「まま?ねえままってば!」
娘に肩を触られて私はハッとした。
「何ぼーっとしてんの?大丈夫?」
手元を見ると洗濯物を畳んでいる途中で止まっていた。
「あ、うん大丈夫」
キョトン顔で私を見ている娘に向かって明るく笑って見せた。何も悟られたくない、ただその一心で。
「ならいいけど〜。あ、今日一旦パパ帰ってくるじゃん、夕飯何にするか決めた?」
「決めてないけど〜どうせ焼肉にしよって言うんでしょ〜?」
「ばれたかー!」
「も〜、パパが帰って来るとき、いつも焼肉焼肉〜!って言うんだから〜」
「だってー、パパがいないとお肉焼く人いないじゃん?だからいる時に行かなきゃ」
「別にままだって焼くよー?」
「そうだけど、ままいつも、このお肉焼けたかな?って聞くと「多分」焼けたって言うじゃん、あれ怖いの。ほら、私すぐお腹壊すし」
「じゃあ今度は「多分」って言わないからままと二人で行こうよ焼肉」
「えーーーー」
「えーーなんて言わないでよ」
「分かったよーほんとままって寂しがりやなんだから。よくパパと結婚したよね」
「ん?なんで?」
「パパは仕事で昔から結構家空けるじゃん。それって寂しくないの?」
「んー、パパにはそれ以上の愛情貰ってるから平気」
「ふーん、夫婦ってよくわかんないね〜」
「結婚したら分かるわよ」
娘はなんだか嬉しそうにしている。私たち夫婦の話をすると、いつもこの顔をする。本当に、昔の自分を見ているようだ。私の母もこんな気持ちだったのだろうか。
「ああ、あの時夫と結婚して良かった。だってこんなにも可愛い子供を産めたんだから」
娘や息子を見ていると、昔の恋愛なんて、ただの経験に過ぎないんだと思わされる。紛れもなく、私に似てしまった娘も、いつかこう思う時が来るのだろうか。
あの頃、何もかもを変えたくて、部屋のレイアウトを変えたら、朝日がブラインドの隙間から見えるようになった。眩しくてたまらなかったけれど、それでも深い眠りから覚められなくなるより、朝日の刺激を受けた方がマシだった。「高梨空」と言う呪文のような眠りから、早く覚めたかった。
誰かを失い、誰かに傷つき、誰かに辱められた時、私に失望するのは、時に自分自身だったりする。
「目が覚めた」と簡単な言葉では言うのだろう。あの時の自分がどれだけ甘い蜜に吸い寄せられていたのかを思い知る。そしてただのミツバチに成り下がっていたことを思い知る。
危険な匂いがしたのに、わざとそちらに行ってしまった。彼なら、私の知らない世界を知っている気がしたから。彼となら、最高の悪友になってもいいと思えたから。
でもこれは、単なる独りよがりだ。私がそう思っていただけで、彼はきっとそんな風に私を見ていなかった。勝手に決めつけ、勝手に失望した。所詮、私と彼の始まりは、終わりが見えている始まりだったのだ。
娘になんて言ってあげるのが正解?結婚はしていないんだから、罪ではないけれど、悪ではある。
結局その人とはうまくいかないんだから、すぐにそんな人とはさよならをしなさい。なんて言えばいいの?それとも、これも経験なのだから、その人とも真剣に向き合いなさい。なんて言うべき?
20年母親をやってきても、分からないことだらけだ。結局、あの頃の記憶をこんなにも鮮明に覚えている私が、娘に言ってあげられる言葉なんてないのかもしれない。私は未だに、あの頃の自分への未練と、あの頃の彼への未練が残ったままなのだ。
ちゃんと終われなかっただけなのに、ちゃんと終われなかったから、記憶に残っている。あの時、彼が最後まで私に向き合ってくれたら。と、未だに彼のせいにして生きている。
けれど、別にあの時の記憶を無くしたいと言うわけでもない。こんなことを言ったら、社会的には尊厳を失うのかもしれないけれど、あの短い期間での彼との日々は、とても楽しかった。
初めて行った場所。初めて聞く音楽。初めて見た姿。タバコの香り。シャンプーの匂い。少しきつい香水。焼いてくれたお肉や先に食べさせてくれたお寿司。
きっと全てが私にとって新鮮で、楽しい出来事だった。あれから一度も会うことのなかった彼に、もう一度会うことがあるとするならば、「ありがとう」の五文字を、今なら素直に言えるのかもしれない。例えそれが、自分を欺く嘘だとしても、告げなければいけない嘘もある。全てはヴィランを全うするために。そして、たった一人で泣いた夜を、無かったことにしないために、 私が今娘に、なんと言ってあげられるか考えよう。
あの頃の私と同じように、たった一人で泣いた夜を過ごさないように。
短い夢から覚められるように。
私の最愛の娘を、彼から守れるように。