僕はひとり、朝の道を歩いていた。
 空は雲ひとつない晴天で、どこまでも遠く澄んでいた。その青さが寂しさを募らせて胸が苦しかった。
 帰宅した僕に親はなにも言わなかった、休んでねというだけで。
 無言でベッドにこもる。
 窓の外から聞こえる車の音が、これが現実なんだと思い知らされた。まるで、うさぎの登り坂のようにはいかなかった。
 瞳を閉じて感じることはただひとつ。リツ花への想いは嘘じゃない。
 頭の中に浮かぶリツ花はいつも飾らないでいて、それでも周りを和ませる雰囲気があった。表情は読み取れなくても、そのひとつひとつにはしっかりを感情が浮かんでいる。
 それなのに、こんな情けない僕で申し訳なかった。
 もし連れ出していたとしても、どこに行くべきだったのだろうか。
 
 たくさんのお金があるわけじゃないのに。
 旅のしおりだって持っているわけじゃないのに。
 
 臆病者の恋も、流していた涙も、もう捨ててしまおう。
 夜の世界には綺麗に輝く月が浮かんでいるだろう。リツ花は今日もキャロルへと生まれ変わる。
 好きなことには変わりないけれど、君と僕は世界が違いすぎる。
 愛だけじゃ奪えないんだ。
 キャロルの仕事も、リツ花の未来も。
 
 僕の心は夢の中を彷徨っていた......。
 
 
 
 年が明けて、僕のところに一通だけ年賀状が届いた。
 綾人や咲良とは日付が変わった瞬間にチャットを送り合ったし、小学校や中学校の友人とはもうやりとりしていない。
 家にきちんとしたはがきが届くのは何年ぶりだろう。
 その字はボールペンで書かれたもので、細く流れるような筆跡は見覚えがあった。
 差出人は高月 リツ花だった。
 それは、白い無地のはがきだ。裏返してみても、お祝いの華やかな文章もイラストも書かれていない。添えてあるのは、たった一言だけ。
 
 "月が綺麗だからお手紙を書きたくなりました"
 
 たしかに、冬の澄んだ空に浮かぶ月をこの間見たような気がするが。
 あまり年賀状に書く内容ではないと思うし、月の話題を話したいとしても色んな感想を聞いてみたいものだ。それだったらむしろ便せんが欲しいなって思ってしまう。
 心の中に一輪の花が咲く。その花は、リツ花の香りが漂っているみたいだった。
 
 授業を受けているときの真面目で凛とした顔。
 放課後のカフェで見せた愛らしい微笑み。
 悲しみに暮れるガールの姿。
 
 彼女の声がこだまして、年賀状の文章を反芻する。
 もっと、色んな話をしてみたい。
 もっと、教室で姿をみていたい。
 ......手を伸ばしても届かない月のように、彼女は遠い存在になっていた。
 年賀状はお互いに出し合うものだ。だけど、彼女との壁を感じてしまっていて。こちらから言葉を伝えるのがはばかられてしまう。返事は書けないままだった。
 
 
 
 三学期を迎えたクラスは相変わらずの明るい雰囲気が教室の中に広まっていた。
 ただひとり、リツ花を除いて。彼女は始業式の日から何日も姿を見せていなかった。
 僕はいつも通り綾人と話している。すると、視界の脇で誰かがリツ花の席に座りだした。ついそちらの方を眺めてしまう。居ないから座ってしまっても良いのだと思ったのだろう。別に注意したいわけじゃないけれど、なんだか虚しかった。
 そこに咲良が登校してくる。こちらの顔を見た彼女は、何があったのか様子を伺っているようだった。答えようと逡巡してしまう、そのとき彼女に声を掛けたのは林だった。
「あ、咲良さんおはようございます」
「林ちゃん、おはよ!」
 そういう会話を交わした彼女は周りの様子を見ることもなく椅子に着いていた。林は花瓶を窓際に置いていた。
 リツ花の机は置かれているのに、誰も彼女が居ないものとして考えてしまっているのだろうか。クラスメイトなのに、皆なにを考えているのだろう......。
 
