「空、待って」
 スタジオを飛び出し、地下鉄の駅へ駆け下りていく俺の後ろを、乙木が追いかけてくる。最近の俺は、乙木星凪の前で逃げてばかりいる。そんな自分が情けなくて、乙木の顔を見られない。
 三里ヶ浜駅方面へ向かう電車に乗り込むと、隣の座席に乙木がさっと腰を下ろした。乙木が無言で俺を凝視しているものだから、周りの乗客が不審げな目で俺たちを見ている。
「稽古、抜け出したらまずいんじゃねえの」
 正面を向いたまま乙木に言う。監督もいる稽古時間中に勝手に抜け出して、なんのお咎めもないとは考えられない。俺なんかのために、乙木が犠牲を払う必要はない。だって、俺のせいでオーディションの話が白紙に戻ってしまったら、俺はどう償えばいいんだろう。なんにも持っていない、俺なんかに。
 電車に乗っている間、乙木はひとことも喋らなかった。内容が内容なので、誰にも聞かれたくなかったから、かもしれない。ちょうど帰宅ラッシュの時間でよかった。車内が混んでいる分、重苦しい沈黙もそこまで気にならない。
 まっすぐ家に帰る気にもなれなくて、俺たちは三里ヶ浜駅で電車から降りた。海面を見下ろせる場所ということもありいつもなら明るい三里ヶ浜駅も、今は日が暮れて真っ暗だった。遠くに見える建物の灯りや道路を走る車のライトを頼りに、浜辺を目指して歩く。
 夜の海に来たのは、生まれて初めてだった。右手側を見れば住宅街の灯りが見えるものの、正面を見ると――海の向こうは、空と海の境目が見えないほど暗い。深い闇色、ってこういう色のことを指すのか。そんなことを思いながら、俺は海に誘われている気がして、水の中へと一歩を踏み出した。
「空」
 後ろから、乙木が俺の腕を掴んで引き留める。そこまで海に入りたいわけじゃなかったので、素直に俺は足を止めた。
「俺、あのドラマの話、断ろうと思う」
 乙木のその言葉に、思わず振り返って、乙木の顔をまじまじと眺めた。暗いせいで、ぼんやりとしか顔が見えない。
「……は? 先輩役、ほぼお前で決まりだって言われてたのに」
「それはお母さんのコネありきだから、実力じゃないし。それに、空。嫌なら嫌って言ってもいいんだよ」
 まるで小さな子を諭すように、乙木は言った。何を言えばいいのか一瞬迷って、口を開き、また閉じる。静かな波の音だけが、聞こえていた。
「俺の意見は関係ねえじゃん。ドラマの降板ってなったら、いろんなとこに迷惑かかるだろ。乙木の母さんとか、監督とか、スタッフとか……」
「誤魔化さないで、ちゃんと教えて。俺があの子と共演するの、嫌?」
「あの子って誰のことかわかんねーよ」
「わかってるくせに」
 なんとか話を逸らそうとしても、乙木の前では無駄だった。問題の答えを既に手にして遥か頭上から見下ろしている先生のように、乙木は俺の言葉に惑わされず、確実に痛いところを突いてくる。
「じゃあ、質問を変える。さっき稽古の途中で部屋を飛び出したのは、なんで?」
「なんで、って……」    
 乙木に、碧生が近づいていく場面がフラッシュバックする。胃に気持ちの悪いものが込み上げてきて、咄嗟に口元を手で抑えた。あのキスシーンの光景は、遅効性の毒みたいにじわじわと俺を蝕んでいく。
 膝から力が抜けて、砂浜の上に崩れ落ちた。穏やかなさざ波が、寄せては引いて、俺の足元を濡らしている。 
 しゃがみ込んでしまった俺を支えるように、乙木もまた砂浜の上に座り込む。
 静かだった。波の音と、風の音しか聞こえなくて、あたりは真っ暗で。余計なものが何も見えなくて、ここには真実しか存在しない、ような。
 そんな雰囲気に背中を押されたのか、俺の口はひとりでに動き出す。
「……いや、だ。俺以外に、笑いかけてほしくない。可愛い顔を見せないでほしい。碧生とキスシーンなんて、絶対にしてほしくない」
 醜い、身勝手な心。曝け出すのは屈辱で、悲しくて、そして嬉しかった。今まで堪えてきた分の涙が一気に解放されたように、瞳からポタポタと溢れ落ちる。泣くことに慣れていなくて、不恰好にしゃくりあげてしまう。乙木は「うん、うん」と言いながら、そんな俺の背中をさすってくれた。
「碧生は俺の弟だから優しくしないといけないのに、家族だから愛さないといけないのに、どうしても俺は碧生のことを許せない」
 これまで誰にも言わなかった、言えなかったこと。乙木の前では、するすると言葉が出てくる。俺はずっと誰かにこうして聞いてほしかったのかもしれない。家族への暗くて絡まった思いを。
「こんな底意地の悪い兄で、碧生が可哀想だ」
