柔らかな金の髪を陽光で照らし、ミリア・アロシュはティーカップを持ち上げた。青に近い翡翠の瞳が、赤褐色の紅茶を見つめる。
 芳醇な香りとほどよい渋みの紅茶は、すさみそうになるミリアの心を癒やした。
 侯爵邸の美しく整えられた庭園も、色鮮やかな季節の花々が彩り目に楽しい。

 だというのに目の前の無愛想な男の顔と言ったら……。

 リュシアン・セリエール。
 ミリアより三つ年上の彼はセリエール侯爵家の長男で、ミリアの婚約者だ。
 空の青を一雫落としたような銀の髪に、通った鼻筋と切れ長の目。
 とても美しい男だが、その灰青色(はいあおいろ)の目は感情を映さず冷たい印象を受ける。
 美しいだけの置物のような男に、まるで石像とお茶を飲んでいるのではないだろうかと思ってしまう。

 ミリアの父であるアロシュ公爵とリュシアンの父であるセリエール侯爵は仲が良く、昔からよく互いの屋敷へと子連れで訪ねていたため二人は幼い頃から面識があった。
 いわゆる幼なじみという関係の自分たちは、家格も釣り合っており婚約を結ぶのはある意味自然な成り行きだったのかもしれない。

 リュシアンは昔から愛想の欠片もない物静かな子供だった。
 頭も良いし、剣術に秀でてはいるが表情が乏しい。
 ミリアとしては、嫌いではないけれど何の面白みもない相手という認識だ。

 今もはじめに挨拶を交わした後はなんの会話もない。
 数年前まではミリアが気を遣い、リュシアンの近況を聞いたり自分の様子を語ってみたりと話題を振っていたが「ああ」とか「そうか」という相槌を打つ以外の言葉が出たことはなかった。
 なので、今ではミリアも話題は振らずただ黙々と茶を飲むだけの場となっている。

(結婚してもこのように会話のない夫婦になりそうね)

 軽く息をつきミリアは赤褐色の紅茶が揺れるのを見つめた。
 元より結婚に夢など見ていない。
 だから仮面夫婦であろうと別にかまわない。

 ……密かな趣味を許してさえくれれば、別に不満はないのだ。
 それをリュシアンに伝えたことはないが、大して反対はされないだろう。

(……まあ、多少引かれるかもしれないけれど)

 自分の趣味が特殊なものである自覚はあるので、ミリアはスッと視線を横にそらす。
 そこで今まで黙っていたリュシアンが口を開いた。

「……また、しばらく遠征することになった」

 薄い唇は耳に心地よい低音ボイスで言葉を紡ぐ。
 だが、やっと話したかと思えば仕事の話とは……。
 ある意味リュシアンらしいと言えばリュシアンらしい。

「そうですか」

 対するミリアも淡々と返した。
 リュシアンは騎士だ。
 しかも対魔物部隊と言われる第三部隊の隊長を務めている。

 第三部隊は定期的に魔物討伐の遠征に行かなければならないことはミリアも分かっていたため、詳しく聞く必要もないと思った。
 リュシアンもそれ以上は何も言わずまた無言で紅茶を飲みはじめたので、この日の会話はその報告のみとなったのだった。

***

「つっかれたー!」

 公爵邸の自室に帰ってきたミリアはすぐさまソファーに腰を下ろす。
 淑女らしからぬ行動だが、口うるさい母や侍女頭はいないのだ。自室でくらい自由にさせてもらいたい。

「お嬢様、はしたないですよ」
「良いじゃない、今はあなたしかいないんだから」

 唯一部屋の中にいる年若い侍従にたしなめられるが、ミリアは気にも留めなかった。

 短い茶色の髪に赤茶の目を持つ彼・ウェッジはミリア専属の侍従兼護衛だ。
 ついでに言うと、ミリアにとって無くてはならない存在でもある。
 彼を自分専属にしてくれた父には感謝してもしたりない。

