どうしてこんなことになってしまったんだ。俺はまたしても嘘の笑顔を作りながら、心の中では目の前の状況を嘆いて、涙を流していた。
――空にい、乙木星凪さんを連れて来てよ
放課後、碧生にそう言われて指示された場所に来ると、あれよあれよという間に碧生の行きつけの店とやらに引き摺り込まれたのだった。
会員制の料亭の中で、俺と弟の碧生が隣に座り、その向かいに乙木が座っている。卓の上には、見事な懐石料理が並んでいて、刺身なんて美味しそうではあったが、何が起きるのか不安な気持ちに襲われていたのでとても料理が喉を通りそうにはなかった。
碧生のやつ、何を企んでいるんだ。不審に思われない程度に弟の様子を伺っていると、碧生が口を開く。
「星凪さん、懐石料理は苦手じゃないよね? アヤネさんがよく懐石料理を食べるって言ってたから、ここにしてみたんだ」
碧生は明るい声音で乙木へ話しかけた。ぼんやりとわずかな灯りしかない茶室の中でも、碧生の太陽みたいな美貌は健在だ。キラキラとした目で乙木を見つめている。
乙木の外見はどちらかというと月のような美しさを内包しているから、2人が揃うと太陽と月という正反対の美形が並んでいて、壮観だった。
正直言って、碧生と乙木が向かい合っているのを見るのは気が気じゃない。焦燥感に押し潰されそうになるのを堪えて、乙木に「苦手な食べ物、特にないよな」と尋ねる。乙木は無言で頷いた。
「あの、碧生君。ワークショップは来週からなのに、どうして俺をここに呼んだのかな」
乙木はお椀の中に入っていた色鮮やかな煮物を口へ運びながら、探るように碧生を見て言った。
「そりゃあもちろん、星凪さんに会いたかったからだよ! 空にいと仲良しだって知ってからずっと気になってたし〜」
「……そう」
乙木は言葉短く頷いた。目から輝きが失せているので、乙木が心のシャッターを下ろしたのが見てとれる。そんな乙木の様子も気にせず、碧生は「あ、ここのお刺身美味しいんだあ。食べて食べて!」と笑顔で話しかけ続けている。
2人のまるで噛み合わない会話を聞きながら、碧生のおすすめだという刺身に箸をつける。恐らく値段が張るだけあって美味しいんだろうが、今は味がまともにわからない。こんなシチュエーションでなかったら舌鼓を打っていただろうに、残念だ。
それにしても、乙木をもてなすために連れて行くのが会員制の料亭とは。俺が安いファーストフード店に連れて行ったのとは大違いだ。兄弟なのにここまで差があると笑えるな、と俺が皮肉に思っていると、碧生が肩を小突いてきた。
「ねえ空にい。星凪さん、学校でモテまくってるでしょ? こんなに綺麗な人、芸能界にもそういないもん」
「あー、そりゃ、な。ファンクラブもどきみたいなのもあるよ」
「やっぱり! 星凪さん、もっと芸能活動すればいいのに〜。すぐにオファー殺到するよ」
「俺、芸能界には興味ないから」
「そうなの? でも今度のドラマは出てくれるんだよね。星凪さんなら役にぴったりだよ!」
屈託ない笑顔を乙木に向ける碧生。
乙木は誰もが魅了される笑顔を見ても、揺らがない。むしろ気分を害したように、眉間に皺を寄せた渋い顔をしている。
碧生は気にしていない様子だったが、この場は地獄の雰囲気だった。この重苦しい空気をどうにかしなければ、と義務感から俺は口を開いた。
「次のドラマはどんな話なんだ?」
「えっとねー、『流れ星に3回、お願いした。』っていう漫画が原作でね。天文部の先輩と後輩のラブストーリーなんだ。で、星凪さんがオーディション受ける役ってのが、主人公が片想いしてる先輩役なんだよ」
「へえ。乙木の役もハマりそうだけど、碧生の主人公役もぴったりじゃん。片想いの演技、評判いいもんな」
「えへへ〜、そうかなあ」
俺の言葉に照れたように碧生が笑うと、乙木が碧生の表情を観察でもするかのように凝視した。碧生はその視線にすぐ気づき、バチッと2人の間で火花が飛び散る。
そして、碧生がいよいよ仕掛けにいった。
「ねえ星凪さん、恋人とかいるの?」
「いないけど」
怪訝そうに答える乙木。
「じゃあさ、じゃあさ、僕は星凪さんのタイプかなあ? 僕、演技だけじゃなくてほんとに星凪さんと付き合いたいかも――」
碧生がそこまで言いかけると、乙木が「ガンッ」と大きい音を立ててお椀を盆の上に置いた。そして「帰る」と言うなり、立ち上がって茶室の外へと出て行ってしまった。
「懐石料理なのに肝心のお菓子とお茶を飲まずに帰るなんて、もったいないなあ」
