海を見下ろした高台にある駅のホームには、寝ぼけまなこにはきつ過ぎる朝日が差し込んでいた。太陽に己の瞳を焦がされないよう、片手を額の前にかざす。そして、いつものように先頭車両から数えて2つ目の車両へと乗り込む。「――三里ヶ浜高校前行き、発車します」と車内アナウンスが流れるのを聞きながら、さっと車内を見渡した。
今朝も、乙木星凪がいる。俺は彼の姿を確認し、こっそりとほくそ笑む。同じ車両の、7人掛けの座席をひとつ挟んだ向こう側、出入り口の扉前に立っている少年。その少年こそ、俺がこの時間、この車両を毎朝選んでいる理由だった。ストーカーみたいだな、と我ながらこのルーティーンの異様さには気づいている。気づいているけど、第三者にバレたらどうしようという恐怖よりも、彼の姿を1秒でも長く見つめていたい――そんな欲望の方が勝っていた。
乙木星凪とは、高校に入学した先月に同じクラスで出会った。腕の良い職人が丁寧に作り上げたような、とても繊細な美貌の持ち主。
入学式当日、自己紹介の時にクラス全員があの顔を見て息を呑んだのを今でも思い出す。彼は礼儀正しく深い一礼をした後、「……乙木星凪と申します」と一言だけで自己紹介を終わらせた。星が流れた跡みたいな切れ長な目、理想的なカーブを描いた鼻筋に見とれていたクラスの連中も、彼のそんな態度を見て思ったはずだ。「お近づきになりたいけど、話しかけたら冷たく無視されそう」と。
実際には、乙木星凪が他人を無視することはほとんどなかった。ただ困った顔をして相槌を打つだけ。物凄く冷たい人間ではないけど、人を寄せ付けないオーラにみんな委縮した。簡単に言えば、クラスで早くも浮いた存在だった。
車内に立っている乗客の隙間から、乙木の姿を盗み見る。白い花柄のブックカバーをつけた文庫本を見下ろす彼の肌は、眩しい陽光が当たっているせいでまるで天の使いみたい。中から発光してるのか、と疑いたくなるほど透明感のある美しさだ。その美しい顔が、本のページをめくるごとに、少しずつ変化する。面白い内容だったんだろうか。不意に乙木の唇がふっと緩んだ。
「わ、可愛い……」
思わず声が漏れる。静かな車内だからか、乙木が俺の声を聞きつけてこちらを見た。バチッと視線が重なる。この状態でお互いに無視するのは気まず過ぎるよな。ドキドキと高鳴る鼓動が身体に伝い耳元まで響いている。へらっとした笑顔を意図的に作ってから、電車が駅に停車したタイミングで彼のいる場所へ移動して、「おはよ、乙木」と片手を上げた。
「おはよう。えっと……名前はなんだっけ?」
俺の名前を憶えていないんだ。チクリと胸に痛みが走るが、気にしないフリをして「霜中空だよ」と教えた。
乙木は「そう」と短く返すと、もう興味を失ったように再び文庫本へと視線を落とす。まるで眼中にないみたいだ。
4月からチャンスがあるたび彼に話しかけて1か月以上の時間が過ぎた。それでも、未だに俺は彼の中で「その他大勢の人間その1」に過ぎない。
「……今日の2限体育なの、マジだるいよな~」
眠いし元気もないのに、わざと明るい声を作って、言った。向こうに意識されていなくても、こうやって話しかけ続けていれば存在を忘れられることはないかもしれない。そんな悲しい希望に縋った。
