突然降りだした雨は僕たちの道標を隠してしまった。
 跳ね返る水滴が僕たちの足元を容赦なく染めていく。
 住宅街の中だというのにコンビニが近くには見つからず、電車が沿っている道際にあるネットカフェしか行くところが無かった。
 もうこんな時間帯だ、学生の分際で行けるところは限られているだろう。
 お互いにはじめて行くけれど、僕たちは個室とやらに通された。
 
 ふたりだけでいる空間。
 雨粒がかかっている麗しい彼女。
 パソコンに表示される夜中の時間。
 
 事態の重大性についてはまったく気づいてなかった。
 実のところは何をする場所なのか分からないけれど、ここに居るしかないことは確かだろう。今日の宿泊費は出せそうだし、少なくとも外の寒さからしのげる場所だ。
 それ以降はまた考えよう。
「まあ、少し休もうよ」
 そう考えた僕はリツ花の方を見て説明した。
「いいよ」
 彼女は両手を床について、脚を折り曲げて、いわゆる女の子座りをしている。
 小さく首を縦に振って、消え入るような声で反応した。なんだか口数が少ないような気がした。
 ここにきてはじめて、リツ花の顔をしっかりと見た。
 頬がいつにもまして紅潮している。
 目は虚ろのようにピントが合っていない。
 もう眠りたいと言わんばかりな反応のなさ。
 ......今までに見ていた彼女じゃなかった。そして、どことなく漂う洋酒の香り。もしかしたら飲まされていたのだろう。
 とりあえず、水でも入れてきてあげよう。たしかドリンクバーがあったなと立ち上がろうとした時だった。
 リツ花の腕が僕の服を掴む。
「......待って、行かないで」
 彼女の上目遣いの瞳は、僕に何かを言いたげだった。
 仕方なく僕はその場に腰を下ろした。自然と正座に近いような座り方になって、喉が渇いてくる。
 ......張りつめた空気が個室を包み込んでいた。



 うさぎは常にほかの肉食動物や猛禽類から狙われている。
 敵が近づく音を察知できるように、耳を大きくして。
 素早く逃げられるように、足の筋肉は発達して。
 いずれも生き抜くために進化してきた形だ。だが、本当のところはストレスに弱くて絶えず周囲を警戒している切ない動物だ。
 そして、もうひとつ特徴があるのを知っているだろうか。
 常に、もしくは長期的に子供が作れる環境にあるということだ。多産のイメージから豊穣・繁栄の女神と称されている。
 それはしばしば性的なシンボルとして扱われ、<異界へ誘惑するもの>という異名さえある。いつしかカジノやバーと雰囲気が結びつき、バニーガールが広まっていった。
 そんなうさぎが、今、目の前に居る。
 
 リツ花は静かに語りだした。
「......私、お店の前でホテルに誘われるところでした。もちろんバーはそんな場所じゃないし、私だってついて行ったことはないよ」
 僕はうなずくしかなかった。緊張感が声を発することを禁じているみたいだから。
「あのお客さんはいつもそう。入店したときから顔が赤くて、危険な香りはしてたから。お店の前で帰ってもらえれば終わると思ってたんだけど......」
 ......実際はそうじゃなかったのだ。
 店の前で長い間揉めていた。
 周りを歩く人も、関わりたくないという一心で避けていた。
 そして、お店にしてみれば、リツ花はお金を稼ぐための道具としか思っていないのだろう。
「......ねえ」
 リツ花の瞳は僕のことをしっかりと真っ直ぐに見つめていた。
 まだ寒いのだろうか、身体は震えている。
「私は君に助けてもらって、嬉しかったよ」
 ......だから、君に恩返しがしたい。そう言って彼女は、僕のほうにしっかりと顔をむけてきた。
 震えている瞳は、黒いはずなのに、不思議と青く見えた。彼女の意識が海の中で揺れているような気がした。
「君とだったら、いいよ」
 僕は、何を意味しているのか分からなかった。
 
 目の前にオーロラが広がったような感覚におそわれて、夢の中へ連れていかれそうだった......。

 ・・・

 私の心の中を色で表すと、何色に染まっているだろう。
 今日は色んな出来事があった。今日という日は何もかもが通り抜けるように過ぎていった。
 未成年の禁忌を破ってしまった不安と、はじめて見た狼みたいな客の本性。それでいて、歩くんが手を引いてくれた幸せ。
 まるで複数の絵の具を混ぜるように、黒くなって心の中を駆け巡っている。

 ......もう眠いという意識の中で、私の中のキャロルが目覚めようとしていた。

 古い時代、フランス革命時のバレリーナは教育を受けられない地位の低い女性が生計を立てるものとされた。
 彼女らは男性の誘いにのるもの。
 彼女らは身体を捧げるもの。
 
 でも、君も私も現代に生きている。好きじゃない相手のところには居られない。居場所は自分で見つけたかった。
「......好きな相手じゃなきゃ、こんなことはしたくないよ」
 愛し合う悦びを誰かと分かち合いたい。
 ふたりで居ることの緊張感。自分の呟きは風船に空気を注ぎ込むように、儚い恋はえもいわれぬ感情に変わっていた。もう張り裂けるみたいにあふれ出しそうだった。
 唇を重ね合わせてみたい。その果実の味を味わってみたい。さらに、その先も......。

 "私のこと、全部あげるから......"
 私の頭の中に、こんな言葉が生まれる。もう何もかもを捨てて、君だけが欲しかった。

 私の人生には、いつもうさぎが跳ねているような気がするんだ。
 ぴょんぴょんとする音は愛らしい。だけど、さらにその先には、寂しい哀愁の背中をしている私がいるんだ......。

