季節外れの蝉時雨が聞こえる。
それはどこから聞こえてくるのだろうか、私はそちらに耳を傾けもせずテラス席から目の前に浮かぶ風景を見ていた。
海が風を産み出している。
運ばれた湿った空気が、私の長い髪を、左腕のスカーフを撫でた。
今日は季節がひっくり返ったような暑い日だった。
ここで、ギンガムチェックのエプロンをつけた店員がコーヒーをテーブルの上に置いてくれた。
「夏でもホットなんてお洒落ですね」
なんてお世辞を言ってくれても、私は会釈をしながら視線を海に戻した。
流れているBGMはビートルズだ。ひとつの曲が終わり、私の好きな<イン・マイ・ライフ>が再生されたところだ。
この曲は幼少期を連想させる歌詞になっていて、はじめて自身の人生についてテーマにしたという話が眠っている。
私も少し瞑想してみよう......。
ここは、横浜の小さなカフェ。
小さく波が繰り返し生まれては消える。
微笑ましい景色を見ながら、コーヒーを一口飲んだ。
喉を流れる熱く甘い味が、私の幼少の記憶を温めてくれる。
私が小さい頃に住んでいたのは、横浜の隅にある小さな住宅街だった。
かすかに海の香りが届く街はいつも風が泳いでいて、エアコンが無くても気持ち良かったと言っていたらしい。本当だろうか。
少しドライブをすれば海に行くことができたという。休みの日になると、サンドイッチを作ってよく出掛けていったそうだ。
このカフェみたいにお洒落なスポットはないものの、ちゃぷんと波打つだけの景色でも私の心はとても楽しかった。
本当はそちらを訪れるつもりだったけれど、BGMに興味を覚えた私は吸い寄せられるように入っていった。
波音はいつも繰り返し揺れているのに、私の心にある振り子はいつの間にか動かなくなっていた。
私が覚えているいちばん古い記憶は、父親に手を引かれて縁日の中を歩いているシーンだった。
小さくて、華奢で、可愛くて。そう表現された私はよく親の後ろにぴったりとくっついていた。
とても小さい記憶を、クラスメイトが思い出させてくれた。それは私の中でもきらめいていて、なんだか嬉しかった。
また縁日に行くことはかなわない。父親は雲の上に、二度と帰らない旅に出てしまったから。
そんな父親の影響は今の私にも強く残っている。
普段からビートルズを聴くのも、英語で書かれた歌詞を追うのも。いつの間にか歌詞を眺めながら辞書を引くようになった。
それがあったからこそ私は英語の教科に興味を持つようになった。今でも自信をもって言える、私の好きな教科だ。
だけども、父親が居なくなってしまった出来事は、とてもシンプルではあるが私の心に小さなくさびを打ち込んだ。その傷は家庭の中で広がりどんどん大きくなっていった。
忘れ得ぬ存在に置いて行かれた私は、ひとりぼっちの世界にたたずむ日々をすごしている。
命日が近くなった日に海を見たくなったんだ。
風に乗って、一匹のかもめが空を飛んでいた。
喜びと悲しみを空に解き放ってみると、それは私の進むべき道しるべのような気がして思わずそちらに向けて手を伸ばしてみる。
私にも翼があれば良いのだろうか。
でも、一瞬で気づいてしまった。
かもめが飛ぶ先は、ただの海の上だった。海の上なんて歩けるはずがない。......別に死にたいわけじゃないのに、何を思ってしまったんだろう。
予定も事情もすべて棄てて、自由になりたかったのかもしれない。
腕に巻いているスカーフが目についた。
ファッションに詳しくなくてもこんなの実在しないのは分かるだろう。ましてや黒い色だ。黒は私の心を鎮める色。鎮魂の感情を込めて腕に巻くものは、喪章のことだ。
今日は、告げておきたいことがあるから、あえてスカーフを身に着けた。
「お父さんとやりたかったこと、ついに叶えることができたんだ」
きらきら光る空を見上げて、私は小さくつぶやいた。
最大級のホールで行われるバレエとなれば、振付師や音楽、それにキャストのクレジットが並ぶものだ。それが豪華であるかどうかが作品の良さを物語る。
小さい公演だから全くそんなことはなかったが、とにかく私が満足できたのだから。
今でも目をつぶれば、公演のストーリーを思い出せる。
アリスは川辺の土手で読書中の姉の傍で退屈を感じながら座っていた。すると、白うさぎが、通りかかる。
興味を覚えたアリスは白うさぎを追いかけているうちに穴に落ちてしまう。
着いた場所は空間になっていて、辺りを見渡してみると森の中であることが分かる。
"こんなところ、わたしの住んでいる景色にはなかったものだわ......"