狭い車内の中、話し出した俺を隣にいた頭の禿げたスーツの男が迷惑そうに振り返る。乙木は、ワンテンポ置いてからゆっくりと本を閉じて顔を上げた。
「霜中でも体育がだるいとか思うんだ」
「だるいよ。だって俺の選択体育ダンスでさー。やってみたら俺下手くそだったんだよ。なのに先生が変に流行りの曲選んで振付し始めたもんだから、周りが気合入れ始めちゃって」
「へえ。霜中は『本当に』ダンスが苦手みたいだね」
乙木は「本当に」という言葉だけを何故か強く発音する。違和感を覚えつつも、少し会話のリレーが成立したことに浮かれた。話さなくていいことにまで口が回り始める。
「乙木は選択体育、弓道だろ。かっけーよな」
「俺が弓道を選んだこと、なんで知ってるの?」
疑っているというより、ただ不思議がっている様子の乙木。「君に弓道の話したことあったかな」と追撃され、背中に冷や汗が滑り落ちた。
「……りッ、凛が、あ、作間が! 弓道選んでて、乙木がいたって話してたからさ」
「ああ、そういうこと」
作間凛は同じクラスで仲の良い女子の名前だ。作間から乙木が弓道の授業にいると聞いたのは事実だった。でも、どうしても弓道着姿の乙木星凪を見たくて腹痛を装いダンスの授業をサボって弓道の授業を見に行ったことは、とてもじゃないが言えなかった。弓を構えて的を真剣な目で睨む乙木は、見ているだけでそよ風が吹いているような幻覚さえ、俺に見せた。彼の顔立ちは総じて和の雰囲気を纏っているから、ことさらに弓道着が似合っていたのかもしれない。
こちらが春に相応しくないくらい汗をかき続けている間に、乙木はまた興味をなくして本を読み始める。どうしよう。もう1回話しかけてみるか。迷っているうちに、「三里ヶ浜高校前、三里ヶ浜高校前――」とアナウンスが流れた。電車の扉が開くと、乙木は早歩きでホームへ降り立って行ってしまった。
***
「なあ、カナセン今日もすっげえ寝癖」
教壇に立つ担任の金山を見て、水上春斗が笑った。校則違反の明るい茶髪と、耳元のピアスがキラリと輝いている。
古文を受け持っているカナセンこと金山先生は、毎日髪の一部分に寝癖をつけたまま登校してくるのだ。今日は前髪部分がハネている。40代半ばの既婚者らしいのに、奥さんはあの寝癖を見ても何も言わないんだろうか。まさか別居してるとか、なんて他人の家庭不和の心配をしてしまう。「ほんとだ。明日はどっち側の髪がハネるか昼飯賭けようぜ」と言って春斗に笑い返すと、ノリの良い春斗はすぐに「じゃあ俺右側~!」と乗ってくる。
「左だったらお前、明日の昼にからあげパン奢りだからな」
「空はからあげ大好きなお子ちゃまだねえ」
最後の念押しを春斗にしていると、作間凛が歩いてきて俺の前の座席へと腰を下ろす。凛の席はここじゃないけど、彼女にとってそんなことはどうでもいいようだ。布地を切って短くした制服のスカートからわざと太腿を見せるみたいにして、足を組んでいる。凛のあからさまなアピールに内心辟易としながら、「からあげは全人類好きだろうが」と笑った。
