「みんなに話さないといけないことがあるんだ」
ある日、夕食を食べている最中に碧生がそう切り出した。碧生の稼ぎで数年前に購入したこの家は無駄に広く天井が高いから、声がよく響いた。
急になんだろうとは思いつつ、俺は笑顔を顔に張り付けたまま様子を伺う。母親が「どうしたの、改まって」と不思議そうに碧生へ尋ねると、碧生は珍しく話すのをためらう仕草を見せた。
「あのね。これから新しいドラマのワークショップが始まるんだけど、まだどんな作品なのか話してなかったよね」
碧生はいつも新しい仕事を受けた時、家族にどんな作品に出るのか、どんな役柄を演じるのかなど、詳しく説明をしていた。子役時代は親同伴が必須ということもあり、母親と一緒にオーディションを受けに行っていたから、家族に報告するのが癖になっているのかもしれない。それとも、ただ教えてあげようという善意のつもりなのかもわからない。
次の仕事がなんだろうと、わざわざ改まって話すほどのことか。弟の大げさな物言いに少し違和感を覚える。
碧生は手にしていた箸をそっとテーブルの上に揃えて置き、重々しく口を開いた。
「次に出るドラマ、実は……BLドラマなんだ」
言ってから、碧生はぎゅっとまぶたをつむった。俺たちの反応が気になるのか、そっと薄目で見上げてくる。
父親はなんの話かさっぱりわからない、というようにきょとんとして、母親のほうを向いて尋ねた。
「BLってなんだ?」
「ほら、あれよ。男の子同士で恋愛する……」
「ああ、最近の若い子の間で流行ってるやつか」
母親から説明されて父親がようやくBLの意味を理解する。碧生はそんな両親を見て大きく頷いた。
「そう。これまでとちょっと違うジャンルだから、たぶんみんなびっくりすると思うんだ。それと、なんで今回このドラマのオファーを受けたかというとね――」
碧生はちらりと俺に視線を向けた。碧生がなんの話をしようとしているのかなんて俺にわかるはずがないのに、何故か背筋にゾッとするような悪寒が走る。
「――実は僕、男の子しか好きになれないんだ」
俺の嫌な予感は的中した。碧生が言ったことが信じられなくて、つい笑顔を作ることも忘れて碧生の顔に見入ってしまう。
弟は俺が拒否反応を示したと誤解したようで、ふいっと視線を俺から逸らした。
俺は碧生がゲイなことが嫌なんじゃない。俺だって男の乙木星凪が好きだし、そんなことに驚いたりしない。
俺が信じがたいほどにショックだったのは、碧生が家族のだんらんの場で堂々と自分がゲイだと打ち明けたことだった。驚き、戸惑い、そんなものじゃない。俺は怒りを感じたんだ。俺が誰にも言えずにひた隠しにしている秘密を、こいつはなんともないように言えてしまうんだ、と。またしても、弟との格差を目の前で見せつけられた。そんな敗北感でいっぱいだった。
俺が胸の中に吹き荒れる暴風に耐えていると、母親が「そうだったの……」と理解ある母親像そのもの、みたいな顔をして相槌を打つ。父親も「うん、うん。よく教えてくれたな」とまるで道徳の教科書に出てきそうなことを言っている。
両親が受け入れてくれたのを見た碧生は続きを話す元気が出てきたようだ。パッと嬉しそうに両親に向けて笑いかけ、話を続けた。
「それでね、今度のドラマ制作発表の時、ゲイだってカミングアウトするつもりなんだ。バッシングされるかもしれないけど……勝手にいろいろ決めて、普通の息子になれなくて、ごめんなさい」
碧生は椅子に座ったまま、ぺこりと頭を下げた。母親は慌てふためいて、そんな碧生の頭を上げさせようとしている。
「なに言ってるの、謝る必要なんてないのよ。碧生がどんな人を好きになってもお母さんたちは受け入れるわよ。だって碧生が選んだのなら、素晴らしい人に決まってるでしょう!」
「そうだな、お母さんの言う通りだ」
「孫の顔を見せられなくてごめんね」
「孫ならお兄ちゃんがいつか作ってくれるから、大丈夫よ」
――そうでしょう?