呆気に取られて固まった俺とは違い、なんともないように呟く碧生。俺がさっきの発言はどういうつもりだ、という思いを込めて見つめると、碧生は抹茶を飲みながら「ああ!」と何かに気づいたような声を上げた。
「安心して。僕、ほんとは彼氏いるから。アイドルやってるみっくん。内緒だよ」
碧生はまるでドラマのワンシーンみたいに、唇に人差し指を当てて「シーッ」と言った。
みっくん、って確か苺が推しているアイドルだ。これを知ったら、苺は泣くだろうな。そんなことを思いながら、疑問も湧いてくる。
碧生は恋人を取っ替え引っ替えしているようではあったが、同時に複数人と付き合う人間ではないはず。リスクが高過ぎるから。
「なんで、乙木に気があるフリなんてしたんだ」
抹茶に添えられた花の形をした練り切りを、細かく切りながら尋ねた。なんとなく、碧生の顔をまっすぐに見られない。
「だって、空にいがあの人を好きなのにアプローチしてないみたいだったから。僕にとられそうになったら2人の仲も進展するかと思って」
碧生は「わかってなかったの?」とでも言うように、パチクリとまばたきをした。あくまで善意でやったことだ、と主張するみたいに。
乙木星凪のことを好きなこと。俺も碧生と同じように、男が好きなこと。隠し通さなければいけなかったのに、こうもあっさりとばれてしまうとは。俺のことなんてお見通しだ、とでもいうのか。弟に何歩も先を行かれて、また途方もない無力感に襲われる。
「……変な気ぃ、遣わなくていいのに」
そう言うのが、精一杯だった。俺の表情が凍りついたのを見た碧生は、不思議そうに首を傾げている。
「空にい、怒ってるの? なんで……?」
碧生は捨てられた子犬みたいな潤んだ瞳で俺を見上げた。俺は、俺の中の気持ちがまとまらなくて、何も言えない。
俺の葛藤も、つらい気持ちも、それら全て飲み込んで必死に笑っていた思い。弟には何ひとつわからないんだろう。それが悪いことだと糾弾するつもりはない。碧生は本当に純粋に兄である俺の幸せを願ってる。そこに嘘はないんだろう。
それなのに、俺たちはわかり合えない――ただそれだけのことが、永遠に碧生のことを許せなくさせる。
「碧生の性格がめちゃくちゃ悪ければよかったのにな。そしたら、俺は……」
心置きなく憎むことが出来ただろうに。弟にそんな残酷な言葉をぶつけるなんて出来るはずがないので、続きの言葉は胸の中に飲み込んだ。どろりと澱んだ気持ちがまたひとつ、俺の中に溜まっていく。
「え、つまり僕がいい子だって話? 嬉しい~!」
「……うん、そうだな。碧生はいい子だよ」
はしゃぎだした弟を見て、笑うしかなかった。碧生はいい子だ――それは、紛れもない事実だったから。
「ここのお菓子って日替わりなんだけどさ、今日のやつは特別に美味しかったね!」
碧生は抹茶を飲み干すと、そう言ってパッと笑った。俺はまだ菓子を食べ終わっていなかったので、食べかけていた花の形をした練り切りを、「俺の分も食っていいよ」と渡す。
「え、え〜っ、いいの? ありがとう」
何故か恥ずかしそうに顔を赤らめる碧生。弟は家族なのに変なところで気を遣うところがある。食べ物や飲み物の共有なんかも普段はしない。潔癖症なのかと聞いたこともあるが、そうじゃないらしい。
碧生は俺が渡した練り切りを、ゆっくりと口に含んだ。甘いものが相当好きなのか、夢を見ているような瞳をしていた。
食事を終えると、料亭から家に帰るため、タクシーに乗り込む。芸能人なんだからハイヤーを頼めばいいのに、と少し思ってしまう。一般人に「霜中碧生」とばれて、騒ぎになるかもしれないのに。でもきっと、碧生は倹約も出来るからこんなところで無駄遣いはしないんだろう。
タクシーの車内から、住宅街の灯りをぼんやりと眺める。もう日が落ちているから、ひとつひとつの光がよく見えて、素早く通り過ぎるたびに流れ星のようにも見えた。
「ねえ、空にい。ひとつだけ覚えていてほしいんだ」
窓の外を眺めている俺に、碧生が話しかけてきた。やけに落ち着いた声だ。
「僕はいつも空にいの幸せを願ってるんだよ」
「ああ、わかってる」
「ほんとの、ほんとだよ? 僕は世界でいちばん、空にいのことを愛してるからね」
「恥ずいこというなよ」
ドラマの撮影でもないのに臆面もなく「愛してる」なんて言える碧生が羨ましくて、照れたフリをして碧生の顔を手で押しのけた。
