居間の明るいところで料理の本を広げていた遥香は顔を上げた。近づいた彰良が立ったまま頁をのぞいたからだ。

「秋雨ですね」
「そうだな」

 縁側の軒下では、洗濯物を前に喜之助がため息をついている。しとしとと降る雨には陰陽師も勝てないらしく、生地が厚い軍服が乾かないのだった。おかげで今日は彰良も喜之助も着物で過ごしている。

「……訊きたかったんだが」
「はい?」

 ス、と隣に腰をおろし、彰良は遥香を見た。これまでよりすこし近いその距離に、遥香はドキンとする。だけど不思議とやわらかくほほえむことができた。

「先日、役者を清めた時、おまえは何も感じなかったか?」
「感じる……?」
「あの男の記憶のことだ」
「――あ!」

 そういえば、と遥香は声をあげた。言われるまで失念していたが、触れて清めていた時には渦のように流れ込んできていた死者の想いを今回は受け取っていない。

「何も。何も感じませんでした」
「そうか――ならばこれからも同じようにするぞ」

 彰良の口調がぶっきらぼうだし目をそらすのは、そのためにする口づけのせいだろうか。でも遥香の負担を考えた末に剣で清める方法を試してくれたのだとわかって、遥香の胸はきゅうっとした。
 だが聞いていた喜之助が縁側からふり向き口をはさむ。

「そりゃ大成功だな。でも彰良はどうよ。剣から伝わったりするのか?」
「あ」

 そうだ。遥香のかわりに彰良がつらい目にあってしまうのは望むところではない。そのぐらいなら自分が、と思ったのだが彰良は嫌そうに喜之助を見た。

「うっすら感じたような気はする。でも剣が間に挟まるからか、たいしたことはなかったんだ。心配させるようなことを言うな」
「へえへえ、遥香さんが無事ならいいってことかい」
「そういうことじゃ」
「あの、本当にだいじょうぶなんですか?」

 言い合いに割り込んでまで不安げにする遥香に、彰良はグッとなった。可愛い。

「――俺は問題ない」
「彰良は元が情緒にとぼしいんだから、情念にさらされた方がいいんだよ。すこし恋でも学べって」
「喜之助ッ!」

 怒鳴られても喜之助は知らん顔だ。不器用で本音を言えない二人の間をあおり立ててやる自分は仲間思いだなァぐらいに考えているのだった。楽しくからかって遊んでいるからそれはまあいいのだが、最近は自分の寂しさにちょっと泣けてきている。

「まったく、この雨は俺の心みたいだぜ……洗濯物、乾かねえしさあ」
「――そんな悩みに、このみっちゃんが応えましょうか?」
「うわっ!」

 縁側の端から女の子の声がして、喜之助はビクンとした。居間の遥香も驚いて障子の向こうに声をかけた。

「みっちゃん? 久しぶりね」
「うっふふん。遊びに来ちゃったの」

 ひょいと顔を出したのは水乞(みずこい)のみっちゃん。茶目っ気たっぷりな笑顔はプルプルにうるおっている。喜之助は目をぱちくりしてしまった。

「今日はのどが渇いてないんだね」
「……んもう! キノスケさんたら、ちょっと正直すぎるッ」

 水乞はツツと寄り、ひじで喜之助をつついた。今日も女の子なので身長が低く、トンとされたのは尻だ。

「イテ。ごめんよ」
「女心を傷つけるなんて、ひどいひと」

 愛らしい姿のわりに言うことが微妙に女っぽい。中身が見た目通りでないのは承知だが、どう接するべきかわからなくて喜之助はヘラヘラとごまかし笑いした。

「傷つけるつもりはないよォ。みっちゃんが可愛かったり綺麗だったりするから、俺ドギマギしちゃってね」
「あらん。おじょうず言ってぇ」

 ここはどこの飲み屋だ。しなを作る水乞を見下ろして喜之助は苦笑いしているが、彰良もあきれ果てた。湿気が多いと水乞は調子がいいのかもしれない。遥香はくすくす笑って手招いた。

「ねえみっちゃん、今風なお料理の本を買っていただいたのよ。一緒に読む?」
「あら素敵! でも待って、キノスケさん、お困りなんでしょ?」
「あ、干しっぱなしのこれ?」
「そこで私よ」
「――あ!」

 得意げにほほえまれ、喜之助は手をポンとした。もしや。

「そうか、みっちゃんなら」
「おまかせ! ――きゅうッ」

 シュウゥゥ!
 軽い音とともに、重かった洗濯物がはためき始める。
 そう、水乞は水分を吸うのだ。なんて役に立つ妖怪かと彰良は目を見張り、喜之助は感動にうちふるえた。
 フウ、と手をおろす水乞。喜之助はそっと洗濯物を確かめた。

「……パリパリに乾いてる」
「まあ、ざっとこんなものよ」
「すごいな、みっちゃん! ありがとう!」

 礼を言って見おろした水乞は、さっきよりなんだか背が高い。喜之助は一歩さがってまじまじと見てしまった。

「今ので二、三歳ぐらい育った?」
「――かも。やん、あんまり見ないでよ」
「あ、ごめん」

 女性のことをじろじろと、失礼だった。水乞いはツンとする。

「ほら、湿気らないうちに取り込んだら?」
「お、おう……いや、ほんとありがたいわ。またラムネでも買ってくるよ」

 竿をおろしながら言う喜之助に、水乞は考える顔になった。

「ねえハルカ、ここらにビアホールってある?」
「ビ、ビアホール?」

 遥香はきょとんとして固まってしまった。それはビヤ酒という物を飲ませる店だったかと思い返すほどの知識しかない。

「ある……のかしら」
「たぶんあるだろうが」

 横で彰良も記憶を探ったがわからなかった。流行り物に興味がないのだ。だが喜之助には心あたりがあったらしい。

「いや、あるけど――え、みっちゃんがビヤ酒を飲むの?」
「お礼なら、こんどはそれがいいかなって。ダメ?」

 喜之助はあせった。育ったとはいえ十いくつでしかない子どもは連れて行けない。いや、水乞は年齢なんてもの関係ない妖怪だが、人の目を考えるとちょっとそれは。

「子どもに飲ませられないし……」
「いくつぐらいに見えれば店に入れる?」
「お、大人なら?」

 ざっくりと答えた。喜之助が連れて歩いておかしくないのは妻ほどの年ごろ、あるいは娘ぐらいの幼さ。さもなきゃ母親の年代だ。一緒にビアホールに行くのなら、娘はありえない。

「ふうん。じゃ、その時にはキノスケさんに似合いの歳になろうっと」
「お、おう……」

 ふふんと眉を上げる水乞が成長した姿はなかなか気の強げな美人だった。あれは喜之助の好みかもしれないと思って彰良は笑いをこらえたが、水乞はしれっと誘う。

「アキラさんもハルカを連れて、どう?」
「え、私がお酒?」

 とばっちりが来て遥香は困り顔になった。飲んだことのないものを外で試すなど、怖くてできない。大人の男でも酔って眠ったりするもののはず。

「でもこの本のお料理には西洋のお酒が合うわよう」
「そう、なの?」
「いややめろ。酒なんか飲ませるな」

 ビヤ酒で酔った遥香にとろんとされたら理性が飛ぶ。そう思って彰良はあわてて止めた。それを見透かしたのか、水乞は少女の顔で色っぽくほほえんだ。