臆病な心。
 私の心情を例えるなら、こんな言葉になるだろう。
 店員らしくない表情のまま控室のドアの前に突っ立って、彼女らの様子を眺めている。
 バニーガールたちはシャンデリアに照らされていた。
 まるで、巣穴から出て太陽の光の下ではしゃいでいるように。
 元気いっぱいと言っているように。

 ......なにが楽しいんだろうか。
 ......こんなケージの中みたいな世界で。

 そんなことを考えていると、キッチンから声をかけられた。
「......ほら、これ3番に持って行って」
 それなら仕方ない。
 うさぎの耳飾りを直して、お盆を受け取った。
「お待たせしました。どうぞ、ご注文のジントニックになります」
 できる限りの笑顔を作ってお渡しする。
 そして、キッチンに帰りながらも様子を見てグラスを片付ける。その気遣いは私の小さい頃から磨いているスキルみたいなものでしょうか。
 キッチンに戻ろうとする最中、注文をひとつ受けた。
「君は新入りかい? ホワイトレディをくれないかな。
そう、流れるポニーテールに白い肌。君みたいに素敵なカクテルを」
「ええ、まあ......。そう言われると、......嬉しいですね」
 私は微笑を返しておくことだけにとどめた。
 来店したときから頬が赤い客だった。
 その男性は一緒に来た客と楽しく盛り上がっている。来月の流れ星が見れるかもしれないと会話しているのが聞こえた。
 酔い潰れなければ良いなと思いつつも、事件になりそうな雰囲気を感じ取った。
 不思議な世界の住人。
 このお店に来る客は、作り上げた笑顔でもいつも可笑しく笑っている。

 控室に戻ると、先輩のガールである"カレン"から小言をもらった。
 彼女は手鏡を見ながら化粧を直している。
 とりあえず頭を下げておくのが、一番年下である私のお決まり事だ。でも、彼女は特に説教をしたいという訳ではなさそうだった。
 こちらに視線を向けず、カレンが語る。
「また客引きできなかったんだって? 少しでも女を見せなきゃダメよ、上目遣いするだけでできちゃうわよ」
「......そんなこと言われましても」
 なかなか勇気のいるものだ。
 その時、控室の扉がノックされてひとつの声がかけられる。
「カレンにキャロル。またビラを配ってくれるか」
 はーい、とカレンは意気揚々に立ち上がった。私はしかめ面を作ってしまいながら、姿見の前に立ち衣装の乱れが無いかをチェックする。
 
 バーへの階段を登り、地上へと上がる。
 視線の先に冷たい夜空が広がっていた。
「星、かぁ」
 などと小さくつぶやいてみる。
 そういえば、うさぎは巣穴から空を見上げる生き物だろうなと思った。
 だから、私も流れ星を見てみたい。そのきらめきを、この目で追いかけてみたい。
 何度目のビラ配りだろうか。
 何度も何度もできなかった、私の小さな仕事。
 
 今日、この日が。
 私の人生に手を差し伸べてくれるなんて思いもしなかった......。

 ・・・

 その日、塾で帰りが遅くなった僕は駅に向けて走っていた。
 すでに、もう大人しか外出しないような時間帯だった。
 駅と隣接した商業ビルを中心としたエリアは高校生にとっては唯一の娯楽だ。映画館や小さなホール、プチプラ的なファッション店などが並んでいる。
 しかし、そこから離れて一歩奥に入ってしまうと、飲み屋のチェーンが並び大人が通うようなお店があったりする。
 良くも悪くも賑やかな街。
 それがこの街の顔だ、親にも先生にも行かないようにと注意されたことがあった。
 そんなことを思い出しながら、大人の繁華街を通り抜けていた。
 
 目の前ではバーの従業員だろう、うさぎの格好をしている女性がチラシを配っている。バニーガールっていうやつだ。
「お願いしますー!」
 と声を張って呼び込みをかけている。
 寒いのに大変だなあ、それくらいの感想しか持たなかった。もちろん僕も受け取るつもりはないので、前をすぐ通り抜けようとする。
 僕の視線に腕を伸ばすガールの姿......。
 だけども、彼女はチラシを差し出したまま硬直していた。
 なぜだろう? 僕は足を止めて顔を上げる。
 高月 リツ花がここにいた。
 髪をポニーテールの姿に結っていても、高月の顔は瞼の裏にしっかりと覚えているのだから気づかないわけがない。
 お互いに目大きく開いて顔を見てしまう。
 
