高月 リツ花はバニーガール。
 安心することに、この話はクラスには広まっていなかった。
 ただし、彼女は相変わらず授業にもうさぎ小屋にも出なくなってしまった。
「高月の姿を見ないだけで、心が寒いわぁ」
 帰り道、綾人がのんきな声をかけてきた。僕は適当に"そうだね"と返事をしておいた。
「そうだ、いつかゲームでもしようか。
心の寂しさを一緒に埋めようぜ」
「いいけど、しばらく塾に行かないとだから」
 そう言って、僕たちは交差点で別れた。高月のことは絶対に知られないようにしよう、そう考えていた。

 季節は冬を迎えそうな季節になっている。
 寒さにこらえながら帰宅した僕に母親が声を掛けた。
「お帰りなさい。今日、塾の先生とお話して、ちゃんと来てて真面目だって言われたわよ」
 それは親が行かせているからでしょう。ついそんなことを思ったけど、ぐっとこらえた。
 塾の準備をしている最中、夕空は少し雲が覆っていた。わずかに月が顔を出している。
 ふと、リツ花の事を思い出した。
 バニーガールの格好だと寒くて可哀想だな。
 ......そう、いつだって彼女が不憫な目に遭うんだ。周りの影響によって重荷を背負わされて。それでいて苦しい環境から出ることができない。いつしか慣れてしまい、健気なふりをして生きていくのだろう。
 こんなにも可哀想な目に合わせることができない。カフェでのんびりしたり、映画館に行ったりバレエを鑑賞したり、他にも色々あるんだ。
 彼女にはもっと青春を味わってほしい、それが僕の願いだ。
 僕はあることを考えていた。
 
 ......月にはうさぎが住むという。連れ去って、月に逃げ出そう。
 
 塾に行くまでもう少し休む時間があったのだが、僕はもう出掛けたい気分だった。
 親の問いかけに答えることもせずに、僕は玄関のドアを開けて出ていった。



「歩くん!」
 塾に向かう途中に背中から声を掛けられた僕は、慌てて振り返った。
 そこには、こちらに向けて走ってくるリツ花がいる。彼女は一生懸命に走ってくると、僕の身体を抱きしめるようにしがみついた。
 呼吸が整っていないまま、彼女は早口に告げる。
「君に会いたかった......。ここなら君に会えるんじゃないかと思っていました」
 以前、『不思議の国のアリス』のバレエ公演を見てからコーヒーを飲んだ場所だ。こんなところで出会うなんて思いもしなかった。
 高月はどう見ても制服でも着飾った格好でもない。
 前に見たワンピースではなくて、襟ぐりの開いたゆったりとした長袖のシャツにカーディガンを羽織っているだけの姿だ。どう見ても急いで飛び出してきた姿としか思えなかった。
 
 とりあえずカフェに入ろう。
 気分を落ち着かせようとコーヒーを飲むことを勧めた。もちろん、自分のおごりだ。
「学校のうさぎって可愛いよね......」
 高月が話し出す姿に、僕は瞳を逸らさずに何も言わずにただ言うことを待つ。それが自分の務める姿だと思ったから。
 僕も一口飲んだのだが、それはひとしずくに凝縮した彼女の熱い涙のような気がした。その思いを誰にも渡さない、誰にも渡したくない。そんな気持ちが芽生えていた。
 もう塾がはじまる時間なんてどうでもよかった。
「私、ずっと世話をしてきたけれど。
いつも思ってたんだ、あのドアを開け放っておきたいって。
だって、うさぎは何を見て跳ねるのか見たかったから......」
 リツ花が告げたかったことは自由への解放だ。その言葉は高校一年生の言葉から出るにはとても重かった。
 僕の考えていたことと彼女の思想が結びついたから。自分の考えていることを口にすることにしたんだ。
「行こうよ、ここではない何処かに」
「何処かってどこなの?」
「どこだっていいよ。都心とか繁華街に出てもいいし、なんならもっと別の土地だってさ」
 リツ花は目をぱちくりさせて、僕の方を見つめてきた。
「歩くん。それって、意味分かってる?」
「分かってるよ。何なら塾をやめてさ、バイトしたっていいよ」
 ......ふたりで何処かに逃げ出そう。
 自分でも無茶な提案だと理解しているつもりだ。だけども、今の思考回路では冷静な判断かどうかは分かっていなかった。
「......君まで」
 リツ花は少し声を震わせていた。
「君までそんなこと、考えなくて良いんだよ」
「でも、このままじゃ可哀想じゃない。辞めようとか、逃げたいとか、考えたことはないの?」
「もう遅いんだよ......」
 リツ花は静かに首を横に振った。
 
 ......私はうさぎなんだから。
 ......ケージの中に居ないといけないんだから。
 
 彼女の言った台詞は、他の人から見たらよくわからないだろう。でも、僕たちの心には自然と馴染んだ。
「だったらさ、つがいになろうよ。ふたりで草原を走った方が楽しいと思うよ」
 以前高月が話していた、結婚したいという願い。
 それを僕の手で叶えてあげたい。いつしかそう願っていた。そのことに自分は今、気づくことができたんだ。
 しかしながら、この言葉を聞いた瞬間、彼女は顔を真っ赤にして少し顔を背けた。
 何か言ったっけ?
 なぜだかカフェ内の音が静かになって、客の視点がこちらに向いた気がする。これは誰がどう聞いても告白だ。だけども、自分の頭では今の発言を理解できていないのだ。
 
 でも、高月は自分の方をしっかりと見てくれた。少し目を細めている表情からは未来への希望を感じられた。
「楽しみにしてるよ、"駆け落ち"」
 その瞳は切なくもどこか楽しそうだった。