「行ってくるよ......」
 リツ花はそう言って、職員室のドアをノックした。入る前に、僕の手に軽く触れて。
 今日彼女が放課後に現れたのは、担任の先生に用があるとのことだった。ここまでついて来てほしいと頼まれて、僕は一緒に職員室に来た。
 でも、これは彼女の話だから一緒に入るわけにはいかない。自販機の前にあるベンチで待っていることしかできなかった。
 リツ花も担任の先生もなかなか出てこなかった。
 クラスメイトに何をしているのか聞かれて、待ち合わせとだけ答えるのが続いた。
 どこの部活だか分からないが、校舎の中をランニングしているのが通り過ぎたところで、リツ花がひとりだけ出てきた。
 お疲れ様。こう告げた僕は缶コーヒーを彼女に差し出した。
「ごめん、冷めちゃった」
「別にかまわないよ」
 リツ花は小さな微笑みを見せながら受け取るも、自分のおごりだということに気づいて困った顔を見せた。そしてしぶしぶとタブを開けた。
 
 彼女がベンチの隣に座ったのを待って僕は話しかける。
「ちゃんと話せた?」
「......うん。でも、やっぱり時間掛かったなぁ」
 リツ花は小さな頷きを見せながら答えた。進退の話だから何かと複雑なのだろう。僕が思うよりも、何倍も。
「......娘さんに手紙を持たせるんじゃありません、ってまず注意されて。それから話が進んでいくなかで、学年の先生にも集まってもらったの」
 なるほど。
 どんな話があったのか想像するのは部外者にはいけないことだ。でも、言っておくべきことが彼女にはあるんじゃないかと思う。たったひとつだけ。
 リツ花は少し耳打ちするように教えてくれた。
「......仕事については、話さなかった」
 僕は驚いた顔を見せた。話す機会だったのに、もしかしたら解放されたかもしれないのに。なぜ彼女は大事な話をしないのだろうか。
「そっか、もう良いんだね」
「うん」
 彼女の決めたことだ、それには僕も納得するしかないだろう。
 これから彼女はリツ花ではなくなるんだ、改めてキャロルへと生まれ変わる日がくるのだろう。いつまで一緒にいられるだろう。いつまでこうして話ができるのだろう。
 彼女に青春のキラキラした花を咲かせてあげたいけど、何も思いつくことはなかった......。

 ふと、僕は気づいた。ある問題について彼女が説明していないことに。
「あれ? うさぎのこと、説明しなかったの」
「言わなかったよ」
 なぜだろう。どこまで明確なのかは分からないが、学校の所有物でもあるだろう。伝えておけばなんなりと処理できるはずなのに。
 彼女はいつもの真剣そのものの瞳で、真っ直ぐにこちらを見たまま答えた。
「だって、私たちの問題だもの」
 ......やりたいことがあるんだ。そう言う彼女は頬を赤らめてほほ笑んだ。
「命をありがとね......」
 リツ花は小さくつぶやいていた。



 雪は少しずつ強くなっていた。ベンチに座っていても冷えた空気が辺りを包んでいる。
 リツ花は深いため息をついた。緊張の息を出し切って、話をはじめてくれた。
 でも、咲いた話題の花は切ないものだった。
「......私、お店に連れて帰られたあと、特に取り調べもありませんでした。お客様に無理矢理連れて行かされたことになって、事件性は問われないんだけど。でも、結果的に歩くんを悪者にしてしまったことには変わりないよね」
 それは僕が自ら歩んだ旅路だ、別に気にしないで良いのに。
「ううん......。私のことなのに、私のせいでごめんなさい」
 リツ花は僕の方に身を寄せて肩に頭を乗せてきた。校舎の中をランニングする生徒たちがこちらの姿をちらりと見ていた。視線に構わず彼女は話を続けた。
「歩くんってさ。......どうして自分が生まれてきたかって、親に聞いてみたことある?」
 それはコウノトリ的な話題だろう、そんなことはないから正直に首を横に振った。
「特別な事情がないのは、幸せな証拠だよね。羨ましいわ」
 リツ花は何を言いたいのだろうか。少し興味がある話だった。
「私のお母さんとお父さん。たまたまバーで出会って、すぐ意気投合して......」
 その日のうちに、ということなんだろう。付き合ってもいないカップルの子がリツ花なんだ。結婚も社会人もほど遠い世代の僕は言葉を失ってしまった。
「私、結婚して子供が欲しいって言ったのは嘘じゃありません。でも、お互いのことを知ってからじゃないかなって思う」
 僕はつい、言葉を掛けていた。
「そういうことって、大きさなんて分からないけど。何かしらの愛はあるんじゃないかな」
 なんていったって、子供は愛の結晶だからだ。
 リツ花の結婚相手にふさわしいかどうかと言われたら路頭に迷ってしまうだろう。
 でも、ひとつだけ言いたいことは。彼女らしい恋愛を見つけるべきじゃないだろうか。
 母親は母親で、リツ花はリツ花の人生なのだから。
「......それでも、駄目なのです。だって、酔わされて横になろうとするなんて、母も私も変わりありませんから」

 冬の空気はますます冷たくなっていた。
「......ねえ、歩くん」
 お願いがあります、と語る声色はどこか渇いていて、視線はどこか遠くに投げかけていた。
「もう、私のことを忘れてくれませんか」
 僕は驚いた。
 でも、姿勢を崩すことができずにそのままの状態を保ってしまった。リツ花が自分の腕に少しだけ腕を絡めたからだ。
「クラスのみんなは私のことを忘れてしまうでしょう。こんな私と付き合っても良いことはひとつも無いから、それで良いと思っています。今日、決心がついたから」
 つい知らず知らずのうちに首を横に振った。咲良もみんなも、君の帰りを待っているのに。もちろん僕だって。
 君に好きだよと言いたいのに。
 そんなことを考えていながらも、僕は何も言葉をかけられなかった。
「私、歩くんとの出来事をずっと覚えています。優しい君は、人を幸せにすることができるから。たくさんの人を幸せにしてあげなきゃ」
 そう言って彼女は僕の手をとった。まるで、握手のように。
 勝手に約束をつくり、ひとりで交わそうとする。そんな身勝手なこと、という批判ができる雰囲気ではなかった。
「私の手を引いてくれたのも、温かい言葉をかけてくれたのも嬉しいんです......。だから、もうそんなことしなくていいんだよ。君までケージの中に入っちゃう......」
 ......自由な君でいてください。そう語るリツ花は、一筋の静かな涙を流していた。