そして天音は芳川中佐に目をやる。言い渡す声は冷ややかだった。
「遠峰をどうにかしたくて私を使おうとするのは見当違いね。私は遠峰のことを憎んではいない。あの狼は山に近づかなければ何もしてこないし、むやみに怖れるものではないの」
「ほうほう」
中佐は薄ら笑いでうなずいた。
「人里を海まで逃げた狐の言うことは違うのう。人間の夫に出会ったきっかけでもあるのだし、遠峰には感謝しとるか」
「父さん、遠峰など動かさずとも、この狐で何とかなります」
天音を「この狐」と呼ぶ悟に、遥香はおぞけ立った。最初から苦手だと感じていたのはたぶん、遥香のこともただの狐だと見下されていたから。
だけどそれならこの人は、彰良のことをどう思っているのだろう。魔物と同じ? ともに暮らした義弟で、家族ではないのか。
考えてふるえた息を聞きつけ、彰良が腕をのばしてくれた。肩に置かれた手ですこし落ち着く。
娘たちを背にかばう天音から目を離さずに、中佐は肩をすくめて息子をさとした。
「甘いぞ悟。政府の役人どもというのは腰が重いのだ。ここいらの屋敷や寺社、それに官庁が盛大に壊れて人死にが出るほどでないと動かんよ。西洋かぶれして我々を日陰に追い込む政府の連中に陰陽道の有用性を思い知らせるには大きな事件が必要なのだ」
事件。中佐が何を言い出したのか彰良にもわからなかった。政府をゆさぶるために何かをするとは、クーデターにも等しいのでは。だが中佐は青ざめる彰良に笑ってみせた。
「そんなことはせん。我々は事件を起こすのではなく、おさめてみせるだけだ」
「何をする気なんだ」
「遠峰を帝都で暴れさせたいのだよ。そのために、おまえにも大事な役目があるぞ。天音さんを祓え」
「爺さま!」
遥香の母親を斬るのは今の彰良には無理な話だった。しかも過去のことを聞くかぎりでは天音はただのいたずら狐、運悪く人が死んでしまっただけで本人がどうこうしたわけではない。
「なんと彰良、魔物は祓えと教えただろう。女に入れあげ目を曇らすか」
「爺さまが言ったんだ、害を為さぬ者を斬るべきではないと」
「では、害を為せば斬るのだな」
「天音さんはそんなことしない!」
確かめるように彰良は叫んだ。遥香の目の前で母親を祓うなどありえなかった。
「だいじょうぶよ。私は人を傷つけたくないし、遠峰ともたたかわない」
「別に天音さんに遠峰を倒してほしいなどと思っとらん。そんな力はあるまいよ」
馬鹿にした風でもなく中佐は言う。ただただ実力を冷静に見極めているだけで、それはもう冷酷ともいうべき判断だった。
「天音さんは遠峰の餌だ。ここで妖狐としてひと暴れし、我らに祓われてもらおう!」
その宣言を合図に悟が両手で剣印を結ぶ。そして真言を唱えるのに、庭に出ていた術師たちも唱和した。
「のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」
不動明王の真言は唱えれば術者の体に力がみなぎる。渦巻く言の葉に圧され天音は耳をふさぎ、うずくまった。
「母さん……!」
「はる、か……逃げなさい、あきらさんと二人で」
悲鳴を上げて母を気づかう遥香を、天音は遠ざけようとした。自分は妖狐の力を解放し逃げることだってできる。だが遥香にそんな力はないのだ。
「させんよ」
中佐がピシリと言って呪符を飛ばした。ギンという衝撃を感じると、遥香の手も足も動かなくなる。見ればとなりの彰良も同様で、愕然としていた。
「な、俺も……?」
「人に見えても半妖だからの、捕縛もできる。ああ、おまえには解けんぞ、この術は教えとらん」
「爺さま……ッ!」
ギリ、と彰良は歯がみするが、体はわずかしか動かせなかった。
「因縁の妖狐が、血をわけた息子の彰良とたたかえば遠峰はどう思うかな?」
「やめて!」
身動きできぬまま遥香が悲鳴を上げる。だが中佐は表情をピクリとも変えなかった。
「さて、これは天音さんなら妖狐と化せば逃げられるていどの術よな。しかし逃げてしまってよいのか? 遥香さんに何かあれば母としては怒り狂うしかあるまい」
「何!? 爺さまッ!」
彰良はもがくが動けなかった。今まで中佐の目の底にあった冷たさの理由がわかり、遥香に鳥肌が走る。
「だがそうか、遥香さんが生き延びたなら、最初の目論み通りおまえとの子を産んでもらってもいい。どんな半妖が育つやら楽しみだの」
「俺たちは玩具じゃないッ!」
叫び返したが、何をどうすればいいかわからなかった。陰陽道は学んだのに、まさか隠されていた術があるとは。けっきょくのところ彰良はこの家で手駒として飼われていたにすぎないとはっきりし、ほぞをかんだ。
コ――――ンッ!