森の中を彷徨っているうちに、池に落ちてしまった。
そこに現れたリデルに助けてもらった。
白うさぎに誘われ不思議の国の奥深くへ。
そこではお茶会が開かれていた。「お誕生日じゃない日の歌 -The Unbirthday Song-」を歌い少しずつふたりの距離が縮んでいく。
淡い恋心をつのらせるアリス。
だが、ふとしたところから懐中時計を壊してしまった。
懐中時計を直そうと森の中で旅をするのだが、いつの間にか女王のお屋敷の中に入ってしまった。ふと、そこにあったタルトを食べてしまう。
不法侵入の罪でリデルはつかまってしまう。
女王の前で裁判が始まろうとしていた。
不思議の国の住人の証言は揃ってキャロルに不利なものばかり。
アリスだけは彼を弁護するも、城内は大混乱に陥ってしまう......。
リデルを助けるために、アリスの冒険が始まる。
原作とはだいぶ異なるシナリオだ。
でも、次から次へと何が起こるんだろうと、私はわくわくが止まらなかった。
文学の世界とは全く違う、ここだけの舞台。どこかふわりと浮かび上がるような感覚に迷い込んでいた。
それでいて、いつしか私の心の中に温かい気持ちが芽生えていた。
リデルを助けようとするアリスの気持ち。
それは相手を想うことに他ならない、いつでもそばにいてほしいから生まれる大切な願い......。
恋と呼ばれるそれは、いつから生まれていたんだろう。
コーヒーに付け合わせのチョコをかちりと噛んだ。
それは洋酒の香りが漂うもので、不思議とコーヒーの香りと引き立て合っていた。
今の私を、用事に追われる私を見たらなんて言うだろう。
父も、友だちも。
本当のことを言うとね。友だちを作るのが怖かったんだよ。
もともと自分から話すのが下手だった。でも、それ以上に今の私を知ってもらうのが怖くて。
少しずつみんなと打ち解けている中、少しずつ怖さも感じているんだ......。
ひとりぼっちだけど、孤独じゃないと心のどこかで願っていたい。
死んでしまった人たち、元気でいる人たち。私はそのみんなを愛しています。
ユリの花を海にそっと入れると、波がそれを静かに掬っていく......。
もう、夏はゆく。
それはどこから聞こえてくるのだろうか、私はそちらに耳を傾けもせずテラス席から目の前に浮かぶ風景を見ていた。
海が風を産み出している。
運ばれた湿った空気が、私の長い髪を、左腕のスカーフを撫でた。
今日は季節がひっくり返ったような暑い日だった。
ここで、ギンガムチェックのエプロンをつけた店員がコーヒーをテーブルの上に置いてくれた。
「夏でもホットなんてお洒落ですね」
なんてお世辞を言ってくれても、私は会釈をしながら視線を海に戻した。
流れているBGMはビートルズだ。ひとつの曲が終わり、私の好きな<イン・マイ・ライフ>が再生されたところだ。
この曲は幼少期を連想させる歌詞になっていて、はじめて自身の人生についてテーマにしたという話が眠っている。
私も少し瞑想してみよう......。
ここは、横浜の小さなカフェ。
小さく波が繰り返し生まれては消える。
微笑ましい景色を見ながら、コーヒーを一口飲んだ。
喉を流れる熱く甘い味が、私の幼少の記憶を温めてくれる。
私が小さい頃に住んでいたのは、横浜の隅にある小さな住宅街だった。
かすかに海の香りが届く街はいつも風が泳いでいて、エアコンが無くても気持ち良かったと言っていたらしい。本当だろうか。
少しドライブをすれば海に行くことができたという。休みの日になると、サンドイッチを作ってよく出掛けていったそうだ。
このカフェみたいにお洒落なスポットはないものの、ちゃぷんと波打つだけの景色でも私の心はとても楽しかった。
本当はそちらを訪れるつもりだったけれど、BGMに興味を覚えた私は吸い寄せられるように入っていった。
波音はいつも繰り返し揺れているのに、私の心にある振り子はいつの間にか動かなくなっていた。
私が覚えているいちばん古い記憶は、父親に手を引かれて縁日の中を歩いているシーンだった。
小さくて、華奢で、可愛くて。そう表現された私はよく親の後ろにぴったりとくっついていた。
とても小さい記憶を、クラスメイトが思い出させてくれた。それは私の中でもきらめいていて、なんだか嬉しかった。
また縁日に行くことはかなわない。父親は雲の上に、二度と帰らない旅に出てしまったから。
そんな父親の影響は今の私にも強く残っている。
