私がバーの仕事を終えて帰宅しても、出迎えてくれる人もいない。
 とはいえ、夜の帳がとっくに下りた時間帯だからゆっくりと扉を開いて静かに入ることは忘れてはいけないわけだ。
 
 あの夢を見てから。
 夢の中で桃さんが何かを言おうとしていたのかずっと考えてしまう。
 たかが夢の中でという人がいるかもしれない。でも、あの夜の湿った空気やはっきりと聞き取れる台詞は、作られた空想の世界であってもやけにリアルだったから。
 何かメッセージが隠されている気がしてならないんだ。
 降っていた雨は少しおさまったものの、明日も降るという予報だった。
 もう何も見えない窓のカーテンを閉めると、彼女への想いがこの部屋の中で膨らんでいきそうだった。
 眠る前に目をつむると、色々と思い出してくる......。
 
 
 
 私が通うことになる高校のことを教えてくれたのが桃さんだった。
 もう進路を考える時期になっていた。みんなは少しずつ行きたいところを決めている中、私はどこかリアリティを感じることができなかった。
 親が仕事で居ないから、家庭で進路の話はまったくできていなかった。
 ちょっとだけ母親に相談してみたことがあったけど、「あなたの行きたいところでいいわ」と言われる始末だった。三者面談も彼女は乗り気じゃなかった。
 だから、進路指導室にある冊子やパンプレットの数々を見ても、私は何も実感できることはなかった。
「ねえ、りっちゃん! 気になるところ見つけた?」
 そう質問されても、仕方なく無言で首を横に振る。
 桃さんは私の回答に口角を上げている。でも、特にバカにしたいわけじゃなく彼女の優しさが垣間見える。
「ほんと、君はもったいないなぁ。だってクラスで上位の成績じゃないか」
「そんなこと言われても、私さ......」
 ......とくにやりたいことなんてないし。こう告げる私に彼女は告げたのだ。その自信あふれるようにきらめく瞳は、今でも忘れられない。
「夢の欠片を集めて大きくなるんだよ。今やりたいなら、なってみる。それだけだよ」
 私はあっけにとられていた。
 別に将来の道が決まっているわけでもないのに、やりたいことを見つけたなんて。
「......桃さんは、何をしたいの?」
 申し訳なさそうに聞いてみても、彼女の回答はとても小さなことだった。
「この高校ってうさぎ飼ってるの知ってる? お姉ちゃんの代で部がなくなっちゃうから、私が行って世話をしてあげようと思うんだ」
 それをしたいの? 勉強ではないじゃない?
 私はつい、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。自信にあふれるように、腰に手をついて彼女が答えてくれた。
「だからさ、うさぎ撫でると気持ちが落ち着くんだよ。良ければ一緒に行こうよ!」
 撫でたら落ち着くかどうかわからないけれど、少し興味を持った。
 
 文化祭の日、私は人ごみに疲れていた。自然と桃さんの腕にしがみついてしまった。
「もう、りっちゃんったら」
 彼女は微笑みながら笑ってくれた。
 私たちは校舎の裏手に周り、うさぎ小屋に行く。
 こっそり小屋に入ってうさぎを撫でてみると、彼女の言っていることは本当だった。毛並みの柔らかさ、体温の温かさに気分が和らいでいく。
 桃さんは私たちの元気。
 そう実感した私は気持ちが明るくなっていた。こんなところで寂しく考えているわけにはいかないだろう。
 彼女が笑うなら、いつでも新しい朝がくる。
 一緒に進学するなら私も変われそうだ。
 でも、その夢は花が散るように消えていった......。
 
 
 
 ある夜のこと、私たちは公園で話していた。
 急に転校することになるとは、だれが想像できるのでしょうか。うつむきながら桃さんが告げた。
「急にごめんね。パパの仕事があって、遠い街に引っ越すことになったんだよ」
 わずかな夜風がふたりを包んでいた。
 彼女は今にも泣き出しそうな、そんな表情だった。
「そうなんだ......」
 私はこれだけしか口に出すことができなかった。だから、無言でその場にいるふたりを夜風が包んでいく。
 やっと桃さんは頷いた。
 でも、その表情はどこか湿っているように感じられて、その視線は私のことをよく見ていなかった。
 彼女の説明に何か物足りない印象をを感じた。だから尋ねる私の声色もどこか固くなっていた。
「ねえ、桃さんさ......」
「やっぱり、私は嘘をつけないかぁ」
 そう言って、天を仰いだ彼女はすべてを語ってくれた。
「......でも、そんなこと言ったって」
「私だって、そんなの......。仕方ないんだけど、行かなきゃいけないんだけどさあ」
「でも、君が行く必要は......」
「りっちゃんには分からないよ、私の家庭なんてさ!」
 これが、私たちが生んだはじめての言い争い。
 私がはじめて他人に楯突いたできごと。桃さんがはじめて声を上げたできごと。

 桃さんの家庭。
 その言葉を聞いて、私は言いかけた言葉を閉じてしまった。彼女はこれから身体が弱い曾祖父と一緒に過ごすのだという。
 私は何を口にすればよいのか分からない。だから、神妙な顔つきのまま目の前にいる人物を見つめるしかなかった。
 いつの間にか落ち着いていた私たちに、彼女が口を開く。
「りっちゃん、本当にクールで素敵だなぁ。こういうときくらい、泣いてくれていいんだよ」
「......ごめん、悲しいんだけど。どういう顔すればいいのかなって」
 それを聞いた桃さんは急に笑顔を作り出した。えくぼのある頬に涙が流れていった。
「じゃあ、笑ってもいいよ」
 痛いくらいに切ない喜びの表情を、満月が照らしていた......。

 私たちはひとつの約束をして、お互いの家に帰っていった。
「うさぎの世話、してくれるかなあ」
「そうだね、私がするからね」
 その月の最後の日、桃さんはひとり旅立っていった。
 きみは今、どこにいますか?



