気が付くと、真っ暗な中を一人で歩いていた。そこがどこなのか……わからなかった。
暗闇の中ではあるが、左右に壁があるのはわかった。左右を仕切られた道を歩いている。道の幅はけして広くはない。どうやら長いトンネルか、洞窟の中のようだ。
どうしてそんな所を歩いているのか……わからなかった。そもそも、自分自身が誰なのか……それすらもわからなかった。
しばらくすると、少しずつ、記憶がよみがえってきた。自分の名前は……笹谷開志。六十五歳。男。会社の経営者。つまり、社長。といっても、けして大きな会社ではない。外国製家具の卸売り。長男の拓真と二人でやっていた。従業員はいない。社名は「ササ」。株式会社ササ。
大学を卒業した後、中堅の商社に就職した。ちょうど十年前、五十五歳の時に早期退職して自分で会社を立ち上げた。商社時代にヨーロッパの支店に勤務していたことがあり、商品を仕入れる経路があった。為替相場の判断にも自信があった。実際、会社はうまく行っていた。順調に利益を上げていた。
そして……思い出した。会社で、といっても、雑居ビルの中の一部屋の事務室だが、そこで、商品の発注について拓真と打ち合わせをしていた。その時、突然めまいがして……あの後、どうなってしまったのか……そして今、どうしてこんな所を歩いているのか……
足元を見てみた。暗闇の中ではあったが、自分の服装は確認できた。会社にいた時に履いていたサンダルにスラックス。あの時と同じ服装だ。
道は、一本道のようだった。立ち止まることも、後ろへ戻ることもできるような気がした。でも、自分の足が、勝手に進んでいた。そっちへ行くのが当然の義務であるかのように……
そうやって、どれくらい歩いただろう。暗い道のずっと先に灯りが見えた。わずかな燈火。あそこまで。あそこまで行ったら一休みしよう。そう思った。といっても、疲れているわけではない。というより、身体全体の感覚がない。そのことに、たった今気が付いた。自分の身体は……自分は、いったいどうなってしまったのか……
灯りが近づいてきた。灯りの中に、人影が見えた。小さな人影。女の子だろうか。近づくにつれはっきりとわかるようになってきた。ピンク色のジャージの上下に白い運動靴。やっぱり女の子……少女だ。高校生、いや、中学生くらいだろうか。着ているジャージは、色こそピンクだが、学校の体育着のような、何の飾りもない物だ。履いている運動靴も、同じように体育の授業用のように見える。
美咲か? それとも、知花? 美咲は長女、知花は次女だ。
いや、そんなはずはない。二人が中高生だったのは、二十年も前のことだ……
次第にその子の顔がはっきりと見えるようになってきた。大きな目。その目のすぐ上できれいに切り揃えられた前髪。髪の毛は、前髪だけ残して頭の後ろで束ねられているようだ。
やはり美咲でも知花でもない。会ったことのない子だ。
その子は、そこに立ったまま、私の方を見ていた。私のことを待っているように。その子が首を傾げた。口元が、少しだけ微笑んだ、ように見えた。
いつの間にか、その子の前に立っていた。さっきまでひたすらに前に進んでいた自分の足が、止まっていた。
その子が、私を見上げた。私の顔を見て、微笑んだ。
「あなたは、誰?」
その子に話しかけてみた。声が出た。自分の声だった。当たり前だ。でも、不思議な気持ちがした。ずい分長い間、声を出していなかったような気がした。
「サイノカミ」
その子が答えた。
「サイノ……カミ?」
聞き返した。不思議な響きだ。それがこの子の名前なのだろうか。
「そう。『塞ぐ』っていう字に、神様の『神』。それが私の名前」
女の子らしい、可愛いらしい声。でも、しっかりとした口調だ。
「お賽銭の『賽』ていう字を書く『賽の神』もいるけど、そっちとはちょっと違う。私のは、『塞ぐ』の方」
頭の中にその字を思い浮かべた。「賽」という字は、ちょっと怪しいと思った。そもそもそんな字を書くことは、まずない。
「それが……君の、名前?」
「うん。名前、ていうか、役職みたいなもの?」
語尾をあげる、今時の女の子の話し方。
「役職……社長とか、課長とかっていう……役職?」
「そうだよ。元々は、村と村を繋ぐ道の守り神だったの。他の村から、悪いやつとか、悪い病気とかが入って来ないように守る仕事。だから、『塞の神』。今はここで、そんな仕事してる」
「塞の、神……ていうことは、あなたは神様?」
「ま、そういうことね。あまり自覚ないけど」
神様? ということは……
「……ここはどこ?」
続けて訊いてみた。
「ここは、黄泉比良坂」
「ヨモツ……ヒラサカ?」
「そう」
「ここは……日本なのか?」
「鈍いわね。まだわからないの?」
「……」
頭の中に浮かんだ答えを、声に出すことができなかった。
「仕方ないわね。じゃ、言うよ」
聞きたくない、そう思った。
「ここは、生きてる人の世界と、死んだ人の世界を繋ぐ、通り道」
全身の力が抜けて行く、ような気がした。実際には、そもそも身体のどこにも、力など入っていなかったのだが。
「ショック、だったかな? ま、だいたいみんなそうだけどね」
と、いうことは……自分は……死んだのか……
「いいよ。しばらく感傷に浸ってて。時間はあるから」
その子、塞の神は、そう言って数歩、後ろへ下がった。
考えをまとめようとした。自分は……死んだ。そう思うと、混乱した。混乱しながら考えた。会社のこと、子供たちのこと……考えていると、様々な記憶が浮かんできた。子供たちがまだ小さかった頃のこと、銀行を辞めて、会社を立ち上げた時のこと……そして、妻の、和泉のこと。和泉は七年前に病気で死んでいた。また和泉に会えるだろうか。そんなことも思った。いや、その前に、子供たちのことは……会社のことは……
「そろそろ、いいかな?」
声がした。目の前に、その子、塞の神が立っていた。
「悪いけど、きりがないから」
その声に、頭の中にあった様々な考えが消し飛んで、現実に引き戻された、ような気がした。いや、そもそもこれが現実なのかどうかもまだわからずにいたが……
「そろそろ私の仕事をさせて」
塞の神が言った。
「……仕事?」
「そう。ここを通していいかどうか、チェックするのが私の仕事だから」
「あなたは……死神なのか?」
「だから、塞の神」
「死神じゃないのか?」
「死神っていうのはね、生きてる人に取りついて、病気とか、自殺とかで強引にこっちの世界に連れてきちゃう神様なの。私は違う」
悪いやつが入って来ないように、道を守る神……確かそう言っていた。
「私は、ここを通れないのか?」
「だから、それをチェックするのがわたしの仕事」
「あなたは……閻魔様?」
「だ、か、ら、塞の神」
「……閻魔様、じゃないのか?」
「違うってば。失礼ね。私、あんな不細工じゃないし」
「……私はここを通してもらえないのか?」
「うん、そうね。今のままじゃね」
「私は……悪い人間なのか?」
「いや、そういうことじゃなくてね。よく言うでしょ。悔いや心配事を残したまま死ぬと成仏できないって」
悔い……確かに、悔いはある。まだ六十五歳だ。会社のことも、子供たちのことも……
「それじゃ……私は、どうなるんだ? 成仏できないのか?」
「ま、最終的には通してあげることになると思うけど。そのためには、少し整理が必要、ていうこと」
「整理?」
「そう」
開志は、さっきまで頭の中で考えていたこと思い出した。
「悔いとか、心配事、あるでしょ」
もちろん、悔いも心配事も、あった。
「言ってみて」
「まず、『ササ』は……私の会社は大丈夫だろうか。拓真に会社のことをきちんと引き継いでおけばよかった」
「あ、そっちね」
塞の神の言い方がちょっと気になった。
「それから?」
塞の神が続けた。
「……子供たちのこと。長男の拓真、長女の美咲、次女の知花。財産はそれなりに残してあるつもりだが……」
「ま、それも大事ね。じゃ、ちょっと見てみる?」
「見てみる?」
「そう。こっち来て」
そう言うと、塞の神は左を向いてそっちの方へ歩き出した。狭い洞窟のような一本道の中にいると思っていたが、どうやらそちら側は開けているようだ。いや、あるいはたった今、閉じていた壁が開けたのかもしれない。
塞の神が歩くと、周りを照らしていた灯りも塞の神とともに動き出した。塞の神自身が光っているようだった。塞の神が離れると、開志の周りが暗くなった。開志はあわてて塞の神の後を追った。
少し歩いたところで、塞の神が立ち止まった。
「見て」
そう言って、塞の神が前方の地面を指さした。
暗くて何も見えない。と、地面だと思っていたあたりが、静かに流れ始めた。水。そう、そこには水が流れていた。
「三途の川……か?」
「ここは、簸の川」
塞の神が言った。
「ヒノカワ?」
「そう。この川も、生きてる人間の世界とつながってる」
「三途の川……じゃないのか?」
「そういう呼び方をする人もいるみたいだけど、ワタシ的には、簸の川」
塞の神が言った。
周囲を見回してみた。やっぱり、真っ暗だ。川幅も深さもわからない。もちろんどこからどこまで続いているのかも。ただ、暗い中でそこだけ、水が流れているのがわかった。
「じゃ、見せるよ」
塞の神が言った。すると、見つめていた川の底が青白く光り始めた。
「あなたの心配事が、今どうなってるかわかるよ」
引き込まれるように川底を覗き込んだ。そこには……見慣れた景色があった。
そこは、株式会社ササの事務室だった。
いかにも事務室らしい灰色の扉から中に入るとすぐ右側に来客用の応接スペースがある。三人掛けのソファ、向かい合って一人用のソファが二つ。その間に低いテーブル。
一人用のソファの一つには長女の美咲が足を組んで座っていた。顔を上げてまっすぐ上を見ている。「へ」の字に結んだ口元が見える。口紅の色が濃い。
三人掛けのソファには二人の男女が座っていた。次女の知花とその夫、耕平だ。知花は真横、耕平とは反対の方向に顔を向けている。向かいに座る姉の美咲とはあえて目を合わせないようにしているように見える。
隣に座る耕平はうつむき加減になって目の前のテーブルを見つめている。まるでテーブルの合板の木目を数えているようだ。
奥から、長男の拓真がファイルを持って三人が座る応接スペースへ歩いて来た。
「これがオヤジの全財産だ」
拓真はそう言ってファイルから取り出したペーパーをテーブルの上、美咲と知花の目の前に置いた。その置き方は少し乱暴に見えた。
「知花のところは一枚でいいな」
そう言いながら、拓真が耕平の顔を見た。いや、睨みつけたと言った方がいいだろうか。
「……すみません。私まで同席させてもらって」
拓真の言いたいことを察したのか、耕平が申し訳なさそうに頭を下げた。
「だって、私一人じゃ、どうすればいいかわからないから。お願いして付いてきてもらったの。悪い?」
知花が反発するように拓真を見上げた。
「悪いなんて言ってないだろ」
そう言いながら、拓真は美咲の隣の一人掛けのソファに腰を下ろした。
「いいわね。頼れる人がいて」
そう言ったのは拓真の隣で上を向いたままの美咲だ。
「お姉ちゃんにもいっしょに聞いてくれる人がいればよかったのにね」
知花がまた反発する。美咲は一瞬だけ知花を睨んで、今度は横を向いた。
「やめろ! 二人とも。始める前から喧嘩してどうする」
拓真の声に知花もまた横を向く。耕平は黙って下を向いたままだ。
「じゃ、始めるぞ」
そう言って拓真がファイルから取り出したペーパーを自分の顔の前に持ち上げた。
美咲は組んでいた足をほどいて身体をかがめ、テーブルの上に置かれたペーパーに視線を落とした。知花も同じように身体をかがめてペーパーに視線を落とす。二人の動作はおかしいくらい一致していた。
簸の川のほとりでは、開志と塞の神がその様子を見ていた。開志はいつの間にか地面に両手と両膝を突いて、水面に顔を着けるようにして水の中を覗き込んでいた。
「……何が始まるんだ?」
開志が横に立っている塞の神を見上げた。
「遺産分割協議」
塞の神が答えた。
「遺産……分割、協議……そうか。私の財産をどう分けるか、これから話し合うわけか」
「そう。そういうこと」
「それなら……きっと、三人で……うまく……」
「ま、どうなるか、少し見てようよ」
開志の不安そうな声に、塞の神は両手を後ろに組んで、明るく答えた。
川の底に見えるササの事務室では、拓真が手に持ったペーパーの内容を説明し始めていた。
「一番上にあるのがここ、株式会社ササの株の評価額だ。会社の顧問会計士に評価してもらった。ササの株は百パーセント社長だったオヤジが持っていた。もともとオヤジが銀行の退職金を出資金にして立ち上げた会社だからな」
「五千万円……」
声を上げたのは美咲だ。
「これがこの会社の値段っていうこと?」
「会社の純資産ということだ。と言ってもわからないだろうが」
「わかるわよ。今会社を清算すればこれだけの現金になるっていうことでしょ」
美咲が拓真の言葉をさえぎる。知花と耕平は黙ってテーブルの上のペーパーを見つめている。
「これ全部、兄さんが相続するの?」
美咲がまた声を上げた。
「まずはオヤジの財産の全容を説明しておく。誰が何をいくら相続するか、ていう話はその後だ」
拓真が美咲の顔を見ながら言った。美咲はテーブルの上のペーパーを手に取ってまた足を組んだ。
「次がオヤジの住んでいたマンションだ。美咲が同居していたが、今は美咲が一人で住んでいる」
「マンションも全部、お父さんの名義だったの?」
口を挟んだのは知花だ。
「そうだ」
拓真が答える。
「お姉ちゃん、居候だったんだ」
「お母さんが死んでしまったんだもの、お父さんを一人にしておけないでしょ!」
美咲が知花を睨みつける。
「続けるぞ!」
拓真が二人をさえぎる。
「マンションの相続税評価額は七百万円だ」
「ちょっと! 安くない⁉」
声を上げたのは美咲だ。
「相続税の評価額は時価じゃない。建物の相続税評価額は時価よりかなり低くなる。もちろん実際に売却すればもっと高く売れる。相続税のことを考えれば逆にありがたいことなんだ」
「意味わかんない」
そう言ったのは知花だ。
「とにかく話を進めるぞ!」
拓真の声も大きくなる。
「マンションの中にある電化製品や家具はここには入れてない。金額に換算してもたいした額にはならないだろうから」
「私の物もあるし」
美咲がまた口を挟む。
「オヤジの財産の話をしてるんだ」
拓真の声に美咲が口を尖らせる。
「お父さんの財産って言っても、みんなお姉ちゃんが使ってるんでしょ?」
知花が口を挟む。
「あたり前じゃない! 私の部屋なんだから!」
「お父さんの部屋でしょ!」
「やめろ!」
拓真が怒鳴った。美咲と知花がそろって横を向いた。耕平だけが気まずそうに下を向いている。
大きくため息をついてから、拓真がまた話し始めた。
「その下が、金融資産、つまり預貯金だ」
拓真が言うと、横を向いていた美咲と知花がそろってペーパーに向き直った。
しばらくの、沈黙。
ペーパーには横書きでいくつかの銀行や証券会社の名と、それぞれに預けてあった預金や株、投資信託などの金額が書かれていた。株や投資信託の金額は現金に換算した金額だろう。そして最後に、その合計額。
「四千……二百万円……」
つぶやくように声を出したのは美咲。
「……もっとあるかと思った」
そう言ったのは知花。
「まあ、そんなものだろう」
拓真が返す。
「ちょっと……微妙なとこね」
美咲がそう言いながら足を組み直す。
順番に美咲と知花の顔を見てから、拓真が話し始めた。
「以上がオヤジの残した全財産だ。一番下にあるのが、相続税評価額の合計額だ」
「会社の株が五千万円、マンションが七百万、預貯金等が四千二百万、合計で九千九百万円、ていうことね……」
美咲が確認する。
「そうだ」
ひと呼吸おいてから拓真が続ける。
「それじゃ、今からが分割協議だ」
「お父さんの財産をどう分けるか決める、ていうことね」
美咲がまた確認する。
「そうだ」
美咲の顔を見ないまま拓真が答える。美咲、知花、耕平の三人が再びペーパーに目を落とす。
「まず大前提として、オヤジの法定相続人、つまり民法で相続権を認められた人間ということだが、美咲、知花、俺の兄妹三人ということになる。母さんはもういないからな」
美咲と知花が無言でうなずく。
「念のため言っておくが、知花の夫の耕平君は部外者ということになる」
「だから、お願いして付いてきてもらったの!」
知花が頬を膨らませる。
「……すみません」
耕平が申し訳なさそうに小さな声を出す。
「耕平さんはともかく、私たち三人の権利は平等っていうことよね」
美咲も再び顔を上げる。
「そうだ。法定相続分は三人平等に三分の一ずつだ。だが簡単に三等分っていうわけにはいかないだろ。そのためにこうやって協議するんだ」
「三分の一ずつに分けなくてもいいの?」
知花が怪訝そうな声で言う。
「法定相続人が協議して決めてもいいことになってる」
「法定相続人全員が合意すれば、ていうことよね」
拓真の顔を睨みながら、美咲が付け足すように言う。
「そのための協議だ」
拓真が美咲を睨み返す。美咲が拓真から視線を外す。
「まず、オヤジの会社、ササの株だが」
二人が黙り込んだのを確認して、拓真がまた話し始める。
「これは当然、俺が取得することになる。社長のいない今、会社を経営しているのは俺だ。文句ないな」
「でも、全財産の半分以上よ!」
美咲がすぐに反応する。
「あくまで相続税の評価額としての金額だ。実際に俺がその金額を使えるわけじゃない」
「でも、会社を売り払えば五千万になる、てことでしょ!」
「オヤジが立ちあげて二人でここまでやってきた会社だぞ! 売るわけないだろ!」
拓真の声がまた大きくなる。
美咲は口を尖らせたまま黙り込んだ。
「まあ、お父さんと兄さんでやってた会社だからね……」
知花が、仕方がないといった表情でつぶやく。
美咲が何も言わないのを確認してから、拓真がまた話し始めた。
「次に、オヤジが住んでいたマンションだ」
「それは私の物よね。今も私が住んでるし」
と、美咲。
「まあ取りあえずそうしておこう」
「とりあえず、て、何よ」
美咲がまた口を尖らせる。
「マンションの中にある家具類も、とりあえず美咲ということにしておこう」
「あたり前じゃない」
拓真の言い方が不満そうな美咲。
「お父さんの物はないの?」
知花が口を挟む。
「衣類や身の回り品は俺と美咲で整理した。残っているのは動かせない家電や家具だ」
拓真が話しを進める。
「残りは金融資産、つまり預貯金と、証券会社でオヤジが買った株や投資信託だ。これをどう分けるかだ」
美咲と知花がまたペーパーに目を落とす。
「葬儀代など当面の費用は俺が立て替えている。その分はまず、ここから差し引いて清算させてもらう。いいな?」
「私も今月分の公共料金を立て替えてるわよ。兄さんが父さんの銀行口座ストップさせちゃったから。その分も清算してよ」
「でも電気とか水道とか、お姉ちゃんも使ってるでしょ」
知花が口を挟む。
「半分は父さんです!」
美咲が言い返す。
「姉さんの方がたくさん使ってるような気がするけど」
「そんなことないわよ!」
「やめろ! 二人とも!」
拓真がまた怒鳴り声を上げた。
「公共料金も清算してやる!」
「あたり前でしょ」
美咲も知花もまた口を尖らせる。
二人を交互に睨みつけてから拓真が続けた。
「そういった諸費用を清算した上で、後の金融資産はきれいに三等分、というのが妥当なところだと思うが」
拓真がまた二人の顔を見る。
「全部で四千二百万だから、一人、千四百万円ていうこと?」
美咲が訊き返す。
「諸費用を清算すると、一人千三百万だな」
「ちょっと、何言ってるの!」
美咲が声を上げながら立ち上がった。
「不満があるか?」
「少なすぎる!」
「平等だろ」
「だから! 兄さんはこれプラス五千万円ももらうのよ!」
「言っただろ! ササの株の金額は机上の物だ! 実際に使える金じゃない! それにお前にはマンションがあるだろ! あれだって売れば四、五千万はする!」
「だって私の家よ! それこそ、売れるわけないじゃない!」
「それにササの株の分の相続税も俺が払うことになるんだ! 俺の手取りはお前たちよりずっと少なくなる!」
「相続税って……いくらよ」
美咲の声が小さくなる。
「総額で五百七十万だ。顧問会計士に計算させた。そのうち三百七十万を俺が払うことになる」
「私たちも……払うの?」
「ああ、そうだ。ざっくり美咲が百二十万、知花が八十万だ。大部分は俺の負担だ。本来ならその分を上乗せしてもらいたいところだが、譲歩してやろうと言ってるんだ」
「何言ってるの、あたり前じゃない。たくさんもらうんだから」
拓真と美咲が睨み合う。
「ちょっと待って!」
口を挟んだのは知花だ。
「私はどうなるの? 兄さんには会社が、姉さんにはマンションがあるのに、私は預金だけ?」
「だから、会社の株のことは考えるな!」
「でも、その会社からの利益が全部兄さんの物になるんでしょ」
「遊んでて利益が上がるわけじゃない! 会社を経営するっていうのは大変なことなんだ! お前たちにできるのか!」
「できないわよ! だからって、預金が三等分って不公平じゃない? 私だけ、少ないよ!」
「知花のところは耕平君の収入があるだろう! 俺は、ササの収益で妻と子供たちを養って行かなければならないんだぞ!」
「私の収入なんて、そんな、たいしたことないですし……」
ようやく耕平が口を挟む。
「うちだって子供がいるわよ!」
耕平を無視して知花が叫ぶ。
「まだ四歳だろ! 俺のところは中二だ! 金のかかり方が違う!」