かん高い鳴き声がし、天音が宙を舞った。
ハッと見る遥香の視線の先にあったのは狐の尻尾。
「母さん!」
人の姿を捨てた天音は遥香をふり向きはせず、中佐に飛びかかる。
妖狐となり、かみ殺す気だった。術者を殺せば遥香と彰良をしばる術も解ける。
だがそれは魔物となることを意味した。彰良が天音を祓わなければならなくなる。しかし天音は、娘の前で人を喰い殺したうえで生き延びるつもりなど、すでになかった。
――それでも。
死んだとしても。この芳川という男は許さない!
「ふんっ!」
「キャンッ!」
中佐の手には別の呪符。とっさに九字を切る余裕はなかったが結界符で天音をしのいだ。跳ね飛ばされた天音はすぐに立て直す。
「さあ彰良、人を襲う妖狐のできあがりだぞ! 祓え!」
「爺さまの方がよほど魔物だ!」
彰良の叫びもむなしく、悟たちが紙の鳥を飛ばした。白い式神が何羽も舞い上がり狐に襲いかかる。薄い翼に切り裂かれ、血が飛び散った。
「いやあっ、母さん! 母さん!」
目を見開いて叫ぶ遥香の声は届いているのだろうか。天音は迷いなく毛を逆立て、高く鳴いた。
「コン――ッ!」
ゆらり。ふわり。
天音のまわりにあらわれたのは狐火だ。流れる血が燃えたかのように、緋い炎が無数に乱れ飛ぶ。炎に触れて式神はちりちりと焼け落ちるが術者たちは次々に式を放つ。
天音のたたかいを目に焼きつけながら彰良は口の中で小さく真言を唱えていた。力を。
せめてもの抵抗だ。ここから脱するための。
「ハルカ――ッ!」
突然可愛い声が響き渡る。縁の下の暗がりからもぞりとあらわれたのは豆腐小僧と水乞だった。それは術者たちの後ろ側で、ぎょっとした男たちがふり返った。
「とうふちゃん!?」
豆腐小僧はお盆の上の豆腐をポーンと宙に投げ上げる!
「とくッだいッ!」
ズシャアァァッッ!
悟と術者たちの上に超巨大化した豆腐が落ちてきた。自重と勢いでくずれているが、そのドロドロに押しつぶされた悟たちは沼に落ちたようにもがく。
「きゅうッ!」
その豆腐の水分を水乞が吸い始めた。水乞の目は怒りに燃えている。その心の火を鎮めるかにぐんぐん水気が吸われ、豆腐が高野豆腐のように固まっていった。
「ぐ、なんだこれはッ!」
悟が悲鳴を上げるがもう抜け出せない。腕を巻き込まれ符を収めた隠しも埋まって式神が使えなくなった。
思わぬ援軍に彰良は心を強くした。豆腐小僧と水乞は天音の狐火を怖れてすぐに姿を消したがじゅうぶんな働きだ。
白い鳥を燃やし尽くし、天音は中佐ひとりをにらみつけた。狐火が渦巻き襲いかかる。中佐が張った結界がそれらを祓い落とした。
彰良は自分に向けて真言を唱え続ける。
動け。動け。俺の腕。岩にくくってあるかに重いが。
ず、ず、と引き上げた手がなんとか剣の柄にかかる。慣れたこれを使えば、あるいは。
――集中!
鞘の中で緋い炎があふれた。
吹き上げる炎で腕が動く。剣を抜き、足もとに突き立てる!
