碧生の主演ドラマ「三日月くんの好きな人」が大ヒットしたらしい。SNSを開くたび、テレビをつけるたび、学校に行くたび、「霜中碧生」の名前が聞こえてきた。
 これまでも碧生は子役出身のイケメン俳優としてそこそこ世間に知られていたが、今回のドラマで完全にブレイク俳優として認知されてしまったらしい。
 俺がいくら耳を塞いでも、碧生の名前が脳内に浸食してくる。悪夢のような日々だった。
「ねーえー、今週の『みかすき』もヤバかったよね!」
「ほんとそれ! 霜中碧生がかっこよ過ぎて液晶割れるかと思った」
「それは盛り過ぎだろ~」
 今日も教室ではクラスメイトの鈴木と曾根田が碧生の主演ドラマについて感想を言い合っている。曾根田なんて、ほんの少し前までは俺と同じように乙木にご執心だったくせに。ライバルがひとり減ったことは喜ばしいはずなのに、弟に夢中になっているクラスメイトの姿は、俺の中の苛立ちを増長させるだけだった。
「凛は『みかすき』まだ見てないの?」
 鈴木たちの会話を見ていた苺が、推しアイドルのメンバーカラーであるピンク色のネイルを念入りにチェックしながら、凛に尋ねる。凛は何故か、俺のほうをちらりと垣間見る。気まずくて、視線を逸らした。
「見てない。そんなに面白いんだ」
「も~私の推し、みっくんの友達が主演なんだよ! 見てよ!」
 苺の好きなアイドルは碧生の友達らしく、苺はどうにか凛にもドラマを見て貰えるよう、毎日のように布教活動に勤しんでいる。
 夏休みの初日に凛をフッてからというものの、凛は俺や春斗とつるまなくなった。親友の苺とずっと2人で過ごしている。もう友達としてでさえ、俺とは付き合いたくないらしい。俺は諦めて凛の好きにすればいいと思っていたが、春斗は諦めておらず、何かと関係を修復しようと努力しているようだ。
 今も、凛と苺を遠巻きに見つめるだけの俺を置いて、凛に話しかけている。
「『みかすき』マジおもろいよ。最初は女子向けかと思ったんだけど、推理パートもよく出来てるし、主演の俳優が演技上手いし」
「そう、それ! 霜中碧生の演技がいいんだよ」
「へえ……ってか、前から気になってたんだけどさ」
 凛は意味深に言葉を切って、ひと呼吸おいた。
「霜中、って空とおんなじ名字だよね」
 凛がそう言った途端、教室内がシン、と静まり返った。思わぬところから剣で突かれたような、焦り。じんわりと額に汗が滲んでいく。教室中の視線が自分に集まるのを嫌でも感じた。
 俺が石のように硬直している間に、苺が「え、ちょっと待って」と何かに気づいたような声を上げてスマホを弄り始めた。そして目的の物を見つけると、大声を上げた。
「これ見て! みっくんがコメントしてた霜中碧生の遊園地での投稿。モザイクかかってるけど、もしかして隣にいるのって――」
 そこまで言って、苺は俺を見つめた。
 だから遊園地になんて行きたくなかったんだ。俺は作り笑顔を苺に向けながら、遊園地に行きたいと駄々をこねる弟に頷いた過去の自分を恨んでいた。碧生が「どうしてもツーショット写真を撮りたい」と言うから、断れなくて遊園地で撮った1枚の写真。こんなところから、ほころんでいくなんて。
 俺のこれまでの努力を、碧生が一撃でいなしていく。これまでも、これからも。
 苺は俺の席までトテテと歩いてくると、上目遣いで「これ、空だよね?」と言いながら俺と碧生のツーショット写真を指差した。
「……アハハ、ばれちまったかあ」
 なんでもないように絞り出した言葉。屈辱だった。高校では、絶対に碧生との関係に気づかれたくなかった。そんな悔しさを見せないようにするのは、困難を極めた。それでも、俺は碧生じゃないから。理解のあるよい兄を演じなければならない。
「だから碧生には本名で活動すんな、って言ってたんだけどな。まあ、しゃーないわ」
「えっ、ええーっ! すごい、空、ほんとに霜中碧生のお兄ちゃんなんだあ! あれ、でもふたりとも高校1年って年齢一緒だよね。双子なの?」
「あー、俺たち年子なんだ。俺が4月生まれで碧生は3月。だから兄弟だけど2人とも学年一緒」