母親は暗に頷けと命令しているような鋭い目で、俺を見る。まるで俺を碧生のスペアのように言い、俺が当然その扱いを受け入れると思っている。そんな家族のありようを、この人たちは理想の家庭だと思っているんだ。昔から。今も変わらず。
俺も男が好きなんだ、とは口が裂けても言えなかった。さっきからこのリビングで繰り広げられている、アットホーム・ドラマの皮を被ったグロテスクな状況に吐き気がして、口を開いたら吐瀉物が零れ落ちてきそうだった。
「……うん」
口を開かずに、喉だけで発声し返事をした。俺の答えに満足そうに微笑む母親、父親。パアッと幸せな笑顔を向けてくる碧生。ここに俺の味方は誰もいなかった。
せめて一時的にでも避難したい一心で、俺は食べかけだった夕食をかきこむように食べ終え、「明日提出の課題があるんだ」と言い自分の部屋に逃げるようにして戻る。この家で俺に許された、唯一の逃げ場所だ。
「BLドラマって若い女の子に人気だっていうから、もっとファンが増えるんじゃない?」
「どうかなあ。そうだったら嬉しいけどね」
「碧生なら大丈夫だろう。いつも真剣にお芝居に向き合ってること、わかる人にはわかるだろうからな」
部屋の扉を閉める直前まで、碧生と両親の会話が聞こえてきていた。俺がいないほうがパズルのピースが完璧にはまったような家族。
部屋の扉を閉めるなり、ずるずるとその場に崩れるようにして座り込む。碧生のカミングアウトを聞いてからずっと、身体の中を空虚な風が通り抜けていく感覚がしていた。その風は俺の身体をじわりじわりと蝕み、「お前はこの家族にいらない存在なんだよ」と囁いてくる。うるさい、と耳を塞いだ。
不穏な声が聞こえなくなるまでじっとその場に座っていると、「コンコン」と扉がノックされた。そのまま黙っていると、「あれ、空にい~? いるよね」と碧生の声が扉の向こう側から聞こえてくる。
「どうした」
無視するわけにもいかないので扉を開けると、碧生はこっちの気も知らずにニコッと可愛らしく笑った。
「さっき話したBLドラマのことなんだけど、続きがあって。共演者として名前が挙がってるの、空にいの友達なんだよね」
「……友達」
嫌な予感がした。碧生が、弟が、俺の領域に侵入してくるような予感。避けたくても、俺はどこにも逃げられない。守りたかったものも、大切なものも、全て碧生に奪われていく。そんな幻想を見ながら碧生が話し出すのを待った。
「うん。乙木星凪さん。星月アヤネさんの息子さん!」
目を輝かせて、碧生は言った。絶望、ってこういう時のための言葉なのかもしれない。血の気が引いて、指先から冷えていく。
俺の口は勝手に「あー、乙木ね」と返事をしていたが、心はどこか遠くに置いてきたようだった。弟と乙木が共演するかもしれないという話を、笑顔で聞きながら頷く俺の身体。それを遠くから表情の抜け落ちた顔で見つめる、俺の心。
「僕の相手役はワークショップやった後に決めるらしいから、まだ確定ではないんだけどね。星凪さん、綺麗な顔してるから相手役になってほしいんだよね~。あの人となら恋するお芝居も楽に出来そう。本当に好きになっちゃったりして」
そう言って、碧生は悪戯っぽく微笑んだ。
碧生が乙木を好きになったら――それは考えうる中で最も最悪な未来だった。乙木は俺の好きな人で、それ以上に心の支えとしている人間だったから。乙木を弟に奪われた後の自分がどうなってしまうなんて、考えたくもない暗黒の未来だった。
「乙木と碧生が一緒に仕事するなんて、不思議な縁だな。頑張れよ」
いい兄、いい友達の仮面を張り付けて碧生を鼓舞してから、俺はまた部屋の扉を閉めた。今度こそひとりきりになるため、鍵までしっかりと閉めた。
――俺がお芝居の中で他の男とキスしたら……空はどうする?
