朝ご飯にパンをかじりながら、横目でニュースを見ていた。
「涼しくなってきた時期だから、体温調節に注意しましょう。夏場に慣れてしまった体が秋の涼しさについていけなくなり、体調を崩してしまうことがあります」
 お天気キャスターの明るい声色が流れている。
 だいぶ涼しくなってきた季節だ。蝉の鳴き声を聞くことは減ってきていて、三寒四温みたいな不思議な気温変化をしている。
(あゆむ)、上着でも出していく?」
 母親に声をかけられた。これからの気温を考えると出した方が良さそうだ。ウインドブレーカーのありかを思い出しながら登校の準備を始めることにした。



 窓際の席に座るべき人物は今日は登校していないようで、居なかった。
 いつも空いている窓から入ってくる風は高月の髪をとかしている。
 授業中は誰よりも真面目に授業を受けて。ランチには咲良と林と静かでも楽しそうにしている。しきりに目が行く女の子、なぜかそんな風に思っていた。
 その光景を見られなくても、授業も日常も進んでいく。それに馴染んでしまうのがなんだか寂しかった。
 
 高月 リツ花についてどれくらい知っているだろうかという話題になったとき。
 僕はひとつだけ挙げられることがある。
 それがうさぎなのだが、発言してしまうのもなんだかはばかられてしまう気もする。彼女がひとりでコツコツと進めていることだから。
 放課後のうさぎ小屋に来ると高月に会える。
 世話をしているときの彼女は、まるで別人のように優しい顔をしているのだ。ただ会話もなく会釈をするだけでも、その時間は僕だけが知っている秘密の癒しだ。
 
 
 
 それからしばらくした日、高月との距離が縮まることになるなんて思いもしなかった。
 下校するときに、少しうさぎ小屋の様子をうかがってみる。
 高月がいつものようにうさぎを撫でているところだった。
「......ねえ」
 彼女はぽつりとつぶやいた。
 僕は相変わらず彼女の姿を見ているだけで、なにも返事するつもりはなかった。
「......ねえ」
 高月は重ねてつぶやいた。
 それは僕に向けて話しかけているのだと気づくまでに時間がかかってしまった。
「なにかな?」
 僕は小屋に近づいていった。すると、彼女は素早く扉を開けて自分を小屋に招き入れた。
 左手に彼女の白い手が触れている。温かさによって緊張をよそに、彼女は涼し気に教えてくれた。
「この子、あんまり餌を食べていないんだよ」
 僕は首をかしげる。
「今日はお腹いっぱいなんじゃないのかな?」
「ちがうよ。いつも同じ量を与えて、この子は全部食べきるの」
 そう言われても、僕は飼育係なんてやったことがない。それにペットを飼った経験もないからなんて言えば良いのか分からなかった。
「うさぎに味の好みってあったりするの? もう飽きちゃったとか」
「たしかに、いつもと違うペレットをあげても食べないという意見はありますが、飽きることはないと思います。かといってにんじんを持ってくるのも難しいですし......」
 思いつきの意見は、当たっているのか当たっていないのか微妙なところだ。ちなみに、にんじんを与える場合はよく洗って水気を切らないといけないらしい。
 さて、どうしたものか。
「今日のこの子、様子が変なんですよ......」
 高月がそう言ったときだ。小さなくしゃみが聞こえた。なんのことだか分からず、お互いに顔を見合わせてしまう。
 私じゃないよ、って高月が小さく首を横に振る。
 僕はうさぎに目を落とす。なんだか、ぐったりしているような気がしたのは気のせいだろうか。そこまで考えて朝のニュースが脳裏に思い浮かんだ。
「......体壊したんじゃない?」
 高月の驚いた顔を見るまでもなく、僕は小屋の外に飛び出した。
 外に置いてあった鞄の中からスポーツ飲料を持ってくる。たまたま今日持っていたやつだ。少しずつうさぎの口元に垂らしていった。
 彼女はじっと様子を伺っている。
 心配しているよ、そういう気持ちが僕にもしっかり届いていた。
 だから僕も安心して対応できているんだ。
「スマホ持ってる?」
 僕は高月に聞いてみた。しかしながら、彼女は顔を横に振ってしまった。仕方なく、僕は自分のスマホを出して近くにある獣医を探すことにした。
「あったよ! 裏門から大通りに出て、右手に行くんだって」

 高月は反射的にうさぎを抱えて走り出していた。
 一瞬しか見えていなかったけれど、彼女の表情を僕の瞳はしっかりと捉えていた。
 
 誰よりも愛に満ち溢れている。
 凛としていて、美しい......。
 
 僕はその姿をしっかりと目に焼き付けた。
 当然のことながら、僕も彼女の後を追う。彼女の走りが早いのには驚いたけれど、僕はなんとか足並みを揃えた。
 ......きっとだいじょうぶだよ。
 高月はそう声をかけている。その台詞は、絶対に助けたいという願いが込められている魔法のように思えたんだ。