「さあ、ウェッジ。鍵を開けてちょうだい」
「やっぱり行くんですか?」
「もちろんよ。今の私には癒やしが必要なの」

 ハッキリと宣言してソファーから立ち上がると、ウェッジは渋々ながら一つの鍵を取り出した。
 そのまま部屋の隅へと向かい、ただの壁に見える場所を押す。
 すると一部分だけパカリと壁が開き、鍵穴が現れた。

 鍵を開けると隠し通路のドアが開く。

「どうぞ、お嬢様」
「ええ」

 ウェッジのエスコートにより一階ぶんの隠し階段を降りると、ミリアの癒やしが詰まった隠し部屋がある。
 この部屋のドアを開くときはいつもドキドキしてしまう。
 ミリアはまるで恋する乙女の様に頬を染め、ドアノブに手をかけた。

「……ああ、いつ見ても素敵」

 ドアを開け見えた光景に感嘆の吐息をこぼす。
 そこには色とりどりの鱗が飾られていた。
 外からは見えないよう作られた明かり取りの窓。そこから差し込む光が鱗に反射し、その艶を美しく魅せる。

 うっとりとその収集物(コレクション)に近づき、赤い鱗を一つ手に取った。

「ああ! この艶! このひんやりとした質感! 全てが素晴らしいわ!」

 手のひらより少し小さいくらいの赤い鱗。
 これはファイヤードラゴンの鱗だ。
 ここには他にもウォータードラゴンの青い鱗やウィンドドラゴンの緑の鱗など属性竜の鱗がたくさんある。
 この全てがミリアの大事な宝物だ。

「はぁ……このすべすべした滑らかさ。そして色合い……好き」

 思わず頬ずりして鱗の素晴らしさを感じ取っていると、部屋の入り口付近で突っ立っているウェッジが頬を引きつらせていた。

「うわぁ……いつ見てもドン引きなんですけど……」
「うるさいわね。人前ではこんな姿見せないんだから良いでしょう?」
「私の前では良いってことですか?」
「そりゃそうよ。あなたは協力者なんですもの」

 元凄腕の冒険者であるウェッジは、二十という若さで大けがを負ったらしい。
 幸い回復したのだが、心配した身内により冒険者への復帰を反対されてしまった。
 それでも生活のためにはある程度の高収入が必要で、反対を押し切るしか道はない。
 そんなとき、丁度ミリアの護衛を探していたアロシュ公爵の目に留まったというわけだ。

 そうして護衛兼侍従となったウェッジは、密かにミリアの趣味であるドラゴンの鱗収集の手伝いをしてくれている。
 元冒険者の伝手は大いに役立ってくれた。

「本当に助かっているのよ? あなたが侍従になってくれてからは一気にたくさんの鱗を手に入れられるようになったんだもの」

 もう一枚緑色の鱗を手に取り、ミリアは両頬を鱗で挟みつつウェッジに感謝を伝えた。

(ああ……至福)

「役に立っているのでしたら良いのですが……でもそのような状態で言われても全く嬉しくありません」
「まあ。お礼の言葉くらい素直に受け取れば良いのに」
「でしたらせめて頬から鱗を離して言ってください」

 そうすれば素直に受け取ります、と真面目な顔で言われるが、この癒やしのひとときを一秒たりとも逃したくないミリアは「残念ね」と呟いて更に増やした青い鱗に頬をすり寄せた。

「……」

 途端に残念なものを見るような哀れみに満ちた目になるウェッジ。

(主をなんて目で見るのかしら)

 今が私的な時間でなければたしなめているところだ。
 だが、ウェッジは庶民の出ながらそういう部分はわきまえていて、他の目があるときにはしっかり優秀な侍従を演じている。
 何というか、器用なのだろう。色々と。