映画を見た後に乙木が言っていたことは、このことを示唆していたんだ。そんなことにも気づかずに、俺は「もしかしたら乙木も俺に気があるのかも」なんて期待して、正真正銘の愚か者だった。
俺は舞台の土俵にすら上がっていないということ。痺れるほどに教えてくれてありがとうな、乙木。
俺はミニシアターで貰った映画のチラシをごみ箱に捨てた。
***
「なあ苺、これはまだ秘密の話なんだけどさ。乙木のやつ、俺の弟とドラマで共演するかもなんだって」
「ええっ、それマジィ!?」
情報の授業中、パソコンで推しアイドルの動画を編集していた苺に囁くと、苺は授業中にもかかわらず大声で叫んだ。
幸いにも情報を担当している南先生は温和でことなかれ主義な先生だったので、こちらを気にもせず作業が止まっている生徒に個別指導を続けていた。
「……ね、それまだメディアに公開されてない情報だよね。なんで空が知ってんの」
「そりゃそうだ。碧生に直接聞いたからな」
「うわ、芸能人の家族ってうーらーやーまー」
苺は先端が鋭く尖った爪先をこちらに向けて笑った。そして、俺が止める間もなく凛や春斗に「ねえ! 空から聞いたんだけど~」とさっそく噂を広め始めている。
そんな苺を見て笑っていると、横から乙木がもの言いたげにこちらを見ていることに気づいた。わざと乙木にも聞こえるくらいの声量で喋っていたから、俺が勝手に乙木と碧生のドラマ出演情報を漏らしたことに怒ってでもいるんだろう。怒ればいいさ。そして俺のことを嫌えばいい。
乙木に八つ当たりしたって仕方がないなんてこと、俺が一番よくわかってる。それでも、こうでもしないと正気を保てそうにないんだ。嫌われたくない――そんな思いよりも、「お前までもが俺を見捨てていくのか」という恨みの感情が勝ってしまった。
素知らぬふりをしたまま目の前のモニター画面を見つめ、課題の動画作成に集中していると、乙木が「ごめん。席、交換してくれないかな」と俺の隣の席の女子へ話しているのが聞こえてきた。乙木に話しかけられて断る女子なんているわけがない。俺の隣に座っていた元木さんは頷き、そそくさと乙木が座っていた場所へ走っていく。
乙木はそっと静かに席へ座ると、モニターのほうを見つめながら話しかけてきた。
「……情報解禁前のネタを広めるの、よくないと思う」
「そうなんだ。ごめん」
「怒ってる?」
「なんで俺が怒るんだよ」
乙木が嫌う誤魔化しの笑顔を作って、言った。乙木は俺の顔を見ると、間違えた解答をした子供を窘めるように悲しい目をした。一瞬の沈黙。
クラスメイトたちのキーボードを叩く音、マウスをクリックする音、南先生の静かな声が俺たちの間を通り抜けていく。
「ドラマのキャスティングのこと、空が傷つくだろうってわかってたけど……お母さんがどうしてもオーディションに参加してくれって頼んできたから、断りきれなくて」
落ち着いた声で乙木が言う。俺には俺の事情があるように、乙木には乙木の家なりの事情があるんだろう。星月アヤネほどの大女優に請われたら断れない、という気持ちもわかる。物わかりのいい表向きの俺はすぐに乙木に理解を示した。でも、本当の心の中では、乙木に失望していた。
「そういえば、星月アヤネと碧生、共演経験あるし仲いいもんな。碧生も綺麗な人と共演出来るかもって喜んでたよ」
乙木星凪は母親に縛られて言いなりになるような、そんなつまらない人間じゃないと思っていた。俺が弟に劣等感を抱いていることも知っていたし、そんな乙木だからこそ碧生にだけは近づかないでいてくれると期待していた。
「碧生、乙木が綺麗だから『本当に好きになっちゃうかも』って浮かれててさ。ま、お手柔らかに頼むよ。うちの弟、子供の頃から仕事ばっかしてて恋愛には疎いから」
嘘だ。碧生は要領がとてもいい男だから、週刊誌にすっぱ抜かれるような遊びかたはしないだけだ。相手が男だとは知らなかったが、恋人と電話やメールをしているのを何度も見かけた。相手は定期的に変わっていた。それが悪いことだとは思わない。碧生は顔も頭もよく、才能があって特別な人間だ。そんな碧生に惹かれて周りのやつらが虫のようにたかってくるのは自然の摂理なんだから。
でも、もしも今度のドラマがきっかけで碧生と乙木が付き合う、なんてことになったら――乙木星凪、俺はお前を軽蔑する。
「空! さっきからわざとやってるよね。言ってることと本音がぐちゃぐちゃで気持ち悪いよ。やめて」
乙木が悲痛な声を上げた。前に嘘を他人の言動や仕草から見抜くと言っていたから、俺のでたらめな表層が耐えられなかったらしい。吐き気を堪えるように、口元を手で押さえている。
「そっか。ごめんな」