「ッ――!」
突然解放され、遥香はつんのめった。彰良の炎が術を焼き切ったのだ。
それと同時に天音は中佐に跳びかかる。
喉笛を狙った天音の牙は浅く中佐の首すじをえぐり――そして天音の背からは剣の切っ先が生えていた。
「遠峰をどうにかしたくて私を使おうとするのは見当違いね。私は遠峰のことを憎んではいない。あの狼は山に近づかなければ何もしてこないし、むやみに怖れるものではないの」
「ほうほう」
中佐は薄ら笑いでうなずいた。
「人里を海まで逃げた狐の言うことは違うのう。人間の夫に出会ったきっかけでもあるのだし、遠峰には感謝しとるか」
「父さん、遠峰など動かさずとも、この狐で何とかなります」
天音を「この狐」と呼ぶ悟に、遥香はおぞけ立った。最初から苦手だと感じていたのはたぶん、遥香のこともただの狐だと見下されていたから。
だけどそれならこの人は、彰良のことをどう思っているのだろう。魔物と同じ? ともに暮らした義弟で、家族ではないのか。
考えてふるえた息を聞きつけ、彰良が腕をのばしてくれた。肩に置かれた手ですこし落ち着く。
娘たちを背にかばう天音から目を離さずに、中佐は肩をすくめて息子をさとした。
「甘いぞ悟。政府の役人どもというのは腰が重いのだ。ここいらの屋敷や寺社、それに官庁が盛大に壊れて人死にが出るほどでないと動かんよ。西洋かぶれして我々を日陰に追い込む政府の連中に陰陽道の有用性を思い知らせるには大きな事件が必要なのだ」
事件。中佐が何を言い出したのか彰良にもわからなかった。政府をゆさぶるために何かをするとは、クーデターにも等しいのでは。だが中佐は青ざめる彰良に笑ってみせた。
「そんなことはせん。我々は事件を起こすのではなく、おさめてみせるだけだ」
「何をする気なんだ」
「遠峰を帝都で暴れさせたいのだよ。そのために、おまえにも大事な役目があるぞ。天音さんを祓え」
「爺さま!」
遥香の母親を斬るのは今の彰良には無理な話だった。しかも過去のことを聞くかぎりでは天音はただのいたずら狐、運悪く人が死んでしまっただけで本人がどうこうしたわけではない。
「なんと彰良、魔物は祓えと教えただろう。女に入れあげ目を曇らすか」
「爺さまが言ったんだ、害を為さぬ者を斬るべきではないと」
「では、害を為せば斬るのだな」
「天音さんはそんなことしない!」
確かめるように彰良は叫んだ。遥香の目の前で母親を祓うなどありえなかった。
「だいじょうぶよ。私は人を傷つけたくないし、遠峰ともたたかわない」
「別に天音さんに遠峰を倒してほしいなどと思っとらん。そんな力はあるまいよ」
馬鹿にした風でもなく中佐は言う。ただただ実力を冷静に見極めているだけで、それはもう冷酷ともいうべき判断だった。
「天音さんは遠峰の餌だ。ここで妖狐としてひと暴れし、我らに祓われてもらおう!」
その宣言を合図に悟が両手で剣印を結ぶ。そして真言を唱えるのに、庭に出ていた術師たちも唱和した。
「のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん」
不動明王の真言は唱えれば術者の体に力がみなぎる。渦巻く言の葉に圧され天音は耳をふさぎ、うずくまった。
「母さん……!」
「はる、か……逃げなさい、あきらさんと二人で」
悲鳴を上げて母を気づかう遥香を、天音は遠ざけようとした。自分は妖狐の力を解放し逃げることだってできる。だが遥香にそんな力はないのだ。
「させんよ」
中佐がピシリと言って呪符を飛ばした。ギンという衝撃を感じると、遥香の手も足も動かなくなる。見ればとなりの彰良も同様で、愕然としていた。
「な、俺も……?」
「人に見えても半妖だからの、捕縛もできる。ああ、おまえには解けんぞ、この術は教えとらん」
「爺さま……ッ!」
ギリ、と彰良は歯がみするが、体はわずかしか動かせなかった。
「因縁の妖狐が、血をわけた息子の彰良とたたかえば遠峰はどう思うかな?」
「やめて!」
身動きできぬまま遥香が悲鳴を上げる。だが中佐は表情をピクリとも変えなかった。
「さて、これは天音さんなら妖狐と化せば逃げられるていどの術よな。しかし逃げてしまってよいのか? 遥香さんに何かあれば母としては怒り狂うしかあるまい」
「何!? 爺さまッ!」
彰良はもがくが動けなかった。今まで中佐の目の底にあった冷たさの理由がわかり、遥香に鳥肌が走る。
「だがそうか、遥香さんが生き延びたなら、最初の目論み通りおまえとの子を産んでもらってもいい。どんな半妖が育つやら楽しみだの」
「俺たちは玩具じゃないッ!」
叫び返したが、何をどうすればいいかわからなかった。陰陽道は学んだのに、まさか隠されていた術があるとは。けっきょくのところ彰良はこの家で手駒として飼われていたにすぎないとはっきりし、ほぞをかんだ。
コ――――ンッ!