三里ヶ浜高校1年1組ではもうすぐ5月も終わりに差し掛かるところということもあり、既にクラス内の友人グループが形成されていた。俺、春斗、凛、そして凛の中学からの友達である木野峰苺は恐らくクラスの中で最も目立つ騒がしいグループだ。身長が180センチと高い俺に、チャラい男代表みたいな春斗。凛はモード系モデル顔負けな出で立ちの美人だし、苺は男子人気抜群のゆめかわいい女の子。きっと、高校入学早々こんな立ち位置になれた自分は幸せなはずだ。だけど、いつも満たされていないと感じてしまうのは、俺が本当に望んでいる人は乙木星凪、ただひとりだからなのかもしれない。1か月以上この学校で過ごしてみて実感した。ここで本物と言えるくらい特別な人間は乙木だけだ。
「ここで使われている『をかし』という言葉の意味は、趣がある、面白いという意味で――」
カナセンの声が子守歌のように耳の中を吹き抜けていく。この授業さえ乗り切れば昼飯だ。でも眠い。春だし。あくびをしてから、何気なく視線を左横へ流した。真ん中の列の最後尾に座る俺から見て左側、女子ひとりを挟んだ向こう側に乙木星凪が座っている。横目で観察すると、何やら熱心に本を読んでいる。古文にそんなに興味あるのか、と考えたところで「おーい乙木? 授業に関係ないものは仕舞えー」とカナセンが乙木を叱った。注意された乙木は、反抗するでもなく、大人しく言われた通りに机の上に広げていた美術館の画集らしきものを閉じて、今度は窓の外を眺め始めた。自由過ぎる。確かに今日の天気は空を眺めたくなるくらいの晴天だけど。
とりあえず今日の収穫1個。乙木星凪はアートが好きらしい。心のメモ帳に記してから、乙木の背中を見つめる。いくらこっちが見つめても、乙木は振り返らない。結局授業が終わるまでずっと青空を見ていた乙木。彼の視界に入れたらどんな気持ちになるんだろう。わからないけど、たぶん最高の気分になるだろうな。
終礼のチャイムが鳴り、俺は春斗たちに引っ張られて購買へと歩き出した。3階にある1年の教室から階段を降りて、中庭を抜ける。こじんまりとしたスペースにある購買にはもう長い行列が出来ていた。「焼きそばパン!」「ハムカツパンとコロッケパン2つずつ」など注文の叫び声が飛び交う。三里ヶ浜高校の購買パンは安くて中々に美味しいので、学年問わずたくさんの学生が一堂に会している。なんとなくいつもの癖で、無意識に乙木の姿を雑踏の中に探した。乙木は昼休みになると姿を忽然と消すから、5月が終わりかけている今になっても俺は彼の昼時の居場所を知らない。知ってどうなることもないんだけど。
「てかさー、空さっきの古文ずっと外見てなかった? なんかおもろいもんでもあったの」
隣で並んでいる凛がそう言い、俺のシャツの袖を引っ張った。おもろいもん……俺にとっておもろい人を見ていた、と言うわけにもいかない。無理矢理に口角を上げて作り笑いをする。
「ハンバーグみたいな形した雲見つけてさ。腹減ったなあって見てた」
「ウケる~! 空ってガチ子供だよね」
楽しそうな凛の笑い声を聞いて、苺も同調するように「ほんとそれ。好きな食べ物も全部子供だよね」と続けた。
「そうやって空は可愛いキャラ出してくるんだもんなー、そりゃモテるわな」
「なんだそれ」
拗ねるような言葉を吐く春斗に苦笑する。俺程度の人間がモテると思うだなんて、春斗の世界は狭いんじゃないか。本当に他人を魅了することに長けた人間の振る舞いを、彼は目にしたことがないんだろう。すぐ近く、血の繋がった家族にそういう類の人間がいるので、どうしても家族の顔を思い浮かべてしまう。俺は今、あいつに少しでも近づけているか?