「はぁ……このファイヤードラゴンの鱗は炎が揺らめくような艶があるわね。ずっと見ていられるわ」

 ウェッジのことよりも今はこの美しさを堪能しようとうっとり見つめる。
 だが、こうして見れば見るほど欲が沸く。
 つい、ポツリとその欲を口にしてしまった。

「……でも、やっぱりまた生きているドラゴンを直接撫でてみたいわ」
「それだけはおやめください!」

 ほんの少しこぼしてしまった言葉に、ウェッジの強い制止の声が響く。

「ドラゴンは基本的に凶暴で、一般人が出会ったらとにかく逃げろと言われる魔物です。直に触れるなど、食い殺してくれと言っているようなものです」
「わ、分かってるわよ……」

 何度も聞いたドラゴンの危険性を語られ、ミリアはたじろぎながらも頷く。
 ちゃんと分かってはいるのだ。
 だが、幼い頃一度だけ触れた生きているドラゴンの鱗の感触が忘れられない。

 十二年前、外交のため訪れた隣国の皇太子の護衛としてきていた騎士の中に竜騎士がいたのだ。
 竜騎士とはドラゴンを卵から育てることで懐かせ、戦力とした者のことだ。
 世界でも十人に満たないという竜騎士の一人に、当時は多くの者が興味を示した。

 だが、ドラゴンそのものは恐ろしいのか近付く者はおらず、遠目に物珍しげに見ているだけ。
 そんな中ミリアはドラゴンの真っ赤な鱗が美しく見えて、近付いていったのだ。

『触ってみますか?』

 そう提案してくれた竜騎士には本当に感謝しかない。
 あの瞬間、ミリアはドラゴンの鱗に魅せられてしまったのだから。

「はぁ……いっそリュシアンが竜騎士であったなら喜んで嫁ぐのに……」
「お嬢様、それは無茶過ぎます」

 高望みを通り越して無茶だと呆れるウェッジに、ミリアは「言ってみただけよ」と唇をとがらせた。

***

 リュシアンが遠征中も、度々セリエール侯爵家を訪れ花嫁修業に励むミリアは、家では着々と鱗の収集物(コレクション)を増やしていた。
 そんなある日、存在すら忘れかけていた婚約者から手紙が届く。

【大事な話がある】

 そう添えられたいつものお茶の誘い。
 一体何なのだろうと不思議に思いながらも、ミリアはセリエール侯爵家へ向かった。

「いらっしゃいませ、ミリア様。申し訳ありませんが、リュシアン様は少々立て込んでおりまして……。先に庭園へご案内するよう申し使っております」

 いつもは無愛想ながらも出迎えてくれるリュシアンの代わりに、家令が隙の無い笑みを浮かべて立っていた。
 いつもと違う様子にますます困惑しながらも、特に拒否する理由もないため庭園へと向かう。
 だがその後もいつもとは違うことが続いた。

「失礼致します。侍従殿に少々伝えておかねばならぬことがありまして……少々お借りしてもよろしいでしょうか?」
「え? ええ、姿が見える場所ならば良いと思うけれど……」

 家令の言葉を不思議に思いつつも、何か個人的に話したいことでもあるのだろうかと思い承諾する。
 花嫁修業の際にも付き従っているウェッジのことはこの家令もよく知っていて、たまに話しているのを見るから。
 護衛に支障がない範囲でなら離れていても問題ないだろう。

 紅茶を淹れてくれた侍女も離れていき、前回とはまた別の花々が咲き誇る庭園に一人残される。
 遠目にウェッジと家令の姿は見えるが、なんとも寂しい状況だ。

(こうなると、石像のような婚約者でもいるだけマシだったのかもしれないわね)

 しみじみとフレーバーティーの香りを楽しんでいると、近くの茂みがガサリと揺れた。
 気のせいと言うには大きな揺れで、何かがその茂みにいるのだろうことは疑いようもない。

 誰何(すいか)の声を掛けるべきか、それともすぐにウェッジを呼び寄せるべきか。
 迷っている間にそれは姿を見せた。

「――っ!」

 驚きで息が止まる。
 あり得ない。
 それは、このような場所にいるはずのないものなのだから。

 ガサリとまた音を立て、それは一歩茂みから出てくる。
 ミリアの倍以上あるその体の半分が見えた。
 青みがかった銀色の鱗で全身を包み、見ただけで力強さを感じさせる体躯は威圧感がある。
 爪は柔らかい地面を抉り、また一歩そのドラゴンはミリアに近付いた。

(ど、ドラゴン? ほ、本当に!? とても綺麗!)