碧生を本気で憎めないのは、こういうところがあるせいだった。演技が得意なんだし、いくらでも嘘はつけるだろう。でも碧生は、本当に俺を慕ってくれている。それに気づけないほど、俺は愚かになれなかった。愛されているとわかっているからこそ、同じように愛し返せない己の醜さが、つらい。
俺が自分の卑しさに打ちのめされていると、スマホから通知音が鳴る。ロックを解除して画面を確認すると、乙木からメッセージが送られてきていた。
【君たち、嘘つきなところがそっくりな兄弟だね】
***
3人で料亭に行った日の翌週になると、ドラマのワークショップに参加するために、乙木が学校を休むようになった。表向きには家庭の事情で休んでいることになっている。
本当の事情を知らない美術部の部員やクラスの女子たちは、目の保養がひとり減ったことを大いに嘆き悲しんでいた。
「乙木がいないと潤いが足りないよね」
「それな」
「あー……しばらくは霜中空で我慢しとくかあ」
「どうせ霜中なら碧生のほうがここにいればよかったのにねー」
「ほんとそれな」
1日の授業が終わりホームルームの時間になると、そんな失礼極まりない発言が右隣のほうから聞こえてきた。曽根田と鈴木だ。曽根田のやつ、乙木と碧生がBLドラマで共演すると知ったら、気絶でもしそうだな。
お喋りな女子ふたりの会話を聞き流しているうちに、ホームルームが終わり、カナセンが教室から出て行った。
「……あれ。春斗、凛たちと遊びに行かねえの?」
ふと春斗を見ると、席から立ち上がりもせず机に突っ伏している。いつもなら、凛と苺を遊びに誘っている頃合いなのに。2人と喧嘩でもしたのかと気になって声をかけると、春斗は涙声で「凛に彼氏が出来たって……」と呟いた。
「彼氏?」
「うん……なんか、相手は有名なインフルエンサーなんだって」
春斗はそう言うなり、また机に突っ伏してしまった。
凛はついに「本物」を捕まえたようだ。あいつも変わらないな。ここまで方向性が一貫していると、もはや清々しい。
俺が凛を思い浮かべて薄っすら笑っていると、スマホの通知音が鳴った。碧生からの連絡だ。
【空にい、ごめん。夜から使う台本を忘れてきちゃったから、スタジオまで持って来てくれないかな?】
そんな文面の後に、お願いポーズをしている子犬のスタンプが送られてきていた。
ため息を吐く。これから都内のスタジオに行くとなったら、タクシーを使っても往復で2時間はかかるだろう。それでもいい兄としては行かないという選択肢がないので、俺は重い足を無理矢理に動かして、校舎を後にした。
***
「――すみません、霜中碧生の兄です。弟の荷物を持ってきました」
スタジオの出入り口でそう申し伝えると、意外にもすんなり中へ通してもらえた。もしかしたら碧生が事前に俺が来ることを警備員に話していたのかもしれない。
警備室から電話でドラマの制作スタッフを呼び出してもらい、案内をしてもらいつつスタジオへと向かう。
碧生は長いこと芸能界に身を置いているが、俺自身はこういったスタジオや撮影現場を訪れることはなかった。見慣れない建物の中を、緊張しながら歩く。時折、急いでいる様子のスタッフが横を走り抜けていった。みんな忙しそうだ。改めて、弟がすごい世界で活躍していることを実感してしまい、気分が沈んでいくのを感じた。
「あの、お兄さん。こちらです」
スタッフの呼ぶ声に、ハッとして前を見た。すると、全面鏡張りの部屋の中で、碧生や乙木、そのほか数人の俳優が台本を持ちながら稽古をしている。
「あっ、空にい! 台本持ってきてくれたんだね。ありがとう」
目ざとく俺を見つけた碧生が、叫ぶなりこちらへ駆け寄ってきた。頼まれていた台本を手渡しながら、今さっき台本なしで台詞を喋っていた弟の姿を思い返す。この台本、いらないんじゃないのか。疑問が浮かぶ。碧生はもう完璧に台詞を覚えこんでいるようだった。
「そうだ、空にい。せっかくだから見学してってよ。そんで、一緒に帰ろう?」
「え、いいのか」
部外者がいたら邪魔じゃないか、と碧生の側に控えていたマネージャーをちらりと垣間見る。マネージャーはニコニコと笑いながら、「大丈夫ですよ。お兄さんがいたほうが碧生もやる気が出るでしょうし」と言う。
結局、碧生の希望通りに、ワークショップを見学することになってしまった。用意されたパイプ椅子に腰掛け、監督の言葉に耳を傾けている碧生と乙木の様子を見守る。
ワークショップに参加しているのは、みんな一定以上の顔面偏差値があるイケメン俳優ばかりだった。