「からあげパン、焼き立てですよ~」
購買のおばちゃんの声に、意識がふっと現実に戻される。
「からあげパンひとつください!」
ああ、ここに乙木星凪がいれば楽しいだろうに。友達に囲まれても、好きな食べ物を手にしても、どこかむなしい。無事に買えたからあげパンに齧りつきながら、また乙木のことを考えた。
***
放課後になると、春斗たちからの遊びの誘いをやんわりと断ってから、俺はそそくさと美術室のある1階へと走った。体育館が近くにあるから、運動部の「三里ヶ浜ー、ファイッ、オー」という元気のいい掛け声が聞こえてくる。階段を駆け降りて、美術室の隣にある準備室の扉を静かに開けた。狭い部屋の中、所狭しと並べられている美術部員たちによる作品を避けて、小窓を覗き込む。
乙木星凪は、まだ先輩たちが到着していないためひとけのない部室に、ひとりで座っていた。窓近くの位置に陣取り、キャンバスに向かって熱心な様子で鉛筆を走らせている。
「クソ……遠いな」
準備室からだと、乙木の顔がよく見えない。細部まで眺めたくて、スマホを取り出してカメラを起動させた。ズーム機能を使って、顔をじっくりと観察する。夕陽を浴びた乙木星凪もまた、一際美しかった。朝日に照らされる乙木は天使のごとき美しさだったけど、夕方の乙木はなんだか憂いを帯びていて消えてしまいそうな色気がある。
「まつ毛長っ」
拡大した乙木の瞳を見て笑う。凛や苺のマツエクみたいな見事なまつ毛だったから。でも彼はマツエクなんかしないタイプだろう。頑張らなくても、最初から完成されている美。気取ったり、驕ったり、慣れ合わないキャラ。乙木の全部が俺にとって眩しい。
「あれ乙木くん、来るのはっやいねえ」
美術室の扉が開き、美術部の先輩らしき女の子が乙木に話しかけた。乙木は顔を上げて「はい」とだけ言って、またキャンバスに向き直る。それにしても凄いスピードで筆を走らせているようだ。どんな絵を描いてるんだろう。気になって、キャンバスに向けてカメラをズームした。
「これは……人物画? でも背景は青空だよね」
美術部の先輩女子が乙木の絵を見て悩むように首を傾げる。乙木の絵には、眉を少し寄せながらぎこちなく笑顔を浮かべた男が描かれていた。隅々まで観察してから、期待に心臓が跳ねる。あれ、もしかして俺の顔じゃないか。人よりも大きめの耳に、ちっちゃな目、眉上まで切られた短くて黒い前髪。自分と瓜二つの顔をした絵に、嬉しさを堪え切れない。叫び出しそうになって、慌てて口を手で覆った。
「一応人物画です。モチーフはクラスメイトの表情で、背景の青空は彼の言葉から感じたイメージのようなものです」
興奮する俺とは裏腹に、乙木は淡々とした口調で先輩へ説明した。今日は朝の電車でしか、彼とまともに会話していない。ということは、あの時に乙木へ好印象を与えられたと思っていいんだろうか。いや、青空をイメージしたんだからいいよな。やった。
「へえ、そうなんだ。乙木くんはそのクラスメイトと仲が良いんだね」
「いいえ、全く」
「あれ、じゃあどうして?」
俺の疑問と同じことを考えた先輩に、心の中で「ありがとうございます!」と熱烈に感謝しながら、固唾を飲んで乙木の答えを待った。
「……偽りしか語らなかった人が、初めて本当の姿を見せたから。どうも気になって」
乙木は一瞬筆の動きを止めて、考えてからそう言った。予想していたものよりも遥かに抽象的な言葉が返ってきて、面食らう。先輩も困惑したように、「乙木くんの世界観は独特だなあ」と呟いている。そうして先輩もようやく部活動を始める気になったのか、乙木の側から離れて歩き出した。