 あまりにもあり得ない状況に、いつも口うるさく聞かされていたウェッジの言葉も頭の中からすっぽ抜けてしまう。
 ただただ目の前の美しいドラゴンに魅せられた。
 ミリアを探るようにジッと見つめてくる灰青色(はいあおいろ)の目が、とても澄んでいる様に見えたのも要因だったのかもしれない。

 ミリアが動かないからだろうか。
 青銀の美しいドラゴンはゆっくりとまた一歩近付こうとしてくる。
 その様子にミリアは思わず制止の声を上げた。

「あっ、ダメ。それ以上来てはダメよ」

 言葉と共に、思わずその太い首に抱きつく。
 茂みはウェッジのいる場所からは死角になっているが、これ以上進んでしまうと見えてしまう。
 話に聞いていたドラゴンは凶暴らしいが、このドラゴンは少々様子が違うように見える。
 害はなさそうなのに、討伐対象にされてしまうのはかわいそうだ。

 グルゥ……

 小さく喉を鳴らすようなうめき声を上げたドラゴンは、たじろいだように一歩下がる。
 驚いたのだろうか?
 何にせよ近付いても襲ってくる様子は無い。
 やはり野生の凶暴なドラゴンとは違うようだ。

「あなたは優しい子なのね。もしかして、竜騎士様のドラゴンなのかしら?」

 あまりに大人しいのでその可能性が高い。
 だが、この国に竜騎士はいないはずだ。
 昔のように外国の使者が来ているという話も聞かない。
 何より、本当に竜騎士のドラゴンだったとしても何故この侯爵邸にいるのだろうか。

 疑問は絶えないが、抱きついたドラゴンの鱗の感触にまともな思考が出来なくなっていく。
 ひんやりとした質感。
 けれど生きているドラゴンの鱗からはその体温も感じ取れて、ミリアは感動を覚えた。
 欲が抑えきれず、思うままに抱きついている首を撫でる。

(素敵……ああ、こんなところで夢が叶うなんて! 私もう死んでも良いわ!)

 優しくドラゴンを撫でながら、ミリアの心の中は興奮で荒れ狂っていた。
 ドラゴンがジッとしているのを良いことに、そのまま頬をすり寄せてみる。
 収集物(コレクション)の鱗たちも素敵だが、生きているからこそ微妙に色艶が変わる鱗は格別だ。
 しかも青銀の鱗など見たことも聞いたこともない。
 とても貴重な体験に、ミリアは内心昇天してしまいそうだと思った。

 グル、グルルゥ……

 くすぐったかったのか、ドラゴンは笑うように呻き僅かに身を捩る。

「あ、ごめんなさい」

 慌てて体を離すと、澄んだ灰青色の目を見上げる。
 やはり凶暴さは欠片もない。
 人に慣れているドラゴンだ。

 見つめ合っていると、その綺麗な目が近付いてくる。
 今度はドラゴンの方から鼻先を近付け、ミリアの頬にすり寄ってくれた。

(ああ……ここは天国かしら?)

 もうすでに昇天してしまっているのかもしれないと思うほどの至福に、ミリアはうっとりとドラゴンの頭に手を添える。
 その愛しさに、つい口づけてしまった。

 ッ! グルゥ!?

 途端に悲鳴の様な鳴き声をするドラゴン。
 驚かせてしまっただろうか。

「ごめんなさい。キスはダメだった?」

 宥めるためにその首に抱きつき撫でると、徐々に鱗の感覚がなくなっていく。
 どうなっているのかと不思議に思っていると、ドラゴンの体自体も縮んでいるように感じる。

(え? な、なに? 本当にどうなっているの?)