それでも、乙木はその中でずば抜けて綺麗だった。稽古着の黒いTシャツ、黒いスウェットパンツという素っ気ない装いでも、彼の持つ輝きは隠しきれない。たまに髪をかきあげたりする時なんか、周りのスタッフから感嘆のため息が溢れるほどだった。
「星月さんの息子さん、綺麗ねえ」
「本当に。碧生君の相手役はあの子でほぼ決まりかな」
ひそひそと、乙木についてスタッフが噂している。
さすが、だな。苦い敗北感のようなものを覚えながら、俺は乙木を見つめた。不意に乙木がこっちを見て、視線がかち合う。乙木はふらりと片手を挙げ、挨拶をしてくれた。
「――はい、じゃあ次。シーン25行きます。乙木君、やってみて」
監督がそう言うと、乙木が「はい」と言い、碧生と向かい合った。2人でドラマのワンシーンを実際に演じるようだ。
「星を見る以上に、好きになれるものはないんだ。だから……ごめん」
どうやら、乙木演じる天文部の先輩が、主人公をフるシーンだったらしい。乙木はあまり演技経験がないはずだけど、中々に演技のセンスがあるみたいだった。監督もうんうん、と満足そうに頷いている。
「そんな答えじゃ、諦められません。だって僕はずっと先輩が……先輩だけを、好きだったんです。この10年間」
今度は碧生が乙木に向かって話す。碧生の演じる主人公は長いこと片想いをしている設定だとは聞いていたが、10年とは予想以上の年月だ。そこまで古くからの知り合いということは、この先輩後輩はたぶん幼馴染の設定なんだろう。
「――流れ星を見るたびに、先輩のことを願いました。僕の思いの100分の1でもいいから、先輩が僕を好きになりますように、って。だから、簡単に断らないでください。僕の人生、先輩なしでは語れないくらい、あなたが好きなんです……!」
絞り出すような碧生の声。迫力ある演技に、見ている観客たちはこれが演技だということを束の間、忘れるほどだった。碧生が出演したドラマや映画を見たことはあったけど、生の演技がここまですごいのは知らなかったので、唖然としてしまう。演技中の碧生の視線は痛々しいほどに悲しくて、そして力強かった。
監督が「カット! いいね〜碧生君」と言うと、碧生の顔はいつもの明るい笑顔に戻る。途端に、スタッフたちが拍手し始めた。もちろん碧生の演技に、だ。
「……すごい、練習の完成度どころか本番を超えてるでしょアレ」
「碧生君のおかげでこのドラマ、賞レースも狙えるかもねー」
嬉しそうなドラマ制作スタッフたちの呟きが聞こえてくる。碧生を褒め称える声ばかりだ。生のお芝居を見学出来るのは楽しかったが、弟がずっと褒められているのをただ見つめるだけ、というのはかなり堪える。
あとどれぐらいで稽古は終わるんだろう、と思っていると。再び監督が声を上げた。
「次はシーン30……って、家族の前じゃ碧生君やりづらいかな?」
監督はそう言って、薄ら笑いを浮かべて俺と碧生を交互に見比べた。「家族の前じゃやりづらい」と聞いて、背筋に悪寒が走る。猛烈に、嫌な予感。
「あの、このシーンの台本、途中から『主人公役に身を委ねる』としか書いてないんですが」
台本をパラパラとめくり確認していた乙木が、手を挙げて監督に言う。すると監督は意味深に笑い、「あーそうそう。ここは全部、碧生君にお任せだから」と言った。
「……星凪さん。今は『フリ』だけにしますね。本当には、しません」
「え、何を……?」
碧生の言葉に乙木が戸惑っているのもお構いなしに、監督は「シーン30、アクション!」と合図をする。そして、碧生が即座に動いた。
「先輩、好きです」
その台詞を言った直後、碧生は乙木の肩をがっしりと掴み、顔を近づけていく。おい、まさか、と思っていると、碧生はどんどん乙木に近づき、鼻と鼻がぶつかりそうな距離で、ふっと顔の角度を斜めに向け始めた。
これ、キスシーンだ。
思い至った瞬間、俺は反射的にその場に立ち上がった。「ガシャン」と結構な物音を立てて、座っていたパイプ椅子が床へと転がる。部屋中に音が響いたものだから、乙木や碧生、監督たちまでもが俺を振り返って見つめた。
「あ、アハハ、すみません。俺……席、外しますね」
これ以上は見ていられなかった。BLドラマに出演するかもしれないと聞いた時に、キスシーンやラブシーンがあることを始めに考慮しておくべきだった。乙木の出演を引き留めなかったことを、本気で後悔する。
よりによって、弟と乙木のキスシーンだなんて。耐えられるはずがなかった。