うわ、ヤバイ。先輩はどうやら準備室に置いてある描きかけのキャンバスを取りに行こうとしているようだ。自分のいる方向へ近づいてくる人影を見て、乙木の姿と絵がフレームに収まるよう、手早くシャッターボタンを押す。あらかじめ消音カメラを起動させておいてよかった。胸を撫でおろして、先輩とかち合う前に準備室の扉からするりと抜け出す。扉を再び閉めたタイミングで、先輩が美術室と準備室を繋ぐ扉を開けた音が聞こえた。間一髪だった。
足早に校舎から離れて、海の見える駅――三里ヶ浜高校前駅のホームへと降り立つ。朝とは違った気分だ。自分でもはっきりとわかる。俺の唇は勝手に弧を描き、宝くじにでも当たったかのような喜びにあふれる笑顔を作り出す。やっぱり、乙木星凪ほど俺を幸せにしてくれる人間はいない。
ポケットからスマホを取り出して、先ほど慌てて隠し撮りした乙木の写真をチェックする。うん、よく撮れている。テンションが上がるあまり、俺は欲を出してしまった。【どっちも神作画】とコメントを添えて、その写真をSNSに投稿する。
乙木星凪の視界に入れた。それだけを意識して、ほかの物事を考えていなかった。つまり、俺は馬鹿なことをやらかしたのだった。
今朝も、乙木星凪がいる。俺は彼の姿を確認し、こっそりとほくそ笑む。同じ車両の、7人掛けの座席をひとつ挟んだ向こう側、出入り口の扉前に立っている少年。その少年こそ、俺がこの時間、この車両を毎朝選んでいる理由だった。ストーカーみたいだな、と我ながらこのルーティーンの異様さには気づいている。気づいているけど、第三者にバレたらどうしようという恐怖よりも、彼の姿を1秒でも長く見つめていたい――そんな欲望の方が勝っていた。
乙木星凪とは、高校に入学した先月に同じクラスで出会った。腕の良い職人が丁寧に作り上げたような、とても繊細な美貌の持ち主。
入学式当日、自己紹介の時にクラス全員があの顔を見て息を呑んだのを今でも思い出す。彼は礼儀正しく深い一礼をした後、「……乙木星凪と申します」と一言だけで自己紹介を終わらせた。星が流れた跡みたいな切れ長な目、理想的なカーブを描いた鼻筋に見とれていたクラスの連中も、彼のそんな態度を見て思ったはずだ。「お近づきになりたいけど、話しかけたら冷たく無視されそう」と。
実際には、乙木星凪が他人を無視することはほとんどなかった。ただ困った顔をして相槌を打つだけ。物凄く冷たい人間ではないけど、人を寄せ付けないオーラにみんな委縮した。簡単に言えば、クラスで早くも浮いた存在だった。
車内に立っている乗客の隙間から、乙木の姿を盗み見る。白い花柄のブックカバーをつけた文庫本を見下ろす彼の肌は、眩しい陽光が当たっているせいでまるで天の使いみたい。中から発光してるのか、と疑いたくなるほど透明感のある美しさだ。その美しい顔が、本のページをめくるごとに、少しずつ変化する。面白い内容だったんだろうか。不意に乙木の唇がふっと緩んだ。
「わ、可愛い……」
思わず声が漏れる。静かな車内だからか、乙木が俺の声を聞きつけてこちらを見た。バチッと視線が重なる。この状態でお互いに無視するのは気まず過ぎるよな。ドキドキと高鳴る鼓動が身体に伝い耳元まで響いている。へらっとした笑顔を意図的に作ってから、電車が駅に停車したタイミングで彼のいる場所へ移動して、「おはよ、乙木」と片手を上げた。
「おはよう。えっと……名前はなんだっけ?」
俺の名前を憶えていないんだ。チクリと胸に痛みが走るが、気にしないフリをして「霜中空だよ」と教えた。
乙木は「そう」と短く返すと、もう興味を失ったように再び文庫本へと視線を落とす。まるで眼中にないみたいだ。
4月からチャンスがあるたび彼に話しかけて1か月以上の時間が過ぎた。それでも、未だに俺は彼の中で「その他大勢の人間その1」に過ぎない。
「……今日の2限体育なの、マジだるいよな~」
眠いし元気もないのに、わざと明るい声を作って、言った。向こうに意識されていなくても、こうやって話しかけ続けていれば存在を忘れられることはないかもしれない。そんな悲しい希望に縋った。