 戸惑っている内に、ドラゴンは人の姿になっていた。
 しかも……。

「……すまないミリア。一度離れてくれないか?」

 その姿は、青みがかった銀髪に灰青色の目を持つ、恐ろしいほどに美しい婚約者殿だった。
 ……しかも全裸の。

「ぃ、いやぁあああーーー!?」

***

「……つまり、ドラゴンの呪いでそうなってしまったと?」

 ミリアの悲鳴によりウェッジや家令も駆けつけ、場所を移して事情を説明された。

 なんでも、前回の遠征というのがドラゴンの卵を入手するのが目的だったらしい。
 自国にも竜騎士を! という声は以前からあり、何とかドラゴンの卵を入手しようと情報を集めていた。
 そしてついに国内でドラゴンが卵を産んだという情報を得た。
 しかもブラックドラゴンの。

 ドラゴンは火や風などの属性を持つ属性竜というものがメジャーだが、その上位種としてブラックドラゴンとホワイトドラゴンが存在する。
 さらに上位に虹色の鱗を持つというエンシェントドラゴンという古代種がいるらしいが、もはや伝説でしかない。

 そんな実質最強のドラゴンの卵が手に入るチャンスということでリュシアンが派遣されたのだが……。

「ああ。人語を操ったブラックドラゴンは『それほどドラゴンが欲しければお前たちがドラゴンになればよかろう』と言って私に呪いをかけたのだ」
「それで、ドラゴンの姿に……」

 人語を操ったということにも驚くが、滅多に見ることもないブラックドラゴンとホワイトドラゴンについては分からないことが多い。
 属性竜が人の言葉を話すとは聞いたことがないので、やはり上位種であるブラックドラゴンはまた別格ということなのだろう。
 しかも呪いで人をドラゴンに変えるなど、魔術にも卓越していると見える。

「何とか解呪を試みて人の姿に戻れるようにはなったのだが、(いにしえ)の呪いのようで完全に解くことは出来ないらしい」
「そうだったのですか……」

 一通りの説明を聞き、納得したミリアは温かい紅茶をコクリと飲み息をついた。

(だとしても、人に戻ったら全裸になってしまうのならときと場所を考えていただきたかったわ)

 いくら婚約者とはいえ全裸の男性に抱きつくなど、はしたないというのもあるがとにかく恥ずかしい。
 しかもその状況をウェッジにも見られたのだ。
 あとでからかわれるに決まっている。

(それにしても……リュシアンがこんなに話すのを久しぶりに見たわね)

 カップを置き改めてリュシアンを見る。
 あの美しいドラゴンが目の前の無愛想な男だとは……未だに不思議な気分だ。
 だがそれ以上にたくさん言葉を発する彼に軽く驚く。
 説明のためではあるが、二文以上の言葉を交わしたのはいつぶりだろうか。

「そういうわけで、このような体になっては結婚も難しいだろうと思い婚約解消を願おうかと思って呼び出したのだ」
「え!?」

 突然の婚約解消という言葉にミリアは驚く。
 事情を理解して欲しいということだと思っていたため、婚約解消など欠片も考えていなかった。

 というより、むしろ内心喜んでいたところだ。
 リュシアンが竜騎士であれば喜んで嫁ぐのにと思っていたが、まさかの本人がドラゴンになれる体質になった。
 呪いということでリュシアンの体が心配ではあるが、生きているドラゴンに触れる機会が増える状況はミリアにとって喜び以外のものはない。

「嫌です! 婚約解消など! 夫がドラゴンになれるなど、なんて素敵な――失礼……ドラゴンになったとしても私は気にしませんので、婚約解消などしなくてもよろしいではありませんか」

 呪いで苦しんでいるかもしれないリュシアンに悪いと思い言い直したが、しっかり『素敵』と口にしてしまったので意味は無かったようだ。
 この場にいる三人の男達からの視線が痛い。
 特にウェッジからはものすごく残念なものを見る目を向けられている気がする。