 ぼんやりと窓の外を眺めている。
 昨日から相変わらず降っていた雨は、夕方になって少しずつ小降りになってきた。
 今日は非番だから学校に行く時間があったのに、なんとなく登校する気になれなかった。私の気持ちに水が差されたのはおそらくはじめてだった。
 ここに家庭というものがあったならば、私は親に注意されて登校しただろう。
 でも、そんなことを言う人はこの家には居ない。だからこそ、私は独り立ちすることが求められているのに。
 みんなは今何をしているのかな。いつものように授業を受けてランチや放課後のティータイムを楽しむのかな。代わり映えのない日常だけど、そこに楽しさが待っていると思うんだ。
 
 "......私は何のために勉強をしているのでしょうか。"
 
 その気付きが芽生えた時、私は走らせている手を止めてしまった。
 今開いている数学の教科書は皆やっている章なのだろうか。私が今、勉強する必要はあるのだろうか。
 残りわずかな一筋の雨が窓に当たりよじれていく。まるで、私の中に不安な心が流れていくように。
 図形の問題はもともと苦手としている分野だ。
 さまざまな角度から問題を解かないといけないのに、今はその糸口さえも見つけられなかった。複雑な迷路に迷い込んだ不安は入ったきり出てくる気配はない。
 やがて見つけた出口に差し掛かると、それは涙となって瞳からあふれ出した。
 桃さんと公園で話したのも、ちょうど今頃の季節だった。
 彼女の優しい微笑みが、はっきりと私の脳裏によみがえった。
 
 "君は今、幸せ?"
 
 夢の中で言いたかったであろう言葉が、私の心にたくさんの雨を降らす。
 桃さんと一緒じゃない私はどこまでも置いてきぼりになってしまう。りっちゃんと呼ぶ声で私を呼び留めてほしかった。この世界に逝くなと呼びかけてほしかった。
 君と一緒じゃない世界は、どこまで走っても幸せじゃない。
 こんなこと言うと怒られるのかもしれないけれど、実のところは高校に受かりたくはなかった。だって、桃さんがいないのに、ひとりだけ歩みを進めても意味ない気がしていたから。
 合格発表の日、合格していながらも私はひとり頬に涙を流していた。
 涙が枯れ果てても、私はうさぎの格好で踊り続けるしかないのだろう。
 
 視界の縁に『不思議の国のアリス』のバレエ公演で買ったパンフレットがあるのが目についた。
 この作品が発表された当時、児童書というものは信仰心や道徳心を教育させる教科書的なものとして捉えられていた。特に女子教育はまだレベルが低かった。
 それが、アリスが発表されてどうなっただろうか。
 子供は自由に遊ばせるもの、わくわくする冒険で成長させるというメッセージ性が、これらの約束事から解き放った。
 しっかりと教育を受けたアリスの姿を、つよい羨望の眼差しで見ていた。
 私は、いつの間にかそんな世界に迷い込んでしまったのだろうか。現代(いま)の私も、ガールから解き放ってほしい......。
 今なら言えることがあるんだよ。
 ひとりぼっちのうさぎでも、大切な人と出会えたんだ。
 こんな私でも、恋をしたんだって。
 君に手紙を書いて伝えたいな......。
 
 
 
 月が秋の空にいざようごとく顔を覗かせている。
 私はためらうことなく、自分の中で大人に変わろうとしていた。
 遠ざかるおもかげは、新しい相手への想いに昇華されていく。
 ポーチから口紅を出した私は唇に色を付ける。はじめて自分のために、彼に魅力あふれるリツ花を見せたいために。
 桃さんと歩くんはどこか似ているんだ。だから今、彼に会いたい。
 シャープペンシルが、桃さんとお揃いのアイテムが、机から落ちるのも気づかずに部屋を飛びだして、私はサンダルを履いて無性に駆け出していった。
 
 流れ星が、見えたんだ!
 
 暗く青い空の下で、私は必死に走っている。
 見上げる空に浮かぶ星は一筋の流れを作って落ちていった。その方角へ向かって、必死に走っていく。
 さながら私はシンデレラ。
 
 しまった! 目の前で踏切の遮断機が降りようとしていた。
 慌ててしまった私は、足がよろけてサンダルが脱げてしまう。
 魔法のときめきが消えてしまうんじゃないかと思ったけれど、私は信じていたい。
 目指すべき星は、歩くんの姿は。リツ花が瞬く道しるべなのだから......。
 電車が通り過ぎる間に、急いで履き直した。
 肩が激しく上下に動いている。たくさんの息を吸っては吐いて、呼吸の乱れは落ち着いてくれない。その鼓動が彼への想いを募らせていく。
 ガラスの靴は、私だけのものなんだから。
 だから。
 
 ......絶対に、逢える気がするんです。