狭い車内の中、話し出した俺を隣にいた頭の禿げたスーツの男が迷惑そうに振り返る。乙木は、ワンテンポ置いてからゆっくりと本を閉じて顔を上げた。
「霜中でも体育がだるいとか思うんだ」
「だるいよ。だって俺の選択体育ダンスでさー。やってみたら俺下手くそだったんだよ。なのに先生が変に流行りの曲選んで振付し始めたもんだから、周りが気合入れ始めちゃって」
「へえ。霜中は『本当に』ダンスが苦手みたいだね」
乙木は「本当に」という言葉だけを何故か強く発音する。違和感を覚えつつも、少し会話のリレーが成立したことに浮かれた。話さなくていいことにまで口が回り始める。
「乙木は選択体育、弓道だろ。かっけーよな」
「俺が弓道を選んだこと、なんで知ってるの?」
疑っているというより、ただ不思議がっている様子の乙木。「君に弓道の話したことあったかな」と追撃され、背中に冷や汗が滑り落ちた。
「……りッ、凛が、あ、作間が! 弓道選んでて、乙木がいたって話してたからさ」
「ああ、そういうこと」
作間凛は同じクラスで仲の良い女子の名前だ。作間から乙木が弓道の授業にいると聞いたのは事実だった。でも、どうしても弓道着姿の乙木星凪を見たくて腹痛を装いダンスの授業をサボって弓道の授業を見に行ったことは、とてもじゃないが言えなかった。弓を構えて的を真剣な目で睨む乙木は、見ているだけでそよ風が吹いているような幻覚さえ、俺に見せた。彼の顔立ちは総じて和の雰囲気を纏っているから、ことさらに弓道着が似合っていたのかもしれない。
こちらが春に相応しくないくらい汗をかき続けている間に、乙木はまた興味をなくして本を読み始める。どうしよう。もう1回話しかけてみるか。迷っているうちに、「三里ヶ浜高校前、三里ヶ浜高校前――」とアナウンスが流れた。電車の扉が開くと、乙木は早歩きでホームへ降り立って行ってしまった。
***
「なあ、カナセン今日もすっげえ寝癖」
教壇に立つ担任の金山を見て、水上春斗が笑った。校則違反の明るい茶髪と、耳元のピアスがキラリと輝いている。
古文を受け持っているカナセンこと金山先生は、毎日髪の一部分に寝癖をつけたまま登校してくるのだ。今日は前髪部分がハネている。40代半ばの既婚者らしいのに、奥さんはあの寝癖を見ても何も言わないんだろうか。まさか別居してるとか、なんて他人の家庭不和の心配をしてしまう。「ほんとだ。明日はどっち側の髪がハネるか昼飯賭けようぜ」と言って春斗に笑い返すと、ノリの良い春斗はすぐに「じゃあ俺右側~!」と乗ってくる。
「左だったらお前、明日の昼にからあげパン奢りだからな」
「空はからあげ大好きなお子ちゃまだねえ」
最後の念押しを春斗にしていると、作間凛が歩いてきて俺の前の座席へと腰を下ろす。凛の席はここじゃないけど、彼女にとってそんなことはどうでもいいようだ。布地を切って短くした制服のスカートからわざと太腿を見せるみたいにして、足を組んでいる。凛のあからさまなアピールに内心辟易としながら、「からあげは全人類好きだろうが」と笑った。
三里ヶ浜高校1年1組ではもうすぐ5月も終わりに差し掛かるところということもあり、既にクラス内の友人グループが形成されていた。俺、春斗、凛、そして凛の中学からの友達である木野峰苺は恐らくクラスの中で最も目立つ騒がしいグループだ。身長が180センチと高い俺に、チャラい男代表みたいな春斗。凛はモード系モデル顔負けな出で立ちの美人だし、苺は男子人気抜群のゆめかわいい女の子。きっと、高校入学早々こんな立ち位置になれた自分は幸せなはずだ。だけど、いつも満たされていないと感じてしまうのは、俺が本当に望んでいる人は乙木星凪、ただひとりだからなのかもしれない。1か月以上この学校で過ごしてみて実感した。ここで本物と言えるくらい特別な人間は乙木だけだ。