「関係ないわよ! うちだってすぐに大きくなるんだから!」
「まあまあ……そんな、大きな声を出さないで……」
耕平が知花をなだめようとする。
「あなたはどっちの味方なのよ!」
知花が耕平を睨みつける。
「夫婦同士で、みっともない」
美咲がつぶやく。
「一人暮らしの姉さんなんか、自分の使いたい放題じゃない!」
知花が今度は美咲に言い放つ。
「なんですって! 私だって毎日仕事に出て、苦労して自分の生活費稼いでるのよ!」
「お父さんに食べさせてもらってたんじゃないの?」
「お黙り!」
とうとう美咲が立ち上がった。
「何よ!」
知花も立ち上がる。
見上げる耕平の顔は今にも泣き出しそうだ。
「やめだ! 今日はこれまでだ! お前たち、いったん帰れ! 頭を冷やして来い!」
拓真の大声が、狭い事務室を震わせた。
いつの間にか、簸の川は静かな水の流れだけを映し出していた。
開志は、大きなため息を吐いた。
「こんな……こんなはずじゃ、なかった……」
「たいへんそうだね」
開志のつぶやきに、隣に立っていた塞の神が答えた。
「仲のいい兄妹だと思っていたのに……」
「ま、お金のこととなると、人間なんてあんなもんでしょ」
「はあ~」
開志がまたため息を吐く。
「どうすれば……どうすればいいんだ……」
「おじさんが決めてあげれば?」
「私が?」
「そう。おじさんの財産なんだし」
「でも……どうやって」
「遺言」
「遺言?」
「そう。日本の民法では、遺言があれば、相続人は遺言どおりに財産を分けなければならないことになってる」
「そうなのか……でも、私はもう……」
「遺言、書かせてあげる。私が、書かせてあげる」
「……どういうことだ?」
「私、一応、神様なんで。言ったでしょ」
「……どうやって?」
「目をつぶって」
言われるまま、開志は目を閉じた。
「まだ。まだだからね」
塞の神の声が聞こえた。言われた通り、開志はじっと目を閉じていた。
「いいよ」
そう言われて開志は目を開けた。しかしそこは……暗闇の中。先ほどまでいた場所と同じ。何も変わっていない。
左右を見回してみた。いや、違う。さっきまでいた場所とは、違う。さっきまでいた狭い洞窟のような所ではない。壁に囲まれているようではあったが、ある程度の広さがある。
向かって正面は……壁ではない。窓だ。ブラインドが降りていて外の様子は見えない。ブラインドのわずかな隙間から見える窓の外側も、暗い。きっと夜中なのだろう。
次第に目が慣れてきた。奥の窓の前にあるのは……事務机。そして自分のすぐ近くにあるのは……ソファ。応接用のソファ。
わかった。そこは、開志の馴染みの場所。株式会社ササの事務室だった。開志は、先ほどまで簸の川に映っていた、あの事務室の中にいた。さっきまで拓真が立っていた場所に、開志は立っていた。
「電気のスイッチの場所はわかるよね?」
塞の神の声がした。
もちろん……わかる。後ろを向いて数歩歩くと入り口のドアがある。そのすぐ横の壁。手探りをするまでもなく、身体がその位置を覚えていた。開志は手を伸ばして、スイッチを押した。部屋の中が明るくなった。
「眩しい!」
塞の神が声を上げた。塞の神は応接用の三人掛けのソファの真ん中に座っていた。
開志自身も、久し振りに明るい光を感じた。LEDの人工的な光ではあるが。
開志は部屋の中を見回した。懐かしい、という感覚はなかった。見慣れた、自分の事務室。
「それじゃ、さっさとやっちゃおっか」
塞の神がLEDに向かって手のひらをかざしながら立ち上がった。
「やる、て……何を?」
「だから、遺言。筆記用具、あるでしょ?」
「……ああ」
そう……そうだった。開志は塞の神の言っていることを理解した。
開志は窓の前にある自分の事務机に向かった。引き出しを開けると、中にレポート用紙があった。それを取り出して机の上に置く。机の上のペン立てには何本かのボールペン。
「さ、そこに座って」
開志は塞の神に促されるまま机の向こう側にある椅子に座った。
社長席。もともと自分の席だ。
「時間はあまりないからね。急いでね」
「え?」
「一時間ちょうど。もう何分か使っちゃってるけどね」
「……ちょ、ちょっと待って……そもそも、私はもう死んでいるはずじゃ……」
「そうだよ」
「だったら、今から遺言を書いて、有効なのか?」
「あ、そうだ。言い忘れてたね。今ね、おじさんは、おじさんが死んだ日の前の日に戻って来てるの」
「……死んだ日の、前の日?」
「そう。おじさんが倒れた日の前の日の午後十一時に戻ったの。この次の日の午後、おじさんはこの事務所で倒れて、そのまま死んじゃうんだ」
開志は思い返していた。確かに、ここで拓真と打ち合わせをしている最中に……
「だから、今遺言を書いておけば、それは有効っていうこと」
「……いいのか? 今からそんなことをしても……」
「だから、特別に有効な遺言を作らせてあげる、ていうこと。本当は公証人役場へ行って公正証書で作るのがいいんだけど、さすがにそんなことまでできないし」
「公正証書?」
「いいから! つべこべ言ってると時間なくなっちゃうよ。ここにいられるのは午前零時まで、次の日になるまでなんだから」
「午前零時まで? たったの一時間?」
「そう。言ったでしょ。そういう約束だから」
「約束?」
「そう。わたしにこの仕事を押し付けた、じゃなくて、任せてくれた、偉い神様との約束」
「……そうなのか」
「だから、さっさとやっちゃおうよ。誰かに見つかってもヤバイし」
「いや……そう言われても……何を書けばいいのか……」
「だから、おじさんの財産をどう分けるかでしょ」
「……そうなんだが……どう書けばいいのか……」
「形式、ていうこと?」
「それもだが……」
「じゃ、教えてあげるよ」
「あ……ああ、頼む」
開志は答えていた。すっかり塞の神に言われるままだ。
「はい、レポート用紙を広げて」
レポート用紙の表紙を捲った。
「ペンを持って」
ペン立てから使い慣れたボールペンを一本引き抜いた。
「筆でなくて、いいのか?」
「いいの。筆記用具や用紙に規定はないの。鉛筆だと簡単に消せちゃうから、消えないものがお勧めだけど」
「そうなのか……」
「じゃ、まずは表題かな。表題はあっても無くてもいいんだけど、これが遺言書だっていうことがすぐにわかるように。ちなみに今の日本の法律では、遺言書に必要な要件は名前と印鑑と日付。印鑑、あるよね?」
「……ああ、ここに」
開志は机の引き出しを開けて中から印鑑を取り出した。
「印鑑は一番最後でいいから。まず、表題。『遺言書』て書いて」
「……横書きでいいのか?」
「そのへんの形式に規定はないから」
「そうか……しかし、『遺言書』っていうと、やっぱり、縦書きの方が……」
「こだわるわね。じゃ、レポート用紙を横にして縦書きに使えば」
「……そうか、そうすればいいのか」
開志は目の前のレポート用紙を横向きに置き換えた。
「はい、じゃ、書きましょう」
開志は縦書きにしたレポート用紙の一行目に『遺言書』と書いた。
「次に、これが自分の意思だ、ていう主張。宣言、みいたいなものかな」
「宣言?」
「そう。例えば、『私の財産を次のように相続させる』みたいな」
言われる通り、一行開けてその次の行に、開志は『私の財産を次のように相続させます』と書いた。
「うん。じゃ、いよいよ具体的な分け方ね」
「ああ……それが問題なんだ……」
「長男の、拓真さん、だっけ? 彼が作った財産目録は今ここにはまだないんだけど、確か最初に会社の株のことを言ってたよね?」
「そうだ。株式会社ササ。私が立ち上げた会社……私の一番の財産だ……」
「やっぱり、拓真さんに引き継いでもらうのかな?」
「ずっと二人でやってきた会社だから……それしかない」
「だったら、拓真さんが言ってたとおり、会社の株は全部拓真さん?」
「そう……それしかない」
「だったら、『株式会社ササの株をすべて長男拓真に相続させる』ていうことかな。そう書いてみて。そうそう、財産ごとの項目には番号を付けた方がいいかも」
開志は便箋の次の行に『一、株式会社ササの株をすべて長男拓真に相続させます』と書いた。
「次は、おじさんが住んでたマンションかな?」
「……そうだな」
「長女の、ええと、美咲さん。美咲さんは、あのマンション、当然自分の物だと思ってるみたいだけど……それでいいかな?」
「美咲にとっても自分の家だからな……そうするしかないだろう」
「じゃ、そう書いて。『自宅のマンション』ていう書き方でもいいけど、マンション名とか部屋番号も書いておいた方がいいかな。それと、『その中にある家財家具を含む』とか入れておいた方がいいかも」
言われた通り、開志は便箋の次の行に『二、自宅のマンションおよびその中にある家財家具全部』と書き、カッコ書きでマンション名と部屋番号を書いた。そしてそれに続けて『これを長女美咲に相続させます』と書いた。
「あとは、預貯金ね。拓真さんが作った財産目録だと合計で四千二百万円っていうことだけど、合ってる?」
「ああ、それくらいだ」
「で、どうするの? どう分ける?」
「……少し、考えさせてくれ」
「いいけど、時間ないからね」
「ああ……わかった」
開志は目を閉じた。
しばらくして、目を開けた開志が塞の神に訊いた。
「法律では、子供たちの権利は平等、つまり三分の一ずつとういことだったな?」
「そうだよ」
「だったら……拓真の言うとおり、三分の一ずつ分けるのが公平だろうか」
「全財産でみると公平とは言えないけどね。拓真さんは会社、美咲さんはマンションももらうことになるんだから、知花さんのもらう分はちょっと少ないかも」
「……しかし、会社もマンションも分けられないからな……専業主婦の知花は、一番気楽な立場だし……」
「遺留分まで行ってないんじゃない?」
「遺留分?」
「そう、法律で決められた、最低限これだけはもらえる、ていう権利」
「それは……いくらだ」
「遺留分は法定相続分の半分。拓真さんも言ってたけど、法定相続分っていうのは法律で決められた相続割合。おじさんの場合は、相続人が子供三人だから、それぞれの法定相続割合は三分の一。すると相続人一人あたりの遺留分は?」
「三分の一の半分。六分の一ということか」
「正解」
「……ちょっと待ってくれ。法定相続分ていうことは……やっぱり、その通りに分けなければいけないんじゃないのか? 本当にその通りでなくていいのか?」
「だから、相続人全員で話し合って合意すれば法定相続分通りに分けなくてもいいし、遺言書があればそれよりももっと優先。遺言書が最優先なの。ただし、自分がもらう分が遺留分より少なかった場合は、他の相続人にその差額を請求することができるの」
「……そうなのか。それで……遺言……」
「そう。実際に計算してみようか。電卓ある?」
「ああ」
開志は机の引き出しから電卓を取り出した。
「おじさんの財産の相続税評価額は、全部で九千九百万円。そう置いてみて」
開志は言われた通りの数字を電卓に打ち込んだ。
「内訳は、会社の株が五千万円、マンションが七百万円、預金が四千二百万円ね。そこから葬儀費用やら未払いの公共料金やらを引く。ざっと三百万円だったわね。そうそう、他に大きな借金とかないよね?」
「ああ……それはない。マンションのローンも、だいぶ前に終わった」
「じゃ、そこから三百万円を引いて」
開志は言われた通りに電卓に打ち込んだ。
「九千六百万円……」
つぶやくように、電卓に表示された数字を読み上げた。
「それを六で割ると?」
言われるままに電卓で計算する。
「千六百万円……」
「そう。それが一人あたりの遺留分。で、知花さんがもらう財産は?」
「四千二百万の三分の一……千四百万円」
「その差額は?」
「……二百万円」
「そう。知花さんはその二百万円を拓真さんと美咲さんに請求できるっていうこと。もちろん知花さんが請求しなければそのままっていうことだけど、あの感じだと、請求するでしょ。絶対」
「……だったら、最初からその分を知花が受け取るようにしておけば……」
「そうね。じゃ、知花さんが千六百万円、拓真さんと美咲さんが千三百万円ずつかな?」
「美咲は……どうだろうか。三百万でも、知花より少ないのは、美咲には不満かもしれない……」
「じゃ、知花さんと美咲さんが千六百万円ずつ、拓真さんが一千万円?」
「いやしかし、拓真は相続税を払分ければならないんだったな」
「そうね。会社の株の分、みんなより多く。三百七十万って言ってたわね」
「その分、拓真の取り分を多くしておかないと……」
「拓真さんの取り分を多くすれば、美咲さんと知花さんの取り分が少なるけど」
「そういうわけにはいかないか……ササの株の割合が高すぎるんだな……」
「仕方ないけどね。五千万円、全体の半分以上だものね」
「最初は小さな会社だったんだがな……順調に利益を上げて、剰余金の運用もうまく行っていたからな……」
「おじさんの手腕、てことね」
「いや、それほどでも……」
「て、謙遜してる場合じゃなくて」
塞の神に言われ、開志は首をかしげて考える。
「……ササの株を美咲と知花にも分けたらどうだろう?」
「二人にも会社の経営に参加させる、ていうこと?」
「いや、経営者はあくまで拓真だ。美咲や知花に会社の経営ことはわからないだろう」
「でも、経営に対する発言権は発生しちゃうよ」
「二人が会社の経営に口出しすることはないと思うが……」
「会社がもうかったら、その利益を分配して、ていうことは、言うと思うよ」
「それは……そうだな」
「拓真さんが、妹二人のためにもがんばる、ていうこと?」
「そうして欲しいが……」
開志はまた考え込んでしまった。
「あの」
塞の神が開志の顔を覗き込んだ。
「悪いけど、そろそろ時間がないんだけど」
「え?」
開志が顔を上げた。
「一時間、ていう約束でしょ?」
「……ああ」
開志は壁に掛けてある時計を見た。時計の針は十一時四十五分を示していた。いつの間にか時間が経過していた。
「……どうしよう」
開志がつぶやいた。
「どうしたらいい?」
「ま、おじさんの財産なんだから、おじさんが決めて」
「それはそうなんだが……生きてるうちにきちんと考えておけばよかった……まさか、突然こんなことになるとは……」
「そんなこと言ってもね。とにかく、特別に時間を作ってあげたんだから、ここで何とかして」
「……わかった」
開志は書きかけていたレポート用紙の一枚目を切り離し、それを丸めると机の横のごみ箱に投げ込んだ。
「最初から書き直し?」
「ああ」
開志は再びボールペンを手に持った。
「まずは、『遺言書』だったな」
「うん」
開志は二度目の遺言書を書き始めた。
『遺言書』
『私の死後、私の財産を次のように相続させます』
『一、株式会社ササの株を』
そこまで書いて、開志の手が止まる。
「ふんふん、で、どうするの?」
机の向こう側から覗き込んでいた塞の神が顔を上げて開志の顔を見た。
一呼吸置いて、開志が続きを書く。
『長男拓真、長女美咲、次女知花にそれぞれ三分の一の割合で相続させます』
「それでいいの?」
「ああ」
塞の神にかまわずに開志が続ける。
『二、自宅のマンションを長男拓真、長女美咲、次女知花にそれぞれ三分の一の割合で相続させます』
「え、それも?」
「ああ」
「マンションの所有権を分けちゃうってこと?」
「ああ」
表情を変えないまま開志が答えた。
「売って分けろ、ていうこと?」
「いや、それは三人で話し合って決めればいい」
「ふ~ん。で、中にある家具とかは? 今は美咲さんが使ってるけど」
「それも三人で話し合えばいい」
「……いいけど、さっき三人で話してたとこ、見てたでしょ?」
「ああ」
「三人で話し合って、て、それでまとまると思う?」
「私は……三人を信じてる。三人とも、私の子だ」
「あそう。おじさんの財産だからね、私はいいけど。それなら、そう書いておいた方がいいよ、但し書きみたいしして」
「但し書き?」
「『マンションの室内にある家具類は三人で協議して決めること』、とかね。家具は不動産みたいに所有権の登記はできないないから」
「わかった」
そう言って開志は言われた通りの文言を書き加えた。
「あとは預貯金とかだね。それもやっぱり?」
「ああ、三等分だ」
「ふ~ん。じゃ、そう書いて」
「預貯金っていう書き方でいいかな?」
「上場株や投資信託なんかもあったよね。ひっくるめて『金融資産』ていうことだけど、預けてある銀行や証券会社も明記しておいた方がいいよ。証券会社で買った株はササの株と区別しておいた方がいいし」
「わかった」
開志が再びレポート用紙に向かう。
『三、南北銀行、大江戸銀行、東西証券に預けてある金融資産を長男拓真、長女美咲、次女知花にそれぞれ三分の一の割合で相続させます』そう書いた。
「よし」
そう言って開志はボールペンを置いた。
「よし、って、これじゃ結局、遺言書なくても一緒じゃない?」
「そうかもしれないが……いや、これでいい」
「ま、おじさんがいいならいいけど。そうそう、最後に、『遺言執行者』を決めておかないとね」
「遺言執行者?」
「実際にこの遺言の内容どおりに手続きをする人。遺言書いても、それを実行してくれる人がいないとね。本当は相続人と利害関係のない人がいいんだけど……それも法律の専門家で。弁護士さんとか司法書士さんとか信託銀行とか」
「ササの顧問会計士は?」
「う~ん、立場としては拓真さん寄りだけど、遺言の内容が三等分だからいいかな」
「じゃ、そうしよう。他に心当たりもないし」
「それじゃ、こう書いて。『四、この遺言の執行者として、株式会社ササの顧問会計士……』」
「沼田一郎だ」
「『沼田一郎を指名します』て」
「こうか……」
開志はこれも言われた通りの文言を書き加えた。
「それじゃ、最後におじさんの名前と印鑑。この事務所に置いておけば、おじさんの遺言書だとわかると思うけど、念のためおじさんの住所も書いておいた方がいいかな」
開志は自分の住所と氏名を書き入れると、引き出しから取り出したまま机の上に置いてあった印鑑を手に持った。
「この印は実印じゃないが……」
「実印でなくても大丈夫だよ。あと、日付ね。今日は、おじさんが倒れる前の日だからね」
「……ああ、ちょっと……複雑な気分だな」
そう言いながら日付を書き入れ、名前の下に印鑑を押した。
「そうだ、忘れてた。封筒だ。封筒、あるでしょ?」
「もちろんあるが……」
開志は机の引き出しから郵便用の茶封筒を取り出した。
「その中に今書いた遺言書を入れて」
「あ……ああ」
開志は言われるままに遺言を書いたレポート用紙を折りたたんで茶封筒の中に入れた。
「そしたら封をして、そこにも印鑑。封印ね」
「封印まで?」
「そう。勝手に開けられないように」
開志は言われた通り茶封筒に封印を押した。
「最後に、封筒にも『遺言書』て書いておいて。それが遺言書だってすぐにわかるように」
開志はその通りに封筒に縦書きで「遺言書」と書いた。
「これで……いいのか」
ボールペンを置いた開志は改めて封筒を手に取って、自分で書いた「遺言書」という文字を見つめた。
「たいへんだ。もう一分前だよ」
塞の神が立ち上がった。
「え?」
「早くその遺言書を机の中にしまって」
「あ……ああ」
開志は遺言書の入った封筒を机の引き出しに入れた。
「帰るよ!」
塞の神が声を上げた。
気が付くと、開志は簸の川のほとりに立っていた。
「はあ~」
開志はため息を吐いた。
「これで、三人が争うことはなくなるだろうか……」
「さあ、どうかな」
すぐ横で塞の神が言う。
「どうかな、って……」
「確かに、遺言書があれば法律上は遺言書どおりに分けなければいけないんだし、遺言執行者も指定したからその人にも遺言通りの手続きをする義務があるわけなんだけど……人の気持ちはまた別物だから」
「どういうことだ?」
「みんなが納得するかどうか、ていうこと」
「……」
開志は言葉に詰まった。
「もう一回見てみる? その後、どうなったか」
「その後って……そんなにすぐに変わるものなのか? たった今遺言書を書いて戻って来たばかりなのに……」
「ここでの時間の経過は、向こうの世界とは違うの」
「……その後のことを見ることもできるのか?」
「うん」
「だったら……頼む。見せてくれ」
「いいよ。じゃ、またあの辺を見てて」
開志は再び、簸の川に目を遣った。川底が青白く光り始めた。そこにまた、ササの事務所が現れた。
「どういうこと!」
大きな声を上げたのは長女の美咲だ。前に見た時と同じく、足を組んで応接用のソファに座っている。
美咲の隣には長男の拓真が座っている。向かい側の二人掛けのソファにはやっぱり前回と同じく次女の知花とその夫の耕平。
前回、拓真が立っていた位置にはスーツ姿の太った中年男性が立っている。ササの顧問会計士の沼田だ。
「どうと言われましても……社長の遺志ですから……」
沼田がハンカチで額の汗を拭く。
「そもそも、ほんとうにお父さんの遺言なの⁉」
美咲が沼田を睨みつける。
どうやら、遺言執行者に指名されていた会計士の沼田が遺言書の内容を四人に説明した後らしい。
「はい……家庭裁判所で検認の手続きもしてあります」
美咲の勢いにたじろぎながら沼田が答える。
「検認?」
聞き返したのは知花だ。
「はい。家庭裁判所で遺言書を開封してその内容を確認する手続きです。遺言書を隠したり、他の人が書き変えたりできないように……」
「この前は遺言があるなんて言ってなかったじゃない!」
美咲が沼田の言葉をさえぎる。
「それが、あったんだ。社長の机の引き出しに。どうしてすぐに見つからなかったのか、不思議なんだが……」