普段からビートルズを聴くのも、英語で書かれた歌詞を追うのも。いつの間にか歌詞を眺めながら辞書を引くようになった。
それがあったからこそ私は英語の教科に興味を持つようになった。今でも自信をもって言える、私の好きな教科だ。
だけども、父親が居なくなってしまった出来事は、とてもシンプルではあるが私の心に小さなくさびを打ち込んだ。その傷は家庭の中で広がりどんどん大きくなっていった。
忘れ得ぬ存在に置いて行かれた私は、ひとりぼっちの世界にたたずむ日々をすごしている。
命日が近くなった日に海を見たくなったんだ。
風に乗って、一匹のかもめが空を飛んでいた。
喜びと悲しみを空に解き放ってみると、それは私の進むべき道しるべのような気がして思わずそちらに向けて手を伸ばしてみる。
私にも翼があれば良いのだろうか。
でも、一瞬で気づいてしまった。
かもめが飛ぶ先は、ただの海の上だった。海の上なんて歩けるはずがない。......別に死にたいわけじゃないのに、何を思ってしまったんだろう。
予定も事情もすべて棄てて、自由になりたかったのかもしれない。
腕に巻いているスカーフが目についた。
ファッションに詳しくなくてもこんなの実在しないのは分かるだろう。ましてや黒い色だ。黒は私の心を鎮める色。鎮魂の感情を込めて腕に巻くものは、喪章のことだ。
今日は、告げておきたいことがあるから、あえてスカーフを身に着けた。
「お父さんとやりたかったこと、ついに叶えることができたんだ」
きらきら光る空を見上げて、私は小さくつぶやいた。
最大級のホールで行われるバレエとなれば、振付師や音楽、それにキャストのクレジットが並ぶものだ。それが豪華であるかどうかが作品の良さを物語る。
小さい公演だから全くそんなことはなかったが、とにかく私が満足できたのだから。
今でも目をつぶれば、公演のストーリーを思い出せる。
アリスは川辺の土手で読書中の姉の傍で退屈を感じながら座っていた。すると、白うさぎが、通りかかる。
興味を覚えたアリスは白うさぎを追いかけているうちに穴に落ちてしまう。
着いた場所は空間になっていて、辺りを見渡してみると森の中であることが分かる。
"こんなところ、わたしの住んでいる景色にはなかったものだわ......"
森の中を彷徨っているうちに、池に落ちてしまった。
そこに現れたリデルに助けてもらった。
白うさぎに誘われ不思議の国の奥深くへ。
そこではお茶会が開かれていた。「お誕生日じゃない日の歌 -The Unbirthday Song-」を歌い少しずつふたりの距離が縮んでいく。
淡い恋心をつのらせるアリス。
だが、ふとしたところから懐中時計を壊してしまった。
懐中時計を直そうと森の中で旅をするのだが、いつの間にか女王のお屋敷の中に入ってしまった。ふと、そこにあったタルトを食べてしまう。
不法侵入の罪でリデルはつかまってしまう。
女王の前で裁判が始まろうとしていた。
不思議の国の住人の証言は揃ってキャロルに不利なものばかり。
アリスだけは彼を弁護するも、城内は大混乱に陥ってしまう......。
リデルを助けるために、アリスの冒険が始まる。
原作とはだいぶ異なるシナリオだ。
でも、次から次へと何が起こるんだろうと、私はわくわくが止まらなかった。
文学の世界とは全く違う、ここだけの舞台。どこかふわりと浮かび上がるような感覚に迷い込んでいた。
それでいて、いつしか私の心の中に温かい気持ちが芽生えていた。
リデルを助けようとするアリスの気持ち。
それは相手を想うことに他ならない、いつでもそばにいてほしいから生まれる大切な願い......。
恋と呼ばれるそれは、いつから生まれていたんだろう。
コーヒーに付け合わせのチョコをかちりと噛んだ。
それは洋酒の香りが漂うもので、不思議とコーヒーの香りと引き立て合っていた。
今の私を、用事に追われる私を見たらなんて言うだろう。
父も、友だちも。
本当のことを言うとね。友だちを作るのが怖かったんだよ。
もともと自分から話すのが下手だった。でも、それ以上に今の私を知ってもらうのが怖くて。
少しずつみんなと打ち解けている中、少しずつ怖さも感じているんだ......。
ひとりぼっちだけど、孤独じゃないと心のどこかで願っていたい。
死んでしまった人たち、元気でいる人たち。私はそのみんなを愛しています。
ユリの花を海にそっと入れると、波がそれを静かに掬っていく......。
もう、夏はゆく。