 俺がそう言うと、苺や周りのクラスメイトたちは「へえ~!」と目を輝かせる。そして、「弟のサイン頂戴!」「写真とか見せて」「羨ましいー」「ねえ、碧生君に会わせてよ」とそれぞれ勝手なことを一気に話し出した。
 こいつらはいったい何様のつもりなんだろう。碧生の兄だとばれると、いつもこうだ。お願いとは名ばかりの身勝手な要求たちがわんわんと鼓膜を揺らす。頭が痛くなってきた。
「――ってか、弟と全然似てないね」
 ノイズの中、突然放たれたその言葉に、思わず笑顔を作るのも忘れて固まってしまった。俺が微妙な表情をしていたからだろう。言った当人は慌てて「あ、悪い意味じゃなくて。霜中は霜中でイケメンだけどタイプが違うっていうかー」などとペラペラ話している。
 でも、俺は段々と浅くなる自分の呼吸が気になって、何も言うことが出来なかった。
「……あ、もしかしてさっきの年子って話は嘘で、母親か父親が違ったりして?」
 そんな言葉まで出た瞬間、後ろから「バンッ」と机を思い切り叩く音が聞こえ、みんな一斉に音のした方向を見つめる。
 机を叩いたのは、乙木星凪、その人だった。
「さっきから聞いてれば、ごちゃごちゃとうるさいな」
 乙木が、怒った。それは隕石が自分の上に降ってくるような衝撃だった。
 クラスメイトたちが唖然としているのを気にも留めず、乙木は俺の手を引いて教室を出た。

 ***

「空……大丈夫?」
 屋上に着くなり、乙木は気遣わしげな顔で俺を見上げた。屋上という開放的な空間のおかげで、さっきまでよりかは幾分か息がしやすい気がする。「うん、平気」と笑ってみせたけど、乙木は俺の言葉を信じていないようだ。唇を真一文字に結んで、目で「また嘘をついたな」と訴えかけてくる。
「うわあー今日、風強いな」
 乙木と2人きりなのは嬉しいけど、弟のことで心配されるのは嫌だ。そんなずるい考えで、俺はまた誤魔化そうと話を逸らした。びゅうっと時折ひときわ強い風が屋上を吹き抜けてはいたので、嘘ではない。
 でも、乙木は話を逸らすのを許さなかった。
「ああやって囲まれて家族のことを根掘り葉掘り聞かれるの、嫌な気持ちになるよね」
 そう言う乙木も、きっとさっきの俺のような状況を経験したことがあるんだろう。美しい瞳は、過ぎ去った嫌な記憶を眺めように細められている。
「……そうだな。みんなも悪気があるんじゃないってわかってても、ちょっと心にこう……くるよな」
 本当は「ちょっと」どころじゃなかったけど。それでも、あいつらに文句を言ったところで悪者になるのはこちらなのだ、黙って笑うしかないだろう。そうじゃないか。物わかりのいい人になるよう自分に言い聞かせて、道化を演じるしか道はないんだから。
「もう昔から慣れっこだけどな。よく『霜中碧生じゃないほうの霜中』とか呼ばれてたよ」
 アハハ、と笑いながら今も当時に作られた傷口から血が流れているのを実感していた。いつまで経っても治ってくれやしない呪いのような傷。乙木はその傷が見えているかのように、俺の胸元をじっと凝視している。
 そして、衝撃的な台詞を吐いた。
「空。これから学校、抜け出そう」
 青空の下、微笑みながらそう言い放った乙木の顔は、やっぱり特別で綺麗だった。
 颯爽と肩を切って歩く乙木の後を追いかけるようについていく。学校を出ると、三里ヶ浜高校前の駅の中へと入っていった。「電車に乗るのか?」と聞くと乙木は「うん」と頷いた。乙木は学校をサボっている今の状況が楽しいらしい。楽しそうに口角を上げて笑っている。俺は後でカナセンに説教されるだろうな、なんて考えながら歩く。乙木と2人きりで過ごす非日常は夢みたいで、ふわふわと足元がおぼつかない。乙木も俺も、それ以降はずっと黙っていた。どこまで行くつもりなのか、と聞きたかったものの、聞いてしまったら野暮な気もした。