特別な人間様はいいよな。そうやって、俺みたいな平凡な人間が努力して身につけた作り笑いまで簡単に否定出来るんだから。
俺が本音を言わない意思を固めたことを悟った乙木は、授業が終わるまで完全に沈黙した。
***
今日は美術部に行くつもりはなかった。というより、もう部活を辞めようとさえ、思っていた。男手が必要な文化祭は終わったし、乙木も恐らくドラマのワークショップがあるから休部するはずだ。これ以上、俺が美術部にいる意味はない。
3年生が部活を引退したこともあり部員数は減っているが、美術部に関しては人数が少なくても成り立つだろうし、俺ひとりいなくなったところで誰も何も言わないだろう。
だから、美術室で元美術部部長の野村雛菊と相対峙するように立っている乙木星凪を見かけたのは、本当に単なる偶然だった。1階に降り、昇降口に向かう道すがらに美術室があるものだから、うっかり目に入ってしまったのだ。
どうやら、休部届を出しに来た乙木を野村元部長が引き留めているようだ。
「美術部をしばらく休む……って、乙木は美術の道に進みたいんじゃないの?」
「芸術は好きですけど、あくまで趣味として続けていきたいんです。それに、別件で放課後にやることが出来てしまって」
「そうなんだ。意外と堅実なんだねえ」
もう部活を引退したはずの野村元部長が、乙木と話している。まだ他の部員たちは来ていないようで、美術室には元部長と乙木の2人だけだ。
俺はいつかの時と同じように、足音を忍ばせて美術準備室の中へと滑り込んだ。
「……もう気軽に会えなくなるなら、いいタイミングだったかも。私、乙木に話したいことがあったんだ」
野村はそう言うと、乙木に一歩近寄る。なんだか頬を赤らめていて、嫌な雰囲気だ。胸に広がるモヤつきを抑えながら、息を潜めて2人の姿を見守っていると、野村が挑むような顔をして話し出す。
「私、乙木のことずっといいなあと思ってて。彼女いないなら私と付き合わない?」
そう告白してから、野村は得意げな表情で乙木の返事を待っている。
どうしてあの人は特別な人間でもないのにあんなに自信満々なのだろう。勝ち目のない戦いに、そうとは知らず無防備なまま戦いを申し入れる、みたいな。あまりにも愚鈍な様に、見ているこちらが恥ずかしくなってくる。
予想通り、乙木は戸惑った顔を見せた後に「ごめんなさい」と頭を下げた。当然と言えば当然な返事だったが、俺は知らず知らずのうちに呼吸を止めていたらしい。安心して、ハアッと息を吐く。
野村はあからさまに不満を表明するように、眉根を寄せていた。
「心配で目が離せない人、というか。気になる人……がいるので。先輩とお付き合いするのは無理です」
「誰のこと?」
「それを先輩に言う必要はないですよね」
乙木がそう言い返すと、野村元部長は悔しそうに「そう。わかった、元気でね」とだけ言うと、美術室をさっさと出て行った。わざと足音を立てて歩いていたので、彼女の中では乙木と付き合える未来でも見えていたのかもしれない。そんなわけないだろう、と元部長の背中に叫んでやりたくなる。乙木星凪みたいな特別な人は、俺やあんたみたいな平々凡々の民とは付き合えないんだよ。
乙木と元部長の顛末を見届けて満足した俺は、準備室の扉をそっと開けて今度こそ帰ろうとした。
だけどその時、美術室から乙木が「待って、空! ちゃんと話そう」と叫んだ。
俺が盗み聞きしていたことなんて、最初からお見通しだったってわけか。ため息を吐いて、観念することにした。
廊下に繋がる扉から手を離し、反対側にある美術室に繋がっているほうの扉を開けて、美術室に入る。
「ちゃんと話すって、何を? 碧生のドラマの話をこれ以上したって意味ないだろ」
そう言うと、乙木はこちらへ駆けよって来て、きゅっと俺の制服の袖を掴む。まるで逃げないように、引き留めるみたいに。
「俺だって簡単な気持ちでオーディションの話を受けたんじゃないってこと、わかってほしい。空が弟に対して複雑な気持ちを抱いているみたいに、俺もお母さんに負い目を感じているんだ」
俺が黙っていると、更に乙木は言い募った。
「今度のドラマは、『星月アヤネの息子』ってネームバリューを製作スタッフが欲しがっただけのことだよ。俺に価値はない。あくまでお母さんの付属品としての価値だけだ」
「……『霜中碧生』の付属品である俺みたいに?」
「空を皮肉ったわけじゃないよ。でも君になら、俺の葛藤がわかるはずだろ……!」
「わかるけど、わかりたくないね。結局、乙木が俺と仲良くしてくれてたのは、仲間意識と憐れみだった、ってわけか」