 まぶたから、塩辛い涙がまだ溢れている。海に潜ったわけでもないのに溺れそう。小刻みに、早くなる呼吸。
 乙木はさすってくれていた手を止めて、背後から俺を抱き締めた。じんわりと温かい乙木の体温が伝わってくる。不思議と、落ち着いた。
「家族だからって、必ず好きになれるわけじゃないよ。無理して好きでいる必要だってない」
 乙木はそこまで言うと、更に声を潜めて「俺も、実はお母さんのことあまり好きじゃない」と続けた。会話の内容は決して人に褒められるものではないのに、2人だけの秘密を共有してるみたいで、悲しみに浸っていた心が、わずかにときめく。
「家族にとってのいい子じゃなくても、空は空として生きてていいんだよ。それに俺、空の捻くれてるとこ、割と好き」
「褒めてんのかディスってんのか微妙だな、それ」
 乙木の唇から発せられた「好き」に動揺して、つい軽口を叩いた。
 いつのまにか、涙の発作が止まっている。もう大丈夫、と乙木の腕を軽く叩くと、乙木は抱き締めていた腕を離し、隣に座り直す。砂浜に溢れた俺の涙は、すぐに波に攫われていった。
 三里ヶ浜から見上げる夜空は、下にある海が暗い分、明るく輝いている。砂浜に寝転がって、手を空に翳してみる。掴めそうで、絶対に掴めない。隣にいる、乙木星凪そのものみたいだな、なんて思う。
 俺はどこかで乙木星凪のことを、孤高で、冷たい人間だと予想していた。近寄りにくい人だからこそ、特別なんだ、と。でも、違った。本当の乙木は、なんだかちょっと変わり者で、だけどすごく優しい人だった。その優しさに、今も救われていた。
 寝そべったまま隣を見ると、乙木は海面に向かって石を投げ、水切りをして遊んでいる。回転がかかった石が、水音を立てて跳ねていく。
「ドラマのさ、話……断ったら、なんか違約金とか払う羽目にならないか?」
 あと、星月アヤネの顔に泥を塗るわけだから、家族仲にヒビが入るかも。俺がぎこちなく話を切り出すと、乙木は石を投げる手を止めて、振り返った。
「さあ、どうだろう。わからないけど、違約金より、お母さんより、空の気持ちを守りたいから」
 暗くてよく見えないのにもかかわらず、乙木が笑っているのがわかる。そう言って貰えるのは嬉しいけど、これで乙木の身に不幸なことが起きてしまったら、もう乙木の顔をまともに見られなくなる。それは避けたかった。
「でも、俺のせいで迷惑かけるなら、俺から監督たちに謝ったほうが――」
 俺が解決策をつらつらと話そうとした矢先に、乙木は俺の唇に人差し指を置いた。驚いて石のように固まると、「嫌なことからは逃げちゃおうよ」と囁かれて、鼓動がにわかに騒ぎ出す。
 乙木の存在が、言葉が、俺をいつも掬い上げてくれているのに、俺は綺麗な感謝だけを抱けない。
 下心混じりでお世辞にも綺麗とは言えない乙木への気持ちを、持て余していたその時。スマホから着信音が鳴り響いた。静寂をぶち壊した音の原因を取り出して、画面を見る。碧生から電話がかかってきていた。
「……悪い、弟からだ」
 乙木にひとこと謝ってから、通話ボタンを押す。
「稽古は終わったのか?」
「『終わったのか』じゃないよ、も〜! 空にいと星凪さんが帰っちゃったから、すぐお開きになったよっ」
「ごめんごめん。ちょっと俺には刺激が強過ぎてさ」
「それはいいんだけど……空にい、家に帰ってくるよね?」
 碧生は不安そうな声だ。なんだか家族とはぐれた子供みたいで、うっかり笑ってしまうくらい。
「帰るよ」
「それならよかった。空にい家出しちゃうんじゃないかって心配してたんだよー」
「しないよ、家出なんか。ああ、そうだ。乙木のことなんだけどさ」
 俺がそう言うと、碧生は「うん。やっぱやめるって?」と何も話さなくても全てを察している、とでもいうように聞いてきた。あんなに乙木と共演したいと話していた割にはあまりにもあっさりしているので、「お、おー、そう……」としか言えない。
「星凪さん、綺麗だけどお芝居には向いてないかなあと思ったから、結果オーライかもね」
「向いてない? 充分に上手かったけど」
「そうだね。でもお芝居に向いてる人ではない」
 どういうことだ? 弟の言うことが今ひとつ理解出来なくて、困惑する。碧生はそんな俺に懇切丁寧に説明し始めた。
「向いてるのはね、どんなに願っても埋められない、心の隙間がある人なんだよ。求めていても叶うことはない願い、とかね。満たされない渇望があるからこそ、演技に深みが出るんだ」
「お前にも心の隙間があるって言うのか?」