 今日という一日はずっとリツ花の存在が頭から離れなかった。
「ほら、よく見てよ。ちりとり逆だよー」
 何を言われたのか分からない僕は周りの様子を見ると、掃除をしているメンバーがくすくすと笑っている。慌てて表を見せるようにひっくり返した。
「朝倉くん、あのさ......」
 箒を使って埃をちりとりに入れながら咲良が声を掛ける。いつもの勢いのある声ではなく、少し湿ったような口調だった。僕に問いかけたい気持ちが伝わってきたから、僕は誰にも気づかれないように小さく頷いた。
 
 放課後の静かな教室にはふたりしかいなかった。咲良が話しかけてくる。
「君はさ、高月さんのことを気にしているんでしょ」
 そのままの感情を言い当てられた僕は、首を縦に振るしかなかった。
「だいじょうぶだよ。私あの子を信じている、またこの教室に戻ってくるんじゃないかと思ってるよ。だからさ、またコーヒー飲みに行こうよ」
 咲良の意見は、高月の性善説を信頼している。きちんと覚えている人がいるんだ、その気持ちに溢れている僕たちは少しでも彼女の帰りを待ってあげよう。
 口角を上げて、彼女は帰っていった。
「じゃあ、約束だよ!」
 その一言を言い残して。
 
 
 
 それからあくる日。
 今日は朝から雪が降っている。そのせいか、国語の授業は風情ある話題になっていた。
「"I Love You"を"月が綺麗ですね"と訳する、ひとつの逸話があります。いかにも日本らしい古風な響きがありますね」
 なにがせっかくなのかわからないけれど。じゃあ皆さんも考えてみましょうか、と名前を呼ばれた綾人が答えていた。
「オレなら、"ホームラン打ったら結婚してほしい"ですかね」
 そんなプロポーズ、現代の野球選手でもするだろうか。残念ながら座布団はもらえないようだが、授業の雰囲気はなかなかに楽しいものになっていた。
 その様子を横目に僕は窓の外の様子を眺めていた。空はどんよりとした色で、白い世界が一面を覆いつくしている。残念ながら月は夜も見ることはできないような気がした。
 年賀状に書かれた言葉を思い出していた。
 リツ花の告白はなんて綺麗な言葉なんだろう。
 
 体の芯まで冷えそうな空気が、うさぎの温かい体温を思い起こさせた。
 小屋の掃除をするついでにちょっと抱きしめてみようかな。そう考えていた。
 だけども、それは叶わなかった......。
 うさぎは体を丸めて、冷たくなっていた。
 僕は触れた手をすぐに引っ込めてしまう。
 はじめて動物の生死を目の当たりにして、寂しさというよりも虚しかった。いつからなんだろう。風邪をひいてしまったこともあったから、まったく世話ができていなかった。自分を悔やむしかなかった。
 久しぶりによみがえる面影が、しっかりと輪郭を作り出してきた。
 愛しい声が僕の中にこだまする。
 そう、一刻も早くリツ花に教えたかった。
 バーに行くのは勇気がいるだろう。年端もいかない僕は、入店だってできないかもしれない。でも、そんなことも言っていられない気がした。
 ふたりだけの、緊急事態なのだから。
 そう思って小屋から出たところだった。彼女が、裏門からやってきた。
 
 白いダッフルコートに身を包んでいるリツ花は、しゃがみ込んでうさぎを撫でている。
 横顔に流れる黒髪の中に、一筋の涙が見えた。
 
 もしも、僕が風邪をひかなかったら。
 もしも、うさぎが死ななかったら。
 
 僕は、色んな可能性を考えた。そもそも、ここでうさぎを飼っていなかったら。
 彼女の仕事だって他にもあったのかもしれないのに。
 折り重なる偶然が、虚しさを募らせてしまう。
「うさぎは体調が悪くなってもギリギリまで隠してしまうんです。全部が全部、君や私のせいではありません」
 立ち上がった彼女はこちらを見ていた。その表情はうさぎを医者まで運んだときのように凛としている。
「......もしもはないんだよ。この子も、私たちも永遠はないんだ。でも、今教えてくれたんだよ、"生きろ"って」
 彼女の瞳はきらめいていた。でも、その様子は何かがちがう......。
 そこに浮かぶのは強い意思。惹きこまれそうな魅力にあふれていた。
「......これからどうなるか分からない、だけども私は生きようと思います」
 僕は黙って聞いている。
「もう学校には来ないよ」
 その言葉に僕は我に返った。彼女は仕事を選んだんだ、生き抜く決意が見えた瞬間だった。