拓真がなだめるように言う。
「三人で分けろって、どういいこと?! 私が住んでるマンションなのに!」
遺言書が発見された経緯より、美咲が不満なのはその内容だ。
「オヤジの遺志なんだからしかたないだろう。売却して三人で分けろ、ていうことじゃなないか?」
「冗談じゃないわ! 私はこのまま、あそこに住み続けますから!」
「それじゃ三人で分けたことにならないだろ!」
「不動産の登記だけしておけばいいでしょ! そうだ、固定資産税は三等分よね! 自分の分は自分で払ってよね!」
「ばかいうな! それより、ササの株だ! お前たちに会社のことなんてわからないだろ!」
「それこそ、売って三人で分けろ、ていうことじゃない⁈」
「オヤジがそんなこと考えるはずないだろ!」
「じゃ、どうやって分けるのよ!」
「……利益の配当金は、もれえるのよね?」
黙っていた知花が口を挟む。
「何もしないくせに、配当だけもらう気か?」
拓真が知花を睨みつける。
「だって、そういうものでしょ。私には他に何もないんだし……」
「会社を売らないんだったら、私たちのためにせいぜい頑張って稼いでよね」
美咲が足を組み直しながら言う。
「何だと!」
拓真が声を荒げる。
「まあまあ……」
三人をなだめようとする耕平。困った顔をしてただ立ち尽くす沼田。
「こんなんじゃ、遺言の執行なんて……とても……」
沼田が漏らした独り言を聞いている者はいなかった。簸の川のほとりから、その様子を見ていた開志と塞の神の他には。
「遺言書、なかった方がよかったかもね」
うなだれる開志の横で塞の神がつぶやいた。
「こんな三人じゃなかったのに……いつの間にこんな風に……」
「今さらそんなこと言ってもね」
「仲のいい子供たちだったのに……母さんが死んでからだろうか……私が悪いのだろうか……こんなんじゃ、母さんに顔向けできない……」
「……」
塞の神もさすがに言葉が出ない。
「それに……私が死んだというのに、私の財産のことばかりだ……私のことなど、何とも思ってなかったのだろうか……」
塞の神が開志の方に向き直った。
「次は、そっちかな」
「……次?」
「そう。おじさんの心配事、一つずつ解消して行かないとね。それが私の役目だから」
「……私のために?」
「あれ、言ってなかったっけ? おじさんのため、てうか、ここを渋滞させないのが私の仕事だから」
「そういうことか……このままじゃ、私が成仏できないから……」
「ま、あまり深く考えないで。とにかく、次、見せるから」
そう言いながら、塞の神がまた簸の川の方に向き直った。
「……また何か、見えるのか?」
「見てて」
そう言われて開志もまた簸の川に目を遣った。川の底がまた、青白く光り始めていた。
現れたのはまた、会社、ササの事務所だった。しかし今度は、そこにいるのは拓真一人だけだった。拓真は事務机に座ってパソコンを睨んでいる。どうやら仕事中のようだ。
「どういうことだ? そんな大事なことを、突然、しかもメールで」
拓真はつぶやいた。
拓真が見ているパソコンの画面には取引先の百貨店からのメールが表示されていた。
メールの文面にはこうあった。
『笹谷社長のご逝去の報に接し、心からお悔やみ申し上げます。さて、この様なタイミングでこの様なことをお通知いたしますこと、誠に心苦しい限りではございますが、この機会に御社とのお取引を打ち切らせていただきたいと存じます。笹谷社長には長年にわたりたいへんお世話になりましたが、どうか事情をご察しくださいますようお願い申し上げます』
要するに、社長がいたから取引していた、社長がいないなら取引できない、そういうことか。
「俺じゃ、だめなのか」
声に出していた。
社長、いやオヤジが亡くなって、悲しくはあった。淋しいとも思った。しかし仕事は別だ。オヤジがいなくても、自分だけでも十分にやって行けると思っていた。なのに……
確かに、商社に勤めていたオヤジのコネを頼り始めた会社だった。しかしもう十年だ。取引先とは太いパイプが出来ていると思っていた。甘かった。そういえば、最近でもオヤジは、取引先回りだと言って頻繁に外出していた。取引先の接待もしていた。俺は……オヤジに任せていた。オヤジに甘えていた。
「どうしよう……来月の仕入れは、打ち切るべきだろうか……」
パソコンの画面の隅には為替相場が表示されていた。為替の様子がいつでもわかるように設定してあった。設定したのは……オヤジだった。
円安が進んでいる。ということは、仕入れの原価が上がっているということだ。やはり仕入れの数量を少なくした方が……しかし、もしそれで仕入先からも取引を断られたりしたら……仕入先はオヤジがヨーロッパに勤務していた時に開拓した先だ。国内の販路ならまだ自分でも開拓できるかもしれない。しかしヨーロッパの仕入先は一度失ったら回復できない。ヨーロッパまでは行けない。行っても交渉できるほどの語学力はない。
考えている間にも円安が進む。せめて為替が円高にぶれてくれればコストダウンできるのだか……次は、円安か、それとも円高か……
オヤジの為替の読みはいつも適格だった。でも、自分には……わからない。わからない。
「オヤジ……助けてくれ。頼む、助けてくれ」
拓真は目を閉じて、パソコンの画面に向かって手を合わせていた。
開志は、両手を突いてうずくまるようにして川の底を覗き込んでいた。
「どお? おじさんがいないとやっぱ困るみたいだよ」
開志を見下ろしながら塞の神が言った。
「ああ……きちんと教えておけばよかった」
開志がため息を吐きながら言った。
「かえって、落ち込ませちゃったかな?」
開志は黙って首を垂れた。
「おじさんが死んだこと、何とも思ってないわけじゃない、ていうことを見せたかったんだけど」
「それはわかった……しかし、このままでは、会社が……」
「まあそれは後で何とかするとして……他の人も見せてあげよっか?」
「他の人……美咲と知花のことか?」
「そう。やっぱ気になるでしょ?」
「ああ……それはそうだが……」
「じゃ、先に一通り見てみよっか」
「ああ……見ることができるのなら……」
「先に、こっちかな」
そう言って塞の神がまた簸の川を指さした。川の底がまた、青白く光り始めた。
そこは、明るい部屋の中だった。
自分が住んでいたマンションの部屋か? 一瞬、開志はそう思った。いや、違う。しかし見覚えがある部屋だ。思い出した。次女の知花のアパートだ。知花と、連れ合いの耕平が暮らしているアパートの部屋だ。
サッシの戸が開いて、次女の知花が部屋の中に入って来た。洗濯物が入った大きな籠を抱えている。ベランダに干してあった洗濯物を取り入れたところのようだ。
知花が洗濯物を抱えたまま片手で隣の部屋の襖を開ける。和室の真ん中に敷かれた小さな布団の上で、知花の娘、つまり開志の孫、四歳の若菜が眠っていた。
知花が布団の横に座り、籠から洗濯物を取り出して折り畳み始めた。穏やかな、幸せそうな風景だ。
眠っていた若菜が目を覚ました。布団の上で一度四つん這いになってから立ち上がる。
「ごめんね、起こしっちゃった?」
知花が若菜に優しく笑いかける。
「ワカナもやる」
そう言って若菜が知花の隣にしゃがみ込んだ。洗濯物を折りたたんでいる知花を手伝うということだ。
「ありがとう。それじゃ、若ちゃんは靴下をお願い」
知花が若菜に小さな靴下を手渡す。若菜がそれを畳の上に広げて小さな手で左右を重ねる。
「この前は、ジイジとバアバとお留守番できて、偉かったね」
知花が若菜に話しかける。拓真、美咲、知花、それに耕平の四人で開志の遺産の分割協議をした時のことを言っているのだろう。
「うん、ジイジが絵本読んでくれたから」
「そう、よかったね」
若菜が揃えた靴下を受け取りながら知花が言う。
「……でもね」
「なに?」
知花が若菜の顔を覗き込む。
「ワカナ、ママのジイジに会いたい」
「え?」
洗濯物を畳む知花の手が止まった。ママのジイジとは、つまり知花の父、開志のことだ。
「ママのジイジ、どこ行っちゃったの?」
「……」
知花が言葉に詰まる。
「……ママのジイジはね、遠いとこに行っちゃったの」
かろうじて声が出る。
「また会える?」
「……そうね、会えたらいいね」
「ママのジイジと、遊びたいなあ」
若菜が言う。
「前にジイジと公園に行った時ね、すべり台でね、ワカナ、一人ですべれなかったんだ。怖くて。でね、ジイジにだっこしてもらって、いっしょにすべったの」
「そうなの……」
千花は、幼い頃、自分も同じように父、開志に抱かれてすべり台を滑ったことがあったのを思い出した。
「優しいね……ジイジは、優しかったよね……」
「今度はワカナ、一人ですべれるから……でもやっぱり、ジイジといっしょがいいな……ジイジといっしょにすべりたいな……ジイジに、会いたいな……」
知花は……泣いていた。
「そうだね……ママも……ママも会いたいよ。ジイジに、会いたいよ……」
泣きながら、精一杯の笑顔を作って、知花が言った。
「ジイジに……また会えると、いいね」
開志もまた、泣いていた。簸の川を覗き込みながら、泣いていた。もう死んでしまっているはず自分の目からも涙が流れることを不思議に思いながら、それでも泣いていた。
「ほら、おじさんのこと、何とも思ってないなんてことないよ。若菜ちゃんも、知花さんも」
塞の神が開志に声を掛けた。それでも、開志はただ、泣き続けていた。
「もう一人だから、見ちゃおうよ。そしたら次に行けるから」
開志がようやく顔を上げた。
「……次?」
「そう、見て」
そう言って塞の神がまた簸の川を指さした。川の底が青白く光り始めていた。
開志は立ち上がり、手のひらで涙を拭いた。鼻をすすり上げてから、再び大きく目を見開いた。
川底に見えたのは、照明に照らされたコンクリートの通路。通路の左側には茶色いドアが並んでいる。見慣れたドア。開志が暮らしていたマンションだ。開志の部屋はマンションの七階にあった。通路の右側には街の夜景が広がっている。
通路の奥にエレベーターがあった。エレベーターの扉が開いた。中から出て来たのは、長女の美咲だ。
「木下のやつ、ミスばっかりしやがって!」
歩きながら独り言を言っている。三つ目のドアの前で立ち止まる。開志と美咲が暮らしていた部屋だ。
ベージュのジャケットに濃紺のスカート。美咲は保険会社で事務員として働いていた。会社から帰宅したところのようだ。
肩から下げたバッグからキーホルダーを取り出す。鍵穴にカギを刺して扉を開ける。扉の内側は……真っ暗だ。
「……ただいま」
そう言いながら美咲が部屋の灯りを点ける。返事はない。当たり前だ。開志が死んだ今、その部屋の住人は美咲一人だ。
パンプスを脱いで部屋に上がる。着替えもせずにそのままキッチンの冷蔵庫へ。
「いけね、ビールもうなかった」
そう言って乱暴に冷蔵庫を閉める。リビングへ移動し、脱いだジャケットをハンガーに掛けると、美咲はそのままソファに倒れ込んだ。
「木下のやつ、ミスばっかりしやがって……」
先ほどと同じことを言っている。
「新入社員の時からずっと面倒見てやってるに……どうして成長しないんだよ」
どうやら木下というのは会社の後輩社員のようだ。女性だろうか……それとも、男性か。
疲れているのだろう。美咲が目を閉じた。そのまま眠ってしまうつもりだろうか。
「父さん……何か作って」
目をつぶったまま美咲が言った。夢を見ているのか。
「父さん……私、一人じゃ何もできないよ……」
違った。美咲の目からは……涙があふれていた。
「どうして……私だけ一人なの? ひとりぼっちなの?」
美咲の目からこぼれた涙がソファに落ちた。
「淋しい……淋しいよお……父さん……どうして死んじゃったのよお」
涙も拭かないまま、美咲が続けた。
「お金なんかいらないよ……だから……帰って来て……帰って来て……父さん……」
「……すまない……美咲、すまない……」
泣きながら、開志は絞り出すように声を出した。
「……私は……もう、あそこへ帰ることはできないのだろうか……」
開志が塞の神を見上げた。
「……お願いだ……あそこへ……あそこへ帰してくれ……」
目を擦り、すがるように塞の神の顔を見る。
「それはちょっと、無理。できない」
塞の神が答える。
「……どうしても……できないのか」
「できない、ていうか、私の権限を超えてる。だから、私にはできない」
「……それなら、どうすれば……」
開志がうなだれる。
「私は……私にできることをするだけ」
「できること?」
「そう、できること」
開志がまた顔を上げた。
「自分が生き返るのは無理として、おじさんの今の一番の願いは、なに?」
「それは……三人に、拓真、美咲、知花の三人に、幸せになってほしい……」
「そうね……でもちょっと抽象的かな……もうちょっと具体的には?」
「……みんな仲良く……三人、仲良くしてほしい……」
「そうすれば、みんな幸せになれると思う?」
「三人で争うことがなければ……それだけでも」
「そうね。でも、もとはと言えばおじさんの財産が争いの原因だよね。それに、おじさんの中途半端な遺言」
「……ああ、すまないと思っている。しかしあの時は時間がなくて……急かされていたし……」
「私のせい?」
「いや、そんなことはない。生前からきちんと準備してなかった自分が悪いのはわかっている……そうだ、いっそのこと、私の財産が無ければ……」
「まあ、そういうやり方もあるかもしれないけど……それはそれで影響大だし……ちょっとそれも、私の権限を超えてくるかも」
「やっぱり無理な相談か……」
「うん。ここはやっぱり、遺言の執行、ていう方向で行きましょう。それなら私の力で何とかなるかもしれないし」
「遺言の……執行?」
「前に言ったよね。遺言には『執行者』が必要だ、て」
「ああ、そうだった……だから、顧問会計士の沼田を執行者にしたんだ」
「あっちの世界の遺言ではね」
「あっちの世界の?」
「そう。こっちの世界には、こっちの遺言があるの」
「……もう一度、遺言を書くのか?」
「そう」
塞の神が開志に向かって両手を突き出した。塞の神の両手のひらには、折りたたまれた白い和紙と一本の筆が乗っていた。
「いつの間に……どこから……」
「そんなことどうでもいいから」
「……しかし」
「何度も言わせないで。私、神様なんだから」
「……」
開志は黙って塞の神のから和紙と筆を受け取った。
「それじゃ、そこに書いて」
「書いてって、何を……」
「教えたでしょ。まずは、『遺言書』」
言われるまま、開志は左手の上に和紙を広げ、右手に持った筆で和紙の右端に『遺言書』と書いた。筆先はすでに濃い墨を吸っていた。
「次」
塞の神が短く言う。
「ええと……次は」
「細かいことはもういいから、おじさんがさっき言ったこと、書いて。さっき、何て言ってた?」
「あ……ああ……拓真、美咲、知花の三人に、幸せになってほしいと……」
「もっと、言い切っちゃっていいよ。『幸せになりなさい』って」
「あ、ああ」
開志は、和紙にその言葉を書いた。
「それから?」
塞の神が続きを促す。
「拓真、美咲、知花には、お互い争うことなく、仲良くしていてほしい……」
「そこも、『仲良くすること』だね」
開志はその通りに遺言書の続きを書いた。
「これで……いいだろうか」
開志が塞の神を見る。
「あと、遺言執行者ね」
「遺言執行者……」
「こう書いて。『本遺言の執行者として』」
言われる通りに、開志は和紙の上に筆を走らせた。
「『塞の神を指定します』」
「え?」
開志は顔を上げて塞の神を見た。
「聞こえなかった? もう一度言う?」
「いや、そうじゃなくて……いいのか?」
「うん」
塞の神がうなずく。
「そんなこと……できるのか」
「だから、私、神様。まだわからない?」
「そういう意味じゃなくなくて……私なんかの願いを……」
「いいから、早く書いて。早くしないと次の人が来ちゃうから」
ここを渋滞させないのが私の仕事……確かそう言っていた。それなら……
開志は言われた通り、その言葉を和紙に書いた。
「『塞』の字、間違ってない?」
塞の神が言う。開志は和紙を自分の顔の前に持ち上げて確認した。
「……大丈夫だ」
「それじゃ、それをここに乗せて」
そう言いながら、塞の神が開志に向かって緑の葉のついた木の枝を差し出した。
「これは?」
「榊。神様の木」
「神様の……木」
その時になって、開志は気が付いた。塞の神の服装だ。初めて会った時からずっと、塞の神はピンク色のジャージを着ていた。しかし今……塞の神は真っ白な和服を着ている。腰から下には、これも真っ白な襖を履いている。そして、塞の神の胸には……丸い、大きな鏡。首から下げているようだ。
いつの間に着替えたのだろう……口に出しかけて、やめた。そんなことはどうでもいい。塞の神は、神様なのだから。
開志は、上から下へ、改めて塞の神を見た。身長が前よりも高くなっている。顔つきも大人びたように見える。
「では、始めます」
そう言って、塞の神が目をつぶった。
「榊葉に かけし願いは切なれば
八咫鏡よ 照らし給え」
塞の神が、歌った。張りのある大きな声で、祈るように、歌った。
祝詞。それは祝詞だった。
塞の神の胸の鏡が光り始めた。瞬く間に光は強くなり、開志は目を開けていられなくなった。
アパートの和室で、知花は洗濯物を畳んでいた。ベランダ側のサッシから温かな光が差し込んでいる。のどかな昼下がりだ。
知花の隣には四歳の若菜が座っている。幼いながら、母親である知花の手伝いをしてくれている。小さな手で、一生懸命に靴下を折り畳もうとしている。
知花は思った。我が子ながら、優しい子だ。四歳の時、自分は母親の手伝いなどしたことがあっただろうか……そんなことを思った。
突然、意識が遠のいた。気が付くと、知花はショッピングモールのフードコートにいた。フードコートのベンチに座っていた。手には、ソフトクリームの乗ったコーンを持っている。
知花は……四歳だった。四歳の自分になっていた。不安が胸に広がる。それは、自分が突然四歳になってしまったことへの不安ではなく、四歳の自分がその時、その場で感じていた不安、つまり、自分は今、一人きりなのではないか、母親に置いて行かれてしまったのではないかという不安だった。
「おいしいね」
すぐそばから声が聞こえた。三つ年上の姉、美咲の声だ。
横を見た。すぐ横に美咲が座っていた。知花と同じように、ソフトクリームを手に持っている。
よかった。お姉ちゃんがいる。一人じゃない。知花は安心した。
思い出した。知花は、母親の和泉と姉の美咲と三人で買い物に来ていた。
「お母さん、買い物して来ちゃうから、ここで待っててね」
つい先ほど、和泉はそう言って知花と美咲にソフトクリームを手渡し、そのままエスカレーターを下って行った。
「うん、おいちいね」
知花は美咲に向かってそう答えた。赤ちゃん言葉だった。四歳の知花は、まだうまくしゃべれないのだ。
その時。ソフトクリームを持っていた左手の甲に、冷たい、ヌルッとした感触がした。溶けたソフトクリームが手に付いたのだ。
知花は、手の甲を確かめようとして手首をひねった。次の瞬間、ソフトクリームの塊がコーンから落ちた。ソフトクリームはそのまま床に落ち、べチャッという感触とともに潰れた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。しかし、少し経つと、二つの思いが知花の胸の中に膨らんできた。自分が大きな失敗をしてしまったこと、そして、母親に買ってもらったソフトクリームを食べることができなくなったということ。
二つの事実を理解すると、とたんに悲しくなってきた。目から、涙がこぼれてきた。大声で泣き出しそうになった、その時。
「知花、これ食べな」
隣から声がした。美咲の声だ。振り向くと、美咲が自分の持っていたソフトクリームのコーンを知花の方に差し出していた。やっぱり、知花にはすぐに状況を理解することができなかった。
美咲は、知花が手に持っていた空のコーンを受け取ると、代わりに自分が持っていたソフトクリームの乗ったコーンを知花に握らせた。
「気を付けて食べるんだよ」
そう言って、美咲が笑った。あっという間に、知花の胸の中にあった悲しい思いが消えた。
美咲はテーブルの上にあったナプキン入れから紙ナプキンを何枚か引き抜くと、知花の足元にしゃがみ込んで床に落ちたソフトクリームをふき取り始めた。
「お姉ちゃん……ありがとう」
知花は、声に出してお礼を言った。四歳の知花が、美咲に対する感謝の気持ちをどれほど持っていたかはわからない。しかし、三十歳となり、四歳の若菜の母親となった知花は、心の底から、思っていた。
「お姉ちゃん……ありがとう。本当に、ありがとう」
美咲は目を覚ました。ソファに寝転んだまま眠ってしまったようだ。顔を上げた。そこは……マンションの部屋、父開志と二人で暮らしていた、そして今は美咲が一人で暮らしているマンションの部屋、ではなかった。
そこは……電車の中だった。美咲は電車の座席に座っていた。電車の座席に座ったまま、うたた寝をしていたのだ。
向かいの座席には年配の夫婦。車内はそれほど混雑していない。半分までブラインドが降りた車窓からは、オレンジ色の光が差し込んでいる。心地良い揺れ。しかし……自分はどこへ向かっているのだろう。寝ぼけた目で自分の服装を確認する。紺色のブレザーにグレーのスカート、赤いリボン。自分がかつて通っていた高校の制服だ。
ということは……今、学校の帰りだ。そう言えば、電車の中の風景は三年間見慣れた風景だ。
