クリスマスというものはこんなにも陽気になるのだろうか。
期末テストを終えた教室の中ではさまざまな話題が浮かんでは消えていく。
どれも楽しさという期待を込めた風船が広がるような雰囲気がしている。誰かがご馳走を食べると言っていた。自分の家はケーキくらい出るだろうか、皆が違ってどれも良いものだと思う。
僕はその様子を見ながら席を立った。
「朝倉くん、君も行かない?」
呼び掛けられた僕は振り返った。咲良がわざわざこちら見て声を掛けてくれたようだ。
ファミレスにでも行くのだろう、彼女の手にはまたしてもチラシが握られている。そこには綾人と林もいて、豪華なメンバーだ。少し興味があったが、今日のところはあまり時間が取れそうになかった。
「......そっか、塾だもんね」
咲良と公園で話して以来、事件らしい出来事は起きていなかった。
ひとまず安堵するも、もしかしたら皆が気遣って話題に出さないのかもしれない。それだったらなんだか切ないだろう。
手を振って彼らとは別れた。
"今やらないと後悔することはやっておいた方がいい"
ふと自分の中にこんな言葉が浮かんだ。なぜだろう? 何に由来するかはまったく分からない。
この言葉が、忘れられないクリスマスへの序章になるとは思いもしなかった......。
・・・
私はお店の隅にある座席で小さなため息をついた。
今日もカレンは隠れながら"お小遣い"をもらっている。他の従業員も見て見ぬふりをしているのだろう、もう彼女の得意技にしか思えなかった。
私には何回やろうとしても勇気のいるものだったが、自分ができる芸当ではないのだから、もう無理して稼がなくても良いかもしれない。
......座っている位置を少し右にずらす。
空いたグラスを手に取る動作に紛れて。慣れた手つきで水割りを作ると、静かに差し出した。
お代わりですよ、と告げるとその客はありがとうと言いながら受け取った。ただ、指先があからさまに触れている。そっと手を引いた。
このお客はよく私を指定する。
何を気に入ってくださるのかよく分からないけれど、今日はなおさら上機嫌のようだ。まるで口笛でも歌いそうな雰囲気で楽しくお酒を飲んでいる。
こともあろうことか、彼の手はさりげなく私の身体に触れてきた。
私がボトルを注いでいるときとかを狙って、物陰から目立たないように。周りは気づかなかっただろう。
「君はいつも水で良いのかい?」
「ええ、まあ......。炭酸が入っていて美味しいですから」
これがいつもお決まりの会話だ。
ガールという仕事柄少しは飲めた方が良いのだが、いくら何でもそうは言ってられない。来店する人がどう思っているのか知らないが、私はまだ成人には程遠い。
相づち代わりにひとくち飲もうかと自分のグラスに手を伸ばす。
そして、何も疑うことなく目の前にある飲み物を飲んだ。だが、気付かなかったトリックに目をまん丸く開いてしまった。
......こともあろうことかただ何も割っていないウイスキーだった。
喉を通り過ぎたものは重い川のごとく流れてしまい、飲み込んでしまった。吐き戻さないだけ良かったが、せき込むのを我慢できなかった。
テーブルの上を見渡すと、自分のためのグラスはきちんと置かれている。
ああ、そうか。
私がよそ見していた隙を狙って、このお客が作ったのだろう。なんのために?
ぐにゃりと変化する景色が視界を支配する。その中で私はできる限りの笑顔を作った。駄目ですよ、とか言った気がする......。
少し朦朧とする意識の中で、私は小さな夢を見た。
森の中で行っている演奏会。
赤いドレスのような服を着た自分の隣には少し背の高い青年がいて、ふたりはバイオリンの二重奏を振舞っている。
観客は野生のうさぎたちだ。
彼らは演奏の辺りに集まってきて、少し興味深く私たちを覗き込んでいる。そして、二本脚で立ち上がって、前脚で器用に拍手をしてくれた。
その感謝の中、私は深いお辞儀をした。
隣にいる彼も習って頭を下げると、私のことをお姫様みたいに抱えると袖に帰っていく。
......でも、森の中は一瞬で暗くなってしまった。
もううさぎの観客はおらず、私は一瞬で恐怖に襲われる。
彼の姿は、まるで人間のものではなかった......。
私が気づいたときには、店舗から地上に上がった路地で腕を引っ張られていた。
ネオンに照らされたお客様の表情はまるで違っていた。まるで狼のものとしか思えなかった。
この人はホテルに誘うんだ......。
獲物を目の前にしたような表情は、最初からそのつもりだったのがありありと浮かんでいる。飲まされた時点で気づけていれば良かったのに......。
こうやって、誘われてしまったガールがいると聞く。私は働き始めて日が浅いけれど、何人かいることを知っているのだ。
彼女らはいつもキャバクラや風俗と勘違いして、裏でお金をもらおうとする。そして少しでも多く稼ぎたいからなんだってする。
ふと、バレリーナの断片が脳裏に浮かぶ。私は決してなりたくなかった。
ぞろぞろと人々が周りに集まってくる。彼らはこちらの様子を心配しながら、何もできないでいる。
そのギャラリーの向こう側に、私はある人物に気付くことができた。視力の悪い自分でも、そこにいる人のことはよく分かるんだ。
だって、その人は。私の初恋相手。誰よりも愛する人なのだから。