俺は後ろから引き留める声が聞こえても気づかないフリをして、スタジオを飛び出した。
――空にい、乙木星凪さんを連れて来てよ
放課後、碧生にそう言われて指示された場所に来ると、あれよあれよという間に碧生の行きつけの店とやらに引き摺り込まれたのだった。
会員制の料亭の中で、俺と弟の碧生が隣に座り、その向かいに乙木が座っている。卓の上には、見事な懐石料理が並んでいて、刺身なんて美味しそうではあったが、何が起きるのか不安な気持ちに襲われていたのでとても料理が喉を通りそうにはなかった。
碧生のやつ、何を企んでいるんだ。不審に思われない程度に弟の様子を伺っていると、碧生が口を開く。
「星凪さん、懐石料理は苦手じゃないよね? アヤネさんがよく懐石料理を食べるって言ってたから、ここにしてみたんだ」
碧生は明るい声音で乙木へ話しかけた。ぼんやりとわずかな灯りしかない茶室の中でも、碧生の太陽みたいな美貌は健在だ。キラキラとした目で乙木を見つめている。
乙木の外見はどちらかというと月のような美しさを内包しているから、2人が揃うと太陽と月という正反対の美形が並んでいて、壮観だった。
正直言って、碧生と乙木が向かい合っているのを見るのは気が気じゃない。焦燥感に押し潰されそうになるのを堪えて、乙木に「苦手な食べ物、特にないよな」と尋ねる。乙木は無言で頷いた。
「あの、碧生君。ワークショップは来週からなのに、どうして俺をここに呼んだのかな」
乙木はお椀の中に入っていた色鮮やかな煮物を口へ運びながら、探るように碧生を見て言った。
「そりゃあもちろん、星凪さんに会いたかったからだよ! 空にいと仲良しだって知ってからずっと気になってたし〜」
「……そう」
乙木は言葉短く頷いた。目から輝きが失せているので、乙木が心のシャッターを下ろしたのが見てとれる。そんな乙木の様子も気にせず、碧生は「あ、ここのお刺身美味しいんだあ。食べて食べて!」と笑顔で話しかけ続けている。
2人のまるで噛み合わない会話を聞きながら、碧生のおすすめだという刺身に箸をつける。恐らく値段が張るだけあって美味しいんだろうが、今は味がまともにわからない。こんなシチュエーションでなかったら舌鼓を打っていただろうに、残念だ。
それにしても、乙木をもてなすために連れて行くのが会員制の料亭とは。俺が安いファーストフード店に連れて行ったのとは大違いだ。兄弟なのにここまで差があると笑えるな、と俺が皮肉に思っていると、碧生が肩を小突いてきた。
「ねえ空にい。星凪さん、学校でモテまくってるでしょ? こんなに綺麗な人、芸能界にもそういないもん」
「あー、そりゃ、な。ファンクラブもどきみたいなのもあるよ」
「やっぱり! 星凪さん、もっと芸能活動すればいいのに〜。すぐにオファー殺到するよ」
「俺、芸能界には興味ないから」
「そうなの? でも今度のドラマは出てくれるんだよね。星凪さんなら役にぴったりだよ!」
屈託ない笑顔を乙木に向ける碧生。
乙木は誰もが魅了される笑顔を見ても、揺らがない。むしろ気分を害したように、眉間に皺を寄せた渋い顔をしている。
碧生は気にしていない様子だったが、この場は地獄の雰囲気だった。この重苦しい空気をどうにかしなければ、と義務感から俺は口を開いた。
「次のドラマはどんな話なんだ?」
「えっとねー、『流れ星に3回、お願いした。』っていう漫画が原作でね。天文部の先輩と後輩のラブストーリーなんだ。で、星凪さんがオーディション受ける役ってのが、主人公が片想いしてる先輩役なんだよ」
「へえ。乙木の役もハマりそうだけど、碧生の主人公役もぴったりじゃん。片想いの演技、評判いいもんな」
「えへへ〜、そうかなあ」
俺の言葉に照れたように碧生が笑うと、乙木が碧生の表情を観察でもするかのように凝視した。碧生はその視線にすぐ気づき、バチッと2人の間で火花が飛び散る。
そして、碧生がいよいよ仕掛けにいった。
「ねえ星凪さん、恋人とかいるの?」
「いないけど」
怪訝そうに答える乙木。
「じゃあさ、じゃあさ、僕は星凪さんのタイプかなあ? 僕、演技だけじゃなくてほんとに星凪さんと付き合いたいかも――」
碧生がそこまで言いかけると、乙木が「ガンッ」と大きい音を立ててお椀を盆の上に置いた。そして「帰る」と言うなり、立ち上がって茶室の外へと出て行ってしまった。
「懐石料理なのに肝心のお菓子とお茶を飲まずに帰るなんて、もったいないなあ」