 海沿いにある海ノ島電鉄は、名前の通りに電車内から海が一望出来る。三里ヶ浜高校前駅から三里ヶ浜駅まで、電車に揺られながらぼんやりと窓から見える海を見ていた。一面に広がる海はただただ大きくて、穏やかな波が満ちては引いていく。人間のちっぽけな悩みなんて何ひとつ関知していない自然を見ていると、思い出したくもないのに小さい頃の記憶が蘇ってくる。
 ――空君って、碧生君のお兄ちゃんなのにかっこよくないね
 子供特有の幼い声が今でも耳元で聞こえてくるようだ。かつて、俺が言われた言葉。
 小学生の時は、碧生も俺も同じ小学校に通っていた。そのせいで、何をするにつけても弟と比較された。
 碧生が女子からの告白を断ったら、「空君のほうに告白してたらOK貰えたかもね」「碧生君ほどかっこよくないから、嫌」と陰口を言われ。碧生が子役として多忙な中、テストでいい点を取れば「碧生君はなんでも出来てすごい。兄弟なのに空君はなんにも出来ないね」と貶され。教師さえも碧生を褒める際には「霜中が――あ、もちろん兄じゃなくて弟のほうな」と俺を嘲笑った。
 俺が何をしたというんだろう。むしろ、何も出来なかったからあいつらは俺を笑ったのか。いつもそんな調子だったから、当然のように友達になる人間も碧生目当てのやつらばかりだった。俺と仲良くなれば碧生と繋がれるから。
 家でも、学校でも、碧生がいないとなんの価値もない俺。まるで透明人間のようだった。
 電車の窓ガラスに反射した自分の顔を見つめた。やっぱり、弟とは全く違う顔。この目がもう少し大きければ、鼻筋が通っていれば、俺は「碧生の兄としてふさわしい人間」と思われたのかもしれない。整形手術を考えた時期もあった。でも、そこまでして碧生に寄せた自分を想像しては吐いてしまい、断念せざるを得なかった。
 窓ガラスに写る自分に向かって、ニッと笑顔を作る。弟と別の学校へ通えるようになった中学生の頃から、身につけた処世術だ。あの頃、毎日鏡を見ながら練習しただけあって、人に好印象を与える程度にはいい笑顔だと思う。
 けれど、乙木の隣にいる今はなんだか自分の笑顔が悲しいものに見えた。
 三里ヶ浜駅から海ノ島電鉄の電車に30分ほど揺られ、到着した駅に降り立つと、乙木は海沿いの住宅地を歩き始めた。
 そして、こじんまりとしたミニシアターの前で歩みを止める。
「ここに来たかったのか?」
 俺が尋ねると、乙木は嬉しそうに頷く。そういえば、乙木は昼休み中に視聴覚室を借りて映画を見ていたくらい、映画好きだって言ってたっけ。母親が女優だから映画に触れる機会は人よりも多かったのかもしれない。
 趣味のいいインテリアが置かれている玄関口を通り抜け、壁に掲げられている上映中の作品とこれまで上映したであろう作品のポスターを眺めた。
 ミニシアターと聞くと、なんとなく洒落た人間ばかりが行く場所というイメージがある。ここはそんな俺の勝手なイメージ通りの場所だったようで、上映作品もメジャーな映画はひとつもなく、人を選びそうなニッチな作品ばかりを選んで上映しているようだった。
 ミニシアターのスクリーン数はふたつだけで、どちらかを選ぶだけだ。ひとつはかなり昔の白黒映画。もうひとつは、男性同士の恋愛ものだ。
「どういう映画が好きなんだ? 俺、映画はよくわからないから乙木に任せるよ」
 見る映画を決めかねて言うと、乙木は「星月アヤネが出てない作品なら、なんでも好きだよ」とちょっと意地悪な目をして笑った。乙木星凪も冗談とか言うんだ。また新たに知った乙木の一面を心にメモしておく。
「……こっちの映画、見ようか」
 乙木が指差したのは、男性同士の恋愛映画のほうだった。てっきり白黒映画のほうを選ぶと思っていたから、意外だ。
 このジャンルの映画をよりによって乙木と見るのは、とても倒錯的なことをしている気分にさせられる、かつ気まずかったが、俺は素直に頷いた。
 優しそうな館内スタッフに渡されたチケットとポップコーン、ドリンクを受け取ってシアター内のソファ席に腰かける。平日の昼間ということもあり、客は俺たちだけだ。貸し切りみたいで少しワクワクしていると、ちょうど上映のタイミングだったらしく、すぐに照明が暗くなっていった。