 だれか、私の姿を見つけてくれるだろうか。
 だれか、私の涙を受け止めてくれるのだろうか。

 私の手を取ってくれた人のために、成すべきことは、ただひとつ。
 頭の中にいるキャロルが教えてくれた......。
 
 音楽の授業で学んだことが、私の頭の中を駆け巡っているみたいだ。これはうさぎが奏でる、標題音楽─ライトモティーフ─。
「ねえ、私のことを......」
 ......救ってよ。そう言ったつもりなのに、私の言葉は涙声でかき消された。

 ・・・

 リツ花から漂う香りが、僕の気持ちを酔わせてくる。
 
 それは花の香りのように甘美なもので。
 果実のように甘く酸っぱいもので。
 
 ......不思議な感情に僕は誘われていた。これが、僕の知らない大人の世界。
 自然と体を後退させて硬直してしまう。彼女は僕の方に身を投げかけるように、乗り出しているところだ。
「ねえ、だからさ......」
 リツ花は少し距離を近づけてくる。
 長い髪が細い肩のあたりから流れて僕の手のひらを撫でた。そのくすぐったさはまさに緊張するしかなかった。
「毎日塾があって大変なんでしょ......。すべて投げ出してさ、ふたりで横になろうよ......」
 よりによって、その衣装で誘惑されると困ってしまう。リツ花の細くも立派な身体つき、そして服の胸元が気になって仕方なかった。
 そして彼女はいつのまにか指を絡める。
 いくらなんでも、理性が崩壊しそうだった。
「自分の気持ちに、嘘をつかないでいいんだよ......」
 ......もう、しちゃおうよ。リツ花の口から甘いささやきが降ってくる。

 リツ花は身体を起こした。
 そして少し首を傾げて何かを考えている様子だ。......その答えは自分の考えもしないところに着地する。
「そっか、この衣装じゃ歩くんも好きじゃないよねぇ」
 そう言って彼女は衣装に手をかけていく。
 その動作をまじまじと目に焼き付けるしかなかった。
 恐怖なのか、畏怖なのか。それとも興味ある姿なのか。
 バニーガールだったリツ花の衣装が弾けるように乱れるのと、僕が彼女の手を取って自分の方に手繰り寄せたのは、ほとんど同時だった。
「だめだって、何をしているの......」
 そう慌てて言ってももう遅かった。

 リツ花の助けになれば良いのかもしれない。
 だけども、今しようとしていることは何か違う気もする。

 何ひとつ考えられなくなった僕は、ただ無意識のまま、リツ花の方に腕を伸ばしていた。
「......リツ花」
 そう呼びかけたからなのだろうか、僕の瞳はリツ花の顔にしっかりとピントが合ってしまった。
 リツ花の深い海のような瞳は、どこか波が揺れるように荒れていた。
 きらめくものが見える。涙を流していたと気づいたのは、僕の頬に水滴が落ちてきたからだ。
 リツ花の表情は、不安定に歪んでいた。愛しい壊れ物の印象しか与えなくて。
 それだけで、僕の感情を元に戻すには十分だったと思う。
 
 成り行きのまま、行動している。
 この先の行く末も意識出来ていない。
 
 ......自分の計画は無謀なものだと気付きはじめていた。

 リツ花の身体は僕の上に滑りこむ。
 だけども、彼女は涙をこらえきれず、泣くことしかできなかった。
 静かに、でも声を張り上げるように。それはリツ花の境遇を嘆いているのだった。
 僕の伸ばしかけていた腕はなにも触れることなく着地する。力が抜けたように、床に投げかけてしまうのだった。
 せめて、背中に手を回してあげよう。彼女の気持ちが落ち着くまで。
 リツ花の身体は温かかった。
 それは涙が通っているから、命が胸の中できらめいているから。ほかの何よりも替えることのできない、生きているという<素晴らしさ>を抱きしめてあげよう。
 泣きじゃくる声だけがこの空間の中に響いていた......。



 それからどれくらいの時間が経ったのだろう。
 部屋のドアがノックされる音がする。そして、静かに声を掛けられたのだった。
「......リツ花か?」
 若い男の声だった。
 その声に反応したリツ花は、体を起こして返事をした。その自然な手つきのまま彼女は衣類は綺麗にまとめた。
「はい。
どうぞ入ってください」
 彼女は真剣な表情そのもので、声色はどこか低かった。
 扉を開けたのは、ホストを思わせるようなスーツの男性だった。多分店員かマネージャーというところだろう。手には彼女が着るためのガウンを抱えている。
 おそらく、ネットカフェの店員からバーに連絡でもいったのだろう。
 リツ花は静かに出ていった。
 たぶん、これからも仕事なんだろう。
 それが"キャロル"の日常。



 寒かった。
 だれも居ない個室では、暖房の温かさも触れていた肌の温かさも感じることができない。
 見上げる天井に並ぶオレンジ色の照明。虚しさから出る涙で滲む灯りは雪のようにちらついていた。それは僕に降り積もり、次第に心の灯りを消していった。
 走りかけた住宅街は夢中になっていたのに。
 君の幸せを抱きしめたかったのに。
 リツ花は手を離してしまった。もう誰かの帰りを待つのは意味のないものなのだろうか。

 クリスマスの旅路はここでエンディングを迎えてしまった。

 本当に彼女と身体を重ねていたら、どうなっていたのかな。新しい命が生まれることになったのだろうか......。
 それは、古い存在と引き換えなんだ。