 碧生にそんな一面があるとは思わなかった俺は、驚いてつい聞いてしまう。碧生は一瞬の沈黙の後に「……うん。あるよ。絶対に叶わない、叶えちゃいけない、願いごとがね」と静かに語った。
「空にい、絶対に幸せになってね。誰も付け入る隙がないくらい、幸せにさ。そうじゃないと、僕――」
 何かを呟く碧生。肝心の部分で、電波が乱れてよく聞こえない。聞き返そうと口を開いた瞬間、「なんでもない! じゃあね」と一方的に通話を切られてしまった。
 なんだったんだろう。今しがたの碧生の話に、首を傾げる。碧生はいつも明るくて、楽しそうで、全て満たされているように見えていた。でもそれは俺の勘違いで、碧生には碧生の苦しみや悩みがあったのかもしれない。俺が自分に余裕がないから、何も見えていなかっただけなのか。
 弟の心の隙間、とやらについて考えていると、横から乙木が「碧生君、なんか言ってた?」と聞いてきた。
「ああ、なんか乙木がドラマの話を蹴るってわかってたみたいだった」
「そう」
 乙木は頷く。そして、何故か砂浜の上をじりじりと座ったまま動き、距離を詰めてくる。
「君の弟、相当なブラコンだよね。空も違う意味でブラコンだけど」
 身体が触れるほど近くで乙木が囁くから、全身に甘い痺れが走った。頭がくらくらして、話の内容が飛びそうになるのを、なんとか堪える。
 碧生がブラコン、か。年子で友達みたいに接しやすい兄だから、という理由もあるし、碧生は誰に対してもフランクで距離感が近い。俺のことを慕ってくれているとは思うが、世間で言われる「ブラコン」くらい偏執的に好いているとは思わない。
「まあ、碧生は甘えん坊だからな。昔からああだけど……ブラコンって程では……」
 俺が戸惑いつつ言うと、乙木は「鈍感」と呆れたように言ってから、目にも留まらぬ速さで俺の唇にキスを落とした。何が起きたのかわからず、信じられない思いで乙木の顔を見つめる。
 暗がりで光る乙木の瞳は、真っ暗な空で輝く星みたいに綺麗だった。
「キスシーンをやるなら、空とがいいな」
 俺の動揺をよそに、乙木は明日の昼飯に食べるメニューを考える、みたいな気軽さで、呟く。
「……俺、俳優やる予定ないけど」
 たぶん、今言うべき台詞はこれじゃなかった。場違いで滑っている俺の言葉に、乙木は笑う。
「馬鹿だな。好き、ってことだよ」
 耳を疑った。乙木星凪が、俺なんかを好きだって? そんな奇跡みたいなこと、起こるわけがない。俺じゃ、釣り合わないし。
 乙木の言葉を否定する台詞ばかり頭に思い浮かべていたというのに、実際に俺が言ったのは、「な、なんで……?」だった。間抜け過ぎるひとことだ。でも乙木は笑いもせず、真剣に答えてくれる。
「空よりも気になる人、もうこの先きっと一生、現れないから」
「そんなの、まだわかんねえじゃん……」
 俺たちまだ高校生だろ。俺のぼやきは、思ったよりも不貞腐れた響きを伴ってしまった。
「俺は乙木みたいに特別な人間でもないし、さ。すぐに飽きるだろ、俺みたいな男」
 乙木は俺の言葉を聞くと、不満そうに至近距離から睨んでくる。即座に反論されそうな気配を感じたので、先に釘を刺しておく。
「人間はひとりひとりが特別なんだ、とか教育番組みたいなことは言うなよ」
 俺が俺のことを特別だと思えなかったら、他人がどう思おうと苦しさは変わらない。結局、俺の根っこにある劣等感は何があってもしぶとく残り続けるんだろう。
 乙木はまだ納得のいかないように口角を下げていたが、励ますみたいに俺の背中をトントン、と叩いた。
「特別じゃなくたって、俺たちは誰かの付属品でいることをやめられるはずだろ。替えの効く人間なんて、本当はひとりもいないんだからさ。空、君もね」
 それは、俺を呪いから解く魔法の言葉だった。
 きっと、偉大な女優を母に持つ乙木だからわかり合えた傷――自分自身を見て貰えず、自己があやふやになっていった、経験。善意のつもりのナイフみたいな言葉、視線に胸を抉られた日々。
 やめられるんだろうか。弟の影で、周りからの目に怯え続けていた生きかたを。俺は偽りのない俺自身の人生を、始めてもいいのか。
「ああ、告白の答えはわかってるから言わなくてもいいよ」
「え、答え?」
 乙木の言葉に感動していたところ、唐突に「告白の答え」などと言われて、目が点になった。乙木は覗き込むようにして、俺の顔をじっと見つめてくる。
「空も俺のこと好きでしょ」
「う……はい」
 完全に断言されてしまい、頷くことしか出来なかった。