 その映画の内容は、幼馴染の男ふたりが短編映画の撮影でキスをしてから、お互いへの恋情に気づいてしまう――というものだった。俳優の演技もよかったし、映像が綺麗で見入った。でも、途中でかなりどぎつめのキスシーンがあり、俺はひとりでに慌てふためいてしまった。隣に座る乙木が真剣にスクリーンを見つめていたから、なんとか席を立たずに済んだ。
 上映が終わって照明が明るさを取り戻すと、乙木が唐突に口を開いた。
「こういう、男同士の恋愛がテーマの作品ってどう思う?」
「えッ」
 乙木からの問いかけに、今度こそ本当に驚いて声が出てしまった。
 どういうつもりで俺に聞いたんだろう。俺が乙木を好きなことは最初からバレバレではあるけど、それはあくまで「人として好き」という意味で言っているんだと思っていた。まさか、俺が恋愛対象として乙木が好きだとわかっているのか。ドキドキしながら乙木を見つめると、乙木はまるで研究テーマについて発表する学者のような真剣さで語り始めた。
「あくまでお芝居なわけだから、俳優さんのセクシュアリティが同性愛者だとは限らない、ヘテロセクシュアルな場合もあるよね。仮に同性愛者だとしたって、本当に好きな人じゃなくてもお芝居の上では恋してる演技やキスシーンなんかもこなさないといけない。これは男女の恋愛ものでもそうだけど」
「お、おう。そうだな……?」
「でも見てる側としては、恋愛関係を演じてる時点でふたりが本当に好意を向け合ってるって誤解してしまうものなのかな。よくある、共演がきっかけで結婚する主人公役とヒロイン役の俳優たちみたいに」
「どうかなー」
 俺、何を試されているんだろう。乙木はさっきから演じる俳優目線での話ばかりしている。女優である母親に芸能活動を無理強いされたことがあると言っていたから、お芝居についても本職として考えてしまうのかな。
 そんなことを考えながら、食べきれていなかったポップコーンに手を伸ばした。
「……例えば、俺がお芝居だからって言って、空にキスしたらどう思う?」
「ぶうえッ……! な、なんでだよ」
 乙木の思いがけない台詞に、口に入れていたポップコーンが気管に入りかけ、盛大にむせた。
 やっぱり俺のことを何か試しているのか。そうなのか。もう、そうとしか思えない。焦って椅子に置いていたコーラを一気に飲み干す。その間も、乙木は俺のことを穴が開きそうなぐらいにじいっと見つめていた。
「うーん。普通にびっくりするかな」
 無難にそう言ってみると、乙木は綺麗な顔をグッと近づけて「それだけ?」と聞いてきた。思わせぶり過ぎる。身長も座高も俺のほうが高いせいで、俺を見上げる、みたいな体勢になっている乙木。切れ長でクールな印象が強い乙木の瞳が、今ばっかりはきゅるきゅると可愛い子犬みたいに見えてきてしまって、無意識のうちに生唾を吞み込んだ。
「……お芝居なんだ、って悲しくなるかも」
 乙木が脈のある素振りをするから、いけない。言うつもりなんてさらさらなかったのに、つい本音を零してしまった。痛いほど高鳴る鼓動。荒くなる呼吸。内心の興奮をどうにか顔に出さないように取り繕い、乙木の反応を待った。
 乙木は「そっか」と呟き、蕾が開くように微笑んだ。
「じゃあ、俺がお芝居の中で他の男とキスしたら……空はどうする?」
「それ、は」
 一瞬前までの、期待に満ち溢れた気分がたちまちにしぼんでいく。頭の中は大いに混乱していた。
 他の男と、キス。乙木が?
「いや……な気持ちにはなるかもしれないけど。ドラマや映画の仕事でするなら仕方ないじゃん。どうもしないよ」
 だって、俺はスクリーンの内側に入れるような人間じゃないから。俺にもしも碧生のような顔と才能があったら、こんなとき自信満々に「嫌だ」と言えただろうな。何年経とうとも、俺は「じゃないほうの霜中」に過ぎなかった。
 だから、また乙木にうんざりされるとわかっていても、取り繕うしかない。
 乙木は「本当にどうもしないの」と追い縋ってくるように聞いてきたが、何度問われても答えは同じだ。
「俺には、分不相応だろ」
 俺が歪に笑うと、乙木は悲しそうに俯いた。