし」
 そう言って塞の神が後ろを振り向いた。
 青白い光の中に、かつて働いていた店の店主、豊恵の父が立っていた。
「入り口までいっしょに行ってくれるって」
「……そうか」
「豊恵さんのこと、幸せにしてくれてありがとうって、そう言ってるよ」
「そんな……俺の方こそ、豊恵のお陰で幸せな人生を送らせてもらった……」
 武道は光に向かってゆっくりと歩き始めた。
 武道が塞の神を振り返った。
「あんたにも、礼を言わないとな……ありがとう」
「どういたしまして。でも今回のは、私の力じゃなくて、豊恵さんと、それにおじさん自身の、徳、ていうの? そのお陰かな……」
「いや……やっぱりあんたのお陰だよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、私もやりがいがあるよ」
「ところで……あんたは行かないのか?」
 塞の神は少し驚いた。そんなことを言われたのは初めてだった。
「……うん、私は、ここにいる」
「ずっと、ここにいるのか」
「うん……ここが私の居場所だから……」
「ここでずっと、こういうことをしてるのか?」
「それが、私の仕事だから」
「そうなのか……あんたは、一人なのか?」
「え? どういう意味?」
「いや……あんたには、家族はいないのかなと……両親とか……そう思って」
「うん。いないよ」
「……そうなのか」
 そんなこと、考えたことがなかった。
「淋しくは、ないのか?」
「……うん、淋しくないよ」
 今まで、淋しさなんて感じたことがなかった。
「私は……神様だから」
「そういうものなのか?」
「そう」
「……すまない。余計なことを言った」
「ううん、いいよ。気にしないで」
 そう言って塞の神は微笑んだ。
「早く行かないと……待ってるよ」
「……そうだな」
 武道はまた、光に向き直った。武道がその光の中に吸い込まれた。光はゆっくりと、塞の神から遠ざかって行った。
 その光を見送りながら、塞の神はつぶやいた。
「私は、神様だから……そう、私は、塞の神」