 いつもと違う、化粧(いろ)のついた顔。
 波立つように揺れる瞳。
 
 艶やかなリップが小さく震えて、一言だけつぶやいた。
「......朝倉くん、どうして」
 それだけ言い残して、高月はお店に引き込んでいった。
 彼女の衣装はシンプルな黒のバニーガールのドレスだった。
 黒という色は、すべてを塗りつぶしてしまう色とされている。あまりの出会いに心を塗りつぶされてしまった僕は、その場に立ち尽くしていた。



 それからしばらく経った日。
 高月は学校にもうさぎ小屋にも登校しなくなっていた。
 僕はなんとなく、うさぎの世話をすることにした。うさぎは相変わらず横になっている。
 ちょっとだけ撫でてみようかな、そう思って近づいてみた。だけども、うさぎは鼻をふんふん鳴らしている。また何かの病気になったのだろうか。
 困り果てた僕に、見知った声が聞こえてきた。
「君の匂いに慣れていないんだよ......。不機嫌だって、鼻を鳴らして音を出しているの」
 振り返ると、小屋の外に彼女が居た。
 セーラー服の上からカーディガンを羽織っている姿は見慣れているはずなのに、なんだか別人のような雰囲気をしていた。
「......久しぶり」
「......うん」
 お互いに顔を背けてしまった。
 それ以外の言葉を生み出すことはできず、沈黙がふたりを包む。左手で右腕をつかんでいる高月は少しうつむいたまま、声をかけてくれた。
「少し、時間ありますか?」



 こうして僕たちは駅前のカフェチェーンに移った。
 ここなら他のクラスメイトに話を聞かれる心配はないだろう。その提案に、高月もすぐ受け入れてくれた。
 だけども、お互いに顔は合わせないまま。改めて表情を覗いてみるとなんだか疲れているようだった。
「......見られちゃった、か。ちゃんと話そうと思ったけど、なかなか時間取れないし気持ちが整理できなくて」
 僕は視線を彼女の方へ向けた。
 ちゃんと話を聞いてあげよう、その気持ちをもって。
「私、"キャロル"って言う名前なんです......。そう、あのお店での名前」
 源氏名。
 風俗店でもあるまいし、あんな従業員にも付けられているのは不思議だった。
 でも、こちらから声を出すことはなんだかはばかられてしまって、話を聞くことしかできなかった。
「私、横浜で産まれたんだよ」
 その話は知らないから、無言のまま首を横に振る。
「そっか、誰にも話していなかったっけ......。小学校に上がるときに、この街に引っ越してきたの。でも、お父さんが亡くなっちゃって......」
 不慮の事故に遭ってしまったのだという。
「......その何日か前のことだったんだけど、"バレエの公演を見に行こう"なんて言ってくれたんだ。そうだったのに、バレエを観に行く日がお葬式に重なっちゃってね」
 僕は小さく頷いた。
「......ロシアのバレエ学校に行きたいなんて言ってたのは懐かしいなあ」
 小学生になったばかりという年に、心に傷を負ってしまった。
 その悲劇は計り知れないものだろう。
 バレリーナというものは、特にロシアでは国家の象徴ともされている。
 養成学校に通い、国家試験に合格してはじめて職業としての道が開ける。さらに努力を積み重ね、スポットライトを浴びて成長していく。
 特にトップダンサーを<プリンシパル>という。これは男女問わずに主役を踊ることのできる実力と華やかを持っていないといけない。
 いつの時代も羨望の花形だ。
「バレリーナに合格していたら、役の名前をもらえたのに。まさかこんな名前をもらえるなんて思いもしなかった......」
 高月は力なく微笑んだ。
 バレエの公演を見に行ったのは、彼女が好きだったから。
 僕にとっては小さい出来事であっても、彼女にとっては小さい頃からの夢を叶える大きな一歩だったんだ。
「たまに夢を見てしまうことがあります。もしも引っ越しをしてなかったら、もしも父が事故に遭わなかったら、って......」
 それは悲しき願望。
 でも、家族二人暮らしというのは、なかなか大変じゃないだろうか。高月は力なく首を横に振る。
「お母さんはフリーのデザイナーだったかな? 新しく仕事を決めて自分を育ててくれたんだ」
 僕はうなずきながら聞いている。
「だけど、いつの頃からか人が変わったようになって......。会社に行く日も減っていったの。私が高校に入りだした頃だったと思うんだけど、"自分の分は自分で稼ぎなさい"って言ってくるようになって、いつの間にかあのバーと話をつけてきちゃった。もちろん、誰にも話していないことだよ」
 彼女はここまで言うと、緊張を出し切るように一息ついた。
 青白い顔から、青い吐息が出ていそうだった。
 
 高月 リツ花の告白は重い現実だった。