呆気に取られて固まった俺とは違い、なんともないように呟く碧生。俺がさっきの発言はどういうつもりだ、という思いを込めて見つめると、碧生は抹茶を飲みながら「ああ!」と何かに気づいたような声を上げた。
「安心して。僕、ほんとは彼氏いるから。アイドルやってるみっくん。内緒だよ」
碧生はまるでドラマのワンシーンみたいに、唇に人差し指を当てて「シーッ」と言った。
みっくん、って確か苺が推しているアイドルだ。これを知ったら、苺は泣くだろうな。そんなことを思いながら、疑問も湧いてくる。
碧生は恋人を取っ替え引っ替えしているようではあったが、同時に複数人と付き合う人間ではないはず。リスクが高過ぎるから。
「なんで、乙木に気があるフリなんてしたんだ」
抹茶に添えられた花の形をした練り切りを、細かく切りながら尋ねた。なんとなく、碧生の顔をまっすぐに見られない。
「だって、空にいがあの人を好きなのにアプローチしてないみたいだったから。僕にとられそうになったら2人の仲も進展するかと思って」
碧生は「わかってなかったの?」とでも言うように、パチクリとまばたきをした。あくまで善意でやったことだ、と主張するみたいに。
乙木星凪のことを好きなこと。俺も碧生と同じように、男が好きなこと。隠し通さなければいけなかったのに、こうもあっさりとばれてしまうとは。俺のことなんてお見通しだ、とでもいうのか。弟に何歩も先を行かれて、また途方もない無力感に襲われる。
「……変な気ぃ、遣わなくていいのに」
そう言うのが、精一杯だった。俺の表情が凍りついたのを見た碧生は、不思議そうに首を傾げている。
「空にい、怒ってるの? なんで……?」
碧生は捨てられた子犬みたいな潤んだ瞳で俺を見上げた。俺は、俺の中の気持ちがまとまらなくて、何も言えない。
俺の葛藤も、つらい気持ちも、それら全て飲み込んで必死に笑っていた思い。弟には何ひとつわからないんだろう。それが悪いことだと糾弾するつもりはない。碧生は本当に純粋に兄である俺の幸せを願ってる。そこに嘘はないんだろう。
それなのに、俺たちはわかり合えない――ただそれだけのことが、永遠に碧生のことを許せなくさせる。
「碧生の性格がめちゃくちゃ悪ければよかったのにな。そしたら、俺は……」
心置きなく憎むことが出来ただろうに。弟にそんな残酷な言葉をぶつけるなんて出来るはずがないので、続きの言葉は胸の中に飲み込んだ。どろりと澱んだ気持ちがまたひとつ、俺の中に溜まっていく。
「え、つまり僕がいい子だって話? 嬉しい~!」
「……うん、そうだな。碧生はいい子だよ」
はしゃぎだした弟を見て、笑うしかなかった。碧生はいい子だ――それは、紛れもない事実だったから。
「ここのお菓子って日替わりなんだけどさ、今日のやつは特別に美味しかったね!」
碧生は抹茶を飲み干すと、そう言ってパッと笑った。俺はまだ菓子を食べ終わっていなかったので、食べかけていた花の形をした練り切りを、「俺の分も食っていいよ」と渡す。
「え、え〜っ、いいの? ありがとう」
何故か恥ずかしそうに顔を赤らめる碧生。弟は家族なのに変なところで気を遣うところがある。食べ物や飲み物の共有なんかも普段はしない。潔癖症なのかと聞いたこともあるが、そうじゃないらしい。
碧生は俺が渡した練り切りを、ゆっくりと口に含んだ。甘いものが相当好きなのか、夢を見ているような瞳をしていた。
食事を終えると、料亭から家に帰るため、タクシーに乗り込む。芸能人なんだからハイヤーを頼めばいいのに、と少し思ってしまう。一般人に「霜中碧生」とばれて、騒ぎになるかもしれないのに。でもきっと、碧生は倹約も出来るからこんなところで無駄遣いはしないんだろう。
タクシーの車内から、住宅街の灯りをぼんやりと眺める。もう日が落ちているから、ひとつひとつの光がよく見えて、素早く通り過ぎるたびに流れ星のようにも見えた。
「ねえ、空にい。ひとつだけ覚えていてほしいんだ」
窓の外を眺めている俺に、碧生が話しかけてきた。やけに落ち着いた声だ。
「僕はいつも空にいの幸せを願ってるんだよ」
「ああ、わかってる」
「ほんとの、ほんとだよ? 僕は世界でいちばん、空にいのことを愛してるからね」
「恥ずいこというなよ」
ドラマの撮影でもないのに臆面もなく「愛してる」なんて言える碧生が羨ましくて、照れたフリをして碧生の顔を手で押しのけた。