車内にアナウンスが流れた。もうじき駅に到着する。自分の家のある、いや、あった、駅だ。家族が待っている、いや、待っていた、私の家のあった、駅だ。
兄の拓真が結婚して家を出て、妹の知花も結婚して、その後、母さんが亡くなって……あの家は売ってしまった。それから、父さんが買い換えたマンションで父さんと二人で暮らしていた。でも、その父さんも……
駅に着いた。ドアが開く。あわてて電車を降りた。ホームを歩いて改札に向かう。
あの家はまだあるのだろうか。母さんは、あの家で待っていてくれるのだろうか。そんなことを思いながら改札を出る。駅前に駐輪場とコンビニがある。その間の細い通路。そこを通って大通りに出るのが近道だ。
通路に入ると、駐輪場の裏の方に人が座っているのが見えた。黒い学ランと白いセーラー服が二人ずつ。高校生だろう。いや、本当に高校生? そう思った。なぜなら、四人の髪の毛は、皆、金髪。染めているのだ。耳にはピアスも見えた。四人は座って、タバコを吸っていた。
高校生の美咲なら、見ないふりをして通り過ぎていたかもしれない。でも、今の美咲には、そんなことはできなかった。明らかなコンプライアンス違反、いや、校則違反だ。
美咲は立ち止まって彼らを睨みつけた。
「あなたたち、たばこ、やめなさい」
美咲が言うと、四人がいっせいに美咲の方を振り向いた。
「関係ねえだろ」
男子の一人が言った。
「どこの学校ですか。通報しますよ」
美咲が言うと、四人は立ち上がった。
「あんたこそどこの学校よ」
女子のうちの一人が、美咲の方へ向かって歩き始めた。
「……関係ないでしょ」
美咲は、その女子から視線を逸らさずに言った。
「お互い様ね」
その女子が答えた。と、いう間に女子の後ろにいた男子の一人が走り出して美咲の横をすり抜けた。男子はそのまま美咲の背後に回り込み、狭い通路の入り口に立った。逃げ道を塞ぐつもりだ。
「いい度胸してるじゃん」
そう言いながら、二人の女子ともう一人の男子が近づいてくる。美咲は先頭にいる女子から視線を逸らさない。
その女子が美咲の目の前に立った。そして手に持ったタバコの火を美咲の顔に向けた。美咲が思わず後ろを向く。すると後ろにいた男子も手に持ったタバコの火を美咲に向けていた。狭い通路に挟まれた格好だ。
初めて恐怖心が湧く。何やってんだ、私。無防備すぎだろ。
声を出せ。助けを呼べ。頭の中で思った。でも、声が出ない。どうしよう、どうしよう。
「謝んな。そしたら多目に見てやるよ」
そう言いながら目の前の女子が美咲の顔にタバコを近づける。
どうして私が謝らなければならないの。悪いのはそっちなのに。謝るなんてできない。
頭の中では思っている。でも……どうしよう、どうしよう。誰か……誰か助けて。
その時。
「お前ら、そこで何やってるんだ」
背後に立つ男子の、更にその後ろから声がした。いつの間にか、背の高い学ラン姿の男子が立っていた。がっちりした体躯に五分刈りの頭。
兄さん……拓真兄さん。
そう、それは高校生の拓真だった。
「……美咲じゃないか」
学ラン姿の拓真が言った。
「なんだ? こいつの知り合いか?」
背後にいた男子が拓真に向き直る。その瞬間。拓真が手に持っていた唐草模様の棒状の袋を金髪の男子の鼻先に突き付けた。
思い出した。拓真は剣道部だった。小さい頃から道場にも通っていた。段も持っていた。何段だったか覚えてないけど。唐草模様の袋の中にあるのは、竹刀だ。普段竹刀を持ちあることはない。でも今日はなぜか、竹刀を持っていた。持っていてくれた。
「美咲、こっち来い。帰るぞ」
竹刀を男子の鼻先に突き付けたまま拓真が言った。さすが段持ち。迫力が違う。竹刀を突き付けられた男子は、そして美咲の前にいた残りの三人も固まったまま動けずにいた。
美咲が拓真の背後に逃げ込む。
「アチチ!」
声がした。通路の一番奥にいた男子が手を押さえている。持っていたタバコの火が当たったのだろう。自業自得だ。
その声を合図にするように、残りの三人が手を押さえた男子に駆け寄る。そしてそのまま通路の奥へ向かって駆け出した。拓真に竹刀を突き付けられていた男子が少しだけ振り向いた。拓真は黙って四人を見送った。美咲もまた、拓真の肩越しに走り去る四人の姿を見送った。
そして美咲は……泣き出した。緊張が解けたせいだろう。わんわんと、声に出して泣き出していた。
「ばか、無茶すんな」
少し困った顔をして拓真が言った。
「……ありがとう……兄さん、ありがとう……」
泣きながら、顔をくちゃくちゃにしながら、美咲は言っていた。拓真の学ランの袖をしっかりと掴みながら、言っていた。
拓真は事務机の上のパソコンに向かったまま目を閉じた。会社、ササの事務所。拓真一人だ。
これからどうする? 自分一人でやって行けるのか? 自分に問いかける。こうしていても答えはでない。とにかくやるしか……
目を開けた。そこには……パソコンの画面ではなく、机に備え付けられた本棚があった。本棚には背表紙に大きな文字でタイトルが書かれた本が並んでいる。
「就活面接必勝法」「自己分析シートの書き方」「産業界の動向」
どれも見覚えがある。大学時代、就職活動に使っていた本だ。
部屋の中を見回した。布団を敷いたままのベッド。ポスターを貼った壁。壁に立て掛けた竹刀。
自分が座っているのは……会社の事務机ではなく、木製の勉強机だった。
そこは、さっきまでいたササの事務所ではなく、ずっと前に住んでいた家の、自分の部屋だった。それも……高校か、大学時代の。就活に関する本があるということは、大学三、四年生の頃か。
トントン。音がした。部屋のドアをノックする音だ。
「兄さん、入ってもいい?」
続けて声がした。
「あ……ああ、いいぞ」
状況を理解できないまま、反射的に答えていた。
部屋のドアが開いた。入って来たのは、美咲。すぐ後ろから、知花。自分が大学生だとすれば、一つ下の美咲も大学生、四つ下の知花は高校生、のはずだ。そして二人とも、それらしく見えた。
拓真のすぐ横に並んだ二人が顔を見合わせる。
「せーの」
美咲の声を合図に二人が声を合わせる。
「就職おめでとう!」
知花が後ろ手に隠していた箱を差し出した。
「二人からの就職祝い」
知花が言った。
「夕食の時にしようと思ってたんだけど、知花が、父さんと母さんの前じゃ照れ臭いって言うから」
二人とも、ニコニコと笑っている。
「あ……ありがとう」
拓真は立ち上がって両手でその箱を受け取った。
「開けてみて」
知花が言う。
拓真は箱を机の上に置いて包み紙を開いた。箱を開けると、中にあったのは、腕時計。ダイバーズウオッチだった。拓真が前から欲しかった物だ。そして……今でも毎日、腕に付けている。
「高かっただろう?」
まずその言葉が出た。
「大丈夫だよ」
「バイト代、貯めておいたの」
二人が口々に言う。
「……ありがとう」
改めて礼を言った。箱から取り出して腕にはめてみた。
「似合うか?」
訊いてみた。
「うん」
「とっても」
「ありがとう」
三度目の礼を言っていた。
しかし……せっかくの就職祝いだが、自分は数年でその会社を辞めることになる。そう、目の前にいる高校生の知花が大学を卒業するタイミングで、オヤジが会社を退職し、ササを立ち上げるんだ。そして自分もオヤジと一緒に……
「いつまで勤めるかわかんないけどな」
口に出ていた。
「いいよ。何をしていても、兄さんは兄さんだから」
美咲が言った。いつか、ササで働くことになることを知っているのだろうか。
「ずっと、応援してるから」
知花が言った。
「お前も来年大学受験だろ。お前に言われたく……」
言いかけた瞬間、鼻の奥がツンと痛くなった。目の前の二人の姿が霞んだ。
「わ、泣いた」
知花が言った。
俺、泣いてるのか? そう思った。
「泣いてる兄さん、初めて見たかも」
美咲が言った。
「ば……ばか、泣いてんじゃ……」
言いかけたまま、拓真は天井を見上げた。
がんばるから……二人のためにも、がんばるから……
思い出した。あの時拓真は確かにそう思った。そして今、改めて思う。
がんばるから。二人のためにも、がんばるから。
拓真は心の中で、そう繰り返していた。
ササの事務室の応接用のスペース。低いテーブルを挟んで、三人掛けのソファには美咲と知花、向かい側の一人掛けのソファの一つに拓真が座っている。そこに兄妹三人が集まるのはこれで三度目だ。
「集まってもらったのは、他でもない、オヤジの財産の相続についてだが……」
拓真が切り出した。
「今日は、遺言執行者の……沼田さんでしたっけ? あの人は?」
美咲が訊く。足も組まず、背筋を伸ばしている。
「呼んでいない。後で今日の話の結果を報告することになってる」
拓真が答える。
「そういえば、耕平君は?」
「今日は仕事。そうそう会社、休ませられないし。今日は私一人で大丈夫」
拓真の問に知花が答える。
「それじゃ、始めよう。二人には前回、オヤジの遺言書を見てもらった。今日は、そこに書かれていた財産について、一つずつ、決着して行きたいと思う」
美咲と知花がうなずく。
「まず、ササの株だが、遺言書どおり、三人で均等に分割しようと思う」
「ちょっと待って」
美咲が拓真に向かって身を乗り出す。
「私、ササの株については相続を放棄しようと思ってるの」
「私も同じ。私には、会社のことなんてわからないし」
美咲に続いて知花も。
「いや、その必要はないと思ってる。当然、美咲と知花には、ササの経営に対して意見を言う権利と、ササの利益から配当を受け取る権利が発生する。経営については、基本的には俺が全責任を請け負うが、もし意見があれば遠慮なく言ってほしい。配当は、確実に二人に支払うつもりだ」
「そんな……」
戸惑った顔の知花。
「だったら、こうしましょう」
美咲が両手をテーブルに乗せた。
「私を、ササの社員にして」
「え?」
今度は拓真の戸惑った顔。美咲が続ける。
「もともと父さんと二人でやってたわけでしょ。兄さん一人じゃ、大変でしょ? 私だって、一通りの事務はできるし、何なら営業だってするわ」
「し……しかし、今の会社は?」
「辞めようと思ってる。長くいるけど、あそこじゃ、私自身の未来がないことも見えてるし」
「わ……わかった。考えてみる」
「考えてみる、じゃなくて、決めて。私は決めてる」
「わ……わかった」
美咲の勢いに拓真の方が飲まれている。
「それから、私のマンションだけど」
戸惑う拓真にかまわず美咲が続ける。
「売却して、現金にして三人で分けようと思う」
「え?」
拓真と知花が同時に声を上げる。
「ちょっと待て、美咲はどこに住むんだ?」
今度は拓真が切り返す。
「賃貸のアパートでも借りるわ。あのマンション、一人暮らしには広すぎる」
「いや、それこそ、そんな必要はない。所有権が三人の共有になったとしても、実質的には何も変わらない。美咲はそのまま住み続ければいい」
知花も美咲に向き直る。
「私もそう思う。これからは、耕平と若菜と一緒にたまにはお姉ちゃんのとこに遊びに行こうと思ってた。若菜も喜ぶと思うし。だからあそこはあのままにしておいて。もちろん掃除とか料理とか、私もするし。耕平にも手伝わせるし」
美咲が黙り込んだ。そして、下を向いた。
「ありがとう……」
小さな声で美咲が言った。美咲の目から涙がこぼれた。知花の右手が、美咲の左手を握っていた。
「これでササの株とマンションは決まりだな。そうなれば、金融資産も遺言書どおりに三人で三等分、それでいいな」
拓真が明るい声で言う。
「なんか、私だけ何もしないのに得してるみたいで、悪い」
知花が言う。
「気にするな」
拓真が笑いながら答える。
「そうだ、お兄ちゃんの会社、海外と取引があるんだよね」
「ああ、ヨーロッパから家具を輸入してる」
「だったら英文のメールとか、私に回してくれたら和訳してあげるよ。逆に英文を作ったりもするし。リモートになっちゃうけど」
「そういえば知花は大学、英文科だったな。助かるよ。でも無理するな。若菜ちゃんもいることだし」
「うん。でも、確かお兄ちゃん、勉強はできなかったはずだし」
「まあ……な」
拓真が頭を掻いた。
「私も……知花に部屋の片付けを手伝ってもらえたら助かる……お父さんの物はだいたい片付いたんだけど」
涙を拭きながら美咲が言う。
「やっぱり、一人じゃちょっと、広すぎて」
「いいよ。お姉ちゃんは片付け苦手だから」
「言うわね」
美咲が笑顔を見せる。
「でも……」
「なに?」
「そんなに広くないかも。お姉ちゃんも、そのうち一人じゃなくなるかもしれないし」
「どういうこと?」
「なんか、そんな気がする」
「ああ……そうなればいいけど。でも、知花も私や兄さんの手伝いどころじゃなくなるかもしれないな」
「若菜のこと?」
「若菜ちゃんだけじゃなくて……なんか、そんな気がする。悪い意味じゃなくて」
美咲と知花が顔を見合わせた。二人は同時に笑顔を作った。
「それじゃさっそく、沼田に連絡して手続きに入らせるから」
拓真がポケットから携帯を取り出した。拓真もまた嬉しそうな笑顔を見せていた。携帯を握る拓真の左手首には、しっかりと、ダイバーズウオッチがはめられていた。
簸の川のほとりでその様子を見ていた開志は目頭を押さえた。
「よかったね」
塞の神が言う。
「よかった……本当によかった」
開志が目頭を押さえたままうなずく。
「これで私も、安心しておじさんを通してあげられる」
「通す?」
「そう、おじさんのこと、通してあげる」
思い出した。塞の神は、死んだ者を、向こうの世界へ通していいかチェックするのが仕事だと言っていた。
「私は……もう行かなければならないということか」
「うん。でも、もう少し時間があるかな?」
「もう少し?」
「お迎えが来るはずなんだけど、まだその姿が見えないから」
「お迎え……いよいよか」
塞の神の言葉に、開志は改めて、自分が死んでいるのだということを実感した。
「それまで、もう少し見てようか」
塞の神がまた簸の川の方を向いた。開志もまた塞の神に並んで同じ方向に向き直った。
ササの事務所では、拓真が相変わらずパソコンに向かっていた。取引先に送るメールを作っているらしい。
「トゥルルルル」音がした。事務所に備え付けてある固定電話だ。拓真が立ち上がって受話器を取る。
「はい、株式会社ササです。え? 春日電気さん? お世話になって、いえ、は、はじめまして……」
大手の量販店からだった。駅前や幹線通り沿いに大型の店舗を展開して、電気製品だけではなく家具や日用品も販売している。もちろんそれまでササと取引はなかった。
「え? 当社の家具を……置いてくださるんですか?」
その量販店が、ササに取引を申し入れてきたのだ。
「ありがとうございます……では、さっそくお伺いして詳細を……」
電話を置いた拓真が声を上げた。
「やった! これで打ち切られた百貨店の分を取り戻せる! そうだ、美咲にも同席してもらおう」
拓真が顔をほころばせながら再びパソコンに向かう。
「え?」
新着のメールが入っていた。先日取引を打ち切られた百貨店からだ。文面にはこうあった。
『先日はたいへん失礼いたしました。売り場から御社の家具を撤去いたしましたところ、複数のお客様からお叱りの言葉をいただきました。御社の家具がいかにお客様から愛されていたか改めて認識いたしました。つきましては、誠に勝手ながら、御社の家具を再度、弊社に……』
「やった!」
拓真がまた声を上げた。
「そうなると、仕入れを増やさないと……知花に英文のメールを作ってもらおう。しかし為替の状況は……」
パソコンの画面に表示された円相場を見る。
「円高になってる! 今がチャンスだ」
拓真が手首にはめたダイバーズウォッチで時刻を確認する。
「さあ、忙しくなるぞ」
拓真がポケットからスマホを取り出す。
「もしもし知花か? すまん! 頼みがあるんだ」
拓真の声は、一段と大きく、明るくなっていた。
「うん、わかった。それじゃ、日本文の原稿送って。すぐに英訳するから」
拓真からの電話に答えると、知花はスマホをエプロンのポケットに戻した。
アパートの和室。正座して洗濯物を畳む知花の隣では若菜が熊のぬいぐるみと遊んでいる。
「こぼさずに、たべるんですよ」
ぬいぐるみの口元におもちゃのスプーンをあてながら若菜がたどたどしく言う。それを見ながら、知花が微笑む。
「……ジイジ、もうかえってこないんでしょ」
突然、若菜が言った。
「ワカナ、しってるよ」
「……うん」
知花がうなずく。
「でも、ワカナ、大丈夫だよ。ワカナには、ママとパパがいるから」
「そうだね……ありがとう」
知花が手を伸ばして若菜の頭をなでる。
「ねえ若菜、ジイジはもう帰って来ないかもしれないけど、その代わり、妹か弟ができたら、若菜、優しくしてあげられる?」
「ワカナ、おねえさんになるの?」
若菜が知花の顔を見上げる。
「うん、そうだよ」
「ワカナ、やさしくするよ」
「お願いね」
スマホの着任音が鳴った。また拓真からだろうか。エプロンのポケットからスマホを取り出す。
夫の耕平からだった。どうしたのだろう、こんな昼間に。
知花がスマホを耳にあてると、上ずった耕平の声が飛び込んできた。
「今日人事発令があって、課長に昇格したんだ! いっきに課長だよ!」
「……おめでとう」
その声に圧倒されながら、お祝いの言葉を言う。
「まじめにやってきた甲斐があったよ! 給料もだいぶ上がると思う!」
「うん、よかった……実はね、私からも報告があるの」
「えっ……なに?」
「妊娠……したと思う」
「本当か!」
「たぶん間違いないと思うけど……今度の土曜、病院、いっしょに行ってくれる?」
「あたり前だ! そりゃよかった! 今日は二重のお祝いだ!」
電話口で耕平が叫ぶ。普段は物静かな耕平にしては珍しい。
電話を切った知花がベランダの向こうの空を見る。父、開志に礼を言わなければならない、なぜか、そんな気がしていた。
「お父さん、ありがとう」
知花は、遠い空に向かって、呼び掛けた。
「長年にわたり、当社、当部のために尽力していただきました笹谷美咲さんですが、今月末をもってご退職することになりました」
部内の朝礼の場で、美咲の上司である部長が社員たちを見渡しながら言った。
「たいへんお世話になりました。私からもお礼を言います。ありがとうございました」
部長の隣に立った美咲が頭を下げる。
「笹谷さんには最終日に改めてごあいさつをしていただきますが、とりあえず皆さんに報告しておきます。最終日まであと数日あります。今日は今日。皆さん、今日も一日、業務に集中してください」
朝礼が終わる。美咲は自分の席についていつも通り自分の仕事に取り掛かる。
昼休み。後輩の女性社員たちが美咲の周りに集まる。
「ほんとにお世話になりました。わたし、笹谷さんにいつも助けてもらって……」
「びっくりしました。これから私、どうしたらいいか……」
「送別会を企画しますから来てくださいね」
口々に美咲との別れを惜しむ。
それが一段落して、職場内に人影が少なくなったところで美咲の前に背の高い男性社員が立った。入社三年目の木下だ。
新入社員の時は美咲が教育係だった。優秀、とは言い難かった。なかなか成長しなかった。それでも憎いと思ったことはなかった。まる一年の間、席を隣にして手取り足取り仕事を教えていたのだ。情もうつる。むしろ……可愛い奴、そう思っていた。
「ショックです」
いきなり木下が言った。
「悲しいです」
続けて言う。
「何言ってるの……これからもっとがんばりなさいよ」
悲しいと言ってくれることがうれしい、そう感じながらも、美咲は顔に出さないように意識した。
「お願いがあります。退職した後も、プライベートで僕と会ってもらえませんか」
「え?」
何言ってるの? そう思った。
「具体的に言います。ぼ……僕と、お付き合いしてもらえませんか」
「お、お付き合いって……私、あなたよりずっと年上なのよ……」
「関係ないです。僕、尊敬できる人じゃないと好きになれないんです。僕、笹谷さんのことを尊敬してます。とっても尊敬してます。だから、笹谷さんのことが好きです!」
そんなこと、ここで言うか……そう思った。そう言おうとしたけど、言葉が出なかった。
「僕、仕事はできませんが、料理とか、家事は得意なんです! もし笹谷さんが僕と結婚してくれたら、笹谷さんのために精一杯尽くします!」
言葉の代わりに、涙が出た。
「ば……ばか」
かろうじて、それだけ、声が出た。
「なんか……大丈夫そうだね」
簸の川のほとりで、塞の神が開志に声を掛ける。
「ありがとう……ありがとう……」
泣いていた。開志は目頭を押さえて泣いていた。
「あ、お迎えが来たみたいだよ」
開志が顔を上げると、塞の神の後ろ、暗闇のずっと奥の方に光が見えた。
その光が少しずつ近づいてくる。光の中に、人影が見える。
「……和泉」
それは、七年前に死んだ妻の和泉だった。
いつの間にか、和泉は開志の目の前に立っていた。
「……ご苦労様でした」
光の中の和泉が言った。
「さ、行きましょう」
和泉が手を差し伸べてくる。開志がその手を握る。
振り返ると、塞の神が微笑みながら、小さく手を振っていた。
この時になって、開志は気が付いた。この暗闇の中で、開志が塞の神よりも奥、つまり、開志が最初に歩いて来た方向と逆の方向、和泉が歩いて来た方向に来たのは、初めてのことだ。
塞の神は、ここを通してくれた、そういうことだ。
和泉が暗闇の奥に向かってゆっくりと歩き出した。合わせて開志も歩き出す。もう一度、振り返った。塞の神の姿は、いつの間にかはるか遠くになっていた。それでも塞の神は、手を振り続けていた。塞の神の口が小さく動くのがわかった。
