今の遥香は悲しみに押しつぶされそうになっていた。だってこの集落では悲しいことばかりあった。それに姿見は、母の正体が露見するきっかけになった物だ。
 それは十年前。稲荷の祭りのために人が集まった時だった。奥の部屋で巫女装束に着替えていた天音のところに無遠慮に押しかけたのが、佳乃の母。そこの姿見には狐の本性が映っていて、見るなり悲鳴を上げ金切り声でふれ回った。
 それからは、あれよという間だった。化け狐だという口車にのせられ、誰もが鬼の形相で石を投げほうきを振るって天音を叩き出した。父は必死で遥香を守ってくれたが、あの時のおそろしさを遥香は忘れられない。

「……だめですね。ここに来ると私、いろいろなことを思い出してしまって」

 やや息をふるわせて、遥香は小さく弱音を吐いた。
 こんなことじゃいけない。もう遥香には他に居場所があって、力を必要としてくれる人たちもいる。そして今日は、魔物を清めるためにここに来たのだった。昔の悲しみにとらわれている場合ではない。
 だけど遥香は、幸せを知ってしまった。
 そのせいで、心を殺して生きていた昔の自分をなんて哀れだったんだろうと思うようになった。変えられない過去は、両親の思い出とともに遥香をさいなむ。

「……俺たちが何とかするから、おまえは仕上げだけやれ」

 ぞんざいな言い方だが、彰良の本心は伝わった。無理をするなと言ってくれている。遥香はホッとして、かすかにほほえんだ。

「はい。ありがとうございます」
「よーし、元気出していこうぜ。蝦蟇が出てこないうちに現地を確認だ」

 明るく言った喜之助は、シンとするため池に近づいていった。
 道に面した手前半分は、水辺をすこし埋めようとしたらしい。ぬかるんでいて、足を乗せたらジクジクする所もあった。奥側は木立に囲まれていて、伐ろうとしたのはそこだろう。人の寄りつかないそちらが蝦蟇の棲みかだったに違いない。

「あっちの奥にいるのかな。掘ったり埋めたり伐ったりされりゃ、暴れるのもわかる」
「足場が悪いぞ。おびき出さないと」

 乾いた場所に鏡を置くと、彰良は立ち位置を確認した。

「おまえはいったん横に逃げていた方がいいな。俺がこっちに蝦蟇を引き寄せ足どめする。釘づけできたら清めろ。喜之助は遊撃」
「了解」
「お願いします」

 小さく頭を下げる遥香が端に待機すると、その前で喜之助は九字(くじ)を唱えながら二本の指で空中に四縦五横の格子を描いた。

青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ)勾陳(こうちん)帝台(ていたい)文王(ぶんおう)三台(さんたい)玉女(ぎょくにょ)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」

 これは破邪の法。そこに結界を作り出し遥香を守ってくれる。

「この後ろにいれば、ある程度は平気なはずだから」
「わかりました」

 小声で会話し、喜之助は反対側に走った。万一の時に蝦蟇の注意を遥香からそらすつもりだ。

「行くぞ」

 彰良はため池に近づき、隠しから出した小石を放る。池の奥にポチャンと沈んだその石には(しゅ)が掛かっていた。蝦蟇を追い出すためだ。
 グラ、と水面が動く。遥香は思わず感嘆の声をもらした。

「わ……」

 現れた蝦蟇は岩のようだった。小山とまでは言わないが、遥香からすればじゅうぶん大きい。ぬらぬら光る肌はイボにおおわれていて、清めるにはあれに触れるのかと思うとぞっとした。たしかに雨蛙とは違いそうだ。
 呪を嫌がり陸に上がる蝦蟇を、彰良は剣を抜きにらんだ。注意を引くだけなので緋い炎はまとっていない。魔物に気圧(けお)される風をよそおいジリジリと退()がるのは、足場のしっかりした所までおびき出すためだった。
 剣は、最後まで使わないつもりだった。清めるという遥香の願いはできるだけ叶えてやりたい。鏡の効果があればいいのだが。
 その鏡の所へと蝦蟇を誘う。警戒する蝦蟇は動きを止めて喉をふくらませた。グゴゴ、と大きな音がした。
 蝦蟇を注視していた遥香は後ろから走り寄る気配に気づくのが遅れた。ハッとなってふり返る。
 ドン!

「あっ!」

 いきなり突き飛ばされた。悲鳴に反応し蝦蟇の舌が伸びる!
 遥香の背と蝦蟇の舌との間がパシィッと光った。破邪の結界だ。

「な……何よ今の!」

 佳乃が叫んだ。遥香を突き飛ばしたのは中森家の娘だったのだ。

「遥香さん、そっちへ!」

 喜之助が彰良の後ろを手振りで指示した。破邪は一度きりしか効かない。
 仕方なく喜之助は蝦蟇の足もとに呪符を飛ばした。足どめの結界。蝦蟇はいちおう捕らわれたように見えたが位置が悪い。まだそこはぬかるみだ。
 遥香は転がるように走った。その後を追って舌がヒュンと伸びるが、間一髪届かない。蝦蟇は怒りの矛先を立ちすくむ佳乃に向けた。

「ぎゃッ!」

 舌で打たれ跳ね飛んだ佳乃はぬかるんだ地面に倒れ込んだ。ピクリとも動かないが、今は助けに行ける者などいない。遥香は息をのみながら、喜之助の方へとじりじり回りこんだ。
 彰良は剣を大きく振って蝦蟇の注意を自分に向ける。切っ先を下げてあおった。

「来い!」

 蝦蟇は大きく体を揺する。動かない足に怒りを覚えたのか、吠えるように鳴いた。
 グゴ、ゲゴゴッ。
 メリリ、メリ!

「うえ、結界破りやがった!」

 動き出した蝦蟇は彰良へとドスドス迫る。遥香を背にかばい、喜之助は真言を唱えた。

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん!」

 渦巻く真言にもがく蝦蟇。
 彰良は舌の届かぬ距離まで跳びすさり、剣のかわりに鏡を手にした。大きな姿見を蝦蟇に向ける!
 ぴたり。
 怒り狂っていた蝦蟇が動かなくなった。
 嘘だろ、と彰良も喜之助も思った。試して駄目なら斬ればいい。そう考えてやってみた遥香の作戦。まさかハマるなんて。
 じわり。じわり。
 鏡を見つめ、あぶら汗をかいているのかいないのか。
 わからないが今なら遥香が近づける。ちょうどよくぬかるみからも出てきてくれていた。喜之助はそっと手を動かし、行け、と合図する。遥香はうなずいて走った。
 後ろから駆け寄った遥香は、その(ぬめ)る肌に手を押し当てる。蒼白い光があふれた。

「――ごめんね。眠ってください」

 白く白く、光り薄れていく蝦蟇。
 魔物には死んで成ったわけではないが、年()った魔の力を清めれば、体はもう保たない。そこに訪れるのは死だ。
 せめて安らかに。自分が殺したようなものなのに、遥香は願わずにいられなかった。

「――やった、か」

 ふたたび静まった池のほとり。彰良は鏡を下ろし、フウと息をついた。無事に終わってよかった。遥香はじっと蝦蟇を送った手を見つめている。

「――待ってください、もしかしたら!」

 蝦蟇から受け取った何かを探っていた遥香が顔を上げた。

 ――ガササ、と池奥の木立が鳴った。