これは本心だった。自分と似た境遇だから共感した――それだけなら、まだいい。憐れまれて、慰みを与えられていたのだとしたら、それはかなりの屈辱だった。
俺の言葉を聞いた乙木は、ギリ、と痛いほど俺の手首を握り締めた。乙木らしからぬ力強さに、少し驚く。
「きっかけは同情だったとしても、空が嘘をつかずに泣ければいいなって、つらい思いをしてないといいのにって、そう思う俺の気持ちは本当だよ。本当に、ずっと空を気にしてるんだ」
乙木星凪も必死になったりするんだ、とか。これ以上つんけんした態度を取るのはさすがに大人げないよな、とか。頭の中ではいろんな考えが混ざり合ってカオスの極みだった。
シンプルに仲直りをしよう。俺は折れることにした。
「……駅前のハンバーガー、食べに行く?」
俺が聞くと、乙木は「うん」と頷いて、笑った。
ある日、夕食を食べている最中に碧生がそう切り出した。碧生の稼ぎで数年前に購入したこの家は無駄に広く天井が高いから、声がよく響いた。
急になんだろうとは思いつつ、俺は笑顔を顔に張り付けたまま様子を伺う。母親が「どうしたの、改まって」と不思議そうに碧生へ尋ねると、碧生は珍しく話すのをためらう仕草を見せた。
「あのね。これから新しいドラマのワークショップが始まるんだけど、まだどんな作品なのか話してなかったよね」
碧生はいつも新しい仕事を受けた時、家族にどんな作品に出るのか、どんな役柄を演じるのかなど、詳しく説明をしていた。子役時代は親同伴が必須ということもあり、母親と一緒にオーディションを受けに行っていたから、家族に報告するのが癖になっているのかもしれない。それとも、ただ教えてあげようという善意のつもりなのかもわからない。
次の仕事がなんだろうと、わざわざ改まって話すほどのことか。弟の大げさな物言いに少し違和感を覚える。
碧生は手にしていた箸をそっとテーブルの上に揃えて置き、重々しく口を開いた。
「次に出るドラマ、実は……BLドラマなんだ」
言ってから、碧生はぎゅっとまぶたをつむった。俺たちの反応が気になるのか、そっと薄目で見上げてくる。
父親はなんの話かさっぱりわからない、というようにきょとんとして、母親のほうを向いて尋ねた。
「BLってなんだ?」
「ほら、あれよ。男の子同士で恋愛する……」
「ああ、最近の若い子の間で流行ってるやつか」
母親から説明されて父親がようやくBLの意味を理解する。碧生はそんな両親を見て大きく頷いた。
「そう。これまでとちょっと違うジャンルだから、たぶんみんなびっくりすると思うんだ。それと、なんで今回このドラマのオファーを受けたかというとね――」
碧生はちらりと俺に視線を向けた。碧生がなんの話をしようとしているのかなんて俺にわかるはずがないのに、何故か背筋にゾッとするような悪寒が走る。
「――実は僕、男の子しか好きになれないんだ」
俺の嫌な予感は的中した。碧生が言ったことが信じられなくて、つい笑顔を作ることも忘れて碧生の顔に見入ってしまう。
弟は俺が拒否反応を示したと誤解したようで、ふいっと視線を俺から逸らした。
俺は碧生がゲイなことが嫌なんじゃない。俺だって男の乙木星凪が好きだし、そんなことに驚いたりしない。
俺が信じがたいほどにショックだったのは、碧生が家族のだんらんの場で堂々と自分がゲイだと打ち明けたことだった。驚き、戸惑い、そんなものじゃない。俺は怒りを感じたんだ。俺が誰にも言えずにひた隠しにしている秘密を、こいつはなんともないように言えてしまうんだ、と。またしても、弟との格差を目の前で見せつけられた。そんな敗北感でいっぱいだった。
俺が胸の中に吹き荒れる暴風に耐えていると、母親が「そうだったの……」と理解ある母親像そのもの、みたいな顔をして相槌を打つ。父親も「うん、うん。よく教えてくれたな」とまるで道徳の教科書に出てきそうなことを言っている。
両親が受け入れてくれたのを見た碧生は続きを話す元気が出てきたようだ。パッと嬉しそうに両親に向けて笑いかけ、話を続けた。
「それでね、今度のドラマ制作発表の時、ゲイだってカミングアウトするつもりなんだ。バッシングされるかもしれないけど……勝手にいろいろ決めて、普通の息子になれなくて、ごめんなさい」
碧生は椅子に座ったまま、ぺこりと頭を下げた。母親は慌てふためいて、そんな碧生の頭を上げさせようとしている。
「なに言ってるの、謝る必要なんてないのよ。碧生がどんな人を好きになってもお母さんたちは受け入れるわよ。だって碧生が選んだのなら、素晴らしい人に決まってるでしょう!」
「そうだな、お母さんの言う通りだ」
「孫の顔を見せられなくてごめんね」
「孫ならお兄ちゃんがいつか作ってくれるから、大丈夫よ」
――そうでしょう?