「バイバイ、おじさん」
暗闇の中ではあるが、左右に壁があるのはわかった。左右を仕切られた道を歩いている。道の幅はけして広くはない。どうやら長いトンネルか、洞窟の中のようだ。
どうしてそんな所を歩いているのか……わからなかった。そもそも、自分自身が誰なのか……それすらもわからなかった。
しばらくすると、少しずつ、記憶がよみがえってきた。自分の名前は……笹谷開志。六十五歳。男。会社の経営者。つまり、社長。といっても、けして大きな会社ではない。外国製家具の卸売り。長男の拓真と二人でやっていた。従業員はいない。社名は「ササ」。株式会社ササ。
大学を卒業した後、中堅の商社に就職した。ちょうど十年前、五十五歳の時に早期退職して自分で会社を立ち上げた。商社時代にヨーロッパの支店に勤務していたことがあり、商品を仕入れる経路があった。為替相場の判断にも自信があった。実際、会社はうまく行っていた。順調に利益を上げていた。
そして……思い出した。会社で、といっても、雑居ビルの中の一部屋の事務室だが、そこで、商品の発注について拓真と打ち合わせをしていた。その時、突然めまいがして……あの後、どうなってしまったのか……そして今、どうしてこんな所を歩いているのか……
足元を見てみた。暗闇の中ではあったが、自分の服装は確認できた。会社にいた時に履いていたサンダルにスラックス。あの時と同じ服装だ。
道は、一本道のようだった。立ち止まることも、後ろへ戻ることもできるような気がした。でも、自分の足が、勝手に進んでいた。そっちへ行くのが当然の義務であるかのように……
そうやって、どれくらい歩いただろう。暗い道のずっと先に灯りが見えた。わずかな燈火。あそこまで。あそこまで行ったら一休みしよう。そう思った。といっても、疲れているわけではない。というより、身体全体の感覚がない。そのことに、たった今気が付いた。自分の身体は……自分は、いったいどうなってしまったのか……
灯りが近づいてきた。灯りの中に、人影が見えた。小さな人影。女の子だろうか。近づくにつれはっきりとわかるようになってきた。ピンク色のジャージの上下に白い運動靴。やっぱり女の子……少女だ。高校生、いや、中学生くらいだろうか。着ているジャージは、色こそピンクだが、学校の体育着のような、何の飾りもない物だ。履いている運動靴も、同じように体育の授業用のように見える。
美咲か? それとも、知花? 美咲は長女、知花は次女だ。
いや、そんなはずはない。二人が中高生だったのは、二十年も前のことだ……
次第にその子の顔がはっきりと見えるようになってきた。大きな目。その目のすぐ上できれいに切り揃えられた前髪。髪の毛は、前髪だけ残して頭の後ろで束ねられているようだ。
やはり美咲でも知花でもない。会ったことのない子だ。
その子は、そこに立ったまま、私の方を見ていた。私のことを待っているように。その子が首を傾げた。口元が、少しだけ微笑んだ、ように見えた。
いつの間にか、その子の前に立っていた。さっきまでひたすらに前に進んでいた自分の足が、止まっていた。
その子が、私を見上げた。私の顔を見て、微笑んだ。
「あなたは、誰?」
その子に話しかけてみた。声が出た。自分の声だった。当たり前だ。でも、不思議な気持ちがした。ずい分長い間、声を出していなかったような気がした。
「サイノカミ」
その子が答えた。
「サイノ……カミ?」
聞き返した。不思議な響きだ。それがこの子の名前なのだろうか。
「そう。『塞ぐ』っていう字に、神様の『神』。それが私の名前」
女の子らしい、可愛いらしい声。でも、しっかりとした口調だ。
「お賽銭の『賽』ていう字を書く『賽の神』もいるけど、そっちとはちょっと違う。私のは、『塞ぐ』の方」
頭の中にその字を思い浮かべた。「賽」という字は、ちょっと怪しいと思った。そもそもそんな字を書くことは、まずない。
「それが……君の、名前?」
「うん。名前、ていうか、役職みたいなもの?」
語尾をあげる、今時の女の子の話し方。
「役職……社長とか、課長とかっていう……役職?」
「そうだよ。元々は、村と村を繋ぐ道の守り神だったの。他の村から、悪いやつとか、悪い病気とかが入って来ないように守る仕事。だから、『塞の神』。今はここで、そんな仕事してる」
「塞の、神……ていうことは、あなたは神様?」
「ま、そういうことね。あまり自覚ないけど」
神様? ということは……
「……ここはどこ?」
続けて訊いてみた。
「ここは、黄泉比良坂」
「ヨモツ……ヒラサカ?」
「そう」
「ここは……日本なのか?」
「鈍いわね。まだわからないの?」
「……」
頭の中に浮かんだ答えを、声に出すことができなかった。
「仕方ないわね。じゃ、言うよ」
聞きたくない、そう思った。
「ここは、生きてる人の世界と、死んだ人の世界を繋ぐ、通り道」
全身の力が抜けて行く、ような気がした。実際には、そもそも身体のどこにも、力など入っていなかったのだが。
「ショック、だったかな? ま、だいたいみんなそうだけどね」
と、いうことは……自分は……死んだのか……
「いいよ。しばらく感傷に浸ってて。時間はあるから」
その子、塞の神は、そう言って数歩、後ろへ下がった。
考えをまとめようとした。自分は……死んだ。そう思うと、混乱した。混乱しながら考えた。会社のこと、子供たちのこと……考えていると、様々な記憶が浮かんできた。子供たちがまだ小さかった頃のこと、銀行を辞めて、会社を立ち上げた時のこと……そして、妻の、和泉のこと。和泉は七年前に病気で死んでいた。また和泉に会えるだろうか。そんなことも思った。いや、その前に、子供たちのことは……会社のことは……
「そろそろ、いいかな?」
声がした。目の前に、その子、塞の神が立っていた。
「悪いけど、きりがないから」
その声に、頭の中にあった様々な考えが消し飛んで、現実に引き戻された、ような気がした。いや、そもそもこれが現実なのかどうかもまだわからずにいたが……
「そろそろ私の仕事をさせて」
塞の神が言った。
「……仕事?」
「そう。ここを通していいかどうか、チェックするのが私の仕事だから」
「あなたは……死神なのか?」
「だから、塞の神」
「死神じゃないのか?」
「死神っていうのはね、生きてる人に取りついて、病気とか、自殺とかで強引にこっちの世界に連れてきちゃう神様なの。私は違う」
悪いやつが入って来ないように、道を守る神……確かそう言っていた。
「私は、ここを通れないのか?」
「だから、それをチェックするのがわたしの仕事」
「あなたは……閻魔様?」
「だ、か、ら、塞の神」
「……閻魔様、じゃないのか?」
「違うってば。失礼ね。私、あんな不細工じゃないし」
「……私はここを通してもらえないのか?」
「うん、そうね。今のままじゃね」
「私は……悪い人間なのか?」
「いや、そういうことじゃなくてね。よく言うでしょ。悔いや心配事を残したまま死ぬと成仏できないって」
悔い……確かに、悔いはある。まだ六十五歳だ。会社のことも、子供たちのことも……
「それじゃ……私は、どうなるんだ? 成仏できないのか?」
「ま、最終的には通してあげることになると思うけど。そのためには、少し整理が必要、ていうこと」
「整理?」
「そう」
開志は、さっきまで頭の中で考えていたこと思い出した。
「悔いとか、心配事、あるでしょ」
もちろん、悔いも心配事も、あった。
「言ってみて」
「まず、『ササ』は……私の会社は大丈夫だろうか。拓真に会社のことをきちんと引き継いでおけばよかった」
「あ、そっちね」
塞の神の言い方がちょっと気になった。
「それから?」
塞の神が続けた。
「……子供たちのこと。長男の拓真、長女の美咲、次女の知花。財産はそれなりに残してあるつもりだが……」
「ま、それも大事ね。じゃ、ちょっと見てみる?」
「見てみる?」
「そう。こっち来て」
そう言うと、塞の神は左を向いてそっちの方へ歩き出した。狭い洞窟のような一本道の中にいると思っていたが、どうやらそちら側は開けているようだ。いや、あるいはたった今、閉じていた壁が開けたのかもしれない。
塞の神が歩くと、周りを照らしていた灯りも塞の神とともに動き出した。塞の神自身が光っているようだった。塞の神が離れると、開志の周りが暗くなった。開志はあわてて塞の神の後を追った。
少し歩いたところで、塞の神が立ち止まった。
「見て」
そう言って、塞の神が前方の地面を指さした。
暗くて何も見えない。と、地面だと思っていたあたりが、静かに流れ始めた。水。そう、そこには水が流れていた。
「三途の川……か?」
「ここは、簸の川」
塞の神が言った。
「ヒノカワ?」
「そう。この川も、生きてる人間の世界とつながってる」
「三途の川……じゃないのか?」
「そういう呼び方をする人もいるみたいだけど、ワタシ的には、簸の川」
塞の神が言った。
周囲を見回してみた。やっぱり、真っ暗だ。川幅も深さもわからない。もちろんどこからどこまで続いているのかも。ただ、暗い中でそこだけ、水が流れているのがわかった。
「じゃ、見せるよ」
塞の神が言った。すると、見つめていた川の底が青白く光り始めた。
「あなたの心配事が、今どうなってるかわかるよ」
引き込まれるように川底を覗き込んだ。そこには……見慣れた景色があった。
そこは、株式会社ササの事務室だった。
いかにも事務室らしい灰色の扉から中に入るとすぐ右側に来客用の応接スペースがある。三人掛けのソファ、向かい合って一人用のソファが二つ。その間に低いテーブル。
一人用のソファの一つには長女の美咲が足を組んで座っていた。顔を上げてまっすぐ上を見ている。「へ」の字に結んだ口元が見える。口紅の色が濃い。
三人掛けのソファには二人の男女が座っていた。次女の知花とその夫、耕平だ。知花は真横、耕平とは反対の方向に顔を向けている。向かいに座る姉の美咲とはあえて目を合わせないようにしているように見える。
隣に座る耕平はうつむき加減になって目の前のテーブルを見つめている。まるでテーブルの合板の木目を数えているようだ。
奥から、長男の拓真がファイルを持って三人が座る応接スペースへ歩いて来た。
「これがオヤジの全財産だ」
拓真はそう言ってファイルから取り出したペーパーをテーブルの上、美咲と知花の目の前に置いた。その置き方は少し乱暴に見えた。
「知花のところは一枚でいいな」
そう言いながら、拓真が耕平の顔を見た。いや、睨みつけたと言った方がいいだろうか。
「……すみません。私まで同席させてもらって」
拓真の言いたいことを察したのか、耕平が申し訳なさそうに頭を下げた。
「だって、私一人じゃ、どうすればいいかわからないから。お願いして付いてきてもらったの。悪い?」
知花が反発するように拓真を見上げた。
「悪いなんて言ってないだろ」
そう言いながら、拓真は美咲の隣の一人掛けのソファに腰を下ろした。
「いいわね。頼れる人がいて」
そう言ったのは拓真の隣で上を向いたままの美咲だ。
「お姉ちゃんにもいっしょに聞いてくれる人がいればよかったのにね」
知花がまた反発する。美咲は一瞬だけ知花を睨んで、今度は横を向いた。
「やめろ! 二人とも。始める前から喧嘩してどうする」
拓真の声に知花もまた横を向く。耕平は黙って下を向いたままだ。
「じゃ、始めるぞ」
そう言って拓真がファイルから取り出したペーパーを自分の顔の前に持ち上げた。
美咲は組んでいた足をほどいて身体をかがめ、テーブルの上に置かれたペーパーに視線を落とした。知花も同じように身体をかがめてペーパーに視線を落とす。二人の動作はおかしいくらい一致していた。
簸の川のほとりでは、開志と塞の神がその様子を見ていた。開志はいつの間にか地面に両手と両膝を突いて、水面に顔を着けるようにして水の中を覗き込んでいた。
「……何が始まるんだ?」
開志が横に立っている塞の神を見上げた。
「遺産分割協議」
塞の神が答えた。
「遺産……分割、協議……そうか。私の財産をどう分けるか、これから話し合うわけか」
「そう。そういうこと」
「それなら……きっと、三人で……うまく……」
「ま、どうなるか、少し見てようよ」
開志の不安そうな声に、塞の神は両手を後ろに組んで、明るく答えた。
川の底に見えるササの事務室では、拓真が手に持ったペーパーの内容を説明し始めていた。
「一番上にあるのがここ、株式会社ササの株の評価額だ。会社の顧問会計士に評価してもらった。ササの株は百パーセント社長だったオヤジが持っていた。もともとオヤジが銀行の退職金を出資金にして立ち上げた会社だからな」
「五千万円……」
声を上げたのは美咲だ。
「これがこの会社の値段っていうこと?」
「会社の純資産ということだ。と言ってもわからないだろうが」
「わかるわよ。今会社を清算すればこれだけの現金になるっていうことでしょ」
美咲が拓真の言葉をさえぎる。知花と耕平は黙ってテーブルの上のペーパーを見つめている。
「これ全部、兄さんが相続するの?」
美咲がまた声を上げた。
「まずはオヤジの財産の全容を説明しておく。誰が何をいくら相続するか、ていう話はその後だ」
拓真が美咲の顔を見ながら言った。美咲はテーブルの上のペーパーを手に取ってまた足を組んだ。
「次がオヤジの住んでいたマンションだ。美咲が同居していたが、今は美咲が一人で住んでいる」
「マンションも全部、お父さんの名義だったの?」
口を挟んだのは知花だ。
「そうだ」
拓真が答える。
「お姉ちゃん、居候だったんだ」
「お母さんが死んでしまったんだもの、お父さんを一人にしておけないでしょ!」
美咲が知花を睨みつける。
「続けるぞ!」
拓真が二人をさえぎる。
「マンションの相続税評価額は七百万円だ」
「ちょっと! 安くない⁉」
声を上げたのは美咲だ。
「相続税の評価額は時価じゃない。建物の相続税評価額は時価よりかなり低くなる。もちろん実際に売却すればもっと高く売れる。相続税のことを考えれば逆にありがたいことなんだ」
「意味わかんない」
そう言ったのは知花だ。
「とにかく話を進めるぞ!」
拓真の声も大きくなる。
「マンションの中にある電化製品や家具はここには入れてない。金額に換算してもたいした額にはならないだろうから」
「私の物もあるし」
美咲がまた口を挟む。
「オヤジの財産の話をしてるんだ」
拓真の声に美咲が口を尖らせる。
「お父さんの財産って言っても、みんなお姉ちゃんが使ってるんでしょ?」
知花が口を挟む。
「あたり前じゃない! 私の部屋なんだから!」
「お父さんの部屋でしょ!」
「やめろ!」
拓真が怒鳴った。美咲と知花がそろって横を向いた。耕平だけが気まずそうに下を向いている。
大きくため息をついてから、拓真がまた話し始めた。
「その下が、金融資産、つまり預貯金だ」
拓真が言うと、横を向いていた美咲と知花がそろってペーパーに向き直った。
しばらくの、沈黙。
ペーパーには横書きでいくつかの銀行や証券会社の名と、それぞれに預けてあった預金や株、投資信託などの金額が書かれていた。株や投資信託の金額は現金に換算した金額だろう。そして最後に、その合計額。
「四千……二百万円……」
つぶやくように声を出したのは美咲。
「……もっとあるかと思った」
そう言ったのは知花。
「まあ、そんなものだろう」
拓真が返す。
「ちょっと……微妙なとこね」
美咲がそう言いながら足を組み直す。
順番に美咲と知花の顔を見てから、拓真が話し始めた。
「以上がオヤジの残した全財産だ。一番下にあるのが、相続税評価額の合計額だ」
「会社の株が五千万円、マンションが七百万、預貯金等が四千二百万、合計で九千九百万円、ていうことね……」
美咲が確認する。
「そうだ」
ひと呼吸おいてから拓真が続ける。
「それじゃ、今からが分割協議だ」
「お父さんの財産をどう分けるか決める、ていうことね」
美咲がまた確認する。
「そうだ」
美咲の顔を見ないまま拓真が答える。美咲、知花、耕平の三人が再びペーパーに目を落とす。
「まず大前提として、オヤジの法定相続人、つまり民法で相続権を認められた人間ということだが、美咲、知花、俺の兄妹三人ということになる。母さんはもういないからな」
美咲と知花が無言でうなずく。
「念のため言っておくが、知花の夫の耕平君は部外者ということになる」
「だから、お願いして付いてきてもらったの!」
知花が頬を膨らませる。
「……すみません」
耕平が申し訳なさそうに小さな声を出す。
「耕平さんはともかく、私たち三人の権利は平等っていうことよね」
美咲も再び顔を上げる。
「そうだ。法定相続分は三人平等に三分の一ずつだ。だが簡単に三等分っていうわけにはいかないだろ。そのためにこうやって協議するんだ」
「三分の一ずつに分けなくてもいいの?」
知花が怪訝そうな声で言う。
「法定相続人が協議して決めてもいいことになってる」
「法定相続人全員が合意すれば、ていうことよね」
拓真の顔を睨みながら、美咲が付け足すように言う。
「そのための協議だ」
拓真が美咲を睨み返す。美咲が拓真から視線を外す。
「まず、オヤジの会社、ササの株だが」
二人が黙り込んだのを確認して、拓真がまた話し始める。
「これは当然、俺が取得することになる。社長のいない今、会社を経営しているのは俺だ。文句ないな」
「でも、全財産の半分以上よ!」
美咲がすぐに反応する。
「あくまで相続税の評価額としての金額だ。実際に俺がその金額を使えるわけじゃない」
「でも、会社を売り払えば五千万になる、てことでしょ!」
「オヤジが立ちあげて二人でここまでやってきた会社だぞ! 売るわけないだろ!」
拓真の声がまた大きくなる。
美咲は口を尖らせたまま黙り込んだ。
「まあ、お父さんと兄さんでやってた会社だからね……」
知花が、仕方がないといった表情でつぶやく。
美咲が何も言わないのを確認してから、拓真がまた話し始めた。
「次に、オヤジが住んでいたマンションだ」
「それは私の物よね。今も私が住んでるし」
と、美咲。
「まあ取りあえずそうしておこう」
「とりあえず、て、何よ」
美咲がまた口を尖らせる。
「マンションの中にある家具類も、とりあえず美咲ということにしておこう」
「あたり前じゃない」
拓真の言い方が不満そうな美咲。
「お父さんの物はないの?」
知花が口を挟む。
「衣類や身の回り品は俺と美咲で整理した。残っているのは動かせない家電や家具だ」
拓真が話しを進める。
「残りは金融資産、つまり預貯金と、証券会社でオヤジが買った株や投資信託だ。これをどう分けるかだ」
美咲と知花がまたペーパーに目を落とす。
「葬儀代など当面の費用は俺が立て替えている。その分はまず、ここから差し引いて清算させてもらう。いいな?」
「私も今月分の公共料金を立て替えてるわよ。兄さんが父さんの銀行口座ストップさせちゃったから。その分も清算してよ」
「でも電気とか水道とか、お姉ちゃんも使ってるでしょ」
知花が口を挟む。
「半分は父さんです!」
美咲が言い返す。
「姉さんの方がたくさん使ってるような気がするけど」
「そんなことないわよ!」
「やめろ! 二人とも!」
拓真がまた怒鳴り声を上げた。
「公共料金も清算してやる!」
「あたり前でしょ」
美咲も知花もまた口を尖らせる。
二人を交互に睨みつけてから拓真が続けた。
「そういった諸費用を清算した上で、後の金融資産はきれいに三等分、というのが妥当なところだと思うが」
拓真がまた二人の顔を見る。
「全部で四千二百万だから、一人、千四百万円ていうこと?」
美咲が訊き返す。
「諸費用を清算すると、一人千三百万だな」
「ちょっと、何言ってるの!」
美咲が声を上げながら立ち上がった。
「不満があるか?」
「少なすぎる!」
「平等だろ」
「だから! 兄さんはこれプラス五千万円ももらうのよ!」
「言っただろ! ササの株の金額は机上の物だ! 実際に使える金じゃない! それにお前にはマンションがあるだろ! あれだって売れば四、五千万はする!」
「だって私の家よ! それこそ、売れるわけないじゃない!」
「それにササの株の分の相続税も俺が払うことになるんだ! 俺の手取りはお前たちよりずっと少なくなる!」
「相続税って……いくらよ」
美咲の声が小さくなる。
「総額で五百七十万だ。顧問会計士に計算させた。そのうち三百七十万を俺が払うことになる」
「私たちも……払うの?」
「ああ、そうだ。ざっくり美咲が百二十万、知花が八十万だ。大部分は俺の負担だ。本来ならその分を上乗せしてもらいたいところだが、譲歩してやろうと言ってるんだ」
「何言ってるの、あたり前じゃない。たくさんもらうんだから」
拓真と美咲が睨み合う。
「ちょっと待って!」
口を挟んだのは知花だ。
「私はどうなるの? 兄さんには会社が、姉さんにはマンションがあるのに、私は預金だけ?」
「だから、会社の株のことは考えるな!」
「でも、その会社からの利益が全部兄さんの物になるんでしょ」
「遊んでて利益が上がるわけじゃない! 会社を経営するっていうのは大変なことなんだ! お前たちにできるのか!」
「できないわよ! だからって、預金が三等分って不公平じゃない? 私だけ、少ないよ!」
「知花のところは耕平君の収入があるだろう! 俺は、ササの収益で妻と子供たちを養って行かなければならないんだぞ!」
「私の収入なんて、そんな、たいしたことないですし……」
ようやく耕平が口を挟む。
「うちだって子供がいるわよ!」
耕平を無視して知花が叫ぶ。
「まだ四歳だろ! 俺のところは中二だ! 金のかかり方が違う!」
「関係ないわよ! うちだってすぐに大きくなるんだから!」