「ああ、そうだな……私も先ほどの様子を見て考えが変わった。婚約解消はしない」

 気を取り直したように、目の前のリュシアンが咳払いをしつつ自分の思いを語り出した。

「ドラゴンの姿を見て恐ろしいと拒絶されれば諦めもつくと思った。だが、ミリアはむしろ優しく触れてくれた……ならばもう手放すことなどできない」

 本当にこれが今まで見てきたリュシアンなのだろうかと思うほど彼は饒舌に話す。
 無愛想だった表情も、少し柔らかくなったように見えた。

「ミリアの幸せを考えるなら私以外の男に嫁いだ方が良いかと思ったが、私がドラゴンの姿でも良いと言うならばもう離さない」

 灰青色の瞳に熱が込められ、鮮やかな青が色濃くなった。
 初めて向けられる熱っぽい視線にミリアは戸惑う。
 おかしい。
 これではまるでリュシアンが自分を想っているかのようだ。

「離さないなど……まるでリュシアンが私のことを好きだと言っている様に聞こえますわ」
「え?」

 ミリアの言葉に場の空気が凍った。
 まさか自分の言葉でこのように張り詰めた空気になるとは思わず、ミリアは戸惑い言葉を重ねる。

「え? だって、私たちの婚約は親が決めたものではありませんか。他に良い相手もいないから婚約を続けていただけなのではないのですか?」
「……」

 事実を口にしただけなのに、リュシアンは頭を抱えて項垂れる。
 そのまま目だけをミリアに向けると、唸るように問い掛けてきた。

「……つまり、ミリアは私のことが好きというわけではない、と?」
「え? 数ヶ月に一度しか会わない上に、会っても無愛想な顔で一言話すかどうかという相手をどう好きになれと?」

 思わず正直に答えると、リュシアンはさらに頭を抱え項垂れた。
 状況が分からず周りを見ると、ウェッジと家令が哀れみの目でリュシアンを見つめている。

(え? まさか本当にリュシアンは私のことが好きなの?)

 そのようなそぶりなど一度も見たことがなかったので戸惑いしかない。
 とにかく一度落ち着こうとカップに手を掛けようとしたとき、項垂れたままのリュシアンが低い声で話し出した。

「確かにミリアの前ではその可愛さにいつも緊張してろくに話せていなかったが……」

 整った顔を上げたリュシアンは、青みが強くなった瞳を真っ直ぐミリアに向ける。
 射貫かれそうなほど鋭い眼差しに、ミリアは息を詰め固まった。

「とりあえず、キスするほどなのだからミリアはドラゴン姿の私は好きなのだな?」
「え、ええ。そうですわね」

 確認に対し、失礼かもと思いつつ正直に答える。
 好きではないと言ったばかりなのに、いまさら人の姿のリュシアンも好きだとは言えない。

「くっ……ドラゴンに負けていたとは……」

 悔しげに唸ったリュシアンは、だがすぐに気を取り直しミリアの手を取った。
 麗しい顔が真剣味を帯びてミリアの翡翠の瞳を見つめる。

「いいだろう。これからは恥ずかしがらずに愛を伝えていくことにする」
「へ? あ、愛!?」

 無愛想でしかなかった婚約者の豹変ぶりには戸惑いしかない。
 いまさらそのようなことを言われても困る。

 大体リュシアンがドラゴンの姿にもなれるという時点で、ミリアとしては他の男になど興味は無いのだ。
 このまま結婚し、たまにでいいからドラゴン姿になって撫でさせてもらえば十分幸せなのだが……。

「ミリア、私は君を愛している。必ず幸せにしよう」

 ギュッと握られた手に、ミリアはときめきよりも困惑を覚える。

(私、ドラゴンと触れ合えればそれだけで十分幸せなのですけど!?)

 生きているドラゴンに触れるという夢が叶うと同時に、突然愛情を示し始めた婚約者に戸惑うミリアだった。

END