碧生を本気で憎めないのは、こういうところがあるせいだった。演技が得意なんだし、いくらでも嘘はつけるだろう。でも碧生は、本当に俺を慕ってくれている。それに気づけないほど、俺は愚かになれなかった。愛されているとわかっているからこそ、同じように愛し返せない己の醜さが、つらい。
俺が自分の卑しさに打ちのめされていると、スマホから通知音が鳴る。ロックを解除して画面を確認すると、乙木からメッセージが送られてきていた。
【君たち、嘘つきなところがそっくりな兄弟だね】
***
3人で料亭に行った日の翌週になると、ドラマのワークショップに参加するために、乙木が学校を休むようになった。表向きには家庭の事情で休んでいることになっている。
本当の事情を知らない美術部の部員やクラスの女子たちは、目の保養がひとり減ったことを大いに嘆き悲しんでいた。
「乙木がいないと潤いが足りないよね」
「それな」
「あー……しばらくは霜中空で我慢しとくかあ」
「どうせ霜中なら碧生のほうがここにいればよかったのにねー」
「ほんとそれな」
1日の授業が終わりホームルームの時間になると、そんな失礼極まりない発言が右隣のほうから聞こえてきた。曽根田と鈴木だ。曽根田のやつ、乙木と碧生がBLドラマで共演すると知ったら、気絶でもしそうだな。
お喋りな女子ふたりの会話を聞き流しているうちに、ホームルームが終わり、カナセンが教室から出て行った。
「……あれ。春斗、凛たちと遊びに行かねえの?」
ふと春斗を見ると、席から立ち上がりもせず机に突っ伏している。いつもなら、凛と苺を遊びに誘っている頃合いなのに。2人と喧嘩でもしたのかと気になって声をかけると、春斗は涙声で「凛に彼氏が出来たって……」と呟いた。
「彼氏?」
「うん……なんか、相手は有名なインフルエンサーなんだって」
春斗はそう言うなり、また机に突っ伏してしまった。
凛はついに「本物」を捕まえたようだ。あいつも変わらないな。ここまで方向性が一貫していると、もはや清々しい。
俺が凛を思い浮かべて薄っすら笑っていると、スマホの通知音が鳴った。碧生からの連絡だ。
【空にい、ごめん。夜から使う台本を忘れてきちゃったから、スタジオまで持って来てくれないかな?】
そんな文面の後に、お願いポーズをしている子犬のスタンプが送られてきていた。
ため息を吐く。これから都内のスタジオに行くとなったら、タクシーを使っても往復で2時間はかかるだろう。それでもいい兄としては行かないという選択肢がないので、俺は重い足を無理矢理に動かして、校舎を後にした。
***
「――すみません、霜中碧生の兄です。弟の荷物を持ってきました」
スタジオの出入り口でそう申し伝えると、意外にもすんなり中へ通してもらえた。もしかしたら碧生が事前に俺が来ることを警備員に話していたのかもしれない。
警備室から電話でドラマの制作スタッフを呼び出してもらい、案内をしてもらいつつスタジオへと向かう。
碧生は長いこと芸能界に身を置いているが、俺自身はこういったスタジオや撮影現場を訪れることはなかった。見慣れない建物の中を、緊張しながら歩く。時折、急いでいる様子のスタッフが横を走り抜けていった。みんな忙しそうだ。改めて、弟がすごい世界で活躍していることを実感してしまい、気分が沈んでいくのを感じた。
「あの、お兄さん。こちらです」
スタッフの呼ぶ声に、ハッとして前を見た。すると、全面鏡張りの部屋の中で、碧生や乙木、そのほか数人の俳優が台本を持ちながら稽古をしている。
「あっ、空にい! 台本持ってきてくれたんだね。ありがとう」
目ざとく俺を見つけた碧生が、叫ぶなりこちらへ駆け寄ってきた。頼まれていた台本を手渡しながら、今さっき台本なしで台詞を喋っていた弟の姿を思い返す。この台本、いらないんじゃないのか。疑問が浮かぶ。碧生はもう完璧に台詞を覚えこんでいるようだった。
「そうだ、空にい。せっかくだから見学してってよ。そんで、一緒に帰ろう?」
「え、いいのか」
部外者がいたら邪魔じゃないか、と碧生の側に控えていたマネージャーをちらりと垣間見る。マネージャーはニコニコと笑いながら、「大丈夫ですよ。お兄さんがいたほうが碧生もやる気が出るでしょうし」と言う。
結局、碧生の希望通りに、ワークショップを見学することになってしまった。用意されたパイプ椅子に腰掛け、監督の言葉に耳を傾けている碧生と乙木の様子を見守る。
ワークショップに参加しているのは、みんな一定以上の顔面偏差値があるイケメン俳優ばかりだった。