......息を大きく吸って、ありったけの言葉を口にする。
・・・
灯りが溢れる街中を歩いている。
マフラーで口元を押さえながら、塾の帰り道を歩いていた。イヤホンから流れる冬の曲は、あまり集中して聞いていなかった。
<駆け落ち>の計画はまだ考えられていない。塾を辞めるのもバイトを始める算段も、つかみ損ねているのが現状だ。
こんなんじゃ駄目だろう、そう考えている日々だった。
しかし、タイミングは突然やってくる。
少し香っている雨の匂い。それに合わせて連れてくるなんて、思いもしなかった。
うさぎは思いもよらないところから出てくるものだ。
僕は駅の近くにある<大人の街>を歩いていた。
以前にバニーガールの高月を見た街を、通り抜けたい気持ちを込めて歩いていく。だけども、小走りな足はすぐに止まってしまった。
視線の先にはあのバニーガールのバーがある。
そこでは中年のサラリーマンとバニーガールが何やら揉めているのが目についた。だいぶ酔っぱらっているのか何なのか、男性がガールの腕を引っ張っている。
しかも、そのガールは高月 リツ花だったのだ。
周りにはお店の従業員らしい人はおらず、軽い人だかりが出来ているだけだった。うろたえているようで、その場では誰もが傍観者になっていた。
僕が様子を伺うまでもなく、彼女はこちらに気づいた。
うさぎだって叫びたいときは叫ぶように、精一杯の声を張り上げた。
「歩くん、助けて!!」
彼女の叫びは不思議とイヤホン越しに、僕の耳にしっかり届いた。
頭の中に、"やらないと後悔する"という言葉が反芻された。そうか、先ほど思い立った言葉は、今日このためにあったんだ......。
当事者になろうと決心した僕は、反射的に駆け出していく。
「リツ花っ!!」
僕は必死になって、男性に体当たりをぶつけた。彼がよろけた一瞬の隙を捉えて、リツ花の手首を掴むことに成功する。
そして、目配せだけで意思を通じ合わせた。
......逃げるよ。
......行こう。
周りの人だかりにも気にすることなく、僕たちは駆け出していった。まさしく、脱兎の勢いだった。
期末テストを終えた教室の中ではさまざまな話題が浮かんでは消えていく。
どれも楽しさという期待を込めた風船が広がるような雰囲気がしている。誰かがご馳走を食べると言っていた。自分の家はケーキくらい出るだろうか、皆が違ってどれも良いものだと思う。
僕はその様子を見ながら席を立った。
「朝倉くん、君も行かない?」
呼び掛けられた僕は振り返った。咲良がわざわざこちら見て声を掛けてくれたようだ。
ファミレスにでも行くのだろう、彼女の手にはまたしてもチラシが握られている。そこには綾人と林もいて、豪華なメンバーだ。少し興味があったが、今日のところはあまり時間が取れそうになかった。
「......そっか、塾だもんね」
咲良と公園で話して以来、事件らしい出来事は起きていなかった。
ひとまず安堵するも、もしかしたら皆が気遣って話題に出さないのかもしれない。それだったらなんだか切ないだろう。
手を振って彼らとは別れた。
"今やらないと後悔することはやっておいた方がいい"
ふと自分の中にこんな言葉が浮かんだ。なぜだろう? 何に由来するかはまったく分からない。
この言葉が、忘れられないクリスマスへの序章になるとは思いもしなかった......。
・・・
私はお店の隅にある座席で小さなため息をついた。
今日もカレンは隠れながら"お小遣い"をもらっている。他の従業員も見て見ぬふりをしているのだろう、もう彼女の得意技にしか思えなかった。
私には何回やろうとしても勇気のいるものだったが、自分ができる芸当ではないのだから、もう無理して稼がなくても良いかもしれない。
......座っている位置を少し右にずらす。
空いたグラスを手に取る動作に紛れて。慣れた手つきで水割りを作ると、静かに差し出した。
お代わりですよ、と告げるとその客はありがとうと言いながら受け取った。ただ、指先があからさまに触れている。そっと手を引いた。
このお客はよく私を指定する。
何を気に入ってくださるのかよく分からないけれど、今日はなおさら上機嫌のようだ。まるで口笛でも歌いそうな雰囲気で楽しくお酒を飲んでいる。
こともあろうことか、彼の手はさりげなく私の身体に触れてきた。
私がボトルを注いでいるときとかを狙って、物陰から目立たないように。周りは気づかなかっただろう。
「君はいつも水で良いのかい?」
「ええ、まあ......。炭酸が入っていて美味しいですから」
これがいつもお決まりの会話だ。
ガールという仕事柄少しは飲めた方が良いのだが、いくら何でもそうは言ってられない。来店する人がどう思っているのか知らないが、私はまだ成人には程遠い。
相づち代わりにひとくち飲もうかと自分のグラスに手を伸ばす。
そして、何も疑うことなく目の前にある飲み物を飲んだ。だが、気付かなかったトリックに目をまん丸く開いてしまった。
......こともあろうことかただ何も割っていないウイスキーだった。
喉を通り過ぎたものは重い川のごとく流れてしまい、飲み込んでしまった。吐き戻さないだけ良かったが、せき込むのを我慢できなかった。
テーブルの上を見渡すと、自分のためのグラスはきちんと置かれている。
ああ、そうか。
私がよそ見していた隙を狙って、このお客が作ったのだろう。なんのために?
