狐の体が力をうしない地に落ちた。
 ずる、と剣を抜く中佐は自分の首を押さえ痛みに顔をしかめる。手からあふれる血が軍服の襟を濡らしていくが、急所は外れたか。

「かあ……さ……」

 がくがくふるえながら遥香が駆け寄った。天音は弱々しく「きゅう」と鳴く。すがりつく遥香は耳もとでささやいた。

「私はだいじょうぶ。母さん、すぐ手当てしようね、一緒に、稲荷へ帰ろう」

 必死でほほえみながら言う遥香に狐は笑い返したのか、すり、と頬を寄せる。だが。
 ――それきり、天音はかくりと動かなくなった。

 中佐に緋い炎の剣を突きつけて牽制しながら、彰良は一部始終を見ていた。
 遥香の背が大きくふるえる。
 母を抱きしめた手の下から蒼い光があふれる。
 天音は蒼く白い光になり、舞い上がった。だが光の粒は娘のまわりをたゆたって離れない。ずっと愛していた。そう伝えるかのように。

「かあさん――」

 光をまとって立ち上がった遥香は、大きく息を吸った。
 天音だった光がチカリと遥香の中へ消える。

 ――――ザンッ!

 遥香の体から緋い陽炎が立った。
 その衝撃で後ろに結わえていただけの髪がほどけ、風にゆれる。天音の血に汚れた着物もふわりとはためくが、その風は遥香自身から吹いているようだった。

「遥香――!」

 驚いて彰良が呼んだ声は耳に届いていないのかもしれない。遥香は悲しみに見開いた瞳もうつろに、うつむきがちに立っていた。
 スウ。
 軽く上げる腕。
 クン、と手のひらを開くと、風とともに狐火が燃え、増える。

 緋い。緋い狐火。
 母のものとそっくりな。
 彰良の剣がまとう炎にも似た。
 火は遥香の呼吸に合わせ大きく小さくゆれている。
 そして。
 狐火が八方に走った。

「――ッ!」

 彰良にも襲いかかったその炎を剣で受けた。斬られた狐火が体の左右を過ぎ、消える。

「ぐうっ!」
「わ、わわぁっ!」
「ぎゃああっ!」

 うめき声は中佐だった。腹に当たった火で軍服が燃え上がる。転げ回っても消えず、よろよろと池に走っていった。
 あわてた悲鳴は豆腐に閉じ込められた悟と術師たちの方だ。乾いた豆腐に火がついていて、このままでは焼け死ぬ。
 だが助けるどころではなかった。遥香は我を忘れている。新しい狐火が次々に生まれ、乱舞していた。斬っても斬ってもきりがなく、遥香をどうにかしなければ終わらないのだ。

「遥香――!」

 彰良の剣では駄目だ。
 緋い炎の剣は遥香の狐火と同じ。何もかもを焼き尽くす憎しみの火には遥香の怒りを清めることができない。

 遥香の口づけがほしい。
 ふるえる吐息。彰良をやさしく包むほほえみ。
 いつくしむ蒼い光をくれていた遥香は今、怒りの炎に染まってしまった。彰良の目に焦りが浮かぶ。

 ――だが、遥香の想いを最後にもらったのは実はついさっきではなかったか。
 窓越しに遥香の唇をなぞった指。
 かかった吐息を彰良はついばんでいた。
 思い出し、彰良は自分の手に口を寄せる。遥香から受け取っていた祈りを吹き込むために。

「――!」

 炎が蒼をまとい、紫に変わった。
 振り回すと、かすっただけで狐火がふわりと消えていく。これならば遥香の元まで行けるか。

 狐火のつむじ風の真ん中に立ち尽くす遥香の目はぼうぜんとして何も映していなかった。そこに涙はない。もう涙など流れないほどの絶望。
 だから剣で斬るのは、遥香ではない。
 遥香に憑いた悲しみを斬り、祓う。天音を奪われた怒りにより生まれた緋の陽炎を清めるのだ。
 狐火をかいくぐった彰良は叫ぶ。

「遥香――ッ!」

 微動だにせず狐火をあやつる遥香の背ギリギリで陽炎を叩き斬った。
 遥香ががくりと前にのめる。
 片腕に受けとめれば、燃えていた狐火も陽炎も白く尽きていく。やったか。