それでも、乙木はその中でずば抜けて綺麗だった。稽古着の黒いTシャツ、黒いスウェットパンツという素っ気ない装いでも、彼の持つ輝きは隠しきれない。たまに髪をかきあげたりする時なんか、周りのスタッフから感嘆のため息が溢れるほどだった。
「星月さんの息子さん、綺麗ねえ」
「本当に。碧生君の相手役はあの子でほぼ決まりかな」
ひそひそと、乙木についてスタッフが噂している。
さすが、だな。苦い敗北感のようなものを覚えながら、俺は乙木を見つめた。不意に乙木がこっちを見て、視線がかち合う。乙木はふらりと片手を挙げ、挨拶をしてくれた。
「――はい、じゃあ次。シーン25行きます。乙木君、やってみて」
監督がそう言うと、乙木が「はい」と言い、碧生と向かい合った。2人でドラマのワンシーンを実際に演じるようだ。
「星を見る以上に、好きになれるものはないんだ。だから……ごめん」
どうやら、乙木演じる天文部の先輩が、主人公をフるシーンだったらしい。乙木はあまり演技経験がないはずだけど、中々に演技のセンスがあるみたいだった。監督もうんうん、と満足そうに頷いている。
「そんな答えじゃ、諦められません。だって僕はずっと先輩が……先輩だけを、好きだったんです。この10年間」
今度は碧生が乙木に向かって話す。碧生の演じる主人公は長いこと片想いをしている設定だとは聞いていたが、10年とは予想以上の年月だ。そこまで古くからの知り合いということは、この先輩後輩はたぶん幼馴染の設定なんだろう。
「――流れ星を見るたびに、先輩のことを願いました。僕の思いの100分の1でもいいから、先輩が僕を好きになりますように、って。だから、簡単に断らないでください。僕の人生、先輩なしでは語れないくらい、あなたが好きなんです……!」
絞り出すような碧生の声。迫力ある演技に、見ている観客たちはこれが演技だということを束の間、忘れるほどだった。碧生が出演したドラマや映画を見たことはあったけど、生の演技がここまですごいのは知らなかったので、唖然としてしまう。演技中の碧生の視線は痛々しいほどに悲しくて、そして力強かった。
監督が「カット! いいね〜碧生君」と言うと、碧生の顔はいつもの明るい笑顔に戻る。途端に、スタッフたちが拍手し始めた。もちろん碧生の演技に、だ。
「……すごい、練習の完成度どころか本番を超えてるでしょアレ」
「碧生君のおかげでこのドラマ、賞レースも狙えるかもねー」
嬉しそうなドラマ制作スタッフたちの呟きが聞こえてくる。碧生を褒め称える声ばかりだ。生のお芝居を見学出来るのは楽しかったが、弟がずっと褒められているのをただ見つめるだけ、というのはかなり堪える。
あとどれぐらいで稽古は終わるんだろう、と思っていると。再び監督が声を上げた。
「次はシーン30……って、家族の前じゃ碧生君やりづらいかな?」
監督はそう言って、薄ら笑いを浮かべて俺と碧生を交互に見比べた。「家族の前じゃやりづらい」と聞いて、背筋に悪寒が走る。猛烈に、嫌な予感。
「あの、このシーンの台本、途中から『主人公役に身を委ねる』としか書いてないんですが」
台本をパラパラとめくり確認していた乙木が、手を挙げて監督に言う。すると監督は意味深に笑い、「あーそうそう。ここは全部、碧生君にお任せだから」と言った。
「……星凪さん。今は『フリ』だけにしますね。本当には、しません」
「え、何を……?」
碧生の言葉に乙木が戸惑っているのもお構いなしに、監督は「シーン30、アクション!」と合図をする。そして、碧生が即座に動いた。
「先輩、好きです」
その台詞を言った直後、碧生は乙木の肩をがっしりと掴み、顔を近づけていく。おい、まさか、と思っていると、碧生はどんどん乙木に近づき、鼻と鼻がぶつかりそうな距離で、ふっと顔の角度を斜めに向け始めた。
これ、キスシーンだ。
思い至った瞬間、俺は反射的にその場に立ち上がった。「ガシャン」と結構な物音を立てて、座っていたパイプ椅子が床へと転がる。部屋中に音が響いたものだから、乙木や碧生、監督たちまでもが俺を振り返って見つめた。
「あ、アハハ、すみません。俺……席、外しますね」
これ以上は見ていられなかった。BLドラマに出演するかもしれないと聞いた時に、キスシーンやラブシーンがあることを始めに考慮しておくべきだった。乙木の出演を引き留めなかったことを、本気で後悔する。
よりによって、弟と乙木のキスシーンだなんて。耐えられるはずがなかった。
俺は後ろから引き留める声が聞こえても気づかないフリをして、スタジオを飛び出した。