母親は暗に頷けと命令しているような鋭い目で、俺を見る。まるで俺を碧生のスペアのように言い、俺が当然その扱いを受け入れると思っている。そんな家族のありようを、この人たちは理想の家庭だと思っているんだ。昔から。今も変わらず。
俺も男が好きなんだ、とは口が裂けても言えなかった。さっきからこのリビングで繰り広げられている、アットホーム・ドラマの皮を被ったグロテスクな状況に吐き気がして、口を開いたら吐瀉物が零れ落ちてきそうだった。
「……うん」
口を開かずに、喉だけで発声し返事をした。俺の答えに満足そうに微笑む母親、父親。パアッと幸せな笑顔を向けてくる碧生。ここに俺の味方は誰もいなかった。
せめて一時的にでも避難したい一心で、俺は食べかけだった夕食をかきこむように食べ終え、「明日提出の課題があるんだ」と言い自分の部屋に逃げるようにして戻る。この家で俺に許された、唯一の逃げ場所だ。
「BLドラマって若い女の子に人気だっていうから、もっとファンが増えるんじゃない?」
「どうかなあ。そうだったら嬉しいけどね」
「碧生なら大丈夫だろう。いつも真剣にお芝居に向き合ってること、わかる人にはわかるだろうからな」
部屋の扉を閉める直前まで、碧生と両親の会話が聞こえてきていた。俺がいないほうがパズルのピースが完璧にはまったような家族。
部屋の扉を閉めるなり、ずるずるとその場に崩れるようにして座り込む。碧生のカミングアウトを聞いてからずっと、身体の中を空虚な風が通り抜けていく感覚がしていた。その風は俺の身体をじわりじわりと蝕み、「お前はこの家族にいらない存在なんだよ」と囁いてくる。うるさい、と耳を塞いだ。
不穏な声が聞こえなくなるまでじっとその場に座っていると、「コンコン」と扉がノックされた。そのまま黙っていると、「あれ、空にい~? いるよね」と碧生の声が扉の向こう側から聞こえてくる。
「どうした」
無視するわけにもいかないので扉を開けると、碧生はこっちの気も知らずにニコッと可愛らしく笑った。
「さっき話したBLドラマのことなんだけど、続きがあって。共演者として名前が挙がってるの、空にいの友達なんだよね」
「……友達」
嫌な予感がした。碧生が、弟が、俺の領域に侵入してくるような予感。避けたくても、俺はどこにも逃げられない。守りたかったものも、大切なものも、全て碧生に奪われていく。そんな幻想を見ながら碧生が話し出すのを待った。
「うん。乙木星凪さん。星月アヤネさんの息子さん!」
目を輝かせて、碧生は言った。絶望、ってこういう時のための言葉なのかもしれない。血の気が引いて、指先から冷えていく。
俺の口は勝手に「あー、乙木ね」と返事をしていたが、心はどこか遠くに置いてきたようだった。弟と乙木が共演するかもしれないという話を、笑顔で聞きながら頷く俺の身体。それを遠くから表情の抜け落ちた顔で見つめる、俺の心。
「僕の相手役はワークショップやった後に決めるらしいから、まだ確定ではないんだけどね。星凪さん、綺麗な顔してるから相手役になってほしいんだよね~。あの人となら恋するお芝居も楽に出来そう。本当に好きになっちゃったりして」
そう言って、碧生は悪戯っぽく微笑んだ。
碧生が乙木を好きになったら――それは考えうる中で最も最悪な未来だった。乙木は俺の好きな人で、それ以上に心の支えとしている人間だったから。乙木を弟に奪われた後の自分がどうなってしまうなんて、考えたくもない暗黒の未来だった。
「乙木と碧生が一緒に仕事するなんて、不思議な縁だな。頑張れよ」
いい兄、いい友達の仮面を張り付けて碧生を鼓舞してから、俺はまた部屋の扉を閉めた。今度こそひとりきりになるため、鍵までしっかりと閉めた。
――俺がお芝居の中で他の男とキスしたら……空はどうする?