 僕は大急ぎで動物病院のガラス扉を開けた。
 高月が受付に手短に事情を説明すると、すぐ施術室に通してもらえた。
 ふたりは、しばらく出てこなかった。どれくらいの時間が経ったのだろうか、高月がひとり出てきた。彼女は胸の前で軽く手を握り締めていた。
「......もう」
 もう?
「もう、だいじょうぶだって」
 その言葉を聞いた瞬間、緊張の糸がほどけてしまった。力なくその場にしゃがみ込んでしまう。
「......椅子に座れば良いのに」
 高月は首をかしげて涼し気に言った。まったく、"もう"で言葉を区切らないでほしいな。
 彼女はそんなことを全く気付かずに中での状況を教えてくれた。
「先生がね、"発見が早くてよかった"って言ってくれたんだ。たしか、スナッフルっていう鼻の病気だって。念のためスポーツ飲料とか飲ませたって説明したら褒めてくれたよ」
 はじめて見る、はにかんだような表情を見せてくれた。



 今日はうさぎを預けてお暇することにした。
 受付では看護師さんと高月が応対している。
「......はい、施術代ですね。この値段ですか、あいにく持ち合わせがなくって。
後日必ずお持ちします。高月の名前でお願いします」
 彼女はそう言って軽く頭を下げていた。
 僕は、その様子を待合室の椅子から眺めている。なんだか、社会人のような立派な姿だった。

 病院の扉を開けると、視線の先には夕陽のきらめきが眩しく広がっていた。
 黄金色の昼下がりは安堵するような気持ちをもたらしてくれる。ふたりで学校まで戻る足並みは、まるでのんびりと泳ぐ舟のようだ。
「私、病院の先生に色々言われたんだ」
 実際、うさぎの人気は少しずつ上がっているという。
 おとなしい姿に興味をもつ人が多いが、最後まで飼うことができるかどうかが飼い主に問われる。
 怪我がないこと、餌を十分にあたえること。そして何より病気をしないことだ。
 一節にはうさぎは病気を隠そうとする習性があるようだ。普段から様子を見て、できるだけ早く異常に気付いて対処してあげないといけない。日常からのケアが大切で、人間と同じように健康診断だって必要なのだ。
 以前彼女も言っていたが、適切な温度調整をしなければいけない。夏は涼しく冬は暖かくして適温を保ち、風通しの良い空間を作らないといけない。
 小屋のうさぎにどこまで出来ているだろうか。
 ちなみに、鳴き声をあげないのは有名な話だ。その分、五感を常に働かせながら生活している。
 もちろん犬のような芸当はできないものの、怒ったり寂しがったりとっても豊かな感情を見せてくれるという。
 もしかしたら、彼女には慣れていて嬉しそうにしているのだろう。
 高月に名前を呼ばれたうさぎが振り返って、駆け込んでくるシーンを想像してみる。
「だから、覚悟と責任が必要なんだなって改めて実感しました」

 実際、誰もいないうさぎ小屋は寂しかった。その光景を見ながら、高月は小さくつぶやいた。
「私、泣いてたかもしれない」
 となりに並んでいる彼女が言った。
「君が一緒じゃなかったら、ひとりで泣いてたかもしれない」
 僕は黙って聞いている。
 表情は相変わらずクールだけど、内心は同世代の少女そのものだった。優しさを見せるひと時だなって思った。
「君のおかげだよ、ありがとう」
 僕は思わず高月の横顔を見た。夕陽に照らされている頬が、いつもに増して赤く染まっていたからだ。かわいくて、何よりも美しく輝いているみたいだった。まるで、作品の中でしか出会えないアリスが実在したみたいに。
 高月 リツ花に恋した気持ちは、ただのたわいもない話なのかもしれない。この手でしまっておきたかった。思い出は、神秘な絆の中に入れたかった......。
 僕はこの日を忘れないだろう。



 うさぎ小屋を後にして、いつものように帰り道を一緒に歩く。
 なにも話すことはなかったけれど、僕はほのかにうれしく思っていた。
 はじめて感じた気持ちが気恥ずかしさをわずらわせてしまう。
 落とした視線の先に延びる影は、まるでふたりが寄り添っているように見えてしまって、自分の気持ちが色濃く残ってしまう。
「ここでいいよ」
 高月に声をかけられて、僕は顔を上げた。
 そこは駅の改札で、気づけばふたりだけの時間はもうおしまいだった。
 僕は思わず手を振る。
 彼女も少し微笑んで、手のひらを返してくれた。
「......えっと」
 僕は声をかけようとしてつかえてしまった。なにも言うことができなかった。

 うさぎのことを思い出していた。
 動物病院でひとり待っていた僕に、受付の女性が語ってくれたことがあった。
「あのうさちゃん、けっこうなお年なのね。私だって見ればわかるわ」
 僕も、あのうさぎがいつから飼われているか知らない。だから、そうなんですねと言うしかなかった。
「......お嬢ちゃんには秘密にしてあげてね。そして、たくさん可愛がってあげてね」
 なんだか切ない秘密だった。

 高月は微笑んだ表情のままこちらを見ている。
 でも、彼女に知られるわけにはいかない。僕はそのまま口を閉じるしかなかった。
「......ごめん、ないんでもないんだ」
「そっか」
 彼女はそのまま駅を進んでいった。
 僕はなぜかこの場所から動けなかった。高月の残り香は解けない魔法みたいだった。
 それは洋酒の香りのように、深い夜を感じさせる。
 僕が知ることのないものだったんだ。
 
 恋した気持ちは、これからも伝えることができないのだろうか。