 ――そこに、背後から(しゅ)を感じた。

「くっ!」
 
 とっさにふり返り、剣で受ける。紫の炎を消し、シュウと張りついたのは呪符。
 魔物にとどめを刺すためのその呪を放ったのは、火傷と怪我でボロボロになった芳川中佐だった。こちらを見る目が血走り、口がゆがんでいる。
 爺さま。
 呪で狙ったのは彰良か、遥香か。どちらにしても。
 そんなに殺したいか。遠峰を呼ぶという目的のためならば見境はないのか。

 俺たちは、ただ寄りそっていたいだけなのに。

 不思議なことに彰良の心は凪いだ。
 もういい。
 縛られていた芳川の家と自分がぷっつり切り離され、どこへでも行ける気がした。
 つむったまぶたの裏に映るのは、知らない山の頂――――。

 オオォ――ン!

 その咆哮は自然と喉からあふれた。
 ――そして、庭に雷が落ちた。



 視界を真っ白に灼いた雷の後、立っていたのは彰良だけだった。その腕に支えられてくったりしていた遥香がフウと息をして、彰良は小さく笑む。
 うっすら目を開ける遥香のまなざしが彰良をとらえた。ごく近くにあった顔に驚いて息をのんだ遥香は、すぐに今までのことを思い出し頰を硬くする。

「あき、ら……さん」
「遥香」

 彰良がほほえんでみせても駄目だ。遥香は腕を振り払うようにして自分の足で立つ。
 よろけながら見回した屋敷の庭はひどいものだった。
 あちこち焼け焦げていた。そして折れた庭木。崩れた石灯籠。
 火にまかれた術師に生きている者はいるのか。豆腐はもう消えて、男たちが伏していた。庭の真ん中でばったり倒れる芳川中佐は、雷に打たれていた。
 狐火をあやつっていた間、遥香は我を忘れていた。でも自分のした事は思い出せる。

 死にゆく天音から受け継いだ想い、記憶、そして力。妖狐としての何もかも。
 今の遥香は前よりももっと、狐だ。

「――彰良さん」

 すぐ後ろにいる彰良のことをふり向かないようにして、遥香は言った。

「私――もう魔物になりました。祓ってくれますか、あなたの手で」
「遥香」

 つぶやかれ、彰良はぐいと肩をつかみ遥香をふり向かせる。その頰には寂しげなほほえみが浮かんでいて、そしてぽろぽろこぼれる涙にぬれていた。
 愛おしい泣き顔。なのに言われたことは、この上なく残酷で。そして彰良も絶望の中でうめく。

「馬鹿を言うな――俺だって、魔物だ」

 告げられて遥香が目を見開いた。そういえば、雷を呼んだ遠吠えは――。

 遥香と彰良は見つめ合い立ち尽くす。
 その庭を囲む筑地塀の外から、人々の騒ぎ怒鳴る声が聞こえてきた。到着したのは警視庁の巡査か、それとも陸軍。ここが芳川連隊の長の屋敷とわかっているだろうから。
 この惨状の後始末、どうつければいい。
 そして何より、半妖二人の始末を。




 連隊長、芳川高聡は雷に打たれ死んだ。息子の悟も、芳川家が育てていた術師三人も怪異とたたかい力尽きた。
 あの日の庭園にいて生き残ったのは、瀕死の火傷から回復した術師一人と、彰良、そして遥香だけ。
 芳川の屋敷は魔物に襲われたという結論で処理された。何かしらの恨みで妖狐があらわれ、狐火をあやつり雷雲を生んだ、と。
 それはあるていど正しい。だから部外者に対してはそれでいいのだ。特殊方技部の職責の延長での襲撃だったとして、皆殉職扱いとなった。
 世に妖狐という存在が論じられることはなく、うわさはすぐにもみ消された。
 帝都の真ん中で起きた怪異による事件とあり内務省も軍部も色めき立ったが、被害は芳川屋敷の中にとどまっており大ごとにはされなかった。
 中佐が言っていたとおり、政府は腰が重いのだった。