ああ、なんて幸せなのだろう。
日頃からそう思う瞬間が、大人になり結婚をして、子供に恵まれて多くなった。
若い頃は、幸せってなんなんだろうねと友達と夜通し語り合ったり、10年後生きてるのかなと情けない声で嘆いていたのに、想像の何百倍も素敵な日々を過ごしている今に、最近になって少しだけ恐怖すら抱くようになった。そんな贅沢な悩みを若い頃の私に聞かせたら、「ずるい」とたったの3文字で返ってきそうだ。
そして今、夫は福岡に出張中で、長男は高校の寮に入っている為、少しの間だけ、長女との二人暮しを楽しんでいる最中だ。
若い頃占いにハマっていて、散々男の子が産まれますよと透視されていたのに、1人目は女の子だった。人生は所詮そんなものだ。こうなりますよ、ああなりますよと言われて、それ通りになるはずがない。それでも昔は、根拠のないその言葉がどうしても欲しかった。将来が不安で暗闇の中にいるようで怖かったからだ。私はこうなるんだと思えた方が、生きる希望を見いだせると思っていた。
10月の末。
先月20歳の誕生日を迎えた娘が、洗い物をしている私を後ろから抱きしめてきた。
いつも底なしの明るさで家族を笑わせてくれる娘にしてはとても珍しく、私は不思議に思い、水道を止め、ゴム手袋を外した。
すると娘は、私がどうしたのと尋ねる前に覚悟を決めた重そうな口を開いた。
「まま、私、彼女がいる人を好きになったの」
私と娘は以前から友達のように買い物に行ったり恋バナをしたりする親子関係で、娘が何か話したいことがある時は、家事を一旦中断してでも最後まで聞くことが私のやり方だ。
いつものようにソファに座り、暖かい紅茶を飲みながら、娘は淡々と、彼女がいる好きな人の話をしてくれた。
初めはそんなつもりじゃなかった。
1回だけ遊んであげる気持ちなだけだった。
彼女がいることを知りながら向き合っているのが苦しい。
今までの自分にも嘘をついているように感じる。
彼と居ても将来は見えないのにどうしても切り離せない。
紅茶が飲み終わる頃には、娘に起こっている出来事の大体を理解し、同時に、遠い記憶が呼び起こされるような不思議な衝動に駆られた。
私は今まで、娘の話を聞いて肯定はしても、否定はして来なかった。娘がこうしたいと言ったことを、どうぞやりなさいと後押しすることに徹していたのだ。人の道に外れたこと以外は大体のことは許す。ただ、やるからにはしっかり筋を通しなさい。これが私の、子供たちに対する教えなのだ。だから今回も、娘の気持ちをまず飲み込んだ。
最後の一口を飲み終えると、誰にも言えずにいたことを打ち明けれた開放感からか、娘は私に話を振ってきた。
「ままは、私みたいな経験したことないの?ままのそーゆー話聞いたことない」
「そーゆー話って?」
「純粋な恋の話とは真逆の話。ほら、ぱぱとの馴れ初めとかデートの話とかは聞いたことあるけどさ、若い頃の切ない恋の話とかちょっとドロっとした話とか?聞いたことないな〜て思って!大人なら沢山経験してきてるでしょ〜」
キラキラした瞳で私を見つめている。さっきまでの表情とは雲泥の差だ。まるで両親の恋愛話に興味津々だった昔の自分を見ているかのようで、クスッと笑えた。
「ままのはぱぱの話で十分。ほら、お風呂入ってスッキリしておいで」
「ちぇーまた逃げられた〜」
「ほーら、追い炊きしてあるんだから冷めちゃうよ」
「はーい」
1人になり、静まり返ったリビングと、窓から流れる肌寒い空気が、私を妙な感覚に陥らせた。カーテンが揺れ、観葉植物に触れた。私は窓側で「明日も寒いかな〜」と夜空を見上げて独り言を呟く。
そうだ、あの時もちょうどこの時期だった。娘の知らない、母親である私の姿が、あの頃のあの時確かに存在をし、鍵のかかった宝箱に頑丈に閉まってある。
娘の話を聞きながら、娘は紛れもなく私に似たのだと、思わざるを得なかった。
肌寒くなり、人肌が恋しい。
触れてくれる手は、冷たいけれど優しい。
味わったことの無い不思議な衝動。
やり場のない怒り。悲しみ。妬み。嫉み。
密着する体が、心臓の鼓動が、目眩を覚えるほどに愛おしかった。
いけないことだと分かっていても、地に足がついていないような浮ついた感情と、妙な背徳感が邪魔をして、どうしても突き放すことができない。
私が私ではなくなる恐怖と、新しい自分に出会える喜びが、酷く喧嘩をしていたあの頃。
あれは確か、私がひどく弱っていた時だった。