「ここで使われている『をかし』という言葉の意味は、趣がある、面白いという意味で――」
カナセンの声が子守歌のように耳の中を吹き抜けていく。この授業さえ乗り切れば昼飯だ。でも眠い。春だし。あくびをしてから、何気なく視線を左横へ流した。真ん中の列の最後尾に座る俺から見て左側、女子ひとりを挟んだ向こう側に乙木星凪が座っている。横目で観察すると、何やら熱心に本を読んでいる。古文にそんなに興味あるのか、と考えたところで「おーい乙木? 授業に関係ないものは仕舞えー」とカナセンが乙木を叱った。注意された乙木は、反抗するでもなく、大人しく言われた通りに机の上に広げていた美術館の画集らしきものを閉じて、今度は窓の外を眺め始めた。自由過ぎる。確かに今日の天気は空を眺めたくなるくらいの晴天だけど。
とりあえず今日の収穫1個。乙木星凪はアートが好きらしい。心のメモ帳に記してから、乙木の背中を見つめる。いくらこっちが見つめても、乙木は振り返らない。結局授業が終わるまでずっと青空を見ていた乙木。彼の視界に入れたらどんな気持ちになるんだろう。わからないけど、たぶん最高の気分になるだろうな。
終礼のチャイムが鳴り、俺は春斗たちに引っ張られて購買へと歩き出した。3階にある1年の教室から階段を降りて、中庭を抜ける。こじんまりとしたスペースにある購買にはもう長い行列が出来ていた。「焼きそばパン!」「ハムカツパンとコロッケパン2つずつ」など注文の叫び声が飛び交う。三里ヶ浜高校の購買パンは安くて中々に美味しいので、学年問わずたくさんの学生が一堂に会している。なんとなくいつもの癖で、無意識に乙木の姿を雑踏の中に探した。乙木は昼休みになると姿を忽然と消すから、5月が終わりかけている今になっても俺は彼の昼時の居場所を知らない。知ってどうなることもないんだけど。
「てかさー、空さっきの古文ずっと外見てなかった? なんかおもろいもんでもあったの」
隣で並んでいる凛がそう言い、俺のシャツの袖を引っ張った。おもろいもん……俺にとっておもろい人を見ていた、と言うわけにもいかない。無理矢理に口角を上げて作り笑いをする。
「ハンバーグみたいな形した雲見つけてさ。腹減ったなあって見てた」
「ウケる~! 空ってガチ子供だよね」
楽しそうな凛の笑い声を聞いて、苺も同調するように「ほんとそれ。好きな食べ物も全部子供だよね」と続けた。
「そうやって空は可愛いキャラ出してくるんだもんなー、そりゃモテるわな」
「なんだそれ」
拗ねるような言葉を吐く春斗に苦笑する。俺程度の人間がモテると思うだなんて、春斗の世界は狭いんじゃないか。本当に他人を魅了することに長けた人間の振る舞いを、彼は目にしたことがないんだろう。すぐ近く、血の繋がった家族にそういう類の人間がいるので、どうしても家族の顔を思い浮かべてしまう。俺は今、あいつに少しでも近づけているか?
「からあげパン、焼き立てですよ~」
購買のおばちゃんの声に、意識がふっと現実に戻される。
「からあげパンひとつください!」
ああ、ここに乙木星凪がいれば楽しいだろうに。友達に囲まれても、好きな食べ物を手にしても、どこかむなしい。無事に買えたからあげパンに齧りつきながら、また乙木のことを考えた。
***
放課後になると、春斗たちからの遊びの誘いをやんわりと断ってから、俺はそそくさと美術室のある1階へと走った。体育館が近くにあるから、運動部の「三里ヶ浜ー、ファイッ、オー」という元気のいい掛け声が聞こえてくる。階段を駆け降りて、美術室の隣にある準備室の扉を静かに開けた。狭い部屋の中、所狭しと並べられている美術部員たちによる作品を避けて、小窓を覗き込む。
乙木星凪は、まだ先輩たちが到着していないためひとけのない部室に、ひとりで座っていた。窓近くの位置に陣取り、キャンバスに向かって熱心な様子で鉛筆を走らせている。