かん高い鳴き声がし、天音が宙を舞った。
ハッと見る遥香の視線の先にあったのは狐の尻尾。
「母さん!」
人の姿を捨てた天音は遥香をふり向きはせず、中佐に飛びかかる。
妖狐となり、かみ殺す気だった。術者を殺せば遥香と彰良をしばる術も解ける。
だがそれは魔物となることを意味した。彰良が天音を祓わなければならなくなる。しかし天音は、娘の前で人を喰い殺したうえで生き延びるつもりなど、すでになかった。
――それでも。
死んだとしても。この芳川という男は許さない!
「ふんっ!」
「キャンッ!」
中佐の手には別の呪符。とっさに九字を切る余裕はなかったが結界符で天音をしのいだ。跳ね飛ばされた天音はすぐに立て直す。
「さあ彰良、人を襲う妖狐のできあがりだぞ! 祓え!」
「爺さまの方がよほど魔物だ!」
彰良の叫びもむなしく、悟たちが紙の鳥を飛ばした。白い式神が何羽も舞い上がり狐に襲いかかる。薄い翼に切り裂かれ、血が飛び散った。
「いやあっ、母さん! 母さん!」
目を見開いて叫ぶ遥香の声は届いているのだろうか。天音は迷いなく毛を逆立て、高く鳴いた。
「コン――ッ!」
ゆらり。ふわり。
天音のまわりにあらわれたのは狐火だ。流れる血が燃えたかのように、緋い炎が無数に乱れ飛ぶ。炎に触れて式神はちりちりと焼け落ちるが術者たちは次々に式を放つ。
天音のたたかいを目に焼きつけながら彰良は口の中で小さく真言を唱えていた。力を。
せめてもの抵抗だ。ここから脱するための。
「ハルカ――ッ!」
突然可愛い声が響き渡る。縁の下の暗がりからもぞりとあらわれたのは豆腐小僧と水乞だった。それは術者たちの後ろ側で、ぎょっとした男たちがふり返った。
「とうふちゃん!?」
豆腐小僧はお盆の上の豆腐をポーンと宙に投げ上げる!
「とくッだいッ!」
ズシャアァァッッ!
悟と術者たちの上に超巨大化した豆腐が落ちてきた。自重と勢いでくずれているが、そのドロドロに押しつぶされた悟たちは沼に落ちたようにもがく。
「きゅうッ!」
その豆腐の水分を水乞が吸い始めた。水乞の目は怒りに燃えている。その心の火を鎮めるかにぐんぐん水気が吸われ、豆腐が高野豆腐のように固まっていった。
「ぐ、なんだこれはッ!」
悟が悲鳴を上げるがもう抜け出せない。腕を巻き込まれ符を収めた隠しも埋まって式神が使えなくなった。
思わぬ援軍に彰良は心を強くした。豆腐小僧と水乞は天音の狐火を怖れてすぐに姿を消したがじゅうぶんな働きだ。
白い鳥を燃やし尽くし、天音は中佐ひとりをにらみつけた。狐火が渦巻き襲いかかる。中佐が張った結界がそれらを祓い落とした。
彰良は自分に向けて真言を唱え続ける。
動け。動け。俺の腕。岩にくくってあるかに重いが。
ず、ず、と引き上げた手がなんとか剣の柄にかかる。慣れたこれを使えば、あるいは。
――集中!
鞘の中で緋い炎があふれた。
吹き上げる炎で腕が動く。剣を抜き、足もとに突き立てる!
「ッ――!」
突然解放され、遥香はつんのめった。彰良の炎が術を焼き切ったのだ。
それと同時に天音は中佐に跳びかかる。
喉笛を狙った天音の牙は浅く中佐の首すじをえぐり――そして天音の背からは剣の切っ先が生えていた。