「父さん、天音があらわれました。横浜の稲荷です。すぐに消えたようですが」
「ほう」

 昼下がりの方技部本部、芳川中佐は悟の報告で笑顔になった。

「こちらに向かってくれとるかな? 遥香さんが待っとるし、早く会わせてやらんと」
「来るでしょう。あっちには文を残しただけでした」
「舅に会わせる顔はなかったか。さて、ならば屋敷に戻ってみるか。妖狐と対面する機会を逃すわけにはいかん」

 はい、と悟はうなずいた。
 こちらには遥香がいるのだ。娘を守るためならきっと来る。ぜひとも芳川家で――彰良のいる場所で、見せてもらわなければならない。妖狐としての本領を。




 芳川屋敷の離れにあって、遥香はひっそりと息をしていた。もう何日も、幾月も経ったような気がした。
 実際にはほんの数日だ。でもやることもなく誰にも会えず、離れを出ようとすれば使用人がどこからかあらわれ「御用ですか」と立ちふさがる。その丁寧だが引かない物腰に気おくれし、遥香は何も言えなくなってしまうのだ。
 どこにも行けない。これはもてなしをよそおった監禁だった。

「あき……さ……」

 名を呼ぶ声がかすれた。
 愛しい人を想っても胸がつぶれる。どうして来てくれないの。どこにいるの。会いたい。
 だけどそんな望みは叶うわけがない。だって、遥香は仇の娘なのだから。彰良が遥香から離れるのは当然だった。
 庭をながめるのもつらくなり、遥香は部屋の奥で壁にもたれた。

「――るか。遥香」

 壁の向こうからひそやかに呼ばれた。
 まぼろしが聞こえたかと思う。
 でもそれは、たしかに待っていたひとの声。

「あき、ら、さん?」

 やっと舌を動かして小さく応えた。明かり取りの小窓をふり向き障子を開けると、そこにいたのは彰良で――遥香を見るまなざしは、いつものようにやわらかかった。
 離れの裏で植え込みの間に立つ彰良は、座敷の中の遥香より頭が低い。静かに、と指を口にあてる彰良に近づきたくて、遥香は窓の桟にしがみついた。

「来られなくて悪かった。ここに付いている者に遥香と会うのを知られたくないんだ。それが出かけたので、やっと」

 彰良は早口だった。鋭い目をまわりに配り、警戒している。

「いろいろ調べた。狼と天音さんの話が本当なのかも裏を取った。あれはおそらくその通りだな」
「あ……」
「だが遥香とはかかわりない。俺はそう思っている」

 彰良の目はまっすぐに遥香をとらえた。その奥にひそむ甘さに貫かれ、なのに遥香はためらう。自分は彰良の仇の娘だ。

「でも私……」
「不安だったか? おまえを遠ざけるふりをしてすまない。爺さまも兄さんも、どこまで信用していいかわからなくて」
「お爺さまも?」
「だってそうだろう。何故わざわざ俺たち二人を呼んであの話をした? 俺も関わりなくはないが、狐への憎悪をあおるようなものだ。それにおまえを今ここに引き留めておく理由だってない。天音さんがすぐ見つかるとはかぎらないのに」
「そう……ですね」
「だから考えた。天音さんを娘のおまえと会わせ何かしようとしているんじゃないかと」
「何か……」

 彰良は曖昧にうなずく。具体的にどうするつもりなのかはわかっていなかった。

「遥香が待っているからとここに呼び出したんだろう。方技部の管狐(くだぎつね)遣いが兄の下で動いたらしいから、狐の情報網を使ったのかもしれないな」

 管狐。人に使役される小さな狐。陰陽師以外にも方技部にはさまざまな術者が所属している。

「母さんを、ここに?」
「そう仕組んでいるとしか」

 遥香の心臓が期待に高鳴った。十年ぶりに会えるのかと瞳に喜びの色が踊ったが、彰良はそうなってはいけないと懸念する。悟のようすを見るに、善意で母娘を会わせようとしているわけがないのだ。

「兄さんは、天音さんを祓うと言っていた。どこまで本気なのか、それでどうしようというのかわからないが」
「私と会わせてから、祓うつもりなんでしょうか」
「性格悪いな」

 ややふざけて言ってみた彰良にも、遥香は笑えなかった。

「――じゃあ私、ここを出ます」
「何?」
「母が私に会いに来ると危ないんですよね、なら私がいなくなれば」
「おまえがもういないことをどうやって伝えるんだ」
「あ……」
「無理に出ていけばおまえが方技部に追われるかもしれない。それならそれで俺も一緒に逃げるが、すこし準備がいるな」
「そん、そんなことしちゃ駄目です」
「どうしてだ。おまえを放っておけるわけが」

 ――パシィーッ!

 不思議な衝撃が足元に走った気がして二人はハッと口をつぐんだ。遥香がおびえた顔をするが、彰良にはわかった。結界に何かが引っかかったのだ。

「屋敷の結界がはたらいた。人が動くぞ。俺はひとまず戻る」
「は、はい」

 身を低くして去りかけた彰良は、窓から乗り出すような遥香をふり向いて狂おしげな目をした。

「遥香――」

 つ、と腕をのばし、遥香の唇に手を触れる。
 力を借りる時のように、だがいつもより愛おしげになぞる指の甲に、遥香から吐息がもれた。

「んッ――」
「待っていてくれ」

 名残惜しそうにほほえむと、身じろぎもできない遥香に背を向け彰良はザッと走った。
 遥香の唇に触れた指。
 それを自分の唇に重ねる。

 ――かならず、守る。



「いたぁい……」
「だいじょうぶ、とうふくん?」

 帝都東京市下谷区まで常闇をたどった妖怪二人は、遥香の気配のする場所に出ようとして何かにはじかれた。結界がゆれたのはそれだ。
 ひとまず近くの道にあらわれて、豆腐小僧は盆を地面に置くとつま先をさする。結界の端を思いきり踏んだらしい。

「――豆腐!?」
「あ、アキラくん」

 いち早く通用門の一つから駆け出してきたのは彰良だった。
 怪しの気配を探るなら、半妖の彰良にかなう者は芳川家にいない。しかも使用人たちには結界の存在すら感じられないので、何があったかとざわめいたのは数人の術者だけだ。芳川家が育成している後継者たちだった。

「ちょっとアキラさん、あなたハルカを手籠めにしたりしてないでしょうね」
「な、なんだと。そんなわけないだろう」

 腰に手をやってにらみ上げる少女姿の水乞。突拍子もない言葉に彰良はさすがに顔を赤らめた。わざわざ帝都まで追ってきて、どんな疑惑だ。

「……やっぱりねえ。アマネさま、だまされてるのよ」
「天音さんがどうかしたのか」

 妖狐の名が出て彰良は真顔になった。
 横浜にあった置手紙のことを説明され、そのおぞましさに眉間をけわしくする。ただ子を産ませるための道具だなどと、遥香をそんな風に思ったことはなかった。それこそ生け贄を孕ませた父親と似た所業。

「……ま、これだとアキラさんも血の入れ物でしかないんだけど。嘘でもそう考えつく人間がいるってことでしょ? なんなの芳川家って。わざとらしい結界まで張ってあるし」
「ぼく、そのわざとらしいのにひっかかったもんッ。わるかったね!」

 屋敷の結界は妖怪にとってわざとらしく見えるのか。その視点はなくて彰良は感心しかけたが、通りの先から急ぎ足で来る気配に気づき身がまえた。
 それは、とても美しい女で――怪しの者だとはっきりわかった。