「まあまあ……そんな、大きな声を出さないで……」
耕平が知花をなだめようとする。
「あなたはどっちの味方なのよ!」
知花が耕平を睨みつける。
「夫婦同士で、みっともない」
美咲がつぶやく。
「一人暮らしの姉さんなんか、自分の使いたい放題じゃない!」
知花が今度は美咲に言い放つ。
「なんですって! 私だって毎日仕事に出て、苦労して自分の生活費稼いでるのよ!」
「お父さんに食べさせてもらってたんじゃないの?」
「お黙り!」
とうとう美咲が立ち上がった。
「何よ!」
知花も立ち上がる。
見上げる耕平の顔は今にも泣き出しそうだ。
「やめだ! 今日はこれまでだ! お前たち、いったん帰れ! 頭を冷やして来い!」
拓真の大声が、狭い事務室を震わせた。
いつの間にか、簸の川は静かな水の流れだけを映し出していた。
開志は、大きなため息を吐いた。
「こんな……こんなはずじゃ、なかった……」
「たいへんそうだね」
開志のつぶやきに、隣に立っていた塞の神が答えた。
「仲のいい兄妹だと思っていたのに……」
「ま、お金のこととなると、人間なんてあんなもんでしょ」
「はあ~」
開志がまたため息を吐く。
「どうすれば……どうすればいいんだ……」
「おじさんが決めてあげれば?」
「私が?」
「そう。おじさんの財産なんだし」
「でも……どうやって」
「遺言」
「遺言?」
「そう。日本の民法では、遺言があれば、相続人は遺言どおりに財産を分けなければならないことになってる」
「そうなのか……でも、私はもう……」
「遺言、書かせてあげる。私が、書かせてあげる」
「……どういうことだ?」
「私、一応、神様なんで。言ったでしょ」
「……どうやって?」
「目をつぶって」
言われるまま、開志は目を閉じた。
「まだ。まだだからね」
塞の神の声が聞こえた。言われた通り、開志はじっと目を閉じていた。
「いいよ」
そう言われて開志は目を開けた。しかしそこは……暗闇の中。先ほどまでいた場所と同じ。何も変わっていない。
左右を見回してみた。いや、違う。さっきまでいた場所とは、違う。さっきまでいた狭い洞窟のような所ではない。壁に囲まれているようではあったが、ある程度の広さがある。
向かって正面は……壁ではない。窓だ。ブラインドが降りていて外の様子は見えない。ブラインドのわずかな隙間から見える窓の外側も、暗い。きっと夜中なのだろう。
次第に目が慣れてきた。奥の窓の前にあるのは……事務机。そして自分のすぐ近くにあるのは……ソファ。応接用のソファ。
わかった。そこは、開志の馴染みの場所。株式会社ササの事務室だった。開志は、先ほどまで簸の川に映っていた、あの事務室の中にいた。さっきまで拓真が立っていた場所に、開志は立っていた。
「電気のスイッチの場所はわかるよね?」
塞の神の声がした。
もちろん……わかる。後ろを向いて数歩歩くと入り口のドアがある。そのすぐ横の壁。手探りをするまでもなく、身体がその位置を覚えていた。開志は手を伸ばして、スイッチを押した。部屋の中が明るくなった。
「眩しい!」
塞の神が声を上げた。塞の神は応接用の三人掛けのソファの真ん中に座っていた。
開志自身も、久し振りに明るい光を感じた。LEDの人工的な光ではあるが。
開志は部屋の中を見回した。懐かしい、という感覚はなかった。見慣れた、自分の事務室。
「それじゃ、さっさとやっちゃおっか」
塞の神がLEDに向かって手のひらをかざしながら立ち上がった。
「やる、て……何を?」
「だから、遺言。筆記用具、あるでしょ?」
「……ああ」
そう……そうだった。開志は塞の神の言っていることを理解した。
開志は窓の前にある自分の事務机に向かった。引き出しを開けると、中にレポート用紙があった。それを取り出して机の上に置く。机の上のペン立てには何本かのボールペン。
「さ、そこに座って」
開志は塞の神に促されるまま机の向こう側にある椅子に座った。
社長席。もともと自分の席だ。
「時間はあまりないからね。急いでね」
「え?」
「一時間ちょうど。もう何分か使っちゃってるけどね」
「……ちょ、ちょっと待って……そもそも、私はもう死んでいるはずじゃ……」
「そうだよ」
「だったら、今から遺言を書いて、有効なのか?」
「あ、そうだ。言い忘れてたね。今ね、おじさんは、おじさんが死んだ日の前の日に戻って来てるの」
「……死んだ日の、前の日?」
「そう。おじさんが倒れた日の前の日の午後十一時に戻ったの。この次の日の午後、おじさんはこの事務所で倒れて、そのまま死んじゃうんだ」
開志は思い返していた。確かに、ここで拓真と打ち合わせをしている最中に……
「だから、今遺言を書いておけば、それは有効っていうこと」
「……いいのか? 今からそんなことをしても……」
「だから、特別に有効な遺言を作らせてあげる、ていうこと。本当は公証人役場へ行って公正証書で作るのがいいんだけど、さすがにそんなことまでできないし」
「公正証書?」
「いいから! つべこべ言ってると時間なくなっちゃうよ。ここにいられるのは午前零時まで、次の日になるまでなんだから」
「午前零時まで? たったの一時間?」
「そう。言ったでしょ。そういう約束だから」
「約束?」
「そう。わたしにこの仕事を押し付けた、じゃなくて、任せてくれた、偉い神様との約束」
「……そうなのか」
「だから、さっさとやっちゃおうよ。誰かに見つかってもヤバイし」
「いや……そう言われても……何を書けばいいのか……」
「だから、おじさんの財産をどう分けるかでしょ」
「……そうなんだが……どう書けばいいのか……」
「形式、ていうこと?」
「それもだが……」
「じゃ、教えてあげるよ」
「あ……ああ、頼む」
開志は答えていた。すっかり塞の神に言われるままだ。
「はい、レポート用紙を広げて」
レポート用紙の表紙を捲った。
「ペンを持って」
ペン立てから使い慣れたボールペンを一本引き抜いた。
「筆でなくて、いいのか?」
「いいの。筆記用具や用紙に規定はないの。鉛筆だと簡単に消せちゃうから、消えないものがお勧めだけど」
「そうなのか……」
「じゃ、まずは表題かな。表題はあっても無くてもいいんだけど、これが遺言書だっていうことがすぐにわかるように。ちなみに今の日本の法律では、遺言書に必要な要件は名前と印鑑と日付。印鑑、あるよね?」
「……ああ、ここに」
開志は机の引き出しを開けて中から印鑑を取り出した。
「印鑑は一番最後でいいから。まず、表題。『遺言書』て書いて」
「……横書きでいいのか?」
「そのへんの形式に規定はないから」
「そうか……しかし、『遺言書』っていうと、やっぱり、縦書きの方が……」
「こだわるわね。じゃ、レポート用紙を横にして縦書きに使えば」
「……そうか、そうすればいいのか」
開志は目の前のレポート用紙を横向きに置き換えた。
「はい、じゃ、書きましょう」
開志は縦書きにしたレポート用紙の一行目に『遺言書』と書いた。
「次に、これが自分の意思だ、ていう主張。宣言、みいたいなものかな」
「宣言?」
「そう。例えば、『私の財産を次のように相続させる』みたいな」
言われる通り、一行開けてその次の行に、開志は『私の財産を次のように相続させます』と書いた。
「うん。じゃ、いよいよ具体的な分け方ね」
「ああ……それが問題なんだ……」
「長男の、拓真さん、だっけ? 彼が作った財産目録は今ここにはまだないんだけど、確か最初に会社の株のことを言ってたよね?」
「そうだ。株式会社ササ。私が立ち上げた会社……私の一番の財産だ……」
「やっぱり、拓真さんに引き継いでもらうのかな?」
「ずっと二人でやってきた会社だから……それしかない」
「だったら、拓真さんが言ってたとおり、会社の株は全部拓真さん?」
「そう……それしかない」
「だったら、『株式会社ササの株をすべて長男拓真に相続させる』ていうことかな。そう書いてみて。そうそう、財産ごとの項目には番号を付けた方がいいかも」
開志は便箋の次の行に『一、株式会社ササの株をすべて長男拓真に相続させます』と書いた。
「次は、おじさんが住んでたマンションかな?」
「……そうだな」
「長女の、ええと、美咲さん。美咲さんは、あのマンション、当然自分の物だと思ってるみたいだけど……それでいいかな?」
「美咲にとっても自分の家だからな……そうするしかないだろう」
「じゃ、そう書いて。『自宅のマンション』ていう書き方でもいいけど、マンション名とか部屋番号も書いておいた方がいいかな。それと、『その中にある家財家具を含む』とか入れておいた方がいいかも」
言われた通り、開志は便箋の次の行に『二、自宅のマンションおよびその中にある家財家具全部』と書き、カッコ書きでマンション名と部屋番号を書いた。そしてそれに続けて『これを長女美咲に相続させます』と書いた。
「あとは、預貯金ね。拓真さんが作った財産目録だと合計で四千二百万円っていうことだけど、合ってる?」
「ああ、それくらいだ」
「で、どうするの? どう分ける?」
「……少し、考えさせてくれ」
「いいけど、時間ないからね」
「ああ……わかった」
開志は目を閉じた。
しばらくして、目を開けた開志が塞の神に訊いた。
「法律では、子供たちの権利は平等、つまり三分の一ずつとういことだったな?」
「そうだよ」
「だったら……拓真の言うとおり、三分の一ずつ分けるのが公平だろうか」
「全財産でみると公平とは言えないけどね。拓真さんは会社、美咲さんはマンションももらうことになるんだから、知花さんのもらう分はちょっと少ないかも」
「……しかし、会社もマンションも分けられないからな……専業主婦の知花は、一番気楽な立場だし……」
「遺留分まで行ってないんじゃない?」
「遺留分?」
「そう、法律で決められた、最低限これだけはもらえる、ていう権利」
「それは……いくらだ」
「遺留分は法定相続分の半分。拓真さんも言ってたけど、法定相続分っていうのは法律で決められた相続割合。おじさんの場合は、相続人が子供三人だから、それぞれの法定相続割合は三分の一。すると相続人一人あたりの遺留分は?」
「三分の一の半分。六分の一ということか」
「正解」
「……ちょっと待ってくれ。法定相続分ていうことは……やっぱり、その通りに分けなければいけないんじゃないのか? 本当にその通りでなくていいのか?」
「だから、相続人全員で話し合って合意すれば法定相続分通りに分けなくてもいいし、遺言書があればそれよりももっと優先。遺言書が最優先なの。ただし、自分がもらう分が遺留分より少なかった場合は、他の相続人にその差額を請求することができるの」
「……そうなのか。それで……遺言……」
「そう。実際に計算してみようか。電卓ある?」
「ああ」
開志は机の引き出しから電卓を取り出した。
「おじさんの財産の相続税評価額は、全部で九千九百万円。そう置いてみて」
開志は言われた通りの数字を電卓に打ち込んだ。
「内訳は、会社の株が五千万円、マンションが七百万円、預金が四千二百万円ね。そこから葬儀費用やら未払いの公共料金やらを引く。ざっと三百万円だったわね。そうそう、他に大きな借金とかないよね?」
「ああ……それはない。マンションのローンも、だいぶ前に終わった」
「じゃ、そこから三百万円を引いて」
開志は言われた通りに電卓に打ち込んだ。
「九千六百万円……」
つぶやくように、電卓に表示された数字を読み上げた。
「それを六で割ると?」
言われるままに電卓で計算する。
「千六百万円……」
「そう。それが一人あたりの遺留分。で、知花さんがもらう財産は?」
「四千二百万の三分の一……千四百万円」
「その差額は?」
「……二百万円」
「そう。知花さんはその二百万円を拓真さんと美咲さんに請求できるっていうこと。もちろん知花さんが請求しなければそのままっていうことだけど、あの感じだと、請求するでしょ。絶対」
「……だったら、最初からその分を知花が受け取るようにしておけば……」
「そうね。じゃ、知花さんが千六百万円、拓真さんと美咲さんが千三百万円ずつかな?」
「美咲は……どうだろうか。三百万でも、知花より少ないのは、美咲には不満かもしれない……」
「じゃ、知花さんと美咲さんが千六百万円ずつ、拓真さんが一千万円?」
「いやしかし、拓真は相続税を払分ければならないんだったな」
「そうね。会社の株の分、みんなより多く。三百七十万って言ってたわね」
「その分、拓真の取り分を多くしておかないと……」
「拓真さんの取り分を多くすれば、美咲さんと知花さんの取り分が少なるけど」
「そういうわけにはいかないか……ササの株の割合が高すぎるんだな……」
「仕方ないけどね。五千万円、全体の半分以上だものね」
「最初は小さな会社だったんだがな……順調に利益を上げて、剰余金の運用もうまく行っていたからな……」
「おじさんの手腕、てことね」
「いや、それほどでも……」
「て、謙遜してる場合じゃなくて」
塞の神に言われ、開志は首をかしげて考える。
「……ササの株を美咲と知花にも分けたらどうだろう?」
「二人にも会社の経営に参加させる、ていうこと?」
「いや、経営者はあくまで拓真だ。美咲や知花に会社の経営ことはわからないだろう」
「でも、経営に対する発言権は発生しちゃうよ」
「二人が会社の経営に口出しすることはないと思うが……」
「会社がもうかったら、その利益を分配して、ていうことは、言うと思うよ」
「それは……そうだな」
「拓真さんが、妹二人のためにもがんばる、ていうこと?」
「そうして欲しいが……」
開志はまた考え込んでしまった。
「あの」
塞の神が開志の顔を覗き込んだ。
「悪いけど、そろそろ時間がないんだけど」
「え?」
開志が顔を上げた。
「一時間、ていう約束でしょ?」
「……ああ」
開志は壁に掛けてある時計を見た。時計の針は十一時四十五分を示していた。いつの間にか時間が経過していた。
「……どうしよう」
開志がつぶやいた。
「どうしたらいい?」
「ま、おじさんの財産なんだから、おじさんが決めて」
「それはそうなんだが……生きてるうちにきちんと考えておけばよかった……まさか、突然こんなことになるとは……」
「そんなこと言ってもね。とにかく、特別に時間を作ってあげたんだから、ここで何とかして」
「……わかった」
開志は書きかけていたレポート用紙の一枚目を切り離し、それを丸めると机の横のごみ箱に投げ込んだ。
「最初から書き直し?」
「ああ」
開志は再びボールペンを手に持った。
「まずは、『遺言書』だったな」
「うん」
開志は二度目の遺言書を書き始めた。
『遺言書』
『私の死後、私の財産を次のように相続させます』
『一、株式会社ササの株を』
そこまで書いて、開志の手が止まる。
「ふんふん、で、どうするの?」
机の向こう側から覗き込んでいた塞の神が顔を上げて開志の顔を見た。
一呼吸置いて、開志が続きを書く。
『長男拓真、長女美咲、次女知花にそれぞれ三分の一の割合で相続させます』
「それでいいの?」
「ああ」
塞の神にかまわずに開志が続ける。
『二、自宅のマンションを長男拓真、長女美咲、次女知花にそれぞれ三分の一の割合で相続させます』
「え、それも?」
「ああ」
「マンションの所有権を分けちゃうってこと?」
「ああ」
表情を変えないまま開志が答えた。
「売って分けろ、ていうこと?」
「いや、それは三人で話し合って決めればいい」
「ふ~ん。で、中にある家具とかは? 今は美咲さんが使ってるけど」
「それも三人で話し合えばいい」
「……いいけど、さっき三人で話してたとこ、見てたでしょ?」
「ああ」
「三人で話し合って、て、それでまとまると思う?」
「私は……三人を信じてる。三人とも、私の子だ」
「あそう。おじさんの財産だからね、私はいいけど。それなら、そう書いておいた方がいいよ、但し書きみたいしして」
「但し書き?」
「『マンションの室内にある家具類は三人で協議して決めること』、とかね。家具は不動産みたいに所有権の登記はできないないから」
「わかった」
そう言って開志は言われた通りの文言を書き加えた。
「あとは預貯金とかだね。それもやっぱり?」
「ああ、三等分だ」
「ふ~ん。じゃ、そう書いて」
「預貯金っていう書き方でいいかな?」
「上場株や投資信託なんかもあったよね。ひっくるめて『金融資産』ていうことだけど、預けてある銀行や証券会社も明記しておいた方がいいよ。証券会社で買った株はササの株と区別しておいた方がいいし」
「わかった」
開志が再びレポート用紙に向かう。
『三、南北銀行、大江戸銀行、東西証券に預けてある金融資産を長男拓真、長女美咲、次女知花にそれぞれ三分の一の割合で相続させます』そう書いた。
「よし」
そう言って開志はボールペンを置いた。
「よし、って、これじゃ結局、遺言書なくても一緒じゃない?」
「そうかもしれないが……いや、これでいい」
「ま、おじさんがいいならいいけど。そうそう、最後に、『遺言執行者』を決めておかないとね」
「遺言執行者?」
「実際にこの遺言の内容どおりに手続きをする人。遺言書いても、それを実行してくれる人がいないとね。本当は相続人と利害関係のない人がいいんだけど……それも法律の専門家で。弁護士さんとか司法書士さんとか信託銀行とか」
「ササの顧問会計士は?」
「う~ん、立場としては拓真さん寄りだけど、遺言の内容が三等分だからいいかな」
「じゃ、そうしよう。他に心当たりもないし」
「それじゃ、こう書いて。『四、この遺言の執行者として、株式会社ササの顧問会計士……』」
「沼田一郎だ」
「『沼田一郎を指名します』て」
「こうか……」
開志はこれも言われた通りの文言を書き加えた。
「それじゃ、最後におじさんの名前と印鑑。この事務所に置いておけば、おじさんの遺言書だとわかると思うけど、念のためおじさんの住所も書いておいた方がいいかな」
開志は自分の住所と氏名を書き入れると、引き出しから取り出したまま机の上に置いてあった印鑑を手に持った。
「この印は実印じゃないが……」
「実印でなくても大丈夫だよ。あと、日付ね。今日は、おじさんが倒れる前の日だからね」
「……ああ、ちょっと……複雑な気分だな」
そう言いながら日付を書き入れ、名前の下に印鑑を押した。
「そうだ、忘れてた。封筒だ。封筒、あるでしょ?」
「もちろんあるが……」
開志は机の引き出しから郵便用の茶封筒を取り出した。
「その中に今書いた遺言書を入れて」
「あ……ああ」
開志は言われるままに遺言を書いたレポート用紙を折りたたんで茶封筒の中に入れた。
「そしたら封をして、そこにも印鑑。封印ね」
「封印まで?」
「そう。勝手に開けられないように」
開志は言われた通り茶封筒に封印を押した。
「最後に、封筒にも『遺言書』て書いておいて。それが遺言書だってすぐにわかるように」
開志はその通りに封筒に縦書きで「遺言書」と書いた。
「これで……いいのか」
ボールペンを置いた開志は改めて封筒を手に取って、自分で書いた「遺言書」という文字を見つめた。
「たいへんだ。もう一分前だよ」
塞の神が立ち上がった。
「え?」
「早くその遺言書を机の中にしまって」
「あ……ああ」
開志は遺言書の入った封筒を机の引き出しに入れた。
「帰るよ!」
塞の神が声を上げた。
気が付くと、開志は簸の川のほとりに立っていた。
「はあ~」
開志はため息を吐いた。
「これで、三人が争うことはなくなるだろうか……」
「さあ、どうかな」
すぐ横で塞の神が言う。
「どうかな、って……」
「確かに、遺言書があれば法律上は遺言書どおりに分けなければいけないんだし、遺言執行者も指定したからその人にも遺言通りの手続きをする義務があるわけなんだけど……人の気持ちはまた別物だから」
「どういうことだ?」
「みんなが納得するかどうか、ていうこと」
「……」
開志は言葉に詰まった。
「もう一回見てみる? その後、どうなったか」
「その後って……そんなにすぐに変わるものなのか? たった今遺言書を書いて戻って来たばかりなのに……」
「ここでの時間の経過は、向こうの世界とは違うの」
「……その後のことを見ることもできるのか?」
「うん」
「だったら……頼む。見せてくれ」
「いいよ。じゃ、またあの辺を見てて」
開志は再び、簸の川に目を遣った。川底が青白く光り始めた。そこにまた、ササの事務所が現れた。
「どういうこと!」
大きな声を上げたのは長女の美咲だ。前に見た時と同じく、足を組んで応接用のソファに座っている。
美咲の隣には長男の拓真が座っている。向かい側の二人掛けのソファにはやっぱり前回と同じく次女の知花とその夫の耕平。
前回、拓真が立っていた位置にはスーツ姿の太った中年男性が立っている。ササの顧問会計士の沼田だ。
「どうと言われましても……社長の遺志ですから……」
沼田がハンカチで額の汗を拭く。
「そもそも、ほんとうにお父さんの遺言なの⁉」
美咲が沼田を睨みつける。
どうやら、遺言執行者に指名されていた会計士の沼田が遺言書の内容を四人に説明した後らしい。
「はい……家庭裁判所で検認の手続きもしてあります」
美咲の勢いにたじろぎながら沼田が答える。
「検認?」
聞き返したのは知花だ。
「はい。家庭裁判所で遺言書を開封してその内容を確認する手続きです。遺言書を隠したり、他の人が書き変えたりできないように……」
「この前は遺言があるなんて言ってなかったじゃない!」
美咲が沼田の言葉をさえぎる。
「それが、あったんだ。社長の机の引き出しに。どうしてすぐに見つからなかったのか、不思議なんだが……」
拓真がなだめるように言う。