「クソ……遠いな」
準備室からだと、乙木の顔がよく見えない。細部まで眺めたくて、スマホを取り出してカメラを起動させた。ズーム機能を使って、顔をじっくりと観察する。夕陽を浴びた乙木星凪もまた、一際美しかった。朝日に照らされる乙木は天使のごとき美しさだったけど、夕方の乙木はなんだか憂いを帯びていて消えてしまいそうな色気がある。
「まつ毛長っ」
拡大した乙木の瞳を見て笑う。凛や苺のマツエクみたいな見事なまつ毛だったから。でも彼はマツエクなんかしないタイプだろう。頑張らなくても、最初から完成されている美。気取ったり、驕ったり、慣れ合わないキャラ。乙木の全部が俺にとって眩しい。
「あれ乙木くん、来るのはっやいねえ」
美術室の扉が開き、美術部の先輩らしき女の子が乙木に話しかけた。乙木は顔を上げて「はい」とだけ言って、またキャンバスに向き直る。それにしても凄いスピードで筆を走らせているようだ。どんな絵を描いてるんだろう。気になって、キャンバスに向けてカメラをズームした。
「これは……人物画? でも背景は青空だよね」
美術部の先輩女子が乙木の絵を見て悩むように首を傾げる。乙木の絵には、眉を少し寄せながらぎこちなく笑顔を浮かべた男が描かれていた。隅々まで観察してから、期待に心臓が跳ねる。あれ、もしかして俺の顔じゃないか。人よりも大きめの耳に、ちっちゃな目、眉上まで切られた短くて黒い前髪。自分と瓜二つの顔をした絵に、嬉しさを堪え切れない。叫び出しそうになって、慌てて口を手で覆った。
「一応人物画です。モチーフはクラスメイトの表情で、背景の青空は彼の言葉から感じたイメージのようなものです」
興奮する俺とは裏腹に、乙木は淡々とした口調で先輩へ説明した。今日は朝の電車でしか、彼とまともに会話していない。ということは、あの時に乙木へ好印象を与えられたと思っていいんだろうか。いや、青空をイメージしたんだからいいよな。やった。
「へえ、そうなんだ。乙木くんはそのクラスメイトと仲が良いんだね」
「いいえ、全く」
「あれ、じゃあどうして?」
俺の疑問と同じことを考えた先輩に、心の中で「ありがとうございます!」と熱烈に感謝しながら、固唾を飲んで乙木の答えを待った。
「……偽りしか語らなかった人が、初めて本当の姿を見せたから。どうも気になって」
乙木は一瞬筆の動きを止めて、考えてからそう言った。予想していたものよりも遥かに抽象的な言葉が返ってきて、面食らう。先輩も困惑したように、「乙木くんの世界観は独特だなあ」と呟いている。そうして先輩もようやく部活動を始める気になったのか、乙木の側から離れて歩き出した。
うわ、ヤバイ。先輩はどうやら準備室に置いてある描きかけのキャンバスを取りに行こうとしているようだ。自分のいる方向へ近づいてくる人影を見て、乙木の姿と絵がフレームに収まるよう、手早くシャッターボタンを押す。あらかじめ消音カメラを起動させておいてよかった。胸を撫でおろして、先輩とかち合う前に準備室の扉からするりと抜け出す。扉を再び閉めたタイミングで、先輩が美術室と準備室を繋ぐ扉を開けた音が聞こえた。間一髪だった。
足早に校舎から離れて、海の見える駅――三里ヶ浜高校前駅のホームへと降り立つ。朝とは違った気分だ。自分でもはっきりとわかる。俺の唇は勝手に弧を描き、宝くじにでも当たったかのような喜びにあふれる笑顔を作り出す。やっぱり、乙木星凪ほど俺を幸せにしてくれる人間はいない。
ポケットからスマホを取り出して、先ほど慌てて隠し撮りした乙木の写真をチェックする。うん、よく撮れている。テンションが上がるあまり、俺は欲を出してしまった。【どっちも神作画】とコメントを添えて、その写真をSNSに投稿する。
乙木星凪の視界に入れた。それだけを意識して、ほかの物事を考えていなかった。つまり、俺は馬鹿なことをやらかしたのだった。