ぐにゃりと変化する景色が視界を支配する。その中で私はできる限りの笑顔を作った。駄目ですよ、とか言った気がする......。
少し朦朧とする意識の中で、私は小さな夢を見た。
森の中で行っている演奏会。
赤いドレスのような服を着た自分の隣には少し背の高い青年がいて、ふたりはバイオリンの二重奏を振舞っている。
観客は野生のうさぎたちだ。
彼らは演奏の辺りに集まってきて、少し興味深く私たちを覗き込んでいる。そして、二本脚で立ち上がって、前脚で器用に拍手をしてくれた。
その感謝の中、私は深いお辞儀をした。
隣にいる彼も習って頭を下げると、私のことをお姫様みたいに抱えると袖に帰っていく。
......でも、森の中は一瞬で暗くなってしまった。
もううさぎの観客はおらず、私は一瞬で恐怖に襲われる。
彼の姿は、まるで人間のものではなかった......。
私が気づいたときには、店舗から地上に上がった路地で腕を引っ張られていた。
ネオンに照らされたお客様の表情はまるで違っていた。まるで狼のものとしか思えなかった。
この人はホテルに誘うんだ......。
獲物を目の前にしたような表情は、最初からそのつもりだったのがありありと浮かんでいる。飲まされた時点で気づけていれば良かったのに......。
こうやって、誘われてしまったガールがいると聞く。私は働き始めて日が浅いけれど、何人かいることを知っているのだ。
彼女らはいつもキャバクラや風俗と勘違いして、裏でお金をもらおうとする。そして少しでも多く稼ぎたいからなんだってする。
ふと、バレリーナの断片が脳裏に浮かぶ。私は決してなりたくなかった。
ぞろぞろと人々が周りに集まってくる。彼らはこちらの様子を心配しながら、何もできないでいる。
そのギャラリーの向こう側に、私はある人物に気付くことができた。視力の悪い自分でも、そこにいる人のことはよく分かるんだ。
だって、その人は。私の初恋相手。誰よりも愛する人なのだから。
......息を大きく吸って、ありったけの言葉を口にする。
・・・
灯りが溢れる街中を歩いている。
マフラーで口元を押さえながら、塾の帰り道を歩いていた。イヤホンから流れる冬の曲は、あまり集中して聞いていなかった。
<駆け落ち>の計画はまだ考えられていない。塾を辞めるのもバイトを始める算段も、つかみ損ねているのが現状だ。
こんなんじゃ駄目だろう、そう考えている日々だった。
しかし、タイミングは突然やってくる。
少し香っている雨の匂い。それに合わせて連れてくるなんて、思いもしなかった。
うさぎは思いもよらないところから出てくるものだ。
僕は駅の近くにある<大人の街>を歩いていた。
以前にバニーガールの高月を見た街を、通り抜けたい気持ちを込めて歩いていく。だけども、小走りな足はすぐに止まってしまった。
視線の先にはあのバニーガールのバーがある。
そこでは中年のサラリーマンとバニーガールが何やら揉めているのが目についた。だいぶ酔っぱらっているのか何なのか、男性がガールの腕を引っ張っている。
しかも、そのガールは高月 リツ花だったのだ。
周りにはお店の従業員らしい人はおらず、軽い人だかりが出来ているだけだった。うろたえているようで、その場では誰もが傍観者になっていた。
僕が様子を伺うまでもなく、彼女はこちらに気づいた。
うさぎだって叫びたいときは叫ぶように、精一杯の声を張り上げた。
「歩くん、助けて!!」
彼女の叫びは不思議とイヤホン越しに、僕の耳にしっかり届いた。
頭の中に、"やらないと後悔する"という言葉が反芻された。そうか、先ほど思い立った言葉は、今日このためにあったんだ......。
当事者になろうと決心した僕は、反射的に駆け出していく。
「リツ花っ!!」
僕は必死になって、男性に体当たりをぶつけた。彼がよろけた一瞬の隙を捉えて、リツ花の手首を掴むことに成功する。
そして、目配せだけで意思を通じ合わせた。
......逃げるよ。
......行こう。
周りの人だかりにも気にすることなく、僕たちは駆け出していった。まさしく、脱兎の勢いだった。