「三人で分けろって、どういいこと?! 私が住んでるマンションなのに!」
遺言書が発見された経緯より、美咲が不満なのはその内容だ。
「オヤジの遺志なんだからしかたないだろう。売却して三人で分けろ、ていうことじゃなないか?」
「冗談じゃないわ! 私はこのまま、あそこに住み続けますから!」
「それじゃ三人で分けたことにならないだろ!」
「不動産の登記だけしておけばいいでしょ! そうだ、固定資産税は三等分よね! 自分の分は自分で払ってよね!」
「ばかいうな! それより、ササの株だ! お前たちに会社のことなんてわからないだろ!」
「それこそ、売って三人で分けろ、ていうことじゃない⁈」
「オヤジがそんなこと考えるはずないだろ!」
「じゃ、どうやって分けるのよ!」
「……利益の配当金は、もれえるのよね?」
黙っていた知花が口を挟む。
「何もしないくせに、配当だけもらう気か?」
拓真が知花を睨みつける。
「だって、そういうものでしょ。私には他に何もないんだし……」
「会社を売らないんだったら、私たちのためにせいぜい頑張って稼いでよね」
美咲が足を組み直しながら言う。
「何だと!」
拓真が声を荒げる。
「まあまあ……」
三人をなだめようとする耕平。困った顔をしてただ立ち尽くす沼田。
「こんなんじゃ、遺言の執行なんて……とても……」
沼田が漏らした独り言を聞いている者はいなかった。簸の川のほとりから、その様子を見ていた開志と塞の神の他には。
「遺言書、なかった方がよかったかもね」
うなだれる開志の横で塞の神がつぶやいた。
「こんな三人じゃなかったのに……いつの間にこんな風に……」
「今さらそんなこと言ってもね」
「仲のいい子供たちだったのに……母さんが死んでからだろうか……私が悪いのだろうか……こんなんじゃ、母さんに顔向けできない……」
「……」
塞の神もさすがに言葉が出ない。
「それに……私が死んだというのに、私の財産のことばかりだ……私のことなど、何とも思ってなかったのだろうか……」
塞の神が開志の方に向き直った。
「次は、そっちかな」
「……次?」
「そう。おじさんの心配事、一つずつ解消して行かないとね。それが私の役目だから」
「……私のために?」
「あれ、言ってなかったっけ? おじさんのため、てうか、ここを渋滞させないのが私の仕事だから」
「そういうことか……このままじゃ、私が成仏できないから……」
「ま、あまり深く考えないで。とにかく、次、見せるから」
そう言いながら、塞の神がまた簸の川の方に向き直った。
「……また何か、見えるのか?」
「見てて」
そう言われて開志もまた簸の川に目を遣った。川の底がまた、青白く光り始めていた。
現れたのはまた、会社、ササの事務所だった。しかし今度は、そこにいるのは拓真一人だけだった。拓真は事務机に座ってパソコンを睨んでいる。どうやら仕事中のようだ。
「どういうことだ? そんな大事なことを、突然、しかもメールで」
拓真はつぶやいた。
拓真が見ているパソコンの画面には取引先の百貨店からのメールが表示されていた。
メールの文面にはこうあった。
『笹谷社長のご逝去の報に接し、心からお悔やみ申し上げます。さて、この様なタイミングでこの様なことをお通知いたしますこと、誠に心苦しい限りではございますが、この機会に御社とのお取引を打ち切らせていただきたいと存じます。笹谷社長には長年にわたりたいへんお世話になりましたが、どうか事情をご察しくださいますようお願い申し上げます』
要するに、社長がいたから取引していた、社長がいないなら取引できない、そういうことか。
「俺じゃ、だめなのか」
声に出していた。
社長、いやオヤジが亡くなって、悲しくはあった。淋しいとも思った。しかし仕事は別だ。オヤジがいなくても、自分だけでも十分にやって行けると思っていた。なのに……
確かに、商社に勤めていたオヤジのコネを頼り始めた会社だった。しかしもう十年だ。取引先とは太いパイプが出来ていると思っていた。甘かった。そういえば、最近でもオヤジは、取引先回りだと言って頻繁に外出していた。取引先の接待もしていた。俺は……オヤジに任せていた。オヤジに甘えていた。
「どうしよう……来月の仕入れは、打ち切るべきだろうか……」
パソコンの画面の隅には為替相場が表示されていた。為替の様子がいつでもわかるように設定してあった。設定したのは……オヤジだった。
円安が進んでいる。ということは、仕入れの原価が上がっているということだ。やはり仕入れの数量を少なくした方が……しかし、もしそれで仕入先からも取引を断られたりしたら……仕入先はオヤジがヨーロッパに勤務していた時に開拓した先だ。国内の販路ならまだ自分でも開拓できるかもしれない。しかしヨーロッパの仕入先は一度失ったら回復できない。ヨーロッパまでは行けない。行っても交渉できるほどの語学力はない。
考えている間にも円安が進む。せめて為替が円高にぶれてくれればコストダウンできるのだか……次は、円安か、それとも円高か……
オヤジの為替の読みはいつも適格だった。でも、自分には……わからない。わからない。
「オヤジ……助けてくれ。頼む、助けてくれ」
拓真は目を閉じて、パソコンの画面に向かって手を合わせていた。
開志は、両手を突いてうずくまるようにして川の底を覗き込んでいた。
「どお? おじさんがいないとやっぱ困るみたいだよ」
開志を見下ろしながら塞の神が言った。
「ああ……きちんと教えておけばよかった」
開志がため息を吐きながら言った。
「かえって、落ち込ませちゃったかな?」
開志は黙って首を垂れた。
「おじさんが死んだこと、何とも思ってないわけじゃない、ていうことを見せたかったんだけど」
「それはわかった……しかし、このままでは、会社が……」
「まあそれは後で何とかするとして……他の人も見せてあげよっか?」
「他の人……美咲と知花のことか?」
「そう。やっぱ気になるでしょ?」
「ああ……それはそうだが……」
「じゃ、先に一通り見てみよっか」
「ああ……見ることができるのなら……」
「先に、こっちかな」
そう言って塞の神がまた簸の川を指さした。川の底がまた、青白く光り始めた。
そこは、明るい部屋の中だった。
自分が住んでいたマンションの部屋か? 一瞬、開志はそう思った。いや、違う。しかし見覚えがある部屋だ。思い出した。次女の知花のアパートだ。知花と、連れ合いの耕平が暮らしているアパートの部屋だ。
サッシの戸が開いて、次女の知花が部屋の中に入って来た。洗濯物が入った大きな籠を抱えている。ベランダに干してあった洗濯物を取り入れたところのようだ。
知花が洗濯物を抱えたまま片手で隣の部屋の襖を開ける。和室の真ん中に敷かれた小さな布団の上で、知花の娘、つまり開志の孫、四歳の若菜が眠っていた。
知花が布団の横に座り、籠から洗濯物を取り出して折り畳み始めた。穏やかな、幸せそうな風景だ。
眠っていた若菜が目を覚ました。布団の上で一度四つん這いになってから立ち上がる。
「ごめんね、起こしっちゃった?」
知花が若菜に優しく笑いかける。
「ワカナもやる」
そう言って若菜が知花の隣にしゃがみ込んだ。洗濯物を折りたたんでいる知花を手伝うということだ。
「ありがとう。それじゃ、若ちゃんは靴下をお願い」
知花が若菜に小さな靴下を手渡す。若菜がそれを畳の上に広げて小さな手で左右を重ねる。
「この前は、ジイジとバアバとお留守番できて、偉かったね」
知花が若菜に話しかける。拓真、美咲、知花、それに耕平の四人で開志の遺産の分割協議をした時のことを言っているのだろう。
「うん、ジイジが絵本読んでくれたから」
「そう、よかったね」
若菜が揃えた靴下を受け取りながら知花が言う。
「……でもね」
「なに?」
知花が若菜の顔を覗き込む。
「ワカナ、ママのジイジに会いたい」
「え?」
洗濯物を畳む知花の手が止まった。ママのジイジとは、つまり知花の父、開志のことだ。
「ママのジイジ、どこ行っちゃったの?」
「……」
知花が言葉に詰まる。
「……ママのジイジはね、遠いとこに行っちゃったの」
かろうじて声が出る。
「また会える?」
「……そうね、会えたらいいね」
「ママのジイジと、遊びたいなあ」
若菜が言う。
「前にジイジと公園に行った時ね、すべり台でね、ワカナ、一人ですべれなかったんだ。怖くて。でね、ジイジにだっこしてもらって、いっしょにすべったの」
「そうなの……」
千花は、幼い頃、自分も同じように父、開志に抱かれてすべり台を滑ったことがあったのを思い出した。
「優しいね……ジイジは、優しかったよね……」
「今度はワカナ、一人ですべれるから……でもやっぱり、ジイジといっしょがいいな……ジイジといっしょにすべりたいな……ジイジに、会いたいな……」
知花は……泣いていた。
「そうだね……ママも……ママも会いたいよ。ジイジに、会いたいよ……」
泣きながら、精一杯の笑顔を作って、知花が言った。
「ジイジに……また会えると、いいね」
開志もまた、泣いていた。簸の川を覗き込みながら、泣いていた。もう死んでしまっているはず自分の目からも涙が流れることを不思議に思いながら、それでも泣いていた。
「ほら、おじさんのこと、何とも思ってないなんてことないよ。若菜ちゃんも、知花さんも」
塞の神が開志に声を掛けた。それでも、開志はただ、泣き続けていた。
「もう一人だから、見ちゃおうよ。そしたら次に行けるから」
開志がようやく顔を上げた。
「……次?」
「そう、見て」
そう言って塞の神がまた簸の川を指さした。川の底が青白く光り始めていた。
開志は立ち上がり、手のひらで涙を拭いた。鼻をすすり上げてから、再び大きく目を見開いた。
川底に見えたのは、照明に照らされたコンクリートの通路。通路の左側には茶色いドアが並んでいる。見慣れたドア。開志が暮らしていたマンションだ。開志の部屋はマンションの七階にあった。通路の右側には街の夜景が広がっている。
通路の奥にエレベーターがあった。エレベーターの扉が開いた。中から出て来たのは、長女の美咲だ。
「木下のやつ、ミスばっかりしやがって!」
歩きながら独り言を言っている。三つ目のドアの前で立ち止まる。開志と美咲が暮らしていた部屋だ。
ベージュのジャケットに濃紺のスカート。美咲は保険会社で事務員として働いていた。会社から帰宅したところのようだ。
肩から下げたバッグからキーホルダーを取り出す。鍵穴にカギを刺して扉を開ける。扉の内側は……真っ暗だ。
「……ただいま」
そう言いながら美咲が部屋の灯りを点ける。返事はない。当たり前だ。開志が死んだ今、その部屋の住人は美咲一人だ。
パンプスを脱いで部屋に上がる。着替えもせずにそのままキッチンの冷蔵庫へ。
「いけね、ビールもうなかった」
そう言って乱暴に冷蔵庫を閉める。リビングへ移動し、脱いだジャケットをハンガーに掛けると、美咲はそのままソファに倒れ込んだ。
「木下のやつ、ミスばっかりしやがって……」
先ほどと同じことを言っている。
「新入社員の時からずっと面倒見てやってるに……どうして成長しないんだよ」
どうやら木下というのは会社の後輩社員のようだ。女性だろうか……それとも、男性か。
疲れているのだろう。美咲が目を閉じた。そのまま眠ってしまうつもりだろうか。
「父さん……何か作って」
目をつぶったまま美咲が言った。夢を見ているのか。
「父さん……私、一人じゃ何もできないよ……」
違った。美咲の目からは……涙があふれていた。
「どうして……私だけ一人なの? ひとりぼっちなの?」
美咲の目からこぼれた涙がソファに落ちた。
「淋しい……淋しいよお……父さん……どうして死んじゃったのよお」
涙も拭かないまま、美咲が続けた。
「お金なんかいらないよ……だから……帰って来て……帰って来て……父さん……」
「……すまない……美咲、すまない……」
泣きながら、開志は絞り出すように声を出した。
「……私は……もう、あそこへ帰ることはできないのだろうか……」
開志が塞の神を見上げた。
「……お願いだ……あそこへ……あそこへ帰してくれ……」
目を擦り、すがるように塞の神の顔を見る。
「それはちょっと、無理。できない」
塞の神が答える。
「……どうしても……できないのか」
「できない、ていうか、私の権限を超えてる。だから、私にはできない」
「……それなら、どうすれば……」
開志がうなだれる。
「私は……私にできることをするだけ」
「できること?」
「そう、できること」
開志がまた顔を上げた。
「自分が生き返るのは無理として、おじさんの今の一番の願いは、なに?」
「それは……三人に、拓真、美咲、知花の三人に、幸せになってほしい……」
「そうね……でもちょっと抽象的かな……もうちょっと具体的には?」
「……みんな仲良く……三人、仲良くしてほしい……」
「そうすれば、みんな幸せになれると思う?」
「三人で争うことがなければ……それだけでも」
「そうね。でも、もとはと言えばおじさんの財産が争いの原因だよね。それに、おじさんの中途半端な遺言」
「……ああ、すまないと思っている。しかしあの時は時間がなくて……急かされていたし……」
「私のせい?」
「いや、そんなことはない。生前からきちんと準備してなかった自分が悪いのはわかっている……そうだ、いっそのこと、私の財産が無ければ……」
「まあ、そういうやり方もあるかもしれないけど……それはそれで影響大だし……ちょっとそれも、私の権限を超えてくるかも」
「やっぱり無理な相談か……」
「うん。ここはやっぱり、遺言の執行、ていう方向で行きましょう。それなら私の力で何とかなるかもしれないし」
「遺言の……執行?」
「前に言ったよね。遺言には『執行者』が必要だ、て」
「ああ、そうだった……だから、顧問会計士の沼田を執行者にしたんだ」
「あっちの世界の遺言ではね」
「あっちの世界の?」
「そう。こっちの世界には、こっちの遺言があるの」
「……もう一度、遺言を書くのか?」
「そう」
塞の神が開志に向かって両手を突き出した。塞の神の両手のひらには、折りたたまれた白い和紙と一本の筆が乗っていた。
「いつの間に……どこから……」
「そんなことどうでもいいから」
「……しかし」
「何度も言わせないで。私、神様なんだから」
「……」
開志は黙って塞の神のから和紙と筆を受け取った。
「それじゃ、そこに書いて」
「書いてって、何を……」
「教えたでしょ。まずは、『遺言書』」
言われるまま、開志は左手の上に和紙を広げ、右手に持った筆で和紙の右端に『遺言書』と書いた。筆先はすでに濃い墨を吸っていた。
「次」
塞の神が短く言う。
「ええと……次は」
「細かいことはもういいから、おじさんがさっき言ったこと、書いて。さっき、何て言ってた?」
「あ……ああ……拓真、美咲、知花の三人に、幸せになってほしいと……」
「もっと、言い切っちゃっていいよ。『幸せになりなさい』って」
「あ、ああ」
開志は、和紙にその言葉を書いた。
「それから?」
塞の神が続きを促す。
「拓真、美咲、知花には、お互い争うことなく、仲良くしていてほしい……」
「そこも、『仲良くすること』だね」
開志はその通りに遺言書の続きを書いた。
「これで……いいだろうか」
開志が塞の神を見る。
「あと、遺言執行者ね」
「遺言執行者……」
「こう書いて。『本遺言の執行者として』」
言われる通りに、開志は和紙の上に筆を走らせた。
「『塞の神を指定します』」
「え?」
開志は顔を上げて塞の神を見た。
「聞こえなかった? もう一度言う?」
「いや、そうじゃなくて……いいのか?」
「うん」
塞の神がうなずく。
「そんなこと……できるのか」
「だから、私、神様。まだわからない?」
「そういう意味じゃなくなくて……私なんかの願いを……」
「いいから、早く書いて。早くしないと次の人が来ちゃうから」
ここを渋滞させないのが私の仕事……確かそう言っていた。それなら……
開志は言われた通り、その言葉を和紙に書いた。
「『塞』の字、間違ってない?」
塞の神が言う。開志は和紙を自分の顔の前に持ち上げて確認した。
「……大丈夫だ」
「それじゃ、それをここに乗せて」
そう言いながら、塞の神が開志に向かって緑の葉のついた木の枝を差し出した。
「これは?」
「榊。神様の木」
「神様の……木」
その時になって、開志は気が付いた。塞の神の服装だ。初めて会った時からずっと、塞の神はピンク色のジャージを着ていた。しかし今……塞の神は真っ白な和服を着ている。腰から下には、これも真っ白な襖を履いている。そして、塞の神の胸には……丸い、大きな鏡。首から下げているようだ。
いつの間に着替えたのだろう……口に出しかけて、やめた。そんなことはどうでもいい。塞の神は、神様なのだから。
開志は、上から下へ、改めて塞の神を見た。身長が前よりも高くなっている。顔つきも大人びたように見える。
「では、始めます」
そう言って、塞の神が目をつぶった。
「榊葉に かけし願いは切なれば
八咫鏡よ 照らし給え」
塞の神が、歌った。張りのある大きな声で、祈るように、歌った。
祝詞。それは祝詞だった。
塞の神の胸の鏡が光り始めた。瞬く間に光は強くなり、開志は目を開けていられなくなった。
アパートの和室で、知花は洗濯物を畳んでいた。ベランダ側のサッシから温かな光が差し込んでいる。のどかな昼下がりだ。
知花の隣には四歳の若菜が座っている。幼いながら、母親である知花の手伝いをしてくれている。小さな手で、一生懸命に靴下を折り畳もうとしている。
知花は思った。我が子ながら、優しい子だ。四歳の時、自分は母親の手伝いなどしたことがあっただろうか……そんなことを思った。
突然、意識が遠のいた。気が付くと、知花はショッピングモールのフードコートにいた。フードコートのベンチに座っていた。手には、ソフトクリームの乗ったコーンを持っている。
知花は……四歳だった。四歳の自分になっていた。不安が胸に広がる。それは、自分が突然四歳になってしまったことへの不安ではなく、四歳の自分がその時、その場で感じていた不安、つまり、自分は今、一人きりなのではないか、母親に置いて行かれてしまったのではないかという不安だった。
「おいしいね」
すぐそばから声が聞こえた。三つ年上の姉、美咲の声だ。
横を見た。すぐ横に美咲が座っていた。知花と同じように、ソフトクリームを手に持っている。
よかった。お姉ちゃんがいる。一人じゃない。知花は安心した。
思い出した。知花は、母親の和泉と姉の美咲と三人で買い物に来ていた。
「お母さん、買い物して来ちゃうから、ここで待っててね」
つい先ほど、和泉はそう言って知花と美咲にソフトクリームを手渡し、そのままエスカレーターを下って行った。
「うん、おいちいね」
知花は美咲に向かってそう答えた。赤ちゃん言葉だった。四歳の知花は、まだうまくしゃべれないのだ。
その時。ソフトクリームを持っていた左手の甲に、冷たい、ヌルッとした感触がした。溶けたソフトクリームが手に付いたのだ。
知花は、手の甲を確かめようとして手首をひねった。次の瞬間、ソフトクリームの塊がコーンから落ちた。ソフトクリームはそのまま床に落ち、べチャッという感触とともに潰れた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。しかし、少し経つと、二つの思いが知花の胸の中に膨らんできた。自分が大きな失敗をしてしまったこと、そして、母親に買ってもらったソフトクリームを食べることができなくなったということ。
二つの事実を理解すると、とたんに悲しくなってきた。目から、涙がこぼれてきた。大声で泣き出しそうになった、その時。
「知花、これ食べな」
隣から声がした。美咲の声だ。振り向くと、美咲が自分の持っていたソフトクリームのコーンを知花の方に差し出していた。やっぱり、知花にはすぐに状況を理解することができなかった。
美咲は、知花が手に持っていた空のコーンを受け取ると、代わりに自分が持っていたソフトクリームの乗ったコーンを知花に握らせた。
「気を付けて食べるんだよ」
そう言って、美咲が笑った。あっという間に、知花の胸の中にあった悲しい思いが消えた。
美咲はテーブルの上にあったナプキン入れから紙ナプキンを何枚か引き抜くと、知花の足元にしゃがみ込んで床に落ちたソフトクリームをふき取り始めた。
「お姉ちゃん……ありがとう」
知花は、声に出してお礼を言った。四歳の知花が、美咲に対する感謝の気持ちをどれほど持っていたかはわからない。しかし、三十歳となり、四歳の若菜の母親となった知花は、心の底から、思っていた。
「お姉ちゃん……ありがとう。本当に、ありがとう」
美咲は目を覚ました。ソファに寝転んだまま眠ってしまったようだ。顔を上げた。そこは……マンションの部屋、父開志と二人で暮らしていた、そして今は美咲が一人で暮らしているマンションの部屋、ではなかった。
そこは……電車の中だった。美咲は電車の座席に座っていた。電車の座席に座ったまま、うたた寝をしていたのだ。
向かいの座席には年配の夫婦。車内はそれほど混雑していない。半分までブラインドが降りた車窓からは、オレンジ色の光が差し込んでいる。心地良い揺れ。しかし……自分はどこへ向かっているのだろう。寝ぼけた目で自分の服装を確認する。紺色のブレザーにグレーのスカート、赤いリボン。自分がかつて通っていた高校の制服だ。
ということは……今、学校の帰りだ。そう言えば、電車の中の風景は三年間見慣れた風景だ。