映画を見た後に乙木が言っていたことは、このことを示唆していたんだ。そんなことにも気づかずに、俺は「もしかしたら乙木も俺に気があるのかも」なんて期待して、正真正銘の愚か者だった。
俺は舞台の土俵にすら上がっていないということ。痺れるほどに教えてくれてありがとうな、乙木。
俺はミニシアターで貰った映画のチラシをごみ箱に捨てた。
***
「なあ苺、これはまだ秘密の話なんだけどさ。乙木のやつ、俺の弟とドラマで共演するかもなんだって」
「ええっ、それマジィ!?」
情報の授業中、パソコンで推しアイドルの動画を編集していた苺に囁くと、苺は授業中にもかかわらず大声で叫んだ。
幸いにも情報を担当している南先生は温和でことなかれ主義な先生だったので、こちらを気にもせず作業が止まっている生徒に個別指導を続けていた。
「……ね、それまだメディアに公開されてない情報だよね。なんで空が知ってんの」
「そりゃそうだ。碧生に直接聞いたからな」
「うわ、芸能人の家族ってうーらーやーまー」
苺は先端が鋭く尖った爪先をこちらに向けて笑った。そして、俺が止める間もなく凛や春斗に「ねえ! 空から聞いたんだけど~」とさっそく噂を広め始めている。
そんな苺を見て笑っていると、横から乙木がもの言いたげにこちらを見ていることに気づいた。わざと乙木にも聞こえるくらいの声量で喋っていたから、俺が勝手に乙木と碧生のドラマ出演情報を漏らしたことに怒ってでもいるんだろう。怒ればいいさ。そして俺のことを嫌えばいい。
乙木に八つ当たりしたって仕方がないなんてこと、俺が一番よくわかってる。それでも、こうでもしないと正気を保てそうにないんだ。嫌われたくない――そんな思いよりも、「お前までもが俺を見捨てていくのか」という恨みの感情が勝ってしまった。
素知らぬふりをしたまま目の前のモニター画面を見つめ、課題の動画作成に集中していると、乙木が「ごめん。席、交換してくれないかな」と俺の隣の席の女子へ話しているのが聞こえてきた。乙木に話しかけられて断る女子なんているわけがない。俺の隣に座っていた元木さんは頷き、そそくさと乙木が座っていた場所へ走っていく。
乙木はそっと静かに席へ座ると、モニターのほうを見つめながら話しかけてきた。
「……情報解禁前のネタを広めるの、よくないと思う」
「そうなんだ。ごめん」
「怒ってる?」
「なんで俺が怒るんだよ」
乙木が嫌う誤魔化しの笑顔を作って、言った。乙木は俺の顔を見ると、間違えた解答をした子供を窘めるように悲しい目をした。一瞬の沈黙。
クラスメイトたちのキーボードを叩く音、マウスをクリックする音、南先生の静かな声が俺たちの間を通り抜けていく。
「ドラマのキャスティングのこと、空が傷つくだろうってわかってたけど……お母さんがどうしてもオーディションに参加してくれって頼んできたから、断りきれなくて」
落ち着いた声で乙木が言う。俺には俺の事情があるように、乙木には乙木の家なりの事情があるんだろう。星月アヤネほどの大女優に請われたら断れない、という気持ちもわかる。物わかりのいい表向きの俺はすぐに乙木に理解を示した。でも、本当の心の中では、乙木に失望していた。
「そういえば、星月アヤネと碧生、共演経験あるし仲いいもんな。碧生も綺麗な人と共演出来るかもって喜んでたよ」
乙木星凪は母親に縛られて言いなりになるような、そんなつまらない人間じゃないと思っていた。俺が弟に劣等感を抱いていることも知っていたし、そんな乙木だからこそ碧生にだけは近づかないでいてくれると期待していた。
「碧生、乙木が綺麗だから『本当に好きになっちゃうかも』って浮かれててさ。ま、お手柔らかに頼むよ。うちの弟、子供の頃から仕事ばっかしてて恋愛には疎いから」
嘘だ。碧生は要領がとてもいい男だから、週刊誌にすっぱ抜かれるような遊びかたはしないだけだ。相手が男だとは知らなかったが、恋人と電話やメールをしているのを何度も見かけた。相手は定期的に変わっていた。それが悪いことだとは思わない。碧生は顔も頭もよく、才能があって特別な人間だ。そんな碧生に惹かれて周りのやつらが虫のようにたかってくるのは自然の摂理なんだから。
でも、もしも今度のドラマがきっかけで碧生と乙木が付き合う、なんてことになったら――乙木星凪、俺はお前を軽蔑する。
「空! さっきからわざとやってるよね。言ってることと本音がぐちゃぐちゃで気持ち悪いよ。やめて」
乙木が悲痛な声を上げた。前に嘘を他人の言動や仕草から見抜くと言っていたから、俺のでたらめな表層が耐えられなかったらしい。吐き気を堪えるように、口元を手で押さえている。
「そっか。ごめんな」
特別な人間様はいいよな。そうやって、俺みたいな平凡な人間が努力して身につけた作り笑いまで簡単に否定出来るんだから。
俺が本音を言わない意思を固めたことを悟った乙木は、授業が終わるまで完全に沈黙した。
***
今日は美術部に行くつもりはなかった。というより、もう部活を辞めようとさえ、思っていた。男手が必要な文化祭は終わったし、乙木も恐らくドラマのワークショップがあるから休部するはずだ。これ以上、俺が美術部にいる意味はない。