車内にアナウンスが流れた。もうじき駅に到着する。自分の家のある、いや、あった、駅だ。家族が待っている、いや、待っていた、私の家のあった、駅だ。
兄の拓真が結婚して家を出て、妹の知花も結婚して、その後、母さんが亡くなって……あの家は売ってしまった。それから、父さんが買い換えたマンションで父さんと二人で暮らしていた。でも、その父さんも……
駅に着いた。ドアが開く。あわてて電車を降りた。ホームを歩いて改札に向かう。
あの家はまだあるのだろうか。母さんは、あの家で待っていてくれるのだろうか。そんなことを思いながら改札を出る。駅前に駐輪場とコンビニがある。その間の細い通路。そこを通って大通りに出るのが近道だ。
通路に入ると、駐輪場の裏の方に人が座っているのが見えた。黒い学ランと白いセーラー服が二人ずつ。高校生だろう。いや、本当に高校生? そう思った。なぜなら、四人の髪の毛は、皆、金髪。染めているのだ。耳にはピアスも見えた。四人は座って、タバコを吸っていた。
高校生の美咲なら、見ないふりをして通り過ぎていたかもしれない。でも、今の美咲には、そんなことはできなかった。明らかなコンプライアンス違反、いや、校則違反だ。
美咲は立ち止まって彼らを睨みつけた。
「あなたたち、たばこ、やめなさい」
美咲が言うと、四人がいっせいに美咲の方を振り向いた。
「関係ねえだろ」
男子の一人が言った。
「どこの学校ですか。通報しますよ」
美咲が言うと、四人は立ち上がった。
「あんたこそどこの学校よ」
女子のうちの一人が、美咲の方へ向かって歩き始めた。
「……関係ないでしょ」
美咲は、その女子から視線を逸らさずに言った。
「お互い様ね」
その女子が答えた。と、いう間に女子の後ろにいた男子の一人が走り出して美咲の横をすり抜けた。男子はそのまま美咲の背後に回り込み、狭い通路の入り口に立った。逃げ道を塞ぐつもりだ。
「いい度胸してるじゃん」
そう言いながら、二人の女子ともう一人の男子が近づいてくる。美咲は先頭にいる女子から視線を逸らさない。
その女子が美咲の目の前に立った。そして手に持ったタバコの火を美咲の顔に向けた。美咲が思わず後ろを向く。すると後ろにいた男子も手に持ったタバコの火を美咲に向けていた。狭い通路に挟まれた格好だ。
初めて恐怖心が湧く。何やってんだ、私。無防備すぎだろ。
声を出せ。助けを呼べ。頭の中で思った。でも、声が出ない。どうしよう、どうしよう。
「謝んな。そしたら多目に見てやるよ」
そう言いながら目の前の女子が美咲の顔にタバコを近づける。
どうして私が謝らなければならないの。悪いのはそっちなのに。謝るなんてできない。
頭の中では思っている。でも……どうしよう、どうしよう。誰か……誰か助けて。
その時。
「お前ら、そこで何やってるんだ」
背後に立つ男子の、更にその後ろから声がした。いつの間にか、背の高い学ラン姿の男子が立っていた。がっちりした体躯に五分刈りの頭。
兄さん……拓真兄さん。
そう、それは高校生の拓真だった。
「……美咲じゃないか」
学ラン姿の拓真が言った。
「なんだ? こいつの知り合いか?」
背後にいた男子が拓真に向き直る。その瞬間。拓真が手に持っていた唐草模様の棒状の袋を金髪の男子の鼻先に突き付けた。
思い出した。拓真は剣道部だった。小さい頃から道場にも通っていた。段も持っていた。何段だったか覚えてないけど。唐草模様の袋の中にあるのは、竹刀だ。普段竹刀を持ちあることはない。でも今日はなぜか、竹刀を持っていた。持っていてくれた。
「美咲、こっち来い。帰るぞ」
竹刀を男子の鼻先に突き付けたまま拓真が言った。さすが段持ち。迫力が違う。竹刀を突き付けられた男子は、そして美咲の前にいた残りの三人も固まったまま動けずにいた。
美咲が拓真の背後に逃げ込む。
「アチチ!」
声がした。通路の一番奥にいた男子が手を押さえている。持っていたタバコの火が当たったのだろう。自業自得だ。
その声を合図にするように、残りの三人が手を押さえた男子に駆け寄る。そしてそのまま通路の奥へ向かって駆け出した。拓真に竹刀を突き付けられていた男子が少しだけ振り向いた。拓真は黙って四人を見送った。美咲もまた、拓真の肩越しに走り去る四人の姿を見送った。
そして美咲は……泣き出した。緊張が解けたせいだろう。わんわんと、声に出して泣き出していた。
「ばか、無茶すんな」
少し困った顔をして拓真が言った。
「……ありがとう……兄さん、ありがとう……」
泣きながら、顔をくちゃくちゃにしながら、美咲は言っていた。拓真の学ランの袖をしっかりと掴みながら、言っていた。
拓真は事務机の上のパソコンに向かったまま目を閉じた。会社、ササの事務所。拓真一人だ。
これからどうする? 自分一人でやって行けるのか? 自分に問いかける。こうしていても答えはでない。とにかくやるしか……
目を開けた。そこには……パソコンの画面ではなく、机に備え付けられた本棚があった。本棚には背表紙に大きな文字でタイトルが書かれた本が並んでいる。
「就活面接必勝法」「自己分析シートの書き方」「産業界の動向」
どれも見覚えがある。大学時代、就職活動に使っていた本だ。
部屋の中を見回した。布団を敷いたままのベッド。ポスターを貼った壁。壁に立て掛けた竹刀。
自分が座っているのは……会社の事務机ではなく、木製の勉強机だった。
そこは、さっきまでいたササの事務所ではなく、ずっと前に住んでいた家の、自分の部屋だった。それも……高校か、大学時代の。就活に関する本があるということは、大学三、四年生の頃か。
トントン。音がした。部屋のドアをノックする音だ。
「兄さん、入ってもいい?」
続けて声がした。
「あ……ああ、いいぞ」
状況を理解できないまま、反射的に答えていた。
部屋のドアが開いた。入って来たのは、美咲。すぐ後ろから、知花。自分が大学生だとすれば、一つ下の美咲も大学生、四つ下の知花は高校生、のはずだ。そして二人とも、それらしく見えた。
拓真のすぐ横に並んだ二人が顔を見合わせる。
「せーの」
美咲の声を合図に二人が声を合わせる。
「就職おめでとう!」
知花が後ろ手に隠していた箱を差し出した。
「二人からの就職祝い」
知花が言った。
「夕食の時にしようと思ってたんだけど、知花が、父さんと母さんの前じゃ照れ臭いって言うから」
二人とも、ニコニコと笑っている。
「あ……ありがとう」
拓真は立ち上がって両手でその箱を受け取った。
「開けてみて」
知花が言う。
拓真は箱を机の上に置いて包み紙を開いた。箱を開けると、中にあったのは、腕時計。ダイバーズウオッチだった。拓真が前から欲しかった物だ。そして……今でも毎日、腕に付けている。
「高かっただろう?」
まずその言葉が出た。
「大丈夫だよ」
「バイト代、貯めておいたの」
二人が口々に言う。
「……ありがとう」
改めて礼を言った。箱から取り出して腕にはめてみた。
「似合うか?」
訊いてみた。
「うん」
「とっても」
「ありがとう」
三度目の礼を言っていた。
しかし……せっかくの就職祝いだが、自分は数年でその会社を辞めることになる。そう、目の前にいる高校生の知花が大学を卒業するタイミングで、オヤジが会社を退職し、ササを立ち上げるんだ。そして自分もオヤジと一緒に……
「いつまで勤めるかわかんないけどな」
口に出ていた。
「いいよ。何をしていても、兄さんは兄さんだから」
美咲が言った。いつか、ササで働くことになることを知っているのだろうか。
「ずっと、応援してるから」
知花が言った。
「お前も来年大学受験だろ。お前に言われたく……」
言いかけた瞬間、鼻の奥がツンと痛くなった。目の前の二人の姿が霞んだ。
「わ、泣いた」
知花が言った。
俺、泣いてるのか? そう思った。
「泣いてる兄さん、初めて見たかも」
美咲が言った。
「ば……ばか、泣いてんじゃ……」
言いかけたまま、拓真は天井を見上げた。
がんばるから……二人のためにも、がんばるから……
思い出した。あの時拓真は確かにそう思った。そして今、改めて思う。
がんばるから。二人のためにも、がんばるから。
拓真は心の中で、そう繰り返していた。
ササの事務室の応接用のスペース。低いテーブルを挟んで、三人掛けのソファには美咲と知花、向かい側の一人掛けのソファの一つに拓真が座っている。そこに兄妹三人が集まるのはこれで三度目だ。
「集まってもらったのは、他でもない、オヤジの財産の相続についてだが……」
拓真が切り出した。
「今日は、遺言執行者の……沼田さんでしたっけ? あの人は?」
美咲が訊く。足も組まず、背筋を伸ばしている。
「呼んでいない。後で今日の話の結果を報告することになってる」
拓真が答える。
「そういえば、耕平君は?」
「今日は仕事。そうそう会社、休ませられないし。今日は私一人で大丈夫」
拓真の問に知花が答える。
「それじゃ、始めよう。二人には前回、オヤジの遺言書を見てもらった。今日は、そこに書かれていた財産について、一つずつ、決着して行きたいと思う」
美咲と知花がうなずく。
「まず、ササの株だが、遺言書どおり、三人で均等に分割しようと思う」
「ちょっと待って」
美咲が拓真に向かって身を乗り出す。
「私、ササの株については相続を放棄しようと思ってるの」
「私も同じ。私には、会社のことなんてわからないし」
美咲に続いて知花も。
「いや、その必要はないと思ってる。当然、美咲と知花には、ササの経営に対して意見を言う権利と、ササの利益から配当を受け取る権利が発生する。経営については、基本的には俺が全責任を請け負うが、もし意見があれば遠慮なく言ってほしい。配当は、確実に二人に支払うつもりだ」
「そんな……」
戸惑った顔の知花。
「だったら、こうしましょう」
美咲が両手をテーブルに乗せた。
「私を、ササの社員にして」
「え?」
今度は拓真の戸惑った顔。美咲が続ける。
「もともと父さんと二人でやってたわけでしょ。兄さん一人じゃ、大変でしょ? 私だって、一通りの事務はできるし、何なら営業だってするわ」
「し……しかし、今の会社は?」
「辞めようと思ってる。長くいるけど、あそこじゃ、私自身の未来がないことも見えてるし」
「わ……わかった。考えてみる」
「考えてみる、じゃなくて、決めて。私は決めてる」
「わ……わかった」
美咲の勢いに拓真の方が飲まれている。
「それから、私のマンションだけど」
戸惑う拓真にかまわず美咲が続ける。
「売却して、現金にして三人で分けようと思う」
「え?」
拓真と知花が同時に声を上げる。
「ちょっと待て、美咲はどこに住むんだ?」
今度は拓真が切り返す。
「賃貸のアパートでも借りるわ。あのマンション、一人暮らしには広すぎる」
「いや、それこそ、そんな必要はない。所有権が三人の共有になったとしても、実質的には何も変わらない。美咲はそのまま住み続ければいい」
知花も美咲に向き直る。
「私もそう思う。これからは、耕平と若菜と一緒にたまにはお姉ちゃんのとこに遊びに行こうと思ってた。若菜も喜ぶと思うし。だからあそこはあのままにしておいて。もちろん掃除とか料理とか、私もするし。耕平にも手伝わせるし」
美咲が黙り込んだ。そして、下を向いた。
「ありがとう……」
小さな声で美咲が言った。美咲の目から涙がこぼれた。知花の右手が、美咲の左手を握っていた。
「これでササの株とマンションは決まりだな。そうなれば、金融資産も遺言書どおりに三人で三等分、それでいいな」
拓真が明るい声で言う。
「なんか、私だけ何もしないのに得してるみたいで、悪い」
知花が言う。
「気にするな」
拓真が笑いながら答える。
「そうだ、お兄ちゃんの会社、海外と取引があるんだよね」
「ああ、ヨーロッパから家具を輸入してる」
「だったら英文のメールとか、私に回してくれたら和訳してあげるよ。逆に英文を作ったりもするし。リモートになっちゃうけど」
「そういえば知花は大学、英文科だったな。助かるよ。でも無理するな。若菜ちゃんもいることだし」
「うん。でも、確かお兄ちゃん、勉強はできなかったはずだし」
「まあ……な」
拓真が頭を掻いた。
「私も……知花に部屋の片付けを手伝ってもらえたら助かる……お父さんの物はだいたい片付いたんだけど」
涙を拭きながら美咲が言う。
「やっぱり、一人じゃちょっと、広すぎて」
「いいよ。お姉ちゃんは片付け苦手だから」
「言うわね」
美咲が笑顔を見せる。
「でも……」
「なに?」
「そんなに広くないかも。お姉ちゃんも、そのうち一人じゃなくなるかもしれないし」
「どういうこと?」
「なんか、そんな気がする」
「ああ……そうなればいいけど。でも、知花も私や兄さんの手伝いどころじゃなくなるかもしれないな」
「若菜のこと?」
「若菜ちゃんだけじゃなくて……なんか、そんな気がする。悪い意味じゃなくて」
美咲と知花が顔を見合わせた。二人は同時に笑顔を作った。
「それじゃさっそく、沼田に連絡して手続きに入らせるから」
拓真がポケットから携帯を取り出した。拓真もまた嬉しそうな笑顔を見せていた。携帯を握る拓真の左手首には、しっかりと、ダイバーズウオッチがはめられていた。
簸の川のほとりでその様子を見ていた開志は目頭を押さえた。
「よかったね」
塞の神が言う。
「よかった……本当によかった」
開志が目頭を押さえたままうなずく。
「これで私も、安心しておじさんを通してあげられる」
「通す?」
「そう、おじさんのこと、通してあげる」
思い出した。塞の神は、死んだ者を、向こうの世界へ通していいかチェックするのが仕事だと言っていた。
「私は……もう行かなければならないということか」
「うん。でも、もう少し時間があるかな?」
「もう少し?」
「お迎えが来るはずなんだけど、まだその姿が見えないから」
「お迎え……いよいよか」
塞の神の言葉に、開志は改めて、自分が死んでいるのだということを実感した。
「それまで、もう少し見てようか」
塞の神がまた簸の川の方を向いた。開志もまた塞の神に並んで同じ方向に向き直った。
ササの事務所では、拓真が相変わらずパソコンに向かっていた。取引先に送るメールを作っているらしい。
「トゥルルルル」音がした。事務所に備え付けてある固定電話だ。拓真が立ち上がって受話器を取る。
「はい、株式会社ササです。え? 春日電気さん? お世話になって、いえ、は、はじめまして……」
大手の量販店からだった。駅前や幹線通り沿いに大型の店舗を展開して、電気製品だけではなく家具や日用品も販売している。もちろんそれまでササと取引はなかった。
「え? 当社の家具を……置いてくださるんですか?」
その量販店が、ササに取引を申し入れてきたのだ。
「ありがとうございます……では、さっそくお伺いして詳細を……」
電話を置いた拓真が声を上げた。
「やった! これで打ち切られた百貨店の分を取り戻せる! そうだ、美咲にも同席してもらおう」
拓真が顔をほころばせながら再びパソコンに向かう。
「え?」
新着のメールが入っていた。先日取引を打ち切られた百貨店からだ。文面にはこうあった。
『先日はたいへん失礼いたしました。売り場から御社の家具を撤去いたしましたところ、複数のお客様からお叱りの言葉をいただきました。御社の家具がいかにお客様から愛されていたか改めて認識いたしました。つきましては、誠に勝手ながら、御社の家具を再度、弊社に……』
「やった!」
拓真がまた声を上げた。
「そうなると、仕入れを増やさないと……知花に英文のメールを作ってもらおう。しかし為替の状況は……」
パソコンの画面に表示された円相場を見る。
「円高になってる! 今がチャンスだ」
拓真が手首にはめたダイバーズウォッチで時刻を確認する。
「さあ、忙しくなるぞ」
拓真がポケットからスマホを取り出す。
「もしもし知花か? すまん! 頼みがあるんだ」
拓真の声は、一段と大きく、明るくなっていた。
「うん、わかった。それじゃ、日本文の原稿送って。すぐに英訳するから」
拓真からの電話に答えると、知花はスマホをエプロンのポケットに戻した。
アパートの和室。正座して洗濯物を畳む知花の隣では若菜が熊のぬいぐるみと遊んでいる。
「こぼさずに、たべるんですよ」
ぬいぐるみの口元におもちゃのスプーンをあてながら若菜がたどたどしく言う。それを見ながら、知花が微笑む。
「……ジイジ、もうかえってこないんでしょ」
突然、若菜が言った。
「ワカナ、しってるよ」
「……うん」
知花がうなずく。
「でも、ワカナ、大丈夫だよ。ワカナには、ママとパパがいるから」
「そうだね……ありがとう」
知花が手を伸ばして若菜の頭をなでる。
「ねえ若菜、ジイジはもう帰って来ないかもしれないけど、その代わり、妹か弟ができたら、若菜、優しくしてあげられる?」
「ワカナ、おねえさんになるの?」
若菜が知花の顔を見上げる。
「うん、そうだよ」
「ワカナ、やさしくするよ」
「お願いね」
スマホの着任音が鳴った。また拓真からだろうか。エプロンのポケットからスマホを取り出す。
夫の耕平からだった。どうしたのだろう、こんな昼間に。
知花がスマホを耳にあてると、上ずった耕平の声が飛び込んできた。
「今日人事発令があって、課長に昇格したんだ! いっきに課長だよ!」
「……おめでとう」
その声に圧倒されながら、お祝いの言葉を言う。
「まじめにやってきた甲斐があったよ! 給料もだいぶ上がると思う!」
「うん、よかった……実はね、私からも報告があるの」
「えっ……なに?」
「妊娠……したと思う」
「本当か!」
「たぶん間違いないと思うけど……今度の土曜、病院、いっしょに行ってくれる?」
「あたり前だ! そりゃよかった! 今日は二重のお祝いだ!」
電話口で耕平が叫ぶ。普段は物静かな耕平にしては珍しい。
電話を切った知花がベランダの向こうの空を見る。父、開志に礼を言わなければならない、なぜか、そんな気がしていた。
「お父さん、ありがとう」
知花は、遠い空に向かって、呼び掛けた。
「長年にわたり、当社、当部のために尽力していただきました笹谷美咲さんですが、今月末をもってご退職することになりました」
部内の朝礼の場で、美咲の上司である部長が社員たちを見渡しながら言った。
「たいへんお世話になりました。私からもお礼を言います。ありがとうございました」
部長の隣に立った美咲が頭を下げる。
「笹谷さんには最終日に改めてごあいさつをしていただきますが、とりあえず皆さんに報告しておきます。最終日まであと数日あります。今日は今日。皆さん、今日も一日、業務に集中してください」
朝礼が終わる。美咲は自分の席についていつも通り自分の仕事に取り掛かる。
昼休み。後輩の女性社員たちが美咲の周りに集まる。
「ほんとにお世話になりました。わたし、笹谷さんにいつも助けてもらって……」
「びっくりしました。これから私、どうしたらいいか……」
「送別会を企画しますから来てくださいね」
口々に美咲との別れを惜しむ。
それが一段落して、職場内に人影が少なくなったところで美咲の前に背の高い男性社員が立った。入社三年目の木下だ。
新入社員の時は美咲が教育係だった。優秀、とは言い難かった。なかなか成長しなかった。それでも憎いと思ったことはなかった。まる一年の間、席を隣にして手取り足取り仕事を教えていたのだ。情もうつる。むしろ……可愛い奴、そう思っていた。
「ショックです」
いきなり木下が言った。
「悲しいです」
続けて言う。
「何言ってるの……これからもっとがんばりなさいよ」
悲しいと言ってくれることがうれしい、そう感じながらも、美咲は顔に出さないように意識した。
「お願いがあります。退職した後も、プライベートで僕と会ってもらえませんか」
「え?」
何言ってるの? そう思った。
「具体的に言います。ぼ……僕と、お付き合いしてもらえませんか」
「お、お付き合いって……私、あなたよりずっと年上なのよ……」
「関係ないです。僕、尊敬できる人じゃないと好きになれないんです。僕、笹谷さんのことを尊敬してます。とっても尊敬してます。だから、笹谷さんのことが好きです!」
そんなこと、ここで言うか……そう思った。そう言おうとしたけど、言葉が出なかった。
「僕、仕事はできませんが、料理とか、家事は得意なんです! もし笹谷さんが僕と結婚してくれたら、笹谷さんのために精一杯尽くします!」
言葉の代わりに、涙が出た。
「ば……ばか」
かろうじて、それだけ、声が出た。
「なんか……大丈夫そうだね」
簸の川のほとりで、塞の神が開志に声を掛ける。
「ありがとう……ありがとう……」
泣いていた。開志は目頭を押さえて泣いていた。
「あ、お迎えが来たみたいだよ」
開志が顔を上げると、塞の神の後ろ、暗闇のずっと奥の方に光が見えた。
その光が少しずつ近づいてくる。光の中に、人影が見える。
「……和泉」
それは、七年前に死んだ妻の和泉だった。
いつの間にか、和泉は開志の目の前に立っていた。
「……ご苦労様でした」
光の中の和泉が言った。
「さ、行きましょう」
和泉が手を差し伸べてくる。開志がその手を握る。
振り返ると、塞の神が微笑みながら、小さく手を振っていた。
この時になって、開志は気が付いた。この暗闇の中で、開志が塞の神よりも奥、つまり、開志が最初に歩いて来た方向と逆の方向、和泉が歩いて来た方向に来たのは、初めてのことだ。
塞の神は、ここを通してくれた、そういうことだ。
和泉が暗闇の奥に向かってゆっくりと歩き出した。合わせて開志も歩き出す。もう一度、振り返った。塞の神の姿は、いつの間にかはるか遠くになっていた。それでも塞の神は、手を振り続けていた。塞の神の口が小さく動くのがわかった。
「バイバイ、おじさん」