3年生が部活を引退したこともあり部員数は減っているが、美術部に関しては人数が少なくても成り立つだろうし、俺ひとりいなくなったところで誰も何も言わないだろう。
だから、美術室で元美術部部長の野村雛菊と相対峙するように立っている乙木星凪を見かけたのは、本当に単なる偶然だった。1階に降り、昇降口に向かう道すがらに美術室があるものだから、うっかり目に入ってしまったのだ。
どうやら、休部届を出しに来た乙木を野村元部長が引き留めているようだ。
「美術部をしばらく休む……って、乙木は美術の道に進みたいんじゃないの?」
「芸術は好きですけど、あくまで趣味として続けていきたいんです。それに、別件で放課後にやることが出来てしまって」
「そうなんだ。意外と堅実なんだねえ」
もう部活を引退したはずの野村元部長が、乙木と話している。まだ他の部員たちは来ていないようで、美術室には元部長と乙木の2人だけだ。
俺はいつかの時と同じように、足音を忍ばせて美術準備室の中へと滑り込んだ。
「……もう気軽に会えなくなるなら、いいタイミングだったかも。私、乙木に話したいことがあったんだ」
野村はそう言うと、乙木に一歩近寄る。なんだか頬を赤らめていて、嫌な雰囲気だ。胸に広がるモヤつきを抑えながら、息を潜めて2人の姿を見守っていると、野村が挑むような顔をして話し出す。
「私、乙木のことずっといいなあと思ってて。彼女いないなら私と付き合わない?」
そう告白してから、野村は得意げな表情で乙木の返事を待っている。
どうしてあの人は特別な人間でもないのにあんなに自信満々なのだろう。勝ち目のない戦いに、そうとは知らず無防備なまま戦いを申し入れる、みたいな。あまりにも愚鈍な様に、見ているこちらが恥ずかしくなってくる。
予想通り、乙木は戸惑った顔を見せた後に「ごめんなさい」と頭を下げた。当然と言えば当然な返事だったが、俺は知らず知らずのうちに呼吸を止めていたらしい。安心して、ハアッと息を吐く。
野村はあからさまに不満を表明するように、眉根を寄せていた。
「心配で目が離せない人、というか。気になる人……がいるので。先輩とお付き合いするのは無理です」
「誰のこと?」
「それを先輩に言う必要はないですよね」
乙木がそう言い返すと、野村元部長は悔しそうに「そう。わかった、元気でね」とだけ言うと、美術室をさっさと出て行った。わざと足音を立てて歩いていたので、彼女の中では乙木と付き合える未来でも見えていたのかもしれない。そんなわけないだろう、と元部長の背中に叫んでやりたくなる。乙木星凪みたいな特別な人は、俺やあんたみたいな平々凡々の民とは付き合えないんだよ。
乙木と元部長の顛末を見届けて満足した俺は、準備室の扉をそっと開けて今度こそ帰ろうとした。
だけどその時、美術室から乙木が「待って、空! ちゃんと話そう」と叫んだ。
俺が盗み聞きしていたことなんて、最初からお見通しだったってわけか。ため息を吐いて、観念することにした。
廊下に繋がる扉から手を離し、反対側にある美術室に繋がっているほうの扉を開けて、美術室に入る。
「ちゃんと話すって、何を? 碧生のドラマの話をこれ以上したって意味ないだろ」
そう言うと、乙木はこちらへ駆けよって来て、きゅっと俺の制服の袖を掴む。まるで逃げないように、引き留めるみたいに。
「俺だって簡単な気持ちでオーディションの話を受けたんじゃないってこと、わかってほしい。空が弟に対して複雑な気持ちを抱いているみたいに、俺もお母さんに負い目を感じているんだ」
俺が黙っていると、更に乙木は言い募った。
「今度のドラマは、『星月アヤネの息子』ってネームバリューを製作スタッフが欲しがっただけのことだよ。俺に価値はない。あくまでお母さんの付属品としての価値だけだ」
「……『霜中碧生』の付属品である俺みたいに?」
「空を皮肉ったわけじゃないよ。でも君になら、俺の葛藤がわかるはずだろ……!」
「わかるけど、わかりたくないね。結局、乙木が俺と仲良くしてくれてたのは、仲間意識と憐れみだった、ってわけか」
これは本心だった。自分と似た境遇だから共感した――それだけなら、まだいい。憐れまれて、慰みを与えられていたのだとしたら、それはかなりの屈辱だった。
俺の言葉を聞いた乙木は、ギリ、と痛いほど俺の手首を握り締めた。乙木らしからぬ力強さに、少し驚く。
「きっかけは同情だったとしても、空が嘘をつかずに泣ければいいなって、つらい思いをしてないといいのにって、そう思う俺の気持ちは本当だよ。本当に、ずっと空を気にしてるんだ」
乙木星凪も必死になったりするんだ、とか。これ以上つんけんした態度を取るのはさすがに大人げないよな、とか。頭の中ではいろんな考えが混ざり合ってカオスの極みだった。
シンプルに仲直りをしよう。俺は折れることにした。
「……駅前のハンバーガー、食べに行く?」
俺が聞くと、乙